雨の文字書きワードパレット


 雨は、波の音よりも静かに力強く響いていた。
 二つに分けてまとめられたカーテン。窓の向こうには、青い海原が広がっている。私の家は、海沿いにたたずむ一軒家だ。周囲に他の家や店などはなく、近くの商店街まで車でも十五分はかかる。商店街と反対の方向には、人口二百人程度の小さな集落があった
 そんな私の家に、毎日のように通うクラスメートがいた。同じ高校の級友……と言っても、はたして本当に級友と呼んでいいものか迷いが残る。私は、高校に入学してから一度も教室に行っていないから。
 今日も、家の前で自転車の停まる音がした。冷たい窓ガラスに額を押し当てて下を見る。青いレインコートを着た少女が見えたのと同時に、インターホンの音が軽やかに鳴った。
「はーい」
 母さんが出るより先に、私は声を張って自分の存在をアピールしながら階下へ向かった。明るい照明に照らされた階段を、とたとたと軽快に降りていく。引きこもり、不登校というイメージとはそぐわないなと、自分でも毎朝滑稽に思うルーティンだ。
 彼女は青いレインコートのフードを外し、今朝も爽やかな笑顔で玄関に立っていた。色白な肌と真っ黒な髪は、ほんのわずかに濡れている。コートの胸元や腰回り、フード部分には白い反射材が付いていて、水滴できらきらと光っていた。
「おはよ。ちゃんと起きとったー?」
 無邪気な笑みで訊ねる彼女に、私も気楽な声で応えた。
「起きとったよ。戸田さん来るの、上から見とった」
「ストーカーじゃん。やば、愛されてる」
「通ってきてるのはそっちでしょ」
 中身のない軽口を叩きながら、私はサンダルに足を入れて玄関先の傘を手に取った。戸田さんが玄関の扉に手をかけて、私たちは雨の降る道路へと足を踏み出した。
 戸田さんは自転車をうちの駐車場に停めていた。見慣れたオレンジ色の車体が、雨に打たれてどこか寂しげに見える。
「びしょ濡れね」
「塩が洗い流されて、ちょうどいいんじゃん?」
 方言丸出しのイントネーションで交わし、私たちは自転車を横目に海へ向かう。国道に沿って長く延びる防潮堤の階段を上り、濡れた足元で滑らないように気をつけながら、砂浜を目指して慎重に降りる。防潮堤の海側、階段の脇には消波ブロックが積んであって、いま流行りの、連撃の巨人という漫画に出てくる壁を思わせた。
「てか、雨の日でも泳ぐとか、どんだけ海好きなん?」
 私が呆れながら言うと、戸田さんは照れ笑いしながらレインコートごと制服を脱いだ。私は彼女に渡された制服を丸めて、防潮堤の下、消波ブロックの途切れた区画の流木の手前に腰を下ろす。堤防が屋根になっているので、多少の雨ならば濡れずに済む位置だ。
「雨の日の海も、けっこういいよ。さすがに冬だと死ぬと思うけど」
 制服を脱いだ戸田さんは、私服のTシャツに短パン姿で海を見ていた。私もつられて海を見る。それこそ生まれたときから見続けている、小さくて広い海原は、まだ薄暗い早朝で静謐に凪いでいた。
「冬はさ、どうすんの」
 海を眺めながら問うと、戸田さんは少し悩んだ顔で「んー……」と顎に手を当てた。「どうしよっかな。まあ、まだ四月じゃん」「もうそろそろ五月だけど」「あんまり変わんないよ」再び内容の薄い会話をして、戸田さんは「とりあえず行ってくるね」と海の方へ歩き出した。
「晩ご飯までには、帰ってくるのよー」
 漫画やドラマでありがちなセリフを、冗談交じりに背中へ投げると、彼女は笑いながら振り返った。「ふやけるっつーの」そしてすぐに海原へ向き直り、まっすぐな足取りで一歩ずつ海へと近づいていく。
