虚の先まで七光年
大学の講義が長引いてしまい、帰り道は運の悪いことに帰宅ラッシュと被ってしまった。
駅はホームに入る前から大勢の人でごった返していた。いつもならどこかで時間を潰すところだけど、今日はあいにく、最近ハマりたてのアニメの放送日。せっかくならリアルタイムで視聴したい。私は意を決してホームへ足を踏み入れた。
途端、人の波に揉まれて視界が遮られる。顔も見えない男性に肩をぶつけられ、前を見ていない大学生に足を踏まれながらも、なんとか車両に乗り込んだ。当然の如く満員の車内で、すし詰め状態の人々の黒い頭が並んでいる。私もその一員となって吊り革を確保する。
座席は座るどころか近づくことさえ困難だ。座れたらすぐにでもスマホが使えるのに……内心もどかしい気持ちになりながら、けれどお楽しみは家でじっくり堪能すればいいと自分に言い聞かせる。
そう。今日の私はなにがあっても上機嫌でいられる、いわば無敵の気分だった。教授が時間割を勘違いしていたせいで授業の終わりが遅くなったことも、夕方のラッシュに乗り合わせてしまい、窮屈な満員電車を味わうことだってさほど苦にならない。それは今日に限ったことでなく、ここのところ私は毎日、新鮮な幸福に浸っていた。
自宅の最寄り駅に到着し、ぞろぞろと降りる人の群れに紛れて電車から吐き出される。
急ぎ足で家に帰り着き、荷物の片付けもそこそこに私はソファーに座ってスマホを開いた。まるでスマホ依存症、という言葉が頭に浮かんだけれど、私が依存しているのはこの小さな機械そのものではなくて。
「あ、あったあった!」
SNSアプリを開いて、読み専の私が唯一持っているアカウント――イクラ丼の名前でログインする。そのままハッシュタグ・アスカレで検索をかけると、今日もすでに一件の小説が投稿されていた。嬉しさで思わず子どものような声を上げてしまう。
『アスカレの三木くんメインの短編です。ほのぼの平和系』
ツイートしているのは、まだ作品を読んだことのない字書きだった。とりあえずP支部へのリンクから本文を見てみると、やや砕けた文体の、熱烈な文章が綴られていた。
ひとまず呟き自体をブクマしておき、少し気が早いがいいねも付けておく。
ほかにはアスカレ関連のイラストを上げている人もいて、検索結果はなかなかに賑わっていた。
放送が終わってから何年も経つジャンルが、とある出来事をきっかけに人気を取り戻し二次創作の界隈で盛り上がっている。少し前までは絶対に考えられなかった光景だ。
いまでも夢ではないかと疑うほどの幸せを噛みしめつつ。新しい投稿を一通りチェックし終えた私は、アスカレ二次創作が再び流行するきっかけとなった字書きのアカウントに飛んだ。
ツイッターにてかなりの人気と尊敬を集めている神字書き……もとい綾城さんのホームは、昨夜の呟きを最後に更新が止まっていた。もともと日常ツイートなどを滅多にしない人なので、今日も動きがあるとしたら夜頃だろう。
事の発端は、アスカレに数年遅れでハマった私が綾城さんのサイトを見つけたことだった。
綾城さんは、アスカレ放送当時は虚崎さんという名前で、SNSが主流の現代と違って彼女の作品だけが集められた場所で小説を掲載していた。それを数年遅れで見つけた私は、初めて触れた彼女の作品群に圧倒され、瞬く間に魅了された。
それから半ばネットストーカー紛いの経緯で虚崎さんに接触を試みて一カ月と少し。いまにして思うと我ながら不審者この上ないが、また彼女の小説が読みたい一心でツイッターアカウントを見つけ出したのだ。名前こそ虚崎から有島、そして綾城に変わっていたが、唯一無二の魅力を放つ作風はまさに彼女のものとしか言いようがなかった。
それから紆余曲折を経て、一度は帰りかけたイベントにてアスカレ小説の感想を伝えることができた。完売していた同人誌のデータをいただけただけでなく、綾城さんはアスカレの新しい二次創作小説を書いてくれた。そしてそれはネットに上げられた瞬間、古参のアスカレファンを中心に大きな話題となった。
「綾城さんのアスカレ小説がまた読めるなんて!」
