蜂蜜色に光る夢


 言葉選びに迷ったが、婉曲に濁すのもまどろっこしく今さらだと思ってストレートに質問する。意図は瞬時に伝わって、蓮見は羞恥で顔を朱に染めながら答えた。
「ま、まあ、そうですね。嫌というか、その……普通に恥ずかしいです」
「それはそうですよね……」
 好野としては、オタク仲間としても字書きの作家としても敬愛している蓮見にキスなんて恐れ多すぎてできないくらいなのだが、蓮見も単純に友人でしかない相手への口付けには抵抗があるらしい。
 いよいよもって大ピンチだと天井を仰いだ好野へ、しかし蓮見が思いがけない言葉を口にした。
「でも……好野さんは普通の友人以上に大好きな同人仲間ですし。明日はせっかくのイベントですよね」
 口ごもりつつ言った蓮見の声は、ホテルのチェックイン後に聞いた同じ台詞を好野に思い起こさせた。「普通の友人以上に大好きな同人仲間」。まさかこんな形でもう一度言ってもらえるとはと、不謹慎ながらあのときと同様の幸せな気持ちがよみがえってくる。
 それはつまり、友人以上の同人仲間だから。脱出のためにキスくらいは許してくれるということだろうか?
「え、えっと……」
 訊き返すのも野暮な気がして、好野は蓮見の目を見て意思を確かめた。
 蓮見は、ほのかに赤面して首を縦に振る。普段なら決して目にすることのない表情と、日常を逸脱したシチュエーション。好野の心臓が大きく跳ねる。
「い、一瞬で終わらせますから!」
 不必要に大きな声が出て、蓮見が一瞬だけ肩を震わせる。ごめんなさいと謝る余裕もなく、好野は無防備な唇に自分のそれを寄せた。
 弾力のある唇同士が合わさって、かすかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。寝る前に蜂蜜パックをしていたなと、口付けをしている事実から目を逸らすように余計なことを考える。
 さして深くはないが、文句なしに唇が密着し合ったキスをする二人。十秒ももたずに口を離し、お題テロップが映されていたテレビを見る好野。
 出されたテーマにばっちりと応えたはずが、けれども画面は少しも変化してはいなかった。
「フレンチ・キスしないと出られないって……これで合ってるはずなのに」
 好野の疑問に答えるように、突如として画面の映像が音もなく切り替わる。
 またIくんとHくんが現れたのかと思いきや、表示されたのはお題とべつの文章だった。四角いテレビ画面いっぱいに、簡易的な辞書のような書き方の一文が映される。
【フレンチ‐キス】舌と舌を触れ合わせるキス。ディープキス。
「…………!?」
 一緒に画面を見ていた蓮見も、「えっ」と絶句して目を瞬いた。
 おそらくは彼女も勘違いしていたのだろうと察し、好野が蓮見の分まで代弁するように言う。
「フレンチ・キスって、バードキスみたいな軽いものだと思ってました……」
「じ、じつは私もです……」
 蓮見も正直に白状して、二人は極限まで顔面を真っ赤にした。ここにきて一気にハードルが上がり、好野の手にじわりと汗がにじむ。
 好野はテレビ画面に視線を向けたまま固まった。
「舌と舌って……ちょんってするだけじゃ、ダメですかね……」
 茫然自失に近い心境で、冗談混じりのつもりだった台詞も上手く笑えずかえって深刻な口調になってしまう。
 ややあって、蓮見が覚悟を決めた表情で呟いた。
「ここまできたら、いっそ脱出できるまで試してみましょう」
「へ?」
 好野が返事をする間もなく。
 二人分の重みで沈むベッドの上。前のめりになった蓮見が口唇を合わせてくる。
「んっ」
 とっさに目をつむる好野。さっきと同じく唇の表面だけがしっとり合わさって、しかし今度はそれだけで終わらなかった。少し角度を変え、口角まで念入りに吸い付くほどのキス。ふたつの唇が一体化するような口付けに、舌先で口元を舐められ、好野は睫毛を震わせて身をすくめた。
