虚の先まで七光年
綾城さんから連絡は来ておらず、このあいだのやり取りは夢だったんじゃないかと思えてしまった。それでも頬をつねりながらダイレクトメッセージを開くと、先日のメッセージはしっかりと残っていた。
イベント会場は多くの人で活気に溢れていた。綾城さんのサークルは当たり前に長蛇の列ができていて、私も列の最後尾にこっそりと並ぶ。自分から名乗るべきだろうか、でもこんなに大勢の人が列をなしているのだから、落ち着いた午後あたりにまた来るべきか……。
考えつつ、ふと嫌な想像が頭をよぎる。このあいだ不穏なリプを飛ばしてきたアカウントの持ち主も、もしかするとこの会場に来ているかもしれない。私はSNSで写真を上げたり、自分自身に関する呟きをしたことはほとんどないので、私がイクラ丼であることは知り合い相手でもそう簡単にバレたりはしないだろうが。
けれど自分に悪意の塊を投げつけてきた人がいるかと思うと、気分は否応なく滅入ってしまう。なんとなく居心地の悪さを感じているうちに、気付けば私の番が回ってきていた。
綾城さんは売り手として自らスペースに立っていた。私と目が合うなり少し雰囲気が和らいだ気がするのは、さすがに自意識が過剰だろう。
「し、新刊ください」
昂る鼓動で声が震えてしまいそうだったが、緊張を抑え込んで告げる。
「ありがとうございます、五百円です」
お釣りの出ない五百円玉で支払って新刊を受け取り、差し入れを渡す。邪魔にならないよう迅速に列から離れて一息ついたところで、ポケットのスマホが短く振動した。新刊を無事、手にできた安心感で前ほど警戒はせずにダイレクトメッセージを確認する。相手は予想の通り綾城さんだった。
『新刊、買いに来てくださってありがとうございます。差し入れも嬉しいです』
綾城さんも売り子を誰かに任せて休憩しているのだろうか。
こちらから返信する間もなく、新しいメッセージが送られてくる。それはイベント後の流れについて再確認するもので、私も綾城さんと出かけるのが楽しみだという旨を返した。
その後は気になる作家さんのスペースを回って、私は昼過ぎにはイベント会場を後にした。付近の食事処で昼食をとり、イベントが終わるまでの時間を散歩や本屋で適当に流す。
十四時前に綾城さんからのダイレクトメッセージが入って、待ち合わせの駅へ向かった。
「すみません、お待たせしました」
綾城さんは急ぎ足で駆けてきて、私はかえって恐縮してしまった。
「いえいえ、とんでもないです。綾城さん、いつもより撤収早くなかったですか?」
「あ、今日は新刊が早めに完売してしまって……」
さらりと言われ、さすが綾城さんと畏敬の念が増す。
彼女はスペース内で昼食をとったと言い、私も外で済ませてきたと伝えた。綾城さんが、私を先導する形で少し前を歩く。
「では行きましょうか」
「はい! ……それで、どこに行くんですか?」
今さらながらに行き先を問うと、綾城さんはなぜだか気恥ずかしげに微笑んで答えてくれた。
「……海です。ここから近いので、そう遅くはならないかと」
「海?」
「はい。イクラ丼さんに、ちょっと聞いてほしい話がありまして」
意味深な物言いで告げられ、真面目で精悍な面持ちも相まって胸がどきりとする。綾城さんはそれ以上の説明をせずに、券売機で私の分まで切符を購入してくれた。
人の少ないホームで電車を待ち、がらがらの車内に連れだって乗り込む。
私たちは余裕で座れるロングシートに腰を下ろし、しばし今日のイベントについて話した。
「オールジャンルも楽しいですけど、欲を言えばいつかアスカレの即売会が開催されたら、もういつ死んでも悔いはないって思いますね。完結した作品でのイベントは、やっぱり難しいですよね」
「うーん、たしかに聞いたことはありませんね……。ですが、アスカレって二次創作が盛り上がっている印象があるのでまったく希望がないわけじゃないと思いますよ」
盛り上げている張本人だという自覚は、おそらくないのだろう。