そう歓喜するファンの中から、「綾城さんの小説を読んでたらアスカレに再燃した」という人が現れるのに時間はかからなかった。基本的に読む専門である私は、二次創作についてはまったくの門外漢だけれど、綾城さんに感化されたらしい多くの人のあいだでアスカレが急速に普及していくのを誰よりも実感して見ていた。
それを受けてか、綾城さんもまたアスカレ小説の新作をぽつぽつと上げてくれるようになった。完結してしまっているジャンルでも、二次創作の余地はまだまだ残っているらしい。
虚崎さん、改め綾城さんのおかげで今日もツイッター上にはたくさんのアスカレ二次創作が生み出されている。それは素直に喜ばしく天にも昇るような僥倖で、だけど私にとってはやはり綾城さんのアスカレ小説がなにより光り輝いて見える。
綾城さんのホーム画面から自分のタイムラインに戻って、私はスマホを置いた。そろそろ、いま追っているアニメの放送時間だ。
今日の夜、綾城さんはまたアスカレの小説をアップしてくれるだろうか。
期待を胸にテレビをつけた私は、この後に起こる事件を知る由もなかった。
アニメの視聴を終えて、荷物の整理や夕食、お風呂も済ませてしまう。
課題を少し進めて余った今日の残り時間。夜は二十三時の少し前で、私はベッドに腰かけていそいそとツイッターを開いた。今日一日でブクマしたいくつかのアスカレ小説に目を通す。どれも、書き手の愛が伝わってくる素敵な作品ばかりだった。
ついで、夜以降に新規で呟かれている作品はないかとタイムラインをスクロールする。運が良ければ綾城さんが新作を上げてくれているかもしれない。
祈るように新着ツイートを見ていくと、五分前のタイミングで綾城さんがアスカレ小説をアップしていた。表示されている文字数は九千字弱。寝る前のひとときにぴったりの文章量だ。とはいえ明日は午後からの授業のみなので、多少の夜更かしも許される。
私は、高揚する胸を押さえて静かに深呼吸した。まるで聖書でも読むかの如く神妙な気持ちで本文を開くと、一行目から綾城さんらしい繊細かつ破壊力の高い文章が飛び込んできた。
これまでに読んできたどんな小説よりも、じっくり時間をかけて読み込んでいく。そうして丁寧に、丹念に文字を――綾城さんの紡いだ物語を読み終わったとき、どこか切なくも心温まる読後感だけが満ちていくのを感じた。
やっぱり綾城さんは天才だ。その一言だけで説明するのが憚られるほど才に溢れた、きっとこの世の誰とも違っている比類なき存在。そんな神の手によって描かれた物語を読了し、私は感謝に手を合わせてスマホへ首を垂れる。もはや宗教の域だ。
それから、この感動を綾城さん本人へ伝えるべくリプ欄を開いた。読み専アカウントであまり直接のやり取りはしないタイプだったけれど、綾城さんとはイベント会場でお会いしたこともあって幾分か気軽にリプライをすることができる。綾城さんはいつも、短文ながら心のこもった返信をくれて、そういうところもまた神字書き以前に人として好感を抱く要因だった。
私は表現や言い回しに悩みながら、感じたことを精一杯、言葉にする。
『今回の作品もすごく素敵でした! いつも格好良い三木くんの少し弱ったところ、けれど仲間との絆を信じて前を向くところが彼の力強さを感じさせて、とても最高でした!』
読み返すと、自分の語彙力や文章の稚拙さにわずかばかり引け目を感じないでもない。綾城さんどころか小学生レベルのコメントだと自分でも思ってしまう。
それでも感想を伝えることが私なりの感謝の表現方法だ。私は「えいっ」と自分を鼓舞して送信ボタンを押した。数秒の間が空き、綾城さんの呟きに私の返信がぱっと表示される。
なんとなく落ち着かない心地でベッドに潜りこみ、掛け布団の端を口元まで引き寄せる。すると、リプを送ってから数分程度で通知音が鳴った。
今日はいつにもまして返信が早い、ちょうどタイムラインを見ていたところだったんだろうか? そう思いながら再度ツイッターを開き、届いた通知を確認する。
しかしそこにあったのは予想だにしないコメントで、私は絶句した。
『無産のくせして書き手にすり寄るのやめてください』
「……えっ」
