きっかけなんて、なんでも。
「……じゃあさ。あんたの同人原稿の資料になろうか?」
「…………えっ?」
聞き違いかと思った珠希が、間抜けな声を漏らす。
志乃は平然とした顔で繰り返した。
「その、成人向け小説? 練習台になろうかって言ってるの」
一言一句はっきりきっぱりと、どう聞いても間違いようがないほど明瞭な発音で告げる。
その意味を脳内で噛み砕いて飲み込み、珠希は困惑を隠せずに志乃の真意を探る。しかし志乃はそれ以上に言うことはないといった顔つきで、「どうせ経験とかないでしょ」とだけ言い放った。
「そ、それはそうだけど」
やっとのことでそれだけを返した珠希は、いたって冷静な様子の幼馴染をまじまじと見た。
突拍子もないことを言い出した幼馴染は、良くも悪くも普段通りの静かな佇まいで――だからこそ、いま言われた台詞が浮いて聞こえる。二十年以上も長く、姉妹同然に育ってきた幼馴染からの『お願い』として、なんだかとてもちぐはぐだ。
しかし志乃がこういう類の冗談を言う性格ではないというのも、他ならぬ珠希自身がよくわかっている。だからこそ余計に混乱して、彼女は慌てて志乃の矛盾を突いた。
「っていうか、それって志乃のためじゃなくて私のためになることじゃん! お礼って言ってるのに!」
狼狽のあまり若干ずれたツッコミではあるが、一応はまっとうな正論を突き付ける。
至近距離から指を差された志乃は、さして意に介した様子もなく唐突に眼鏡を外した。もったいぶるように鷹揚なそぶりで眼鏡をサイドテーブルに置き、珠希が驚いた拍子に空いたスペースを詰めてゆっくりと迫る。
二人の顔がにわかに近づき、珠希は自分でも頬が熱くなるのがわかった。それをごまかす暇もなく、志乃の腕が、珠希を柔らかくベッドへ押し倒す。動きに合わせて滔々と声が響いた。
「私もさ。他人と付き合うどころか、手を繋いだことも、ほぼないし。っていうか、あんまり興味もないしね」
言葉通り他人事めいた言い草で、志乃はうろたえる珠希の瞳から目を逸らさずに言う。その顔は飄々として、照れや気まずさというものとは無縁のようだった。
彼女は、硬直した珠希を見下ろしながら髪をほどいた。
「でも、最近になってちょっと興味が出たっていうか。もちろん誰でもいいわけじゃないけど、私も誰かに恋愛感情とか性欲? 持ったりするのかなって。そういうの、未経験で『自分には必要ない』って決めつけて終わるのも違うと思うし」
「だ、だからって」
理路整然と語る志乃に、仰向けで彼女を見上げる珠希が反論の言葉を探す。
そも自分と志乃は幼馴染で親友で、家族に等しい仲であることは間違いないが、それはあくまで友人としての話で……恋愛や性欲について考えるんだったら、自分じゃなくて男性で試すべきなのでは?
