きっかけなんて、なんでも。
『――恐ろしくも荒涼とした風景。かつて多くの人々が行き交ったターミナル駅は、人類のほとんどが死滅した今、激しい風雨に晒されて少しずつ崩壊の一途を辿っていた。巨大な亀裂の入った道路に、どこから来たのかも最早わからない瓦礫が散らばり小山となっていた。
偶然、上手い具合にこうなったのか。それとも誰かの手で組み上げられたのだろうか。道路脇の瓦礫は一部が階段状に折り重なって段差を作っていた。
目的地に単独で訪れた青年は、しばし立ち止まり周囲の状況を観察した。人間はもちろん、動植物の類にいたるまで一切の生体反応は感知できない。ありとあらゆる命が息絶えたはずの場所で、けれども青年は半ば確信に近い思いで瓦礫の階段を見据えていた。
とはいえ、推理は得意分野ではない。彼は最低限の状況把握を終えると、比較的に安定した瓦礫を選んで足場にし、その卓越した身体能力を生かして危なげなく歩を進めた。
瓦礫は踏みしめられるごとに少し崩れて、その壁面や下敷きとなった場所から、かろうじて人類の存在を示唆する張り紙などがちらりと見えた。文明の残骸。滅亡の証左。――かつての友人が呟いた言葉を思い出す青年。もうとっくの昔に仲間とは呼べなくなってしまった男だ。
彼とは結局わかり合うことなどできなかったが、だからといってあの日々が消えてなくなるわけではない。燃える夕陽の如く輝かしい青春時代は、色褪せることなく青年の胸に残り続けている。……あの二人も、そうであってくれているだろうか。
思いがけず昔日に思いを馳せ、青年はゆっくりと最後の一段を上りきった。安全靴の爪先に蹴られた瓦礫の欠片が、音も立てず砕け落ちていく。
そして顔を上げた青年の正面。荒廃した都市を嘲笑うかのような青空の下、懐かしい面影を残した人間の姿があった。怜悧な双眼を持つ寡黙な男。それから、どこか人を小馬鹿にして見える挑発的な男。二人は荒れ果てて遺跡のようになった駅構内から、じっと青年を見ていた。まるで、彼が来るのを待っていた、とでも言いたげに。
待ち構えられていた格好の青年は、落ち着いた雰囲気の二人とは反対に、目に見えて動揺した。どうしてこの二人が一緒にいるんだ? 疑問は喉の奥でつっかえて言葉にならなかった。
教えてやろう、という風に、挑発的な眼差しの男が一歩、前に踏み出した。彼の胸元で光るバッジが陽光を反射し、青年は眩しさに一瞬、目を細めた――』
忙しなくタイピングしていた手を止めて、珠希は改めて文章を読み直した。第一稿ということもあり完璧な出来とは言いがたいが、集中した甲斐あって我ながら良い文章が書けていると思う。
パソコン画面で時間を確認すると、日付が変わるまでにあと一時間は残っていた。明日は休日なので、このままいけば明日の夜には問題なく完成させられるだろう。
ついでに今日の日付も目に入り、彼女はふと気にもしていなかったことに気が付いた。運命とも呼ぶべき出会いをきっかけに二次創作の小説を書き始めて、いつのまにやら一年の月日が経とうとしていた。
一年前……本当に初めて小説を書いたときの記憶は、ほろ苦くも大切な思い出として珠希の記憶にしっかりと刻まれている。渾身の萌えと情熱を注いで書き上げた作品は、最初の一歩目では残念ながらブクマがひとつも付かないまま取り下げてしまった。それでも未練がましく完全な削除はできなかった自分を、今となっては「よくやった!」と褒めてやりたいくらいだ。
一度は挫折した道を、何カ月もの研鑽を経て楽しく続けられるようになった自分のことは素直に誇らしく、一連の出来事も含めすべて素敵な経験だと自負している。
さて。そんな修練と没頭の日々を過ごして、早一年。