綾城さんがかけてくれる優しい台詞に「そうだと嬉しいです」などと返していると、やがて電車は目的地への到着をアナウンスした。
降り立った地はまさしく海の見える郊外で、駅から少し歩くと潮の香りが風に乗って漂ってきた。空は快晴、澄んだコバルトブルーの海原との境界がぼやけて見える。真っ白な雲が散り散りに浮かんでいて、いまが夏だったらさぞかし雄大な入道雲が拝めたのだろう。
砂浜へ降りて海面を間近で覗けるくらいに寄ると、海はいくつものグラデーションで光っているのがよくわかった。沖は深い群青色で、浜辺へ近づくにつれてやや緑の混じった水色に変わる。波打ち際では透明な海水が寄せては返し、リズム良く白波が躍っていた。足だけでも入れてしまいたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢する。
シーズンオフで閑散としている海は、人の気配が少ないからこその静かな美しさがあった。
「わぁ……! 海なんて久々に来ました!」
振り向きざまに言うと、綾城さんも頷いて丸太のベンチへと誘導してくれる。南国風の植物に背後を囲われた、木陰のベンチだ。
さざ波の音がかすかに響く浜で、潮風に吹かれて二人でベンチに腰かける。一緒にいるのが綾城さんということもあって、あまりに贅沢な空間だ。
波を眺められるベンチに座り、彼女は昔を懐かしむような眼差しで言った。
「じつはここ、前に小説の取材で来たことのある場所なんです」
「えっ、そうだったんですか! 取材……格好いいです!」
綾城さんの小説は、登場人物の心情描写も巧みだけど、とくに臨場感が凄い。現代設定の作品が多いこともあるだろうが、こういった海に都会の喧騒から人里離れた静謐な僻地まで……読み手の私が行ったことのない場所、見たことのない景色でも、自分がそこでその光景を見ているような錯覚に陥るくらいだ。まさか実際に取材までしていたとは、驚きつつも妙に納得してしまう。それほど熱心だからこそ、あんなに説得力のある話が書けるんだろう。
そういえば、綾城さんのアスカレ小説には海が舞台のものもいくつかあったような。
もしかすると、ここがそのモデルとなった場所なのかもしれない。思うと急に目の前の海がいっそう輝きだして見えた。だけどそれを質問するより先に、綾城さんが再び口を開いた。
「――この海は、私の大事な人に元気をくれた場所なんです」
呟いた彼女は、まっすぐに波の先を見ながら微笑んだ。古い傷跡を撫でるような、慈愛に満ちた眼差しだった。
横顔は、ここではない遠い誰かを見ているようで。なぜだか心へ陰りが差して、私は、やっとのことで短く訊き返した。
「……大事な人、ですか?」
「はい。尊敬している、大好きな字書きさんのことなんですが」
字書き、という答えに安堵とも嫉妬ともつかない感情が湧き起こる。
言い方からして綾城さんの特別な友人なのだろう。具体的な関係性はわからないまでも、相手が彼女にとってかけがえのない存在であることは容易に察しが付いた。
……私は、このあいだ送られてきたリプライを思い出していた。
『無産のくせに』
鋭い一言は、忘れてしまおうと思えば思うほど鮮明によみがえってくる。誰のものともつかない、けれど憎悪に染まった声が耳の奥で何度も再生される。
私はたしかに、小説も書かないし絵も描かない、その他あらゆる創作活動に縁のない人間だ。人様の作品を見させていただきながら、返せるものと言えば感想や応援くらいしかできない、同人界隈において最も無力な人間だ。
綾城さんも……本人にその気はなくても、本来なら書き手といる方が自然なのは間違いない。それに寂しさを覚えないと言えば嘘になるが、私のような消費者側の人間は、綾城さんの作品を読めるだけでも幸せなんだ。
自分へ言い聞かせるように、私は脳内での独り言を繰り返した。波の音は遠く、きらきらと光を弾いている水面も見えはしない。小さく鼻をすすると、わずかに潮の香りが感じられた。