即座にそんな言葉が浮かび、けれども珠希はそれを口にすることができなかった。なぜだか、志乃が男性とそういう仲になることを想像できない。彼女に男っ気がないからというのもあるし、べつの理由があるからにも思える。
口を半開きにして黙った珠希に、黒髪を流した志乃が無言の視線を送る。眼鏡のレンズ越しでない、素の瞳。光を反射して少しだけハイライトの入った目は、いつも通り物静かで、いまは少し底知れない。
唇をきゅっと閉じた珠希に、志乃は微妙に目を伏せた。
「なんでもって言ってたけど、やっぱりこういうのは無理?」
どちらでもいい、といった投げやりな聞き方ではなかった。
珠希がよく見ると、志乃の瞳には揺らぎが見えた。迷っているのではなく、彼女の言葉はたしかに本心からの『お願い』であるのだと見て取れた。
志乃が、やや体を引く。珠希にかかっていた影も下がっていく。志乃は落ち着き払った声音で言う。
「無理なら、」
いいよ。
志乃の声と、珠希の声が、綺麗にユニゾンした。
体を起こした珠希の唇が、驚いた顔の志乃のそれに重ねられていた。
「……っ」
両者とも息を呑み、唇は数秒かけてそっと離されていく。
呆然とする志乃に対し、珠希は赤面して両手で顔を覆った。
「あー……けっこう恥ずかしいね、これ」
目元だけ隠して照れ笑いする珠希。二の句が継げない志乃は、はっと我に返って珠希を見下ろした。
「恥ずかしいなら、しなきゃ良かったのに」
「でも、しなくちゃわかんなかったし……志乃ならいいかなって」
顔に両手を当てた珠希は、指の隙間だけを小さく開いてちらりと志乃を覗き見た。
志乃は、それまでに珠希も見たことがないくらい頬を赤くしていた。常に冷静沈着で、ときに冷ややかと言われるくらいドライな彼女が、珍しく焦っている。志乃の汗なんて、学生時代の運動時か辛いラーメンを食べたときしか見ていない。
「……自分から誘ったくせに」
茶化すつもりの台詞は、思いがけず優しい声音で発された。くすくす笑う珠希に志乃が「……ちょっとびっくりしただけだから」と眉を寄せる。だが、額ににじんだ汗は乾いていない。
「志乃こそ、私でいいの?」
訊くと、彼女はうつむきがちに自分の髪を撫でた。
「いまさらでしょ。あんたこそ、本当に私の相手してくれるわけ?」
「ん、志乃ならいいかも」
「かもってなによ」
「いい、です」
よろしい、と呟いて、志乃の唇が珠希の額に寄せられる。
わざとかたまたまか、ちゅっと可愛らしいリップ音が鳴った。
出会ってからもうどれくらいの付き合いになるのか。わざわざ考えたり数えたりもしなかったことが、いまになってしみじみ不思議なことのように思えてくる。随分と長くそばにいたのに、こんなにも知らないことがあったのだと珠希は新鮮な気持ちで志乃を見つめた。
「……なに?」
珠希の肌のあちらこちらに口付けながら、志乃が色気に欠ける仏頂面で目線だけを向ける。
薄い唇が皮膚を撫でる感触に、珠希はくすぐったさで口の端を緩めた。
「なんでも……いたっ」
突然に肉へ食い込む痛みが走り、思考より先に悲鳴が漏れる。
志乃が、珠希の胸元に歯を立てていた。ついでにきつく吸い上げられ、柔肌が見事な深紅の痣に染まる。
「こういうのも資料になる?」
真面目な調子で訊かれて、珠希は羞恥に眉を下げつつも頷いた。
「……自分じゃ、ちょっと見づらいけど」
「じゃあ、こっちにもつけようか」
言って、志乃が珠希の太腿に触れる。二人ともまだ完全には脱衣しておらず、けれど室内の照明は互いの姿がぼんやりと見える程度に絞っている。それがかえって艶めかしいムードを演出していた。
あまり服は乱さずに、露出している部分を中心にキスしていく志乃。されるがままで受け止めながら、珠希は志乃の後頭部を眺めて思考する。
非常識な申し出に乗ってしまったのは、たとえ女性相手でも行為を創作の参考にできるから。苦しい言い訳だが、そう考えて自分を納得させることができないわけでもない。
ただ、それだけじゃない気持ちが自分の中にあることも本当で――ただしその思いが恋や愛と言われるものなのかは、珠希本人にも判然としなかった。
昔から当然の如くそばにいすぎて、関係を示す名前はいくつもあるが気持ちを定義したことはなかったのだ。
(……ちょっと二次創作のテーマにできそう)
