秘密の花が咲く午後に


 時刻は二十三時を回っていた。
 室内には無機質なタイピング音だけが響いている。ほとんど途切れることなく、機械的なまでに一定のリズムを崩すことなく文字が紡がれる。
 パソコン画面を見つめる女性。綾城は静かに指先だけを動かしていた。
 二十分ほど経って、彼女はようやく手を止めた。マウスホイールに指を滑らせ、最初のページに戻って誤字脱字がないかのチェックをする。執筆に三十分弱、推敲に約五分程度の時間と労力をかけて、データ保存のボタンを押す。
 ぎし、と椅子の軋む音を立てて、綾城は大きく両腕を突き上げた。「んん……」実家の猫を思い出しながら背筋を反らし、我知らず声が漏れる。吐いた息は充足感に満ちていた。
 書き上げたのは、現在活動しているジャンル『金スト』のGくん視点の短編だった。話自体は昨日の朝に思いついたのだが、昨夜は思いがけず忙しくなってしまい、日を跨いでの完成となった。
 無事に仕上げられて良かったと思いつつ、本文をコピーしてプライベーターに貼り付けておく。もう遅い時間なので、P支部の方も合わせて投稿は明日することにした。
 文書作成ソフトとプライベーターのサイトを閉じて、綾城はブックマークからSNSを開いた。
 世間一般では「夜更かし」とされる時間帯だが、いかんせんオタクは夜行性が多い。タイムラインはまだ人の気配がして、相互たちの最新ツイートがぽつぽつと表示されている。
 綾城のアカウントには、一時間弱ほど目を離していたあいだに数件の通知が届いていた。
『ハコさん、他5人があなたのツイートをいいねしました』
『すずかさん、他3人があなたのツイートをリツイートしました』
 反応があったのは、どれも昨夜に返したマロの呟きだった。
 マロとは、匿名でメッセージを送り、受け取ることのできるサービスだ。作品への感想、または質問などでフォロワーたちと交流できたらと思って試験的に置いてみたものだが、有り難くも予想以上に様々なメッセージを貰うことができた。
 確認したいまも新しい質問が来ていて、綾城は訊かれた内容に沿って執筆にかける時間の目安を返信する。顔も名前もわからない相手とのやりとりだが、好意のキャッチボールは想像よりずっと楽しかった。
 これまでに受け取った質問のひとつ。『好きな作品をいっぱい教えてほしい』というメッセージに、昨晩の綾城は張り切って熱のこもった答えを返した。
 映画ならば邦画・洋画それぞれに、有名どころからマイナーまで、まさに古今東西の作品を上げた。
 小説や漫画も語れば語るほど芋づる式にいくつもの名作が思い浮かんで、まとめるのに随分と時間を要してしまった。
 その甲斐あってか、ツイートには想定よりも多くの反応があった。
 引用リツイートで反応してくれている人たちの呟きが、綾城の通知欄にいくつも表示されている。
『わかる、この映画はマジで傑作。絶対ネタバレ踏まずに観てほしい』
『学生時代めちゃくちゃ好きだった小説! オタクの教科書!!』
 鍵の掛かっていないアカウントで、綾城のツイートを引用する形で呟かれる言葉たち。
 全体としてポジティブに拡散されているツイートを見つめ、綾城は好きな作品を共有できる喜びに頬を緩める。上げた作品を知らない人の『読んで(観て)みようかな〜』という呟きにも、是非是非と背中を押したくなるような嬉しさを感じた。
 数件の引用リツイートを、ひとつひとつじっくりと眺める綾城。今日は幸せな気持ちで眠れそうだと思う彼女だったが、通知を確認していた手が、不意にぴたりと止まる。
 黒々として見えるほどに、文字で埋め尽くされた一件の引用リツイート。長文をびっしり連ねた呟きは、金ストキャラアイコンのアカウントによるものだった。
 どうやら綾城が挙げた中に知っている作品が多いらしく、アカウントは高いテンションで絶賛の言葉を並べていた。
 綾城が作品それぞれに述べた感想の、そのほとんどに同意の言葉を示している。
『これこれこれ! 自分じゃ上手く言い表せなかったけど、やっぱり綾城さんの文章力と表現力は神!! 感じたこと全部言語化してもらえた最高!!』
『ずっと言葉に出来なかった感覚が見事に代弁されてる〜〜〜』
『解釈一致すぎるし、わかりやすくてしっくりくるうえに凄い刺さる! 言語能力えぐい助かる』
 良く言えば熱量の高い、逆に言うとやや暴走気味な引用リツイートは、綾城が語った感想への感嘆に満ち満ちている。感性や趣味嗜好が似ているのだろうか、文中にはやたらと『自分が感じたことを的確に表現してもらえた』と言わんばかりの言葉が溢れていた。
 一から十まで、作品の感想すべてを肯定し同調する美辞麗句の数々。恐らく悪気はないのだろうが、綾城は困惑の面持ちで呟きを見つめた。
「……」
 綾城の意見に、ともすると乗っかっているようにも見えてしまう賞賛リツイート。
 一字一句漏らさずに読み終えて、綾城は無意識に眉根を寄せていた。先ほどまでの笑顔はすっかり消えてしまっている。
 嫌悪や拒否感とはまた違う、ただどうにも受け入れがたい戸惑いばかりが胸を占める。
 静寂を、スマホのアラームが破った。もう就寝時間だ。
「ん……」
 綾城はスマホを手にベッドへ移動して、寝坊しないよう目覚ましをセットする。明日は大事な約束のある日だ。
 ベッドに潜りこみ、深呼吸して目を瞑る。
 消えることなく燻るもやもやした気持ちを、熱烈な引用リツイートよろしく「言語化」してみようかとも思ったが、さほどもたずに意識は深い眠りの底に落ちていった。