 その後ろ姿を見送って、私は丸めた彼女の制服を抱きしめるように、体操座りした両膝に顔を埋めた。流木に腰を預けた状態で胎児のポーズをとり、海から漂う潮の匂いと、雨の気配を感じる。昨日の夜には降っていなかったはずの小雨は、音もなく砂浜に染みこんでいた。いつもと違ってかたく濡れた砂浜の感触が、足裏や指先でざらついている。
 私が――私たちが高校に入学したのは、たった三、四週間前のことだった。
 電車も通っていない田舎の、名前を書けば受かるような高校受験。地元の少年少女たちが半ばエスカレーター式に移動する、中学生から高校生へと変化するための儀式。
 合格発表から入学式までの短い日々で、なにが私の歯車を狂わせたのか。当の私自身にすらわからなかった。ただ、入学式の日は朝から雨が降っていて、それにあてられたように気が重かったことだけが忘れられずにいる。
 住んでいる地域によって学区が決められていた小学校、中学校とは違い、受験する高校は自分の意思で決めなければならなかった。私に中学を卒業してすぐに就職しなければいけないような理由はなく、素直に自分の家からいちばん近い高校を選んだ。それは、この辺りではいちばん進学する者の多い普通の高等学校だった。小学校から中学校まで親友だった友人たちは、もっとレベルの高い、こちらの高校とは離れた市内の高校へと進学を決めた。
 彼女たちと過ごす日々は楽しいけど、いつまでも彼女たちのひっつき虫で、甘えてばかりもいられない。そもそも勉強自体あまり好きでなかった私は、そんな言い訳で己の向学心のなさをごまかして、まったく知り合いのいない高校へ入学してしまった。それがいけなかったのだろうか。
 入学式を最初で最後の登校日として、真新しい制服は部屋の壁にかけたままになっている。
 そんな日々が一週間、二週間と続いたある日のこと。唐突に我が家を訪れた人がいた。それが彼女――同じクラスに配属されたらしい女子生徒、戸田鳴海だった。
 早朝というほど早い時間ではなく、一般的な人間なら一日の活動を始めているであろう時間帯。具体的には朝の七時過ぎにうちを訪れた彼女に、私は寝起きでぼさぼさの頭を手櫛で梳かしながら応対した。
 クラスで学級委員に選ばれたという彼女は、もとから責任感の強い性格なのだろうか。朝っぱらから溌剌とした表情で、意志の強そうな顔だなというのが、彼女の第一印象だ。
 戸田さんは、一度も登校してこない私を気遣うような顔でこう口にした。
「……そこの海で泳ぎたいんだけど、いいかな?」
 そのときの私は、おそらく漫画のキャラクターみたいに目を丸くして硬直していたことだろう。不登校のクラスメート宅を訪れて、いったい何を言うのかと思えば……「無理しなくても大丈夫だから」「みんな待ってるから」そんなありふれた定型文を想像していた私は、度肝を抜かれた気分で、思わず曖昧に頷いていた。「え、あ、す、好きにすれば?」
 素を出した、というよりもボロを出したという感じの私がしどろもどろでそれだけ言うと、戸田さんは文字通りぱっと花の咲くような笑顔を見せた。きらきらした瞳で、子どもみたいに無邪気な笑みだった。
「ありがとう! 私、海で泳ぐのが好きで……でもうちの集落は、人がいなくて危ないから、一人で泳いじゃダメだって言われててさ。ここの海、通学路の途中だし、学校に行く前に泳いでみたいなーって思ってて」
 たしかに初対面であるはずの戸田さんは、まるでずっと昔からの友人であるような距離感で喋った。人に対して壁を作らない性格なのだろうか、裏表のなさそうな態度に私の警戒心も徐々にほぐれていく。
「そしたら、海の近くにある家が汐音さんの家だっていうのを、担任の先生から聞いて。まだ一回も喋ったことなかったし、ダメ元でお願いしてみようと思ってさ」
「お願いっていうか、べつにあの海はうちのものっていうわけでもないけど」