悪い癖でひらめいて、しかしさすがにこの状況でアイデア帳へ手を伸ばすわけにもいかず踏みとどまる珠希。ひとまず『親友に抱く感情を自問自答する話』とだけ記憶にメモを取っておく。ぱっと思いついた最高のアイデアほど、書いておかないと忘れてしまいそうで怖くはある。
珠希が心ここにあらずなことを悟ってか、不意に志乃がジト目で視線を送ってきた。不満や愚痴をストレートに言う彼女の、ある意味で貴重な表情だった。
志乃は珠希の首筋に顔を埋めてささやいた。
「……言っとくけど、こっちもマジで未経験なんだから、あまり期待しないでよ」
熱っぽい吐息が首にかかり、珠希は鼓動が高鳴るのを感じて目をつむる。照れと、志乃らしからぬ可愛げのある言動で胸が締め付けられて爆発してしまいそうだ。
――メモなんて取らなくても、きっと一生忘れられない。
鮮烈な感覚が全身に広がり、眼前の相手しか見えなくなる。幼馴染かつ親友の知らなかった一面に触れて、もっと彼女を知りたいと、彼女自身も自覚していない部分まで見せてほしいと思ってしまう。
珠希は、無意識に妖艶な微笑みをたたえて答えた。
「……期待しちゃうよ。だって今日の志乃、いつもと違うみたいで……どきどきするから」
「!」
志乃も、わかりやすく笑みを深くした。
「今夜は寝かせない、とでも言えばいい?」
体温の低い手が、珠希の頬を撫でる。それは徐々に衣服の内側へと侵入を始め、珠希はそれを拒まなかった。
「なんでもいいよ。……志乃の言葉なら、なんでも」
まるで下手な恋愛モノの台詞みたいだなと思いながらも、今度は珠希も顔を隠さずに言い切った。おぼろげな照明の下、耳まで紅潮した笑顔を志乃に向ける。
二人は、遮るもののない場所で一段と深い口付けを交わした。
二人が肌を合わせてから数日後。
初めての経験と共に夜を明かし、珠希は帰宅後に一度仮眠の時間を取ると、机に向かうなり猛然と執筆に取りかかった。プロットというプロットも立てなかったが、書き留めたアイデア帳を見返すまでもなく作業の手は止まらなかった。
そうしてほとんど半日で原稿を完成させ、最低限の推敲だけを行って勢い任せにP支部へと投稿する。初めての成人向けだからこそ、手を入れれば入れるほど収拾がつかなくなりそうだという恐れもあった。けれどなにより、久々に衝動のまま書き上げられて楽しかったということもある。
評価が付くかどうか、気にならないといえば嘘になるが……珠希は疲労のにじむ顔つきで、だがむしろ表情だけは幸せそうに破顔して脱力する。あとは野となれ山となれ。いま書けるだけの全力は出し切ったという心地良い達成感に包まれていた。
慣れない成人向け小説を、これほどのスピードで書けたのは紛れもなく志乃のおかげだ。もちろん行為をそのまま参考にしたわけではないが、親友との関係に悩む心境を迷いなく描けたのは彼女の存在あってこそだった。
芋づる式に先日の夜を思い出し、珠希は机上に突っ伏した姿勢で頬を朱に染める。結局、あの夜は珠希の知識で考えうる最終的なところまで行ってしまい、けれど翌朝には普段と変わらない日常に戻っていた。
なかったことにされるのは嫌だが、わざわざ今後の関係について確認するのも野暮というか。原稿が仕上がって思いもよらない苦悩にさいなまれ、珠希はわざとらしく頭を抱えて唸ってみたりする。
「うーん……んんん……」
この際、そのことには触れなくてもいいから志乃の声が聞きたい。そう思ってもみたが、それはそれであの夜以上に恥ずかしい気もした。
すると、ちょうどのタイミングで珠希のスマホが振動した。着信は当の志乃からで、なんだか見透かされているかのようだと思いつつ深呼吸する。
意を決して出ると、志乃の相変わらず淡々とした声が聞こえた。
『作品、読んだよ。成人向け初めてにしては良かったんじゃない?』
『え、読んでくれたの?』
素っ頓狂な声を上げる珠希に、『まあ協力したわけだしね』と返す志乃。身内に成人指定の内容を読まれるのは気恥ずかしくもあるが、それも今さらだという感じでもある。
そして彼女は、きっとこちらが本題だったのだろう、疑問形の口ぶりで珠希に問いかけてきた。
『でもあの話、結局ラブホが舞台じゃなかったじゃん』
言われた珠希は素直に認めて、『それなんだけどね』と手短に説明する。
『最初はラブホもどきの宿泊施設が舞台のつもりだったんだけど、先に今日の話のオチまで思いついちゃって』
『ああ、なるほど』
志乃はすんなりと承知して、そのまま変わらないトーンで続けた。