 翌日。
 大学の休講日に、綾城は恋人との約束で駅へ来ていた。平日の午後は人の姿もまばらで、好天に目を細めていると待ち人が駆けてきた。
「お、おはようございます! ……いや、もうこんにちはですね」
 苦笑いする彼女は、乱れた息を整えながら前髪に手をやった。照れくさそうな笑顔。頬は軽く上気している。
 綾城は、穏やかな微笑で向き直った。心なしか普段よりワントーン明るい声音で言う。
「こんにちは。よく晴れて気持ちがいいですね」
「こんなに天気がいいなら、もっとアクティブな予定の方が良かったですかね?」
 彼女、七瀬は上天気の空を見上げて肩をすくめたが、
「天気のいい日に、あえて屋内で楽しむのも贅沢ですよね」
 綾城がポジティブに笑いかけるだけで、「! それもそうですねっ」と目に見えて明るさを取り戻した。素直な態度が可愛らしく、綾城は自然と車道側に立って七瀬をエスコートするかのように一歩、踏み出す。
 七瀬は、その場に立ち止まったままで綾城に提案した。
「あの……手とか、繋いでみてもいいですか?」
「!」
 伏し目がちに、頬の赤みはさっきよりも強くなっている。遠慮と勇気がない混ぜになった顔は、「断る理由がない」というより「断りたくない」と思わせる健気さを宿していた。
 まるで七瀬の熱が伝播したかのように、綾城の頬も朱に染まった。数秒かけて息を呑む。
「……もちろん」
 綾城が微笑とともに差し出した手を、七瀬が喜色満面で握る。すらりとした綾城の左手に、七瀬の右手がぴったり収まった。
 のどかで平和な日常の街を、二人は目的地までのんびりした歩調で進むのだった。

 駅から徒歩十分と少し。信号をひとつ渡って辿り着いたのは、この付近でもっとも大きなショッピングセンターだった。食料品や衣服、雑貨はもちろん、ゲームセンターやレストランをも内包する大規模な商業施設だ。
 一階のカウンターを横切り、七瀬は自然に綾城から手を離してエスカレーターに乗った。やはり平日の真昼間、どの階も客より店員の方が多く見える。
 目当ての最上階に到着して、一気に非日常めいたフロアに降り立つ二人。
 壁に貼られたポスターの群れ。手前にはパンフレットの並ぶ棚が設置され、奥にはグッズ売り場が併設されている。カウンターのすぐそばに三台の券売機が佇んでいた。
 綾城も七瀬も、好奇心に満ちた眼差しでフロア一帯を見回した。
「映画館で観るのは久しぶりです」
 言って、正確には『館』じゃないなと脳内で訂正する綾城。
 上映まで若干の余裕があり、二人は壁一面に並ぶ宣伝ポスターを眺めて時間を調整する。頃合いを見計らってカウンターでチケットを購入し、ついでに各自ドリンクも買ってからシアタールームに向かった。
 薄暗い中で座席に着き、しばらくさまざまな映画の予告編を観る。すでにネットやテレビで話題になっているもの、映画好きだけが知っていそうな小規模の(けれど相応に面白そうな)もの。鑑賞にあたっての注意喚起の映像を挟み、いよいよ本編が始まった。
 二人が観に来たのは、とある社会人女性が主人公の話だった。存在感が薄く主張も弱い、周囲から振り回されるようにして生きている凡庸な女性。婚約者にさえ見放された彼女は、謎の男と知り合ったのをきっかけに新しい環境と風変わりな女性に出会う。
 それまで知らなかった世界で生きるうち、愛とはなにか、幸せとはどういうものかの問いに正面から向き合うこととなる「生き直し」の物語。
 あらすじだけを見るとベタな展開だが、脚本家でもある監督の独特な死生観や厭世的な雰囲気は観る者を否応なく虜にする力があった。それでいてたしかに希望を残していく結末には、純粋な感動だけが残る。よくある設定だからこそ作家性が色濃く描写されているとも言えた。
 三時間ジャストの上映。七瀬は二度ほどハンカチで目元を拭い、綾城も涙こそ見せなかったが集中して画面を見つめ続けていた。
 エンディングを最後まで見届けて、劇場内に明かりが点き始める。エンディングロールまできっちり堪能した客たちが、ぞろぞろと席を立っていく。
 人の動きが落ち着くまで少し待ち、二人も空になったコップと荷物を持ってシアタールームを後にした。

