0001:フシギダネ
知らない名前のアカウント。でもアイコンにははっきりと見覚えがあった。うちで過ごしている、あのフシギダネだ。
メッセージと、アカウントの自己紹介欄、そしてアカウント自体のポケットは「迷いフシギダネ」を探す内容で溢れていた。
「父さん、」
オレは、とっさに父さんへメッセージを見せた。
父さんの驚いた表情と、リビングから駆けてきた母さんと。それからのことは、すりガラス越しの風景みたいにぼやけている。
ただ事態は思った以上のスピードで急展開して、あれよあれよというまに、アカウントの主がオレたちの家までやってくることになった。
気付くとフシギダネがツルで玄関扉を叩く音がして、オレは慌てて玄関に出た。
「ごめん、寒かったか?」
言いながら外に出る。冷たい風が頬に触れ、雪が降っているわけでもないのに、なぜかひどく寒々しい感じがした。
フシギダネは、どことなくいつもと違う顔でオレを見ていた。もどかしそうな、なにかいいたいことがありそうな複雑な眼差しだ。もしかすると、自分のトレーナーが見つかりそうなことを悟ったのかもしれない。
ふと、オレはそれ以外にもフシギダネの雰囲気が変わっていることに気付いた。心なしか背中のタネが一回り大きくなっているような。
「え、運動不足で太った?」
「ダネッ!」
まるでオレの言葉を理解したように、フシギダネの容赦ないツルのムチが飛ぶ。
軽く頬を叩かれたオレは、「ごめんごめん」とフシギダネを抱き上げて家の中へ回収した。よりによってこれからトレーナー(だと思われる人)が来ると言うのに、まさか病気だったりはしないだろうな……フシギダネをリビングで下ろして、改めてスマホを出す。
そのとき、我が家のインターホンが鳴った。
父さんと母さんが出る気配がして、知らない大人の声が聞こえた。
「種村さんのお宅でしょうか?」
「はい、フシギダネについての……?」
「そうです」
母さんの余所行きの声が、知らない大人を家に招き入れる。
オレは、玄関まで出ることなくフシギダネを撫でた。けれどフシギダネは、ぱぁっと花の咲いたような笑顔で玄関まで歩き出した。
リビングの扉を開けてやり、フシギダネについて玄関へ向かう。いつもの散歩と立場が逆だ。玄関には、大人の女性とオレと同い年くらいの男の子がいた。
「ダネダ!」
男の子が叫び、フシギダネは迷いなく彼の腕に吸い込まれていく。
ダネダ、というのが本当のニックネームだったらしい。フシギン、と心の中で呼んでみても、フシギダネはオレの方を振り返らなかった。
男の子は、大人の女性と一緒に何度か頭を下げてお礼の言葉を言った。父さんはオレの頭をわしわしと撫でまわして「見つけたのは息子で」「散歩なんかも連れて行って」と二人に説明していたが、それで二人から感謝の視線を向けられるのさえわずらわしかった。
フシギダネは、うちにいたときには見せなかった笑顔で帰っていった。出会ったときと同じか、それ以上の唐突さだった。
夜になって、夕食後に母さんが煎餅缶を出してきた。今日の男の子と女性が、手土産に持ってきたお礼の品らしい。『ホウエンせんべい』とパッケージされた缶には、初めて目にする煎餅がぎっしり詰まっていた。
煎餅の中でいちばん好きな、黒豆入りのものを一枚、取って食べる。美味しいけれど、心に空いた穴は埋まらなかった。
「モット、モット」
パーモットが、ぐいぐいといろんな種類の煎餅を押し付けてくる。
母さんは普段よりずっと優しい声で言った。
「友紀も、ポケモンお迎えしようか?」
「……いい」
そっけなく返すと、母さんは少し寂しそうな、困ったような顔をした。でも、父さんはなにも言わずにただ微笑んでいた。
