秘密の花が咲く午後に


 綾城が数日前からマロを設置していること、及び届いたメッセージに逐一返信していることを七瀬は当然に把握していた。本人には内緒で、いちファンとして匿名でラブコールを送ったこともある。
 けれど、まさか設置から日の浅いうちに悩みができていたとは知らなかった。顔を曇らせた七瀬に、綾城が慌てて言葉を付け足した。
「べつに、悪意のある内容ではないのですが。……私の好きな作品を紹介したツイートに、いろいろと気になる引用リツイートがついていまして」
 溜息をこぼす綾城。どうやら毒マロをもらったわけではないらしいが、それにしてはわかりやすく落ち込んでいる。
「綾城さんの好きな作品……小説とか漫画、映画を教えてくださいってマロですか?」
 七瀬の問いに、綾城は深く首肯した。そして事の詳細を自身の口で説明する。
「私の好きな作品を同じように好きな方が、引用リツイートで反応してくれているんですが……私の感想を引き合いに、『自分の感じたことが言語化されてる』と言っているのが、どうも気になって」
「ええと。自分の感想に乗っかられるのが嫌、ってことですか?」
 穏当な表現を見つけられず、直球に訊き返す七瀬。
 綾城は気を悪くした様子もなく、より適切な言葉に直して言った。
「……同じ作品を見て同じように感動したとしても、鑑賞者が違う人間である以上、まったく同じ感想を抱くことはありえないと思うんです。私に他人の気持ちはわかりませんから、他人が持った感想の言語化や代弁なんてできるはずもありません」
 真剣な目に隠しきれない憂いを帯びて、それでも綾城はきっぱりと言い切った。毅然とした眼光の凛々しさに、七瀬は危うく状況も忘れて惚れ直しそうになる。
 それには気づかず、綾城は滔々と言葉を重ねていく。
「こんなことを言うのは、傲慢かもしれませんが……私の感想に共感してくれた誰かが、いずれ自分自身の感性や言葉を軽んじてしまうのでは、と。自分の感情を深掘りすることなく、わかりやすくまとめられた『綾城の感想』を『自分の感想』だと思い違ってしまうんじゃないかと不安になるんです」
 余計なお世話かもしれませんが。
 呟いて一旦、区切りをつけ、紅茶を一息に飲み終える綾城。底の見えたカップから立つ優しい残り香に、彼女は眉間のしわをふっと緩めて曖昧に濁す。
「すみません、暗い話題でしたね。もっと楽しい話をしましょうか」
 わざとらしいほど意識して明るくカップを置く綾城に、けれども七瀬は少しのあいだ押し黙ってしまった。
 ケーキを一口、咀嚼しながら、目線はケーキでも綾城でもなく虚空を見つめている。いつになく真面目くさった面持ちの彼女は、しばしの黙考を挟んでごくりとケーキを嚥下する。
 ややあって、彼女は綾城に負けず真剣な眼差しで、ナプキンで口元を拭いながら口を開いた。
「たしかに、自分の意見や感想に丸ごと『わかる!』って言われちゃうと、なんか複雑というか……単純に嬉しいだけじゃないもやもやがありますよね」
 まず綾城の悩みの肯定から入り、そして七瀬はバツが悪いような顔で苦笑する。彼女は、カップのお茶に映る自分の顔を見ながら言葉を続けた。
「でも私、そういう人の気持ちもちょっとわかるんです。疲れてるときとか、他人の感想や考察を読んで満足しちゃうこともあるし……自分じゃ上手く言い表せない感動や衝撃を、自分と似た感覚の人がわかりやすくまとめてくれてたりすると、やっぱり『わかるわかる』って赤べこみたいになっちゃうし」
 冗談めかして頬をかく七瀬。綾城も少し笑って、席の近くにきた店員を呼び止め紅茶のおかわりを注いでもらう。
 宝石めいて輝くルビー色の紅茶に、綾城の不安げな顔が映る。かぐわしい香りにカップへ口づけて、あまり浅くない溜息を漏らした。
「……自覚があるなら、いいと思うんですけどね。こういうことは、どう伝えても角が立ちそうで」
 吐いた息が紅茶の表面を揺らし、淡い香りのさざ波を立てる。映る綾城の顔も震えて、彼女は再度、自分でも考えをまとめるようにこぼした。
「怒ってるとか、嫌とかいうわけではないんです。ただ、私の感想で誰か……その人自身の感じたものが、その人も気づかないうちに上書きされてしまいそうな感じがあって……それはとても勿体ないことですから」
 呟きは寂しげな雰囲気を醸していた。