『ラブホなんかに誘ってきたのは、てっきりあたしとヤりたいがための口実だったのかと』
『そっ、そんなわけないでしょっ!』
湯沸し器の如く赤面する珠希に、志乃は笑うでもなく『まあ、元ネタ知らないけど面白かったよ』と褒め言葉を送る。そう言われると弱いのが創作者の性で、珠希はあっというまに志乃のペースに乗せられていった。
あの夜のことについては話題に出さないまま、二人はいつもと変わらない日常や趣味の話をして、とくに次いつ会うかなどの約束はせずに会話を終えた。一時間も経たない程度の通話を切り、珠希は履歴に残る志乃の名前を見つめて溜息を吐く。
原稿は無事に終わったものの、自分の気持ちにはまだ決着がついていない。あえて答えを出さずとも志乃との縁が切れることはないだろうが、たとえ関係が変わってしまうとしても、あの夜に感じた鼓動の正体に迫りたいのが本心だといまは確信を持つことができている。
「……また、誘ってもいいのかな」
呟きを聞く相手は自分以外にいなかったが、彼女は少しの期待と予感を胸に笑みを見せた。
一方、電話を切った後の志乃の方も、珠希との夜を思い返してスマホを眺めていた。
「……今度は、もっと積極的にいかないとかな」
自分へ言い聞かせるように言ってはみたが、どうにもキャラに合わない気がして照れが混じる。それでも、あの夜に触れた熱をふたたび感じたいという思いは止められそうになかった。
志乃はスマホを机に置いて、眼鏡を外しベッドに寝転がった。一人で眠ることに物足りなさを覚えたのは初めてだ。あの日から、その気持ちは収まるどころか膨らむ一方だった。
この気持ちを、上手く伝えられるだろうか。
二人はそれぞれに似た思いを抱え、まだ少し遠い未来に思いを馳せる。夜は静かに更けていった。
「…………えっ?」
聞き違いかと思った珠希が、間抜けな声を漏らす。
志乃は平然とした顔で繰り返した。
「その、成人向け小説? 練習台になろうかって言ってるの」
一言一句はっきりきっぱりと、どう聞いても間違いようがないほど明瞭な発音で告げる。
その意味を脳内で噛み砕いて飲み込み、珠希は困惑を隠せずに志乃の真意を探る。しかし志乃はそれ以上に言うことはないといった顔つきで、「どうせ経験とかないでしょ」とだけ言い放った。
「そ、それはそうだけど」
やっとのことでそれだけを返した珠希は、いたって冷静な様子の幼馴染をまじまじと見た。
突拍子もないことを言い出した幼馴染は、良くも悪くも普段通りの静かな佇まいで――だからこそ、いま言われた台詞が浮いて聞こえる。二十年以上も長く、姉妹同然に育ってきた幼馴染からの『お願い』として、なんだかとてもちぐはぐだ。
しかし志乃がこういう類の冗談を言う性格ではないというのも、他ならぬ珠希自身がよくわかっている。だからこそ余計に混乱して、彼女は慌てて志乃の矛盾を突いた。
「っていうか、それって志乃のためじゃなくて私のためになることじゃん! お礼って言ってるのに!」
狼狽のあまり若干ずれたツッコミではあるが、一応はまっとうな正論を突き付ける。
至近距離から指を差された志乃は、さして意に介した様子もなく唐突に眼鏡を外した。もったいぶるように鷹揚なそぶりで眼鏡をサイドテーブルに置き、珠希が驚いた拍子に空いたスペースを詰めてゆっくりと迫る。
二人の顔がにわかに近づき、珠希は自分でも頬が熱くなるのがわかった。それをごまかす暇もなく、志乃の腕が、珠希を柔らかくベッドへ押し倒す。動きに合わせて滔々と声が響いた。
「私もさ。他人と付き合うどころか、手を繋いだことも、ほぼないし。っていうか、あんまり興味もないしね」
言葉通り他人事めいた言い草で、志乃はうろたえる珠希の瞳から目を逸らさずに言う。その顔は飄々として、照れや気まずさというものとは無縁のようだった。
彼女は、硬直した珠希を見下ろしながら髪をほどいた。
「でも、最近になってちょっと興味が出たっていうか。もちろん誰でもいいわけじゃないけど、私も誰かに恋愛感情とか性欲? 持ったりするのかなって。そういうの、未経験で『自分には必要ない』って決めつけて終わるのも違うと思うし」
「だ、だからって」
理路整然と語る志乃に、仰向けで彼女を見上げる珠希が反論の言葉を探す。
そも自分と志乃は幼馴染で親友で、家族に等しい仲であることは間違いないが、それはあくまで友人としての話で……恋愛や性欲について考えるんだったら、自分じゃなくて男性で試すべきなのでは?