結局、煎餅は一枚だけ食べて早々に部屋へ戻る。フシギダネは、たった二週間のあいだだけどオレのベッド脇で寝ていた。カーテンを開けて朝日を入れると、一日のうちでいちばん機嫌よく目を細めていた。
明日からは、もうそれを見ることはできないんだ。自覚した途端、別れてから初めての涙がこぼれた。
人生最大の寂しさに襲われても、日常をやめるわけにはいかない。
学校へ行って、ときどき家の農作業を手伝って。日々を過ごすうち、いつのまにかフシギダネが去ってからちょうど一週間が経っていた。
「じゃあ、畑行ってくる」
あの日の朝ほど早くはない時間に、そう母さんへ声をかけて家を出る。今日は家の手伝いをする日ではなかったけど、散歩の日課はフシギダネがいなくなってからも続いていた。
すっかり日の昇った集落を、一人で歩く。「ほら、こっちだぞ」と声をかける相手がいない寂しさを知ってから、まだ一週間。長く短かった日々を懐かしみながら畑に向かう。
道中。橋を渡る直前、オレはその向こうから一人の影が近づいてくるのに気付いた。集落に来る人はだいたいが車かバスで、歩きでこの辺りを訪れるなんてかなり珍しい。目を凝らすと、影のそばにはもうひとつ、小さなかたまりみたいな影もあった。
かたまりは、長いツルで一人の手を引いている。なんだか道案内をしているようだ。
「……!」
ふたつの影が橋のたもとに辿り着き、ぼんやりしていた輪郭が鮮明に姿を見せる。
かたまりが緑色の生き物であること――あのフシギダネだと気づいて、オレは目を見張った。
「もう、なんだよダネダ…………あ、」
フシギダネのツルで手を引かれている影、あの日きた男の子もオレに気付いて足を止める。
オレたちは、しばし橋を挟んで互いの顔を凝視していた。
「ダァネ!」
やけにご機嫌なフシギダネの声が、静寂の場で元気よく弾んでいた。
フシギダネの本来のトレーナーである男の子は、伏木春樹という名前だった。うちに来たとき挨拶で聞いた気もするが、ちゃんと認識して覚えたのはいまが初めてだ。黒髪眼鏡で、いかにも真面目そうな印象だ。
春樹は、気まずげに視線を逸らしながら口を開いた。
「なんか、こいつに引っ張られていつもの散歩コースからどんどん外れてって」
不安そうな様子に、こっちとしても複雑な心境だけど、どうにか会話を繋ぐ。
「春樹ん家って、どの辺?」
「ここから歩いて三十分くらいの、商店街からちょっと離れたところの団地……」
「あー、あそこか。目の前が海で、おっきい公園がある」
「そう、そこ。遊具はあんまりないけど」
春樹はやっぱり近くに住んでいたらしく、きちんと話を聞いてみると大人しいながらもわりと話しやすかった。フシギダネは、散歩の途中で勝手にいなくなったのが失踪の発端らしい。
「散歩コース、こっちの方が楽しいって覚えちゃったのかな」
眼鏡越しにフシギダネを軽くにらむ春樹。優等生めいた雰囲気が少し崩れて、ギャップが妙なおかしみを出している。
「また脱走してこっちに来たら、すぐ教えるよ。DMそのまま残してるし」
「あ、本当? ……ありがとう」
オレがスマホを出して言うと、春樹はぎこちなく頷いた。
なんだか同年代にしてはぎくしゃくしている気もするが、オレたちの先を歩くフシギダネはこっちのことなんか微塵も気にしていない。足取りにつられてついていくうち、オレたちは集落の中、オレの家に着いていた。
「? うちじゃん」
玄関先に掲げられた『種村』の表札を見て、オレはフシギダネに視線を移す。
他人の敷地に入っている後ろめたさからか、春樹は居心地悪そうにフシギダネのツルを引いた。
「もう満足しただろ。ほら、帰るよ」
だけど、フシギダネはうちの玄関脇に座り込んで全身を丸くした。そこは、うちでいちばん日当たりの良い日光浴ポイントだった。
フシギダネの背負っているタネは、最後に見たときよりずいぶん大きくなっていた。