 さらりと下の名前で呼ばれ、私は動揺を悟られないようになんでもない顔で言った。
 実際、うちのそばとはいえ海に厳密な所有者などないのだから(もしかしたら法律的にはあるのかもしれないけど)、泳ぎたいなら好きに泳げばいい。つっけんどんにならないよう、だけど初対面ゆえに一定の距離感を保ってそう告げると、戸田さんは苦笑して頬を掻いた。
「まあ、そうなんだけど。でもやっぱ、知らない人が自分の近所の海で泳いでたりしてたら、ちょっと怖いかなと思って。不審者案件になりかねないし」
 不審者案件、という仰々しい物言いにぷっと笑ってしまう。
「汐音さんが同じクラスで良かったー」
 彼女は一度も登校していない私にそんなことを言って、その日はさすがにその用件だけで帰ったが、さっそく次の日からは本当に我が家の目の前の海で泳ぐようになったのだった。

 回想に想いを馳せているうちに、いつのまにか雨はやんでいた。もともと小雨だった空の向こう、雲の切れ間から白い陽光が差している。
 飽きもせずに海を泳ぐ戸田さんは、空と海の境界を分けるように波をかいている。陽光に照らされた水平線が、戸田さんの泳ぎに合わせて大きく揺れ、きらきらと光っていた。
 海に入ってから十五分、二十分ほどして、やがて彼女は満足げな表情で浜に戻ってきた。濡れた黒髪と全身から水滴を垂らし、地上の重力を鬱陶しそうに、一歩ずつ白砂を踏みしめている。Tシャツと短パンは言わずもがなびっしょりと海水を吸って、彼女の体の線を浮かび上がらせていた。
「お疲れー。楽しかった?」
 訊いた私に「楽しかった!」と笑顔で応え、戸田さんは犬みたいに頭を振って髪の水分を飛ばす。
「ちょっと、こっちまで濡れるって」
 笑う私に「汐音も泳げばいいのに」と言う戸田さん。正直、泳ぐのは苦手でも得意でもない。
「戸田さんって、水泳部とかは入んないの?」
 質問に質問で返すと、彼女は「んー」と悩んだように首を傾げた。「プールと海って違うじゃん? あと、部活としてやると、大会とか他の部員との関わりとか面倒くさいし」
 私が渡したタオルで髪を拭きながら、彼女はあっけらかんとそう答えた。戸田さんは他人と関わることを苦にしないタイプに見えたから、後者の理由は少し意外に思う。
「この海で泳げるだけで幸せだからなぁ。面倒くさいルールとか、規律とかないし……自由にできるのって楽しいじゃん?」
「……まあねー」
 私たちは、浜の階段を上がって再び防潮堤を越える。国道を渡り、戸田さんはうちの駐車場前にある水道で体を洗う。
「なんでもさ、強要されると嫌いになるだろうし。自分のペースで無理なくやることが、なにかを嫌いにならない秘訣だよねー」
 じゃぶじゃぶと髪を洗い、体の砂と塩を落として、彼女はいたずらっ子のように笑った。
 持参したタオルで体を拭き、彼女は車庫の陰で隠れるようにして制服に着替える。片付けと仕度を終えて、愛馬である自転車にまたがった。
「じゃ、学校行ってくるね」
 自転車のハンドルを握りおどけた敬礼のポーズをとる彼女に、私も笑って「いってらっしゃい」と敬礼の姿勢で返す。うちを通り過ぎて学校へと向かい遠ざかっていく彼女の背中が、どんどんと小さくなっていく。それを寂しいと思うようになったのは、いつからだっただろうか。
 ふと、彼女と並んで学校へ行くことを妄想してみる。海沿いの道を自転車で抜けて、私はほとんど入ったことのない高校の門をくぐり、初めましての教室で、ほぼ初対面のクラスメートたちと顔を合わせることになる。
 そこに戸田さんがいてくれれば、怖いことはないような気がした。

 登校してみようか、と前向きな気持ちを抱き始めてから一週間が経った。五月の日々は風が気持ち良く、家に引きこもってばかりではもったいない気がする。