綾城さんが、うつむいている私に視線を戻した気配がした。
泣いていないことをアピールしようと顔を上げると、綾城さんの凛とした双眸と目が合った。涼やかで少し色気のある目は、こちらの顔を気遣わしげに覗き込んでいた。
距離の近さに一瞬、息を呑む。
「あの、すみません」
とっさに謝罪の台詞が口をついたが、しかし綾城さんは私の目だけを見ていた。
「……イクラ丼さんは、いつもとても熱量のある感想をくれますよね」
真摯に問われ、必死で首を縦に振る。好きだとか最高としか伝えられていない文章を、はたして感想と呼んでいいものかとも悩みかけたが、綾城さんの気迫に押されてしまった。
真剣な表情の綾城さんは、今度は海でなく私の方を見ながら言った。
「私も昔、大好きな字書きさんに感想を送っていたんです。私が小説を書くようになってから、この場所に二人で取材に来て……そのとき、私の感想がその人に元気を与えていたんだと知りました」
「さっき言っていた、大事な人っていう字書きさんですか?」
「はい。私が小説を書き始める前からの、親友みたいな、お姉さんみたいな」
初めて知る綾城さんの交友関係に、沈んでいた気持ちも忘れて話に聞き入ってしまう。
そして彼女は、私の手にその手を重ねて顔を見つめてきた。中性的な雰囲気の顔立ちに、優しさと底知れない魅惑さを秘めた面持ち。射抜かれるように捕らえられて、触れている手の内側に汗がにじむ。
「感想しか書けない、なんて寂しいこと思わないでくださいね。その感想に元気をもらったり、救われたりする人の方が、嫌なことを言う人よりもきっとたくさんいるはずですから」
「……!」
綾城さんは、微笑みと共に重ねた手の指を緩く絡めてきた。
それが引き金になって、そんなつもりもなかったのに私の目から一筋のしずくが垂れた。気付いてしまえば涙の膜は呆気なく決壊する。
声にならない声で目元を拭う私に、綾城さんは穏やかな手つきで、ただ私の背をさすってくれていた。
落ち着いて我に返ると、かなり恥ずかしいことをしてしまった気がする。
すみませんと謝るのも違うと思い、私は「ありがとうございます」と返して口角を上げてみせた。実際、綾城さんのおかげで心に沈殿していた悪意のもとはだいぶ薄まっていた。
水平線の向こうでは、徐々に青空が茜色へと移り変わり始めていた。吹く風は冷たく、風邪をひかないうちに帰りましょうと手を引かれて立ち上がる。
名残惜しく感傷に浸りながら夕空の海を見ていると、綾城さんがアスカレ小説の話について口にした。
「この前あげた三木くんの小説、七光年先から届く星の光をテーマにしたんですが……」
言われて、もちろん完璧に内容を覚えている私は「そうですね」と首肯する。
「孤独の中で弱ってしまった三木くんが、空の果てから届く七年越しの光に希望を見出して、未来で待っているはずの仲間との絆を信じ前を向くっていう……とっても感動しました!」
「あ、ありがとうございます」
つい早口になってまくし立てると、綾城さんは照れた様子で頬をかいた。
それから咳払いを挟み、彼女は夕空の彼方へ目を向けながら続けた。
「あの話は、イクラ丼さんが私へ感想をくださったことで思いついたんです」
綾城さんの白い頬が、夕陽の朱色に染まっていく。その顔に見とれていた私は、反応を一拍ほど遅らせて「え、えぇっ?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。
私の感想で思いついたとは、いったいどういうことだろう? 動揺する私に、綾城さんは過去を追想するような口調で説明する。
「私も昔、匿名で悪意のある感想をもらったことがあったんです。そのときは仲の良い字書きさんたちに励ましてもらって、支えてもらったんですが……イクラ丼さんから七年越しに感想をいただいたとき、あの頃に落ち込んでいた自分へ眩しいくらいの光が差した気がして」
唐突な告白は、日頃の綾城さん人気を見ている者としては信じがたい話だった。