当然ながら公式にほとんど動きのないジャンルではあるが、一年間ずっと書き続けてきた節目として、なにかしら記念になることをしたいと思う珠希。もちろん表現方法は小説で、せっかくなのでいつもとは趣向を変えた作品に挑戦してみたい気もする。たとえば、一年前の自分では絶対に書ききれなかったであろうテーマとか。
原作の世界観上、ダークファンタジーめいたシリアスな話ばかり書きがちだが、思い切って日常ほのぼのギャグにしてみようか。それとも、メインキャラの三角関係を糖度も湿度も高めにかき混ぜる不穏ブロマンスか。絶妙に漠然とした気持ちで考えつつ、珠希は書きかけの原稿データを保存した。ひとまず今夜の執筆は終わりにして、すべてのソフトを閉じるとパソコンの電源を落とす。
ベッドに寝転がってスマホでツイッターを開くと、今夜も珠希のタイムラインはまったりと進行していた。金スト界隈の方は相応に賑わっている様子で、いくつかの作品が流れてくる。ほんの半年前までは羨望と嫉妬に近い感情も残っていたが、自分の創作活動へ集中するにつれて邪念なく心から楽しめるようになったジャンルだ。
銀トリ二次創作を始めて一年の記念小説。単なる自分事のお祝いでしかないが、ここまで成長できた己が誇らしいのもまた事実だ。どんな話を書こうかと考えながら、彼女は見慣れたタイムラインをすいすいとスクロールする。格好いいイラスト。最高の小説。ほんの些細な供給も見逃さない気持ちで万感の思いを込めてイイネを押す。
と、指が余計なところに当たってしまい、見るつもりのなかったおすすめツイートの詳細を開いてしまう。それは数年前に流行ったイベントの企画広告だった。
『今こそラブホ女子会をオトクに楽しもう!』
添付されている四枚の写真には、洒落たきらびやかなホテル内で乾杯する女性たちの笑顔が映っている。女性がターゲットなだけあって、人気ブランドのアメニティや、有名スイーツのビュッフェを売りにしているらしい。その他、コスプレ衣装の貸し出しや大画面での動画配信サービス利用など、健全ながら非日常感に満ちたサービスが充実しているようだ。
本来は色事や情事に関する、アダルトな施設であるラブホテルを、女子グループだけ楽しむプチパーティーの場として広まった『ラブホ女子会』。インパクトある呼び名といかにも面白そうなコンセプトから、ブームの落ち着いた今でも一定の人気を保っているらしかった。
料金も意外に手軽で、それでいて内装は当然ながら明るく清潔感がある。一般的なホテルのイメージと、そう変わらない部屋も多い風に見えた。
かと思いきや、元がラブホテルであることを売りにした部屋もあった。派手な色に光る泡のお風呂に、どこのお姫さまが寝るのかと思わせる豪華な天蓋付きベッド。これはたしかに、一生で一度は体験してみたいという気にもさせられる。
オタク向けにはペンライト貸し出しや推し祭壇の撮影サービスを行っているところもあり、流行当時はそれほど興味を持たなかった珠希も、思わずいくつかのホテルを見比べていた。
開き直ってラブホであることを前面に押し出し、女性同士での利用でも大人のオモチャをレンタル可能なホテルも少なくない。そういったところは内装もより過激で、そういうビデオでしかお目にかかれないような鏡張りの部屋など、全体的にアブノーマルな空気が漂っていた。
好奇心の赴くままに眺めていた珠希は、ふっと思いつきに近いひらめきが脳裏で弾けるのを感じた。こういう場所を参考資料に、成人向けの小説を書くのはどうだろう。
珠希は一度も書いたことがないし読んだこともあまりない分野だ。そもそも彼女は、異性との交際経験が皆無でそういった願望も薄かった。自分が書くとしたらリアルさに欠けそうだな……いつだったか自嘲も含めて思ったことがあったが、このサービスを使えば壁を突破できるかもしれない。
荒れた寂寥の都市に、わずかながら最近まで人間が生活していたらしい痕跡を見つけて。ほぼ廃墟となった宿泊施設で、今は敵である元親友とやむを得ず一夜を共にすることとなり。
