カイさん、主夫をお休みします(前編)
しんと静まり返る食堂の先、早朝の調理室に一人分の人影があった。静謐な室内の照明をつけて、影――カイは愛用のエプロンをまとい朝食の準備にとりかかる。
冷蔵庫を開けて材料を調理台に並べていると、不意に食堂の方から物音がした。もう起きてきた人がいるのかと、カイは一旦手を止めて調理室から顔を覗かせる。
食堂の椅子に腰を下ろしているのは、赤髪赤眼の巨漢であるQタロウと、鈍く光る金髪の男、ケイジだった。二人とも首にタオルをかけ、額から流れる汗を拭っている。
「ロードワークですか? お疲れさまです」
カイはコップに麦茶を淹れて二人の前に置いた。氷は入れていないが、冷蔵庫で冷やしていたのでひどく冷たい。
「ふー……生き返るぜよ」
Qタロウは一息でコップの中身を飲み干して、まるでビールを飲んだ時のように大仰な息を吐いた。ケイジも、流した汗を補うように麦茶へ口をつける。
「カイも早いね。いつもこの時間に起きてるのかい?」
ケイジの質問に、カイは「朝食の支度がありますから」と答えた。三人はしばしたわいもない雑談を交わす。
話が一区切りついて、カイは二人が空にしたコップを回収して調理室へ戻った。
「さて、今日の朝食は――っ!」
調理台に出したままの食材を手に取ったカイは、不穏な気配を察知して素早く振り向いた。その反射神経は常人をはるかに凌駕しているが、相手の方が一枚上手だったらしい。
「今日も良い卵を使ってるねー」
ケイジは冷蔵庫にしまってあった生卵にストローを差し、容赦なくちゅうちゅうと吸っている。見た目的には小さなココナッツジュースでも飲んでいるようだ。
「ほら、麦茶にはたんぱく質が含まれてないからね」
平然と弁解にもならない言い訳をするケイジに、カイは眉間に深いしわを刻む。
「あなたという人は、本当に卵が好きですね……」
彼はおもむろにお玉を口元に当てる。
「……いいでしょう。二つまでなら許可します」
諦めの境地に達したのか、カイは最大限の譲歩だと語尾を強くして言った。
しかしケイジは、「……手遅れだねー」となにかをすっと差し出した。十個入りの卵パックがひとつ、中には綺麗な穴が開いた卵が鎮座している。中身がすべて空っぽになっていることは誰の目にも明らかだ。この男、カイの目を盗んですべての卵を吸いつくしてしまったらしい。
もはやかける言葉も見当たらず、カイは無言で目を伏せた。「つーか腹壊すぜよ」調理室の扉から顔を出すQタロウの呆れ声は、ケイジにもカイにも届いていない。
カイは肌身離さず持ち歩いている調理器具のフライパンで、ケイジの後頭部に狙いを定めてじりじりと間合いを詰める。普段は冷静な眼差しが、いよいよ堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに殺気をにじませている。
「今日という今日は許しませんよ」
言うが早いか、フライパンがうなりを上げてケイジへと襲いかかる。さして広くない調理室で、ケイジは気だるげな顔つきに似合わず俊敏な動きでカイのパライフンアタックをかわした。
「朝食の準備をする前に、あなたを潰す方が先のようです」
フライパンで殴りかかりながら物騒な言葉を放つカイ。「毎朝こりずに卵泥棒するくらいなら、いっそ永遠に眠っていただいても構わないのですが」
冗談の欠片も感じさせない声音で呟くカイのフライパンを避け、ケイジはへらりと締まりのない顔で笑う。
「はは、おまわりさんも成長期だからさ」
「……それ以上どこまで成長するつもりですか。まったく、有能な警察官がいたら真っ先に捕まえてもらうところです」
カイは嫌味を言いつつ空になった卵パックでケイジの後頭部を叩き、一日の献立を組みなおすことにした。
栄養価が高くレパートリーも豊富な卵料理は、一日三食どの場面でも活躍する万能食材だ。
そんな卵を十個も失ってしまったのは手痛いが、ケイジの卵泥