 獲物として狙われる小動物の如く動けないでいると、蓮見の唇から吐息の漏れる気配があった。
「……大丈夫です。すぐ、終わらせますから」
「!」
 目を開けずとも、日頃の優しい微笑が浮かんで見える穏やかな声。柔和さの中に頼もしい響きがあり、好野の心臓はいっそう力強く跳ねる。
 唇は上辺を撫でるだけにとどまって、無理やり侵入してくる様子はない。このまま自分が反応しなければ、何時間でも待っていてくれるのだろう。もはや考えるだけ無駄な気がして好野はそっとまぶたを開いた。
 蓮見は目元まで赤くなっていた。熟れた林檎のように赤みを帯びた頬は、濃く色づいて輪郭がはっきりわかるほどだ。熱が伝播するように、好野の顔も一気に温度を上げる。
 つられて唇を軽く開くと、生温かい舌の先端が口内に迫ってきた。
 反射的に身を引きかけた好野の後頭部を、蓮見の右手が押しとどめる。逃げ場を失い好野はただ与えられる感触に身を委ねた。神経は否応なく、重なった唇と触れ合う舌先に集中する。
 静寂の室内で、艶めいたリップノイズだけが妙に粒立って聞こえる。
 好野は、息継ぎの間を求めて蓮見の胸を柔らかく叩いた。一分の隙なく重ねられた唇が、音もなく遠ざかる。細い銀糸の橋が光って短く切れた。
 これでもまだ足りないのだろうか。熱に浮かされた顔を上げ、気の遠くなる思いで息を吐く。少しばかりの休息を挟んで、ふたたび唇を寄せ合う二人。仕草はいつしか自然な動作になり、好野はそれこそ夢でも見ているかのように覚束ない意識でキスを続けた。
 最初こそ遠慮がちだった口付けは、時間が経つごとに深く濃密な行為に変わっていく。
 永遠にも感じられるほどのひととき。五感すべてが蕩けていくような感覚に襲われ、心地良さに陶酔する。蓮見の唇から香る蜂蜜の匂いが、淫靡に漂い空気を染めていく。
 無垢な白の密室で、夢現の狭間に落とされて、好野は唇に触れる蓮見の熱だけを知覚しながら思考を手放した。


 つぎに目覚めたのは薄暗いホテルの一室だった。点けたままのベッドライトが淡い光で頭上のみを照らしている。
 好野はしばし黙りこくって天井を見つめていた。閉め忘れていた窓から風が入ってきて、厚みのないカーテンが蝶の羽のように揺れている。その向こう、都会の空は薄明るく、早朝の澄んだ空気が部屋に吹き込んでくる。
 枕元に置いておいた携帯を手に取って、画面を開く。時刻は朝六時を少し過ぎたばかりだった。すぐに起きれば朝の大浴場も楽しめそうな頃合いだ。昨日の会話を思い出し、好野は隣で眠っているはずの蓮見を見た。
 蓮見は、好野に背を向ける体勢で寝ていた。黒髪と肩が、呼吸に合わせて緩やかに上下している。その後ろ姿をなんとなしに眺めていると、ふと、今まで見ていた夢の内容が思い出された。
「……っ」
 単なる夢でしかないはずだが、なぜか唇に当てられた柔らかなものの感触が鮮明に残っている。原稿に夢中になりすぎたせいか、とんでもない夢を見てしまった。
 気恥ずかしさでいたたまれず、もぞもぞと体を起こして伸びをする好野。彼女は夢での出来事を振り払うように頭を振り、少し熱くなった頬を覚まそうと窓の近くに寄った。冷たくも清々しい風に吹かれて、とにかく今日のイベントを楽しもうと強引に切り替える。
 と、そこで彼女は夢で見たとあるシーンを思い出した。コマ撮り映画の如く判然と覚えている場面のひとつ――まさか、と嫌な予感を覚えて、彼女はテーブルに置きっ放しにしていたコピー本を手に取る。ついで携帯を開いてネットである単語を検索した。
 昨日、蓮見にも読んでもらったばかりの薄い冊子。本来なら物語として破綻する方が難しいほど短い話の中で、だが好野の予感は見事なまでに的中していた。
 ページを開き石像のように立ち尽くす好野。直後、やや遅れて起床した蓮見が、まだ少し眠たげな声で起き上がってくる。
「ん……好野、さん?」
 彼女は、コピー本を持ち愕然としている好野にきょとんと小首を傾げて名前を呼ぶ。