思いついてしまえば妄想は瞬時に脳内で際限なく広がり、とりあえずアイデア帳を開いて要点だけを書き留める珠希。
間欠泉の如く湧き溢れたネタをまとめると、彼女は流れるような動作でスマホを手に取り通話アプリを立ち上げた。数回のコール音を挟んで、あまり待たないうちに相手が応答する。
『……もしもし? どうしたの、こんな時間に』
顔を見ずとも表情のわかる声。こんな時間でも出てくれる幼馴染の存在に感謝しつつ、珠希は開口一番、色気のないお誘いの言葉を口にする。
『志乃! 私と一緒に、ラブホテル行かない?』
『………………はあ?』
電話口の先。志乃と呼ばれた幼馴染の怪訝な返事が、珠希の耳に刺さる。
数多ある女子会プランの候補から選ばれたのは、上品すぎず下品でもない、一見して普通のホテルと遜色ない雰囲気の一室だった。照明はダイヤルで調整でき、女性二人で寝るにはやや大きめのダブルベッドが壁際に鎮座している。他には液晶テレビにゆったりとしたソファー、小さめの冷蔵庫と、設備も特段に変わったところは見受けられない。そこまで広い部屋ではないので、大人数ではしゃぐような印象ではなかった。
「ちょっと無難すぎたかな」
荷物を持ったまま首を傾げる珠希。後から着いてきた志乃が、「最初から飛ばすよりいいんじゃない? っていうか、どんなの書くつもりよ」と呆れ気味に嘆息する。
珠希は、きょろきょろと周囲を見回して答える。
「まあ、話の内容的にはラブホじゃなくて普通の宿泊施設で致すって感じだから、これはこれでぴったりかも」
「ふーん。よくわかんないけど」
相変わらずの淡白な返しをする志乃。彼女は、中央のローテーブルに置かれた案内を手に取った。休憩、宿泊に際しての常識的な注意・禁止事項が柔らかい表現で書かれている。その下にはフードやドリンクのメニュー表もあり、一部屋で二杯の飲み物と、翌日の朝食セットが二人分は無料で頼めるとあった。
アルコール類も充実しているがラーメンはないのかと短く舌打ちする志乃に、荷物をまとめた珠希が苦笑いで「ホテルにはないでしょ」と突っ込みを入れる。彼女はスマホで部屋中の写真や動画を撮り、さっそく創作の資料集めに勤しんでいた。さらりと志乃が案内を確認したところ、ホテルの個室内での撮影はとくに禁止されていないとのことだ。
好奇心むき出しの珠希を横目に、志乃も荷物を適当な場所に置いてベッドへ腰を下ろす。思いのほか深く沈む感覚に身をゆだねながら、彼女は誰にも聞こえない程度の小声で呟いた。
「……本当、珠希ってそういうとこあるよね」
声に非難の色は乗っておらず、ただ事実だけを述べた一言。
珠希はスマホレンズを部屋のあちこちに向けて、振り返りもせずに「なにか言ったー?」とだけ訊き返す。「なんにも」気だるげに返し、志乃は手持ち無沙汰に珠希の背を見ていた。
あらかた写真を撮り終えて、珠希は満足げにスマホのカメラロールをいじった。入室から十分足らずで撮りに撮りまくった写真を選別し、すでに満ち足りた表情で目を細めている。
「いやあ、やっぱりネットで見るのと実際に来るのじゃ全然違うね。書きたいシーンがもう十個は浮かんだよ」
「最低でも十本は書くってこと?」
創作に疎い志乃が、以前に珠希から聞いた『一つのアイデアで一本の短編ルール』を思い出して訊ねる。けれど珠希は快活に笑って否定した。
「いや、上手くまとめれば三本か……多くても五本くらいかな。あんまり長くてもアレだけど、せっかくだし濃密な話にしたいから」
そう言って微笑する珠希は、これまでに何本もの小説を書き上げた自信に裏打ちされているのだろう、活力に満ちた力強い目をしていた。
「……なるほど」
志乃も、よくわからないなりに納得して頷く。