即座にそんな言葉が浮かび、けれども珠希はそれを口にすることができなかった。なぜだか、志乃が男性とそういう仲になることを想像できない。彼女に男っ気がないからというのもあるし、べつの理由があるからにも思える。
口を半開きにして黙った珠希に、黒髪を流した志乃が無言の視線を送る。眼鏡のレンズ越しでない、素の瞳。光を反射して少しだけハイライトの入った目は、いつも通り物静かで、いまは少し底知れない。
唇をきゅっと閉じた珠希に、志乃は微妙に目を伏せた。
「なんでもって言ってたけど、やっぱりこういうのは無理?」
どちらでもいい、といった投げやりな聞き方ではなかった。
珠希がよく見ると、志乃の瞳には揺らぎが見えた。迷っているのではなく、彼女の言葉はたしかに本心からの『お願い』であるのだと見て取れた。
志乃が、やや体を引く。珠希にかかっていた影も下がっていく。志乃は落ち着き払った声音で言う。
「無理なら、」
いいよ。
志乃の声と、珠希の声が、綺麗にユニゾンした。
体を起こした珠希の唇が、驚いた顔の志乃のそれに重ねられていた。
「……っ」
両者とも息を呑み、唇は数秒かけてそっと離されていく。
呆然とする志乃に対し、珠希は赤面して両手で顔を覆った。
「あー……けっこう恥ずかしいね、これ」
目元だけ隠して照れ笑いする珠希。二の句が継げない志乃は、はっと我に返って珠希を見下ろした。
「恥ずかしいなら、しなきゃ良かったのに」
「でも、しなくちゃわかんなかったし……志乃ならいいかなって」
顔に両手を当てた珠希は、指の隙間だけを小さく開いてちらりと志乃を覗き見た。
志乃は、それまでに珠希も見たことがないくらい頬を赤くしていた。常に冷静沈着で、ときに冷ややかと言われるくらいドライな彼女が、珍しく焦っている。志乃の汗なんて、学生時代の運動時か辛いラーメンを食べたときしか見ていない。
「……自分から誘ったくせに」
茶化すつもりの台詞は、思いがけず優しい声音で発された。くすくす笑う珠希に志乃が「……ちょっとびっくりしただけだから」と眉を寄せる。だが、額ににじんだ汗は乾いていない。
「志乃こそ、私でいいの?」
訊くと、彼女はうつむきがちに自分の髪を撫でた。
「いまさらでしょ。あんたこそ、本当に私の相手してくれるわけ?」
「ん、志乃ならいいかも」
「かもってなによ」
「いい、です」
よろしい、と呟いて、志乃の唇が珠希の額に寄せられる。
わざとかたまたまか、ちゅっと可愛らしいリップ音が鳴った。
出会ってからもうどれくらいの付き合いになるのか。わざわざ考えたり数えたりもしなかったことが、いまになってしみじみ不思議なことのように思えてくる。随分と長くそばにいたのに、こんなにも知らないことがあったのだと珠希は新鮮な気持ちで志乃を見つめた。
「……なに?」
珠希の肌のあちらこちらに口付けながら、志乃が色気に欠ける仏頂面で目線だけを向ける。
薄い唇が皮膚を撫でる感触に、珠希はくすぐったさで口の端を緩めた。
「なんでも……いたっ」
突然に肉へ食い込む痛みが走り、思考より先に悲鳴が漏れる。
志乃が、珠希の胸元に歯を立てていた。ついでにきつく吸い上げられ、柔肌が見事な深紅の痣に染まる。
「こういうのも資料になる?」
真面目な調子で訊かれて、珠希は羞恥に眉を下げつつも頷いた。
「……自分じゃ、ちょっと見づらいけど」
「じゃあ、こっちにもつけようか」
言って、志乃が珠希の太腿に触れる。二人ともまだ完全には脱衣しておらず、けれど室内の照明は互いの姿がぼんやりと見える程度に絞っている。それがかえって艶めかしいムードを演出していた。