神字書き、二次創作のカリスマとして崇められる裏側では、私には到底想像もできない苦労も付きまとっているのかもしれない。
そんな大変さはおくびにも出さず、綾城さんは朗らかに笑って目を細めた。
「どんなにつらい今があっても、その少し先の未来では眩しいほどの光が届くかもしれない。そういう希望や願いを込めた小説だったんです」
言って、「だから、イクラ丼さんが感想をくださったからこそ書けた話なんです」とはにかむ綾城さん。
三木くん小説の制作秘話とも言える裏話に、あまりにも身の丈を超えた幸せで私の頭はキャパオーバー寸前まで満たされていた。
私の感想を、綾城さんがそんなにも大切に想ってくれていたこと。それが綾城さんの光となっていたこと。そして、大好きなアスカレ・三木くんの小説に繋がったこと。すべてが光栄で、しがない読み専として私はきっと世界中の誰より最大級の幸せ者だろう。
衝撃に打ち震える私へ、綾城さんが少し不安げな表情で質問を重ねる。
「……それでもやっぱり、自分のことを『単なる読み手』と卑下しちゃいますか?」
少し子どもっぽくなっている語尾から、彼女の言葉が嘘偽りないものなのだと伝わってきた。
私は、もはや涙さえ出ないレベルの感動で胸を押さえながら笑顔を返した。
「嬉しいです……言葉にできないぐらい、凄く、すっごく嬉しいです」
「それなら良かったです。こういうことを言うのもなんですが、これからまたイクラ丼さんからの感想を楽しみにしています」
綾城さんも目に見えてほっと胸を撫で下ろしている。
敬愛している彼女からのこれ以上ない言葉に、形容しがたい幸福で体中が満たされていく。
浜から立ち去る際、私たちは夕焼け空に一番星が出ているのを見つけた。宵の明星とも呼ばれる、一等星よりも明るくて地球に近い星だ。
「七光年先には、どんな星があるんでしょうね」
思わず呟いた私に、綾城さんも宇宙の神秘へ魅入られたように空を見上げる。
「いつか光が届くことを信じて、この先も楽しんでいけたらいいですね」
同人趣味は楽しいことばかりでなく、ときにつらいことや悲しい目に遭うこともある。
けれどもそんな中で出会えた綾城さんという光を見失わないよう――私は改めて、宇宙の如く広い世界で彼女に出会えた奇跡に感謝するのだった。
帰りの電車で、綾城さんはライムアプリの連絡先を交換してくれた。
「また何かあったら、いつでも連絡してください」
連絡帳に新しく増えた友人の名前を見て、私は最後まで予想だにしなかった展開にかえって身を縮こまらせてしまう。
「なんだか、本当に特別扱いしてもらっているみたいです……」
恐れ入りつつもしっかりとお気に入りマークを付けて、スマホアプリを閉じる。
「そうですね。たしかに、特別扱いしているかもしれません」
綾城さんは照れるそぶりもなしにすんなりと頷いた。あっさり受け止められ、私は耳まで赤くなるのを感じて首を振る。
あくまでも綾城さんと私は書き手と読み手の関係。綾城さんはたしかに美人で聡明な人だけど、そのあたりを勘違いしてしまってはいけないのだとわきまえる。
と、綾城さんは物思いにふけるような顔つきで言葉を追加した。
「そうですね……いっそのこと目に見えてわかるくらい特別扱いをすれば、私にとってもイクラ丼さんは大事な人なんですというのが伝わるでしょうか」
私の自制心を木っ端みじんに打ち砕く、超弩級の一言。
すでに声まで失った私は、脳が茹だるのを感じながら酸欠の魚のように口をぱくぱくと開閉する。天然なのだろうが、ここまでくると綾城さんも相当な罪作りだと思う。
照れと歓喜に翻弄された一日だったが、私は綾城さんの天然ぶりに小さな溜息を吐いて苦笑した。
……どこか神様然として見えるほど神々しい綾城さんのそばは、やっぱりいろんな意味で目が眩んでしまいそうになるけれど。
それでも至近距離から彼女を応援できる幸せは何物にも代えがたい特権で。