写真の整理に一区切りをつけて、つぎに珠希は愛用のアイデア帳を開いた。思いついた妄想や夢想を箇条書きにし、それと一緒に施設内の印象を自分なりの言葉にしてまとめておく。
珠希が腰を下ろしたベッドに、反対側に座っていた志乃が自然な仕草で寄ってくる。彼女は珠希のアイデア帳を覗き込んで不思議そうに言った。
「この、『○○しないと出られない部屋』っていうのは?」
オタクではない志乃の素朴な質問。
珠希は、迷いながらも誤解を恐れずに説明する。
「ええと……二次創作や同人の定番っていうか、推しカプを合法的にイチャイチャさせられる伝統芸? みたいな。たとえば仲の悪い二人を密室に閉じ込めて、キスしないと出られませんよーって強引にチューさせちゃうとか」
「…………へぇ」
「いっ、いやいや、『お互いを憎からず思ってるけど素直になれない二人』とかだからね? そんな、悪い意味での無理やりとかじゃないから! ……だいたいは!」
露骨に声のトーンが低くなった志乃へ、珠希はだれのためかわからない弁解で首を振る。
志乃はアイデア帳から顔を上げ、あっさりとした口調で珠希を見つめ返した。
「いやまあ、なんとなくはわかるけど。やらせのバラエティみたいな感じでしょ」
「んー……、そうなる、のかな……?」
なんだか微妙に違う気がしないでもないが、珠希自身、上手く説明しきれる自信がないのでそれで良しとする。オタク趣味にハマりすぎて、これがいわゆる「鉄板ネタ」ではないことを忘れていた。
彼女は、アイデア帳へのメモを済ませると改めて志乃に向き直った。
「それにしても、いつも本当にありがとうね。志乃」
アイデア帳を閉じて、かしこまった態度で告げる珠希。
言われた志乃は、眼鏡越しの瞳を少しだけ見開いて瞬きした。
「急にどうしたの」
まっすぐな視線で瞳を覗かれ、珠希は照れくささに頬を薄赤く染めながら笑う。
「ん、私もなんか照れるけど……志乃は幼馴染っていうのもあって、なんだかんだいつも私のわがままに付き合ってくれるし。推し語りとか、自分が興味のないことにも嫌な顔せず話を聞いてくれる友人って、すごく貴重だなーって思って」
とくに大人になると、どうしてもそういう友だちって少なくなっちゃうし。
苦笑して付け足した珠希に、辛辣な返答の志乃。
「あんた、もともと友だちとか多くないでしょ」
「うっ」
珠希は大袈裟にダメージを食らった表情をして、それから悔し紛れのような物言いで返した。「わ、私は志乃がいちばんだからいいもん」
さりげない、なんでもないような口ぶりだったが、それを聞いた志乃の目がもう一度かすかに見開かれる。
一呼吸の間を置き、志乃はまるで珠希の実姉のような貫禄で息を吐いた。
「べつに、あんたに振り回されるのは今に始まったことじゃないし」
「いつも巻き込んでごめんとは思ってるよ! 志乃、なんでも聞いてくれるからつい頼っちゃうというか」
クールな志乃とは対照的に、珠希はそれこそ甘えん坊な妹のように寄りかかる。
そして彼女は、わざとらしく顎を引いて上目遣いで提案した。声は、やけにはっきりとした輪郭で志乃の耳に届いた。
「日頃のお礼も兼ねて、志乃のお願いなんでも聞こうか?」
「……なんでも?」
反射的に訊き返した志乃の眼鏡が、きらりと光る。珠希は無邪気に首肯した。
「うん、なんでも! たとえば、高級ご当地ラーメンのお取り寄せとか?」
まんざら冗談でもない笑顔で、本心から志乃に礼がしたいといった様子の珠希。
志乃の好物に絡めて例を挙げる彼女に、志乃はずれてもいない眼鏡を指で直す。それから、やけに真剣な面持ちで目つきを鋭くした。
腕組みのポーズで黙考する志乃へ、珠希が「思いつき次第、いつでもいいよ」と言いかけたときだった。
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