「いやー、本当に素敵な作品でしたね!」
 ショッピングセンターから、駅とは反対方向に徒歩五分。
 小ぢんまりしたカフェのテラス席で、七瀬は開口一番に声を弾ませた。瞳は星が散ったように輝き、興奮冷めやらぬ様子で握り拳まで作っている。
「やっぱりあの監督が撮る作品は、切ないけれど力強い生き様とか、儚さとたくましさが共存しているというか……最初は主人公のこと『気弱すぎる』なんて思ってたのが、終盤ではもう彼女のこと大好きになっちゃいました!」
 出されたお冷に目もくれず、文字通りのマシンガントークで盛り上がる七瀬。
 対面で物静かに微笑する綾城へ、はっと我に返って会話のバトンを渡す。
「あ、綾城さんはどうでしたか? なんとなく好きそうな作風だと思って選んだんですけど……」
 勢いが尻すぼみになった七瀬に、綾城が優しい表情で応じる。
「私も、とても面白かったです。映像も音楽も、いつまでも心に残り続けるような……折に触れて思い出したくなるような魅力がありました」
「ですよね! あの監督、映画を構築する要素の全部が素晴らしくハイセンスっていうか……小説版の執筆もされてるんですけど、文章も洗練されてて。ときどき差し込まれる一見、無駄な場面も、全体を俯瞰して見ると不必要なところなんてないってわかるんですよね」
 またしても機関銃の如くまくし立てる七瀬の隣。
 二人の注文した軽食をトレーに載せた店員が、くすくすと忍び笑いを漏らしていた。
 たちまち赤面した七瀬に代わって、綾城が品々を受け取りテーブルに移動させる。
「美味しそうですね」
 マイペースに食器を手に取る彼女に、七瀬もヒートアップした頭脳を冷ますべく注文のお茶を一口飲んだ。
「すみません。好きな作品のことになると、つい……」
「いえ。七瀬さんは心の底から生き生きと語ってくれるので、こちらも聴いてて楽しいです」
 嫌味のない爽やかな物言いで返す綾城。七瀬は安堵の息を吐きつつ、お喋りな口を自ら封じるようにケーキへフォークを伸ばす。
 綾城は切り分けたタルトを食べながら言う。
「初めて観る監督さんでしたが、言葉選びや台詞回しが秀逸でしたね。……大事な場面ほど短い台詞で核を刻みつけてくるみたいで、役者さんたちの演技も相まってあの世界に引き込まれてしまいそうな」
 丁寧に感想を述べ、紅茶で唇を湿らせる。
 七瀬もフォークを持つ手を止めて頷いていた。
「長々と語らないから、説教臭さがなくて受け入れやすいんですよね。本当に大切なことだけ、ぎゅっとまとめていて。だから、弱さとか汚い部分も淡々と『事実』として受け止められるというか。物悲しさはあっても、過剰な悲壮感がなくて前向きな印象というか」
「そうですね。あまり背景や状況を説明しすぎないところも、観ている人の感性に任せる……もっと言うと『観客を信頼している』風に思えて好ましかったです」
 二人は交互に意見を交わし、各々の感覚をもとにして話を続ける。
 両者とも感想の大半が作品や監督への褒め言葉の類だったが、同じ映画について語っていても、不思議と賞賛の言葉が被ることはなかった。
 感動を新鮮なうちに言い表しておきたい。せっかくのケーキもそこそこに、身振り手振りを交えて作品を振り返る七瀬。綾城が少しだけ眉尻を下げて笑う。
「? ……どうかしましたか?」
 小首を傾げる七瀬に、綾城は苦笑いで言った。
「すみません。七瀬さんは、ちゃんと自分の言葉で表現してくれるので嬉しくて」
 意味深な答え。
 七瀬は台詞の意図を掴みかねて戸惑いを見せる。
「……と言いますと?」
 綾城は、浮かない面持ちでわずかに下を向いた。食べかけのタルトを見つめ、なんと言ったものか迷うそぶりで目を泳がせる。
 ややあって、彼女は結局ストレートに物思いの種を吐露した。

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