私は車窓に映る赤面した自分から目を逸らし、赤い空に光る星をいつまでも眺め続けていた。
イベント会場は多くの人で活気に溢れていた。綾城さんのサークルは当たり前に長蛇の列ができていて、私も列の最後尾にこっそりと並ぶ。自分から名乗るべきだろうか、でもこんなに大勢の人が列をなしているのだから、落ち着いた午後あたりにまた来るべきか……。
考えつつ、ふと嫌な想像が頭をよぎる。このあいだ不穏なリプを飛ばしてきたアカウントの持ち主も、もしかするとこの会場に来ているかもしれない。私はSNSで写真を上げたり、自分自身に関する呟きをしたことはほとんどないので、私がイクラ丼であることは知り合い相手でもそう簡単にバレたりはしないだろうが。
けれど自分に悪意の塊を投げつけてきた人がいるかと思うと、気分は否応なく滅入ってしまう。なんとなく居心地の悪さを感じているうちに、気付けば私の番が回ってきていた。
綾城さんは売り手として自らスペースに立っていた。私と目が合うなり少し雰囲気が和らいだ気がするのは、さすがに自意識が過剰だろう。
「し、新刊ください」
昂る鼓動で声が震えてしまいそうだったが、緊張を抑え込んで告げる。
「ありがとうございます、五百円です」
お釣りの出ない五百円玉で支払って新刊を受け取り、差し入れを渡す。邪魔にならないよう迅速に列から離れて一息ついたところで、ポケットのスマホが短く振動した。新刊を無事、手にできた安心感で前ほど警戒はせずにダイレクトメッセージを確認する。相手は予想の通り綾城さんだった。
『新刊、買いに来てくださってありがとうございます。差し入れも嬉しいです』
綾城さんも売り子を誰かに任せて休憩しているのだろうか。
こちらから返信する間もなく、新しいメッセージが送られてくる。それはイベント後の流れについて再確認するもので、私も綾城さんと出かけるのが楽しみだという旨を返した。
その後は気になる作家さんのスペースを回って、私は昼過ぎにはイベント会場を後にした。付近の食事処で昼食をとり、イベントが終わるまでの時間を散歩や本屋で適当に流す。
十四時前に綾城さんからのダイレクトメッセージが入って、待ち合わせの駅へ向かった。
「すみません、お待たせしました」
綾城さんは急ぎ足で駆けてきて、私はかえって恐縮してしまった。
「いえいえ、とんでもないです。綾城さん、いつもより撤収早くなかったですか?」
「あ、今日は新刊が早めに完売してしまって……」
さらりと言われ、さすが綾城さんと畏敬の念が増す。
彼女はスペース内で昼食をとったと言い、私も外で済ませてきたと伝えた。綾城さんが、私を先導する形で少し前を歩く。
「では行きましょうか」
「はい! ……それで、どこに行くんですか?」
今さらながらに行き先を問うと、綾城さんはなぜだか気恥ずかしげに微笑んで答えてくれた。
「……海です。ここから近いので、そう遅くはならないかと」
「海?」
「はい。イクラ丼さんに、ちょっと聞いてほしい話がありまして」
意味深な物言いで告げられ、真面目で精悍な面持ちも相まって胸がどきりとする。綾城さんはそれ以上の説明をせずに、券売機で私の分まで切符を購入してくれた。
人の少ないホームで電車を待ち、がらがらの車内に連れだって乗り込む。
私たちは余裕で座れるロングシートに腰を下ろし、しばし今日のイベントについて話した。
「オールジャンルも楽しいですけど、欲を言えばいつかアスカレの即売会が開催されたら、もういつ死んでも悔いはないって思いますね。完結した作品でのイベントは、やっぱり難しいですよね」
「うーん、たしかに聞いたことはありませんね……。ですが、アスカレって二次創作が盛り上がっている印象があるのでまったく希望がないわけじゃないと思いますよ」
盛り上げている張本人だという自覚は、おそらくないのだろう。
綾城さんがかけてくれる優しい台詞に「そうだと嬉しいです」などと返していると、やがて電車は目的地への到着をアナウンスした。