 七瀬は、沈痛な面持ちで目を伏せる綾城を見て少しだけ口元を緩めていた。綾城本人は無自覚なようだが、彼女の誠実な人柄は、創作への姿勢や生み出される作品そのものにもよく現れている。
 繊細で、ときに不器用とすら思えるくらいに真摯で。綾城の人間性はどんなものにも変わらない正直さがあって、それが七瀬はたまらなく好きだった。
「……綾城さんのそういうところ、私はすごく好きです」
 口から出た言葉が綾城に届き、彼女は一拍、目を見開いて硬直する。
 それからなにか言おうとするように目を泳がせ、
「あ、ありがとうございます……?」
 小首を傾げながら、気恥ずかしそうに紅茶をすすった。
 突発的な愛情の念を伝え、七瀬も自分で行動しておきながら頬が紅潮するのを感じた。熱をごまかすようにケーキを食べ、最後の一口まで綺麗にたいらげる。
 天気の良い午後。気を抜くとうっかりうたた寝でもしてしまいそうな、牧歌的な空気が流れている。
 こんなに幸せな休日は久しぶりだ。綾城も、日頃の悩みを少しでも忘れられたらいいのだが。
 わかりもしない綾城の胸中を思った瞬間、七瀬の脳裏にふとアイデアが降ってきた。
「……いっそ、『他人の感想を読んでみたい』と呟くのはどうでしょう?」
 前置きもなく提案する七瀬に、綾城が虚を突かれた表情で反芻する。
「他人の感想、ですか?」
「はい。それなら綾城さんも好きなように語れるし、それを読んだ人も『その人だからこその感想』を教えてくれると思うんです」
 意気揚々と述べる七瀬は、「そうやって、より多くの人で感想交換ができたら楽しそうですよね!」と期待に胸を膨らませた。
 綾城は、目を丸くしたまま数度まばたきを繰り返して、ゆっくりと頷いた。
「なるほど……私一人では考えつきもしませんでした」
 基本的に受け身であることの多い彼女は、どちらかというと能動的でフットワークの軽い七瀬の発想に素直な称賛と感謝の言葉を贈る。
「ありがとうございます。さすが七瀬さんですね」
 飾らない言葉で真っ向から褒められて、七瀬は照れ笑いしながらも首を振った。
「いえ、そんなたいそうなことじゃ……」
 謙遜を途中でやめ、彼女もまた新たな気づきを得たというように拳を握る。
「他人の考え方や感じ方を深く知ることで、創作にも活かせるといいですよね」
「! ……そうですね」
 綾城とは違ったアプローチでの積極性に前向きさ。そして創作に対する良い意味での貪欲さ。
 それらは『神字書き』と持てはやされる綾城から見ても眩しいほどの、創作者としての資質で、間違いなく綾城が七瀬を敬愛する理由のひとつだった。
「七瀬さん」
 かしこまった風に七瀬を呼ぶ綾城。七瀬が、「どうしました?」とにこやかに返す。
 綾城は、ひと呼吸の間を置いて笑みを見せた。
「七瀬さんのそういうところ、私もすごく大好きです」
「!?」
 告げると、七瀬は一瞬で耳の先まで真っ赤になった。あまりのわかりやすさに、綾城はつい軽く吹き出してしまう。
 しかしなるほど、これは伝える側もなかなか面映ゆいものだ。綾城は頬に手をやりながら言葉を連ねた。
「……今日の映画。夜には感想ツイートしてしまいますか?」
 問われ、七瀬は火照った顔を抑えながら首肯した。
「は、はい。せっかくですから早めに……」
 言って荷物からメモ帳を取り出し、「上手くまとめきれるかな」とペンの蓋を外す。
 その手を、綾城の手が静かに押しとどめた。
 驚いた顔の七瀬に、綾城は目元を赤く染めながら語りかける。
「こんなことを言うのは、自分でもどうかと思いますが……」
 上品な色香を放つ彼女の唇から、甘い紅茶の香りが漂ってくる。
 綾城は、恥じらう乙女の如くはにかんだ。
「初めて二人きりで見た映画なので、他の人に教えてしまうのは少し惜しい気もするんです」
 ささやかれ、七瀬もつられてふにゃりと眉を下げる。甘酸っぱい照れと、形容しがたいいじらしさが胸に迫ってくる。
 七瀬はメモ帳を閉じて、綾城の手を握り返す。
「……じゃあ、しばらくは私たちだけの感想交換会ですね」
 綾城もぱっと華やかな光を目に灯し、二人はしばし秘密の歓談に花を咲かせた。
 いろいろな人の感想を知りたいのも本当だが、いまこのときは互いの声だけを聴いていたい。
 どちらか述べることもない想いは、しっかりと二人の胸に通じ合い、時間は緩やかに過ぎていった。

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