 好野は半泣きの表情で、少し涙目になって蓮見に泣きついた。
「や、やってしまいました……」
「えっ?」
「フレンチ・キスの意味……間違っちゃってたんです……」
 ふらつきながら蓮見にコピー本を差し出して、がっくりと項垂れる。
 好野の作ったコピー本の内容は、カップリングされている二人が『フレンチ・キスをしないと出られない部屋』に閉じ込められたというものだった。作中で二人はドタバタのすえになんとかお題をクリアしているのだが、これを書いたときの好野は『フレンチ・キス』を『バードキスのように、小鳥がついばむような軽いキス』だと誤解していた。
 好野が今さらになって検索したネットの辞書では、フレンチ・キスとはディープキスとほぼ同じくらいの濃厚なキス――舌と舌を絡ませるもの――と記されていた。一応いくつかのサイトを回ってみたが、どれにも同じことが書かれている。
 とくに若者には、軽いキスだと思われていることが多いとの記載を見つけ、好野は自分が盛大に誤用して作品を書いてしまったのだと認めざるを得なかった。
 激しく落ち込みつつ、頒布前に気付いて良かったと自分を慰める。せっかく刷ってきたが、これは後日書き直すことにしよう……そう心の中だけで折り合いをつけ、どうにかショックから立ち直る好野。
 顔面を青白くした彼女に、けれど説明された蓮見はコピー本を改めてじっくり読み直すと、
「……これって、書き直さなくてもいいんじゃないでしょうか?」
 あっさりとそんなことを言った。
「え、で、でも」
 やっぱり意味を間違えたままの内容で配るのは、と慌てる好野だったが、蓮見は冊子を彼女に返しながら、イレギュラーにも動じない笑みで提案する。
「後日談として、フレンチ・キスの本当の意味を知った二人……次の新刊かコピー本のテーマをそれにしちゃう、とか。上手くすれば新しい話のネタにできそうじゃないですか?」
「! て、天才です、そのアイデアいただきますっ!」
 絶望の表情から一転。両目に輝きを取り戻した好野は、「良かった~……」と気の抜けた声でベッドに座り込む。蓮見もくすっと笑い、「せっかく頑張って書いたお話ですからね」と、好野の腕のコピー本を見つめた。
 そして彼女は、不意に不思議そうに好野へ訊ねた。
「でも、どうして今になって誤用だと気づいたんですか?」
 すっかり脱力しきっていた好野は、ぎくっと擬音が聞こえそうな挙動で冊子を抱きしめた。
「あ、そ、それは…………」
 まさか夢で見た出来事を話すわけにもいかず、無難な言い訳を探して視線を宙にさまよわせる。結局、彼女は当たり障りのない返答でごまかした。
「……フレンチ・キスって、単語としてよく聞きますけど、ちゃんと意味を調べたことはなかったなって」
「なるほど。気付いて良かったですね」
 蓮見は感心した風に頷いて、その微笑みに少しの後ろめたさを覚えつつ好野もあいまいな笑みを返す。
 そのあとは、朝食前に大浴場で朝風呂に入ろうという話になり、二人は着替えだけを準備して部屋を後にする。ルームキーを着替えに挟み込んで廊下を歩きながら、好野は、起きたばかりの蓮見から甘く美味しそうな匂いを感じ取った。
 昨夜のパックの匂いだ。話題を口にしようとして、彼女は自身の唇からも似た香りがしていると気づく。蓮見に悟られないよう忍びやかに唇をぺろりと舐めると、たしかに蜂蜜特有のまろやかな甘みが舌先に広がった。
(……!?)
 昨晩の夢は、あくまでも好野の脳内だけで起こった夢でしかないはずだ。それでもなぜか香りと味が移っていて、好野は驚きのあまりにぴたりと歩を止める。
 さきに行きかけた蓮見が、訝しげに好野へ声をかける。
「……どうかしましたか?」
 その唇は蜂蜜色の光を帯びて、好野は夢とも現実ともつかない記憶に頬を赤らめていった。

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