降り立った地はまさしく海の見える郊外で、駅から少し歩くと潮の香りが風に乗って漂ってきた。空は快晴、澄んだコバルトブルーの海原との境界がぼやけて見える。真っ白な雲が散り散りに浮かんでいて、いまが夏だったらさぞかし雄大な入道雲が拝めたのだろう。
砂浜へ降りて海面を間近で覗けるくらいに寄ると、海はいくつものグラデーションで光っているのがよくわかった。沖は深い群青色で、浜辺へ近づくにつれてやや緑の混じった水色に変わる。波打ち際では透明な海水が寄せては返し、リズム良く白波が躍っていた。足だけでも入れてしまいたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢する。
シーズンオフで閑散としている海は、人の気配が少ないからこその静かな美しさがあった。
「わぁ……! 海なんて久々に来ました!」
振り向きざまに言うと、綾城さんも頷いて丸太のベンチへと誘導してくれる。南国風の植物に背後を囲われた、木陰のベンチだ。
さざ波の音がかすかに響く浜で、潮風に吹かれて二人でベンチに腰かける。一緒にいるのが綾城さんということもあって、あまりに贅沢な空間だ。
波を眺められるベンチに座り、彼女は昔を懐かしむような眼差しで言った。
「じつはここ、前に小説の取材で来たことのある場所なんです」
「えっ、そうだったんですか! 取材……格好いいです!」
綾城さんの小説は、登場人物の心情描写も巧みだけど、とくに臨場感が凄い。現代設定の作品が多いこともあるだろうが、こういった海に都会の喧騒から人里離れた静謐な僻地まで……読み手の私が行ったことのない場所、見たことのない景色でも、自分がそこでその光景を見ているような錯覚に陥るくらいだ。まさか実際に取材までしていたとは、驚きつつも妙に納得してしまう。それほど熱心だからこそ、あんなに説得力のある話が書けるんだろう。
そういえば、綾城さんのアスカレ小説には海が舞台のものもいくつかあったような。
もしかすると、ここがそのモデルとなった場所なのかもしれない。思うと急に目の前の海がいっそう輝きだして見えた。だけどそれを質問するより先に、綾城さんが再び口を開いた。
「――この海は、私の大事な人に元気をくれた場所なんです」
呟いた彼女は、まっすぐに波の先を見ながら微笑んだ。古い傷跡を撫でるような、慈愛に満ちた眼差しだった。
横顔は、ここではない遠い誰かを見ているようで。なぜだか心へ陰りが差して、私は、やっとのことで短く訊き返した。
「……大事な人、ですか?」
「はい。尊敬している、大好きな字書きさんのことなんですが」
字書き、という答えに安堵とも嫉妬ともつかない感情が湧き起こる。
言い方からして綾城さんの特別な友人なのだろう。具体的な関係性はわからないまでも、相手が彼女にとってかけがえのない存在であることは容易に察しが付いた。
……私は、このあいだ送られてきたリプライを思い出していた。
『無産のくせに』
鋭い一言は、忘れてしまおうと思えば思うほど鮮明によみがえってくる。誰のものともつかない、けれど憎悪に染まった声が耳の奥で何度も再生される。
私はたしかに、小説も書かないし絵も描かない、その他あらゆる創作活動に縁のない人間だ。人様の作品を見させていただきながら、返せるものと言えば感想や応援くらいしかできない、同人界隈において最も無力な人間だ。
綾城さんも……本人にその気はなくても、本来なら書き手といる方が自然なのは間違いない。それに寂しさを覚えないと言えば嘘になるが、私のような消費者側の人間は、綾城さんの作品を読めるだけでも幸せなんだ。
自分へ言い聞かせるように、私は脳内での独り言を繰り返した。波の音は遠く、きらきらと光を弾いている水面も見えはしない。小さく鼻をすすると、わずかに潮の香りが感じられた。
綾城さんが、うつむいている私に視線を戻した気配がした。
泣いていないことをアピールしようと顔を上げると、綾城さんの凛とした双眸と目が合った。涼やかで少し色気のある目は、こちらの顔を気遣わしげに覗き込んでいた。