 いつも通り戸田さんを見送って家に入ると、リビングの方で電話が鳴っていた。お母さんたちはすでに仕事へ行ってしまったらしい。悩んで、電話が切れないうちにと小走りでリビングへ向かう。
 受話器を耳にあてると、若い女性の声がした。私が通うはずである高校の、クラス担任の先生らしかった。
「おはようございます、村崎さん。……体調は、どうですか?」
 先生は電話越しにもわかる笑顔をのせた声で、朗らかに柔らかくこちらをうかがってきた。私は戸田さんと別れた直後だということもあり、一日の中ではいちばんに良い気分だったので、少しだけ余裕をもって返すことができた。
「おはようございます、体調は良い感じです」
 普段、戸田さんや両親以外の人と会話することが極端に少ないせいで、なんだか小学生みたいな返答をしてしまう。気を取り直し、私は気恥ずかしさをごまかすように続けた。
「……学校、そろそろ行ってみようかと思ってて」
 その言葉に、担任教師はとても嬉しそうな反応を見せた。「そうなの? でも、無理はしないでね」言いつつ、言葉の端々に安堵と高揚の色を隠せずにいるようだ。
 彼女はすでにいろいろな問題が解決したかのようなハイテンションで、クラスの雰囲気は全然悪くないこと、一か月くらいの休みならば授業にも問題なく追いつけることを説明してくれた。
 クラスのみんなも村崎さんを待ってるから、というのは言いすぎだと思うものの、この様子ならば教室へ行くことにもそれほど緊張しなくて済みそうだと内心ほっとする。
 大歓迎なんかされなくていい。それなりに賑やかな教室の一部で、朝の海のように凪いだ日常を送れたら、それでかまわない――そんな私の胸中を知ってか知らずか、担任の女性教師は思いがけないことを口にした。
「村崎さんが前向きになってくれてよかったわ。戸田さんが、毎日様子を見に行ってくれたおかげね」
 善意とか好意で話しているのであろう、ひとかけらの悪意もない純粋な声で言った担任の言葉に、私は「えっ」と間抜けな息を漏らす。担任はこちらの動揺に気付いていない風で、どこか得意げにさえ思える口調で続けた。
 いわく、戸田さんが毎朝うちに通っているのは、他でもない担任である先生が勧めてからだということ。
 私を、ひいては私が登校しないことでクラスの雰囲気がまとまらないことを心配した先生が、クラス委員長である戸田さんに、私の様子を見に行ってほしいとお願いしたらしい。先生は自分のクラスに不登校児がいることを悩んでいて、戸田さんは私の家が自分の通学路の途中であることから嫌な顔ひとつせずそれを引き受けてくれたのだと、担任教師は揚々と語ってくれた。
 そのあとは進んでいる授業の話やクラスのことを聞いて、私は嬉しそうな先生の声から逃げるように電話を切った。考えをまとめることが怖くて無言で自室へ戻ると、窓の外では雨が降っていた。梅雨でもないのに、ざあざあと耳障りな音を立てている。
 私はベッドへうつぶせに倒れ込み、かたく目を瞑った。強い雨音で思考が途切れるように、なにも考えずにすむように。
 そのうち睡魔に襲われて、私は微睡むというよりも気絶するような気持ちで意識を手放した。

 夢を見た。海で泳ぐ夢だ。
 海には雨が降っていて、雨粒は水面に音もなく降りしきっている。
 そういえば、雨について小学生の頃に授業で習ったことがあった。海の水が蒸発して水蒸気になり、水蒸気が冷えて雲ができる。雲はやがて山や街に雨を降らせ、その雨が地面に染みこんで地下水となる。地下水が湧き出したり、降った雨が湖や川に集まって、それらは再び海へと還るのだ。
 その流れは旅のようで、なんとも浪漫のある話だとわくわくしたものだった。広い海から遠くへ運ばれ、世界を見て回り、また海に戻ってくる。循環の旅。