明確な悪意をもって書き込まれたリプライ。それは綾城さんの呟きにコメントした私への返信で、送り主は初期アイコンにシンプルなニックネームの誰かだった。きっと、私と同じロム専だろう。無産とは言うまでもなく、私のように自分では小説や絵を生み出さず、人の二次創作を見るだけの存在のことだ。
冷たく刺々しい、毒気に満ちたリプにフリーズしていると、ダイレクトメッセージの方にも新たな通知マークがついた。このリプの送り主だろうか。予感して、恐怖で体が硬く強張ってしまう。
恐る恐る見に行くと、それは他でもない綾城さんからのメッセージだった。
『夜分に失礼します。なんだか不穏なリプライを送られていたようで……どうか気にしないでくださいね』
『私はいつも、イクラ丼さんからの感想が励みになっていますから』
短いメッセージを通して、まるで綾城さんの困り気な表情が見えるかのようなメッセージ。
心配してもらえたことが嬉しく、また同時に申し訳なく思えて、私は急いで返信を作成した。
『メッセージありがとうございます! ちょっとびっくりしましたが、全然大丈夫です。気にしないようにしますね』
ついでに『とりあえずブロックで対応しておきます!』とも書き添えて送信ボタンを押す。
すぐに既読がつき、綾城さんの側でメッセージ入力中の表示が浮かんだり消えたりし始めた。いろいろと言葉を選びながら、返信を考えてくれているんだろう。心遣いが沁みて、綾城さんに余計な手間を取らせる原因となった悪質なリプを送ってきた人への怒りがにじむ。
数分後。綾城さんから送られてきたメッセージを読み、私は無意識に首を傾げていた。
それは、今度のイベントに私も参加するのかという質問だった。
『もちろん買う側でですが、参加する予定です! 綾城さんの作品、楽しみにしています!』
綾城さんがサークル参加することは知っているので、簡潔に答えて返事を待つ。
次の返信はさほど待たずに訪れた。
『では、イベントが終わった後に少し時間をいただけないでしょうか? 一緒に行きたいところがあるのですが……』
思いがけない誘いに、つい間抜けな声が漏れてしまう。
「え、えっ?」
あの綾城さんが、よりによって私なんかと一緒に行きたいところ? 私と綾城さんはアスカレ関連での繋がりだから、コラボカフェや公式イベントの類ではないだろう。カラオケ……というのも、今の関係性では考えにくい。
そもそもイベントが終わった後ということは、書き手さんたちがよく言っているアフターというものだろうか。字書きでも絵描きでもない私が、綾城さんとアフター……?
混乱して返事が遅れてしまった私に、綾城さんからのメッセージが追加される。
『いきなりすみません、本当に都合がつけばで良いので』
こちらの返答がないせいで不安にさせてしまったらしい。私は慌てて、多少なりとも気後れしながら了解の意を返した。
話はとんとん拍子に進み、当日、イベントが終わってから会場近くの駅で待ち合わせる約束をする。
メッセージでのやり取りを終えて、私は半ば放心状態でスマホを見つめた。
「え……ええ?」
いつも通り綾城さんへの感想をしたためたところ、なにやら攻撃的なアカウントに絡まれて。綾城さんからフォローのダイレクトメッセージが来たと喜べば、彼女の提案でイベント後に出かけることが決まった。事実を言葉にしてみるとじつにシンプルだけど、当事者の私としてはジェットコースターにでも乗せられたかのような急転直下の展開だ。
感情を激しくかき乱され、一人の部屋で天井を仰ぐ。スマホの通知音はもう鳴らず、私はベッドへ仰向けに寝転がった。
他者から初めて向けられた害意と、なにか考えている様子の綾城さん。
思いを馳せても落ち着かず、それほど夜更かしするつもりもなかったのに、頭が冴えて寝付けないまま夜は更けていった。
時間はあれよあれよという間に過ぎていき、イベント当日の朝。結局どうにも心中穏やかでいられなかったが、最低限の睡眠時間だけは確保して会場へと向かう。
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