あまり服は乱さずに、露出している部分を中心にキスしていく志乃。されるがままで受け止めながら、珠希は志乃の後頭部を眺めて思考する。
非常識な申し出に乗ってしまったのは、たとえ女性相手でも行為を創作の参考にできるから。苦しい言い訳だが、そう考えて自分を納得させることができないわけでもない。
ただ、それだけじゃない気持ちが自分の中にあることも本当で――ただしその思いが恋や愛と言われるものなのかは、珠希本人にも判然としなかった。
昔から当然の如くそばにいすぎて、関係を示す名前はいくつもあるが気持ちを定義したことはなかったのだ。
(……ちょっと二次創作のテーマにできそう)
悪い癖でひらめいて、しかしさすがにこの状況でアイデア帳へ手を伸ばすわけにもいかず踏みとどまる珠希。ひとまず『親友に抱く感情を自問自答する話』とだけ記憶にメモを取っておく。ぱっと思いついた最高のアイデアほど、書いておかないと忘れてしまいそうで怖くはある。
珠希が心ここにあらずなことを悟ってか、不意に志乃がジト目で視線を送ってきた。不満や愚痴をストレートに言う彼女の、ある意味で貴重な表情だった。
志乃は珠希の首筋に顔を埋めてささやいた。
「……言っとくけど、こっちもマジで未経験なんだから、あまり期待しないでよ」
熱っぽい吐息が首にかかり、珠希は鼓動が高鳴るのを感じて目をつむる。照れと、志乃らしからぬ可愛げのある言動で胸が締め付けられて爆発してしまいそうだ。
――メモなんて取らなくても、きっと一生忘れられない。
鮮烈な感覚が全身に広がり、眼前の相手しか見えなくなる。幼馴染かつ親友の知らなかった一面に触れて、もっと彼女を知りたいと、彼女自身も自覚していない部分まで見せてほしいと思ってしまう。
珠希は、無意識に妖艶な微笑みをたたえて答えた。
「……期待しちゃうよ。だって今日の志乃、いつもと違うみたいで……どきどきするから」
「!」
志乃も、わかりやすく笑みを深くした。
「今夜は寝かせない、とでも言えばいい?」
体温の低い手が、珠希の頬を撫でる。それは徐々に衣服の内側へと侵入を始め、珠希はそれを拒まなかった。
「なんでもいいよ。……志乃の言葉なら、なんでも」
まるで下手な恋愛モノの台詞みたいだなと思いながらも、今度は珠希も顔を隠さずに言い切った。おぼろげな照明の下、耳まで紅潮した笑顔を志乃に向ける。
二人は、遮るもののない場所で一段と深い口付けを交わした。
二人が肌を合わせてから数日後。
初めての経験と共に夜を明かし、珠希は帰宅後に一度仮眠の時間を取ると、机に向かうなり猛然と執筆に取りかかった。プロットというプロットも立てなかったが、書き留めたアイデア帳を見返すまでもなく作業の手は止まらなかった。
そうしてほとんど半日で原稿を完成させ、最低限の推敲だけを行って勢い任せにP支部へと投稿する。初めての成人向けだからこそ、手を入れれば入れるほど収拾がつかなくなりそうだという恐れもあった。けれどなにより、久々に衝動のまま書き上げられて楽しかったということもある。
評価が付くかどうか、気にならないといえば嘘になるが……珠希は疲労のにじむ顔つきで、だがむしろ表情だけは幸せそうに破顔して脱力する。あとは野となれ山となれ。いま書けるだけの全力は出し切ったという心地良い達成感に包まれていた。
慣れない成人向け小説を、これほどのスピードで書けたのは紛れもなく志乃のおかげだ。もちろん行為をそのまま参考にしたわけではないが、親友との関係に悩む心境を迷いなく描けたのは彼女の存在あってこそだった。