「そういえば、これって病気じゃないのか?」
解消し忘れていた疑問を思い出し、春樹に問いかける。
背中のタネが日増しに大きくなっていたことを言うと、春樹は「ああ」と、どこか嬉しそうに答えた。
「フシギダネのタネは、活動に必要な栄養とエネルギーが詰まってるんだよ。成長に伴ってどんどん大きくなるんだ」
「へー……そうだったのか」
眼鏡を光らせて解説する春樹に、たいして知識もないオレは間抜けな声で頷いた。
なにはともあれ、病気とかじゃなくて良かった。胸を撫で下ろしたところで、フシギダネが再び鳴いた。
「ダネ、ダァネ」
まるで、オレたちに見ていてほしいと呼びかけているみたいだ。
吸い寄せられるように、フシギダネから視線を逸らすことができなくなる。オレたち二人の目の前で、フシギダネの全身がまばゆい光に包まれていく。辺り一帯がきらきら輝いて、フシギダネのシルエットが変わっていくのがわかった。
隣で、春樹が静かに呟くのが聞こえた。
「進化だ」
台詞と同時に、光は急速に落ち着いた。
そこには、青緑の体色に幅広の葉を広げたポケモンが立っていた。葉っぱの中心には巨大なピンクの蕾が現れて、深紅の両目は凛々しく精悍な眼差しに変化している。
春樹は、思わずといった様子でガッツポーズをとった。
「やった! 進化おめでとう、ダネダ!」
尋常でない喜びように、どうしたって踏み入ることのできない絆の強さがにじんでいる。フシギダネも誇らしげに春樹へすり寄って、そうしてなぜか、オレの方にもツルを伸ばしてきた。
「……ダネッ」
「えっ、ちょっと……うわっ!」
伸びてきたツルに手を取られ、転びそうになって慌てて体勢を整える。結果としてフシギダネへ抱き着くような姿勢になり、だけどフシギダネは満足げに笑っていた。
どういうことかわからなくて、とっさに春樹へ視線を投げる。春樹も驚いた顔でオレたちを見ていたけど、やや間を置いて苦笑いで頬をかいた。
「本当は、うちにもフシギダネ用の日光浴場があるんだけど……ダネダは、君にも進化するところを見てほしかったのかな」
台詞の直後、フシギダネは同意を示すかのように「ダァネ」と鳴いた。
あまりに無邪気な視線を向けられて、胸の奥がきゅっと締まる。震えるくらいの幸福が、胸いっぱいに込み上げてくる。
「フシギン~……!!」
言葉にならない万感の思いで叫ぶ。
フシギダネは、「ダァネッ」と力強くツルを天に伸ばした。
「ダネダのこと、フシギンって呼んでくれてたんだ」
一連の出来事が落ち着いて、春樹がいまさらのように笑う。鮮やかな蕾を持った相棒に目を向けて、彼は突然に真面目くさった面持ちになった。
「進化してフシギソウになったから、ダネダってニックネーム、合わない気がするんだよね。うちでもフシギンって呼ぼうかな……あいたっ」
冗談とも本気ともつかない台詞に、フシギダネ――改めフシギソウがツルのムチでツッコミを入れる。オレがフシギンと呼ぶのは良いらしいが、春樹にはダネダと呼ばれるままでいたいらしい。
オレは、春樹と相互フォロワーになったばかりのポケッターを閉じてスマホをポケットにしまった。
「オレも、これから相棒ポケモン探すよ」
「! ……楽しみにしてる」
口角を上げる春樹に、フシギソウも四枚の葉を上機嫌で揺らす。
今日は父さんに言って、町まで車を出してもらおう。そしてオレだけのポケモンを、自分の手で迎えよう。清々しいほどまっすぐ決まって、オレは我知らず満面の笑みを浮かべていた。
冬の青空は抜けるように晴れて、オレたちを眩しい日差しで照らしている。
これからの出会いが最高のものであることを予感して、オレの心臓は、まだ見ぬ相棒に高鳴っていた。
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