距離の近さに一瞬、息を呑む。
「あの、すみません」
とっさに謝罪の台詞が口をついたが、しかし綾城さんは私の目だけを見ていた。
「……イクラ丼さんは、いつもとても熱量のある感想をくれますよね」
真摯に問われ、必死で首を縦に振る。好きだとか最高としか伝えられていない文章を、はたして感想と呼んでいいものかとも悩みかけたが、綾城さんの気迫に押されてしまった。
真剣な表情の綾城さんは、今度は海でなく私の方を見ながら言った。
「私も昔、大好きな字書きさんに感想を送っていたんです。私が小説を書くようになってから、この場所に二人で取材に来て……そのとき、私の感想がその人に元気を与えていたんだと知りました」
「さっき言っていた、大事な人っていう字書きさんですか?」
「はい。私が小説を書き始める前からの、親友みたいな、お姉さんみたいな」
初めて知る綾城さんの交友関係に、沈んでいた気持ちも忘れて話に聞き入ってしまう。
そして彼女は、私の手にその手を重ねて顔を見つめてきた。中性的な雰囲気の顔立ちに、優しさと底知れない魅惑さを秘めた面持ち。射抜かれるように捕らえられて、触れている手の内側に汗がにじむ。
「感想しか書けない、なんて寂しいこと思わないでくださいね。その感想に元気をもらったり、救われたりする人の方が、嫌なことを言う人よりもきっとたくさんいるはずですから」
「……!」
綾城さんは、微笑みと共に重ねた手の指を緩く絡めてきた。
それが引き金になって、そんなつもりもなかったのに私の目から一筋のしずくが垂れた。気付いてしまえば涙の膜は呆気なく決壊する。
声にならない声で目元を拭う私に、綾城さんは穏やかな手つきで、ただ私の背をさすってくれていた。
落ち着いて我に返ると、かなり恥ずかしいことをしてしまった気がする。
すみませんと謝るのも違うと思い、私は「ありがとうございます」と返して口角を上げてみせた。実際、綾城さんのおかげで心に沈殿していた悪意のもとはだいぶ薄まっていた。
水平線の向こうでは、徐々に青空が茜色へと移り変わり始めていた。吹く風は冷たく、風邪をひかないうちに帰りましょうと手を引かれて立ち上がる。
名残惜しく感傷に浸りながら夕空の海を見ていると、綾城さんがアスカレ小説の話について口にした。
「この前あげた三木くんの小説、七光年先から届く星の光をテーマにしたんですが……」
言われて、もちろん完璧に内容を覚えている私は「そうですね」と首肯する。
「孤独の中で弱ってしまった三木くんが、空の果てから届く七年越しの光に希望を見出して、未来で待っているはずの仲間との絆を信じ前を向くっていう……とっても感動しました!」
「あ、ありがとうございます」
つい早口になってまくし立てると、綾城さんは照れた様子で頬をかいた。
それから咳払いを挟み、彼女は夕空の彼方へ目を向けながら続けた。
「あの話は、イクラ丼さんが私へ感想をくださったことで思いついたんです」
綾城さんの白い頬が、夕陽の朱色に染まっていく。その顔に見とれていた私は、反応を一拍ほど遅らせて「え、えぇっ?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。
私の感想で思いついたとは、いったいどういうことだろう? 動揺する私に、綾城さんは過去を追想するような口調で説明する。
「私も昔、匿名で悪意のある感想をもらったことがあったんです。そのときは仲の良い字書きさんたちに励ましてもらって、支えてもらったんですが……イクラ丼さんから七年越しに感想をいただいたとき、あの頃に落ち込んでいた自分へ眩しいくらいの光が差した気がして」
唐突な告白は、日頃の綾城さん人気を見ている者としては信じがたい話だった。
神字書き、二次創作のカリスマとして崇められる裏側では、私には到底想像もできない苦労も付きまとっているのかもしれない。