芋づる式に先日の夜を思い出し、珠希は机上に突っ伏した姿勢で頬を朱に染める。結局、あの夜は珠希の知識で考えうる最終的なところまで行ってしまい、けれど翌朝には普段と変わらない日常に戻っていた。
なかったことにされるのは嫌だが、わざわざ今後の関係について確認するのも野暮というか。原稿が仕上がって思いもよらない苦悩にさいなまれ、珠希はわざとらしく頭を抱えて唸ってみたりする。
「うーん……んんん……」
この際、そのことには触れなくてもいいから志乃の声が聞きたい。そう思ってもみたが、それはそれであの夜以上に恥ずかしい気もした。
すると、ちょうどのタイミングで珠希のスマホが振動した。着信は当の志乃からで、なんだか見透かされているかのようだと思いつつ深呼吸する。
意を決して出ると、志乃の相変わらず淡々とした声が聞こえた。
『作品、読んだよ。成人向け初めてにしては良かったんじゃない?』
『え、読んでくれたの?』
素っ頓狂な声を上げる珠希に、『まあ協力したわけだしね』と返す志乃。身内に成人指定の内容を読まれるのは気恥ずかしくもあるが、それも今さらだという感じでもある。
そして彼女は、きっとこちらが本題だったのだろう、疑問形の口ぶりで珠希に問いかけてきた。
『でもあの話、結局ラブホが舞台じゃなかったじゃん』
言われた珠希は素直に認めて、『それなんだけどね』と手短に説明する。
『最初はラブホもどきの宿泊施設が舞台のつもりだったんだけど、先に今日の話のオチまで思いついちゃって』
『ああ、なるほど』
志乃はすんなりと承知して、そのまま変わらないトーンで続けた。
『ラブホなんかに誘ってきたのは、てっきりあたしとヤりたいがための口実だったのかと』
『そっ、そんなわけないでしょっ!』
湯沸し器の如く赤面する珠希に、志乃は笑うでもなく『まあ、元ネタ知らないけど面白かったよ』と褒め言葉を送る。そう言われると弱いのが創作者の性で、珠希はあっというまに志乃のペースに乗せられていった。
あの夜のことについては話題に出さないまま、二人はいつもと変わらない日常や趣味の話をして、とくに次いつ会うかなどの約束はせずに会話を終えた。一時間も経たない程度の通話を切り、珠希は履歴に残る志乃の名前を見つめて溜息を吐く。
原稿は無事に終わったものの、自分の気持ちにはまだ決着がついていない。あえて答えを出さずとも志乃との縁が切れることはないだろうが、たとえ関係が変わってしまうとしても、あの夜に感じた鼓動の正体に迫りたいのが本心だといまは確信を持つことができている。
「……また、誘ってもいいのかな」
呟きを聞く相手は自分以外にいなかったが、彼女は少しの期待と予感を胸に笑みを見せた。
一方、電話を切った後の志乃の方も、珠希との夜を思い返してスマホを眺めていた。
「……今度は、もっと積極的にいかないとかな」
自分へ言い聞かせるように言ってはみたが、どうにもキャラに合わない気がして照れが混じる。それでも、あの夜に触れた熱をふたたび感じたいという思いは止められそうになかった。
志乃はスマホを机に置いて、眼鏡を外しベッドに寝転がった。一人で眠ることに物足りなさを覚えたのは初めてだ。あの日から、その気持ちは収まるどころか膨らむ一方だった。
この気持ちを、上手く伝えられるだろうか。
二人はそれぞれに似た思いを抱え、まだ少し遠い未来に思いを馳せる。夜は静かに更けていった。
2/2ページ