掌編
しとしと雨が降る、夜の九時。バイトを終えて自宅へ帰る途中の僕は、赤信号に捕まってしまった。濡れた道路が光っているのを見ながら、思わず疲労の濃い溜息が漏れる。
天気予報を確認しなかったので、今の僕は頭のてっぺんから足の先まで、冷たい雨でびっしょりと濡れている。音のない静かな雨だが、履き古したスニーカーは底の方から水が染みて歩くごとに不快感が募った。
「はぁ……」
溜息は、冷えた空気で白く色づき空に溶ける。さっさと帰って温かな湯船に浸かりたい。どうせ誰も見ていないんだ――もう、赤信号なんて無視してしまおうか。
思えば、いま終えたばかりのコンビニバイトだってそうだ。大学生になったからと始めて半年、自分なりに精一杯やっているものの、理不尽で横暴な客ばかり当たる。
どんなに仕事を丁寧にしても、どれだけ心を込めて接客しても、それを見ている人なんか一人も居ない。良いことをしても誰も見ていないなら、悪いことをしたって同じはずだ。
たかが信号無視、されど信号無視。信号無視って法律違反になるんだっけ? と半ば現実逃避のように考えながら、僕は、まるで凶悪犯罪でも犯すような気持ちで重い足を上げた。
同時に、甲高いサイレンが周囲に鳴り響く。
ーーえっもう警察? パトカー来ちゃった? もしかして、気付いてなかっただけで近くにいたとか?
一瞬にして様々な思考が脳内を駆け巡り、しかし何のことはない、曲がり角から現れたのは一台の救急車だった。赤色灯の光が闇を照らし、『救急車です。道を開けてください』と無機質だが緊張感のある声が響く。
途端に手前の車が道路の左側に寄って、救急車は広々と開かれた道路の中心を滑るように走り去っていった。
救急車が去った道路では、道を開けた車が何事もなかったように元の車線へ戻っていた。けたたましいサイレンと眩しい赤色は彼方へ消えて、雨の降る道路は静寂に包まれている。気付けば、目の前の信号は青に変わっていた。
小走りで横断歩道を渡り、ちょうど渡り切ったタイミングで、信号は再び赤に変わった。先ほど救急車に道を譲った車が、青信号に合わせて発進する。
その後ろ姿を見送りながら、僕は先ほど赤信号を無視してやろうと思った自分が、ひどく恥ずかしくなった。
相変わらず降り続ける雨に打たれて家路に就き、もう一度深い溜息を吐く。白い息が空に昇って消え、明日からも頑張ろうと僕は改めて気合を入れなおしたのだった。
6/6ページ