そんな大変さはおくびにも出さず、綾城さんは朗らかに笑って目を細めた。
「どんなにつらい今があっても、その少し先の未来では眩しいほどの光が届くかもしれない。そういう希望や願いを込めた小説だったんです」
言って、「だから、イクラ丼さんが感想をくださったからこそ書けた話なんです」とはにかむ綾城さん。
三木くん小説の制作秘話とも言える裏話に、あまりにも身の丈を超えた幸せで私の頭はキャパオーバー寸前まで満たされていた。
私の感想を、綾城さんがそんなにも大切に想ってくれていたこと。それが綾城さんの光となっていたこと。そして、大好きなアスカレ・三木くんの小説に繋がったこと。すべてが光栄で、しがない読み専として私はきっと世界中の誰より最大級の幸せ者だろう。
衝撃に打ち震える私へ、綾城さんが少し不安げな表情で質問を重ねる。
「……それでもやっぱり、自分のことを『単なる読み手』と卑下しちゃいますか?」
少し子どもっぽくなっている語尾から、彼女の言葉が嘘偽りないものなのだと伝わってきた。
私は、もはや涙さえ出ないレベルの感動で胸を押さえながら笑顔を返した。
「嬉しいです……言葉にできないぐらい、凄く、すっごく嬉しいです」
「それなら良かったです。こういうことを言うのもなんですが、これからまたイクラ丼さんからの感想を楽しみにしています」
綾城さんも目に見えてほっと胸を撫で下ろしている。
敬愛している彼女からのこれ以上ない言葉に、形容しがたい幸福で体中が満たされていく。
浜から立ち去る際、私たちは夕焼け空に一番星が出ているのを見つけた。宵の明星とも呼ばれる、一等星よりも明るくて地球に近い星だ。
「七光年先には、どんな星があるんでしょうね」
思わず呟いた私に、綾城さんも宇宙の神秘へ魅入られたように空を見上げる。
「いつか光が届くことを信じて、この先も楽しんでいけたらいいですね」
同人趣味は楽しいことばかりでなく、ときにつらいことや悲しい目に遭うこともある。
けれどもそんな中で出会えた綾城さんという光を見失わないよう――私は改めて、宇宙の如く広い世界で彼女に出会えた奇跡に感謝するのだった。
帰りの電車で、綾城さんはライムアプリの連絡先を交換してくれた。
「また何かあったら、いつでも連絡してください」
連絡帳に新しく増えた友人の名前を見て、私は最後まで予想だにしなかった展開にかえって身を縮こまらせてしまう。
「なんだか、本当に特別扱いしてもらっているみたいです……」
恐れ入りつつもしっかりとお気に入りマークを付けて、スマホアプリを閉じる。
「そうですね。たしかに、特別扱いしているかもしれません」
綾城さんは照れるそぶりもなしにすんなりと頷いた。あっさり受け止められ、私は耳まで赤くなるのを感じて首を振る。
あくまでも綾城さんと私は書き手と読み手の関係。綾城さんはたしかに美人で聡明な人だけど、そのあたりを勘違いしてしまってはいけないのだとわきまえる。
と、綾城さんは物思いにふけるような顔つきで言葉を追加した。
「そうですね……いっそのこと目に見えてわかるくらい特別扱いをすれば、私にとってもイクラ丼さんは大事な人なんですというのが伝わるでしょうか」
私の自制心を木っ端みじんに打ち砕く、超弩級の一言。
すでに声まで失った私は、脳が茹だるのを感じながら酸欠の魚のように口をぱくぱくと開閉する。天然なのだろうが、ここまでくると綾城さんも相当な罪作りだと思う。
照れと歓喜に翻弄された一日だったが、私は綾城さんの天然ぶりに小さな溜息を吐いて苦笑した。
……どこか神様然として見えるほど神々しい綾城さんのそばは、やっぱりいろんな意味で目が眩んでしまいそうになるけれど。
それでも至近距離から彼女を応援できる幸せは何物にも代えがたい特権で。
私は車窓に映る赤面した自分から目を逸らし、赤い空に光る星をいつまでも眺め続けていた。
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