 だけど今の私は、海に降る雨みたいだ。いざ旅に出ようと一歩目を踏み出したはずなのに、どこにも行けないままで海へ戻ってきてしまった。外界や他者と関わることなく完結してしまった、旅にすら出られなかった一滴の雨粒。自分がひどく矮小で、ちっぽけな存在に思えた。
 ……彼女とだったら、外の世界を夢見ることもできたのに。戸田さんのことが頭によぎり、しかし結局は彼女も担任に言われて来ていたのだろうかと不愉快な気持ちに胸が締められる。私は周りの人を振り回していただけで、彼女も内心は辟易していたのだろうか。学校に行けるかもだなんて、浮かれていた自分がバカみたいだ。
 目を覚まして窓に目をやると、雨はしつこく降り続けていた。スマホを開いて明日の天気を確認する。雨は、明日の朝までやまないらしい。
 戸田さんは、明日もうちに来るのだろうか。来るんだろうな。
 虚しさと、罪悪感と、投げやりな気持ちと。いろんな感情が一気に面倒くさくなって、私はスマホを床に放ってベッドで寝がえりを打った。雨音はわずらわしく、私を責めるように降り続けていた。

 翌朝、戸田さんはいつもと同じ時間に、いつもと同じように私の家を訪れた。昨日の電話を知らないのだから、彼女の態度が変わっていないのも当然だ。私の胸には暗雲みたいなものがくすぶっていて、ちょうど昨日から降り続けている雨空に相応しい気分の重さだった。
「今日も天気悪いねー。はやく晴れると良いけど」
 泳ぎの服装に着替えて海を見る戸田さんに、私は意を決して口を開く。彼女に、言わなければいけないことがあった。
「……私さ、今日から保健室登校しようと思って」
 戸田さんは「えっ」と意外そうに、だけど嬉しそうに声を弾ませた。彼女が嬉しげな表情へなるのに比例して、私の心は一段と重く沈んでいく。
「汐音が登校するのは嬉しいけど、あんま無理したらだめよ?」
 私の表情が暗いことを察してか、戸田さんはこちらを気遣うように笑った。彼女は、私の返答を待たずに先を続ける。
「このあいだも言ったけど、自分のペースっで良いんだからね。嫌なことを無理にやって、それで嫌いになったら意味ないし」
 雨の降る海原を横目に言う彼女へ、私はつい意地悪なことを思ってしまう。
 嫌なことをやって対象を嫌いになるなら、戸田さんは私のことも嫌いになっているのかな。私を毎朝気にかけなければいけない面倒くささが、彼女の負担になっているのだとしら。
 それは彼女の親切をあだで返すような勘繰りだとわかっていて、だけど本当のことを聞く勇気もないので、私は黙って彼女とともに海を見ていた。小さくて広い海原は、小雨のせいで空と海の境界線がぼやけている。
「……もし私が教室に戻れたら、そのときはいっぱい遊んでね」
 海を見る戸田さんへ、私は子どものような口調で笑いかけた。戸田さんはなんの疑問も持たない顔で、「うん、待ってるよ」と笑みを返してくれた。それがいわゆる社交辞令なのか、それとも本当に私と一緒にいることを楽しいと思ってくれているのかは分からない。
 私は私服のままで海に足をつける。冷たい水がふくらはぎまでを満たして、着ている服がぴったりと体に張り付いた。
 海と空の水平線を目指し、大きく腕を伸ばして波をかく。隣を泳ぐ戸田さんに「鳴海」と呼びかけると、一拍遅れて、「汐音」と呼び返された。
 それから私たちは、朝雨の降る海を飽きることなく泳ぎ続けた。いつしか雨がやんで、朝陽が空のてっぺんへ昇り、指先がふやけても、戸田さんは私と一緒に泳ぎ続けてくれた。
 それだけで私は、ぼやけた水平線のその先の景色も、少しだけ信じられるような気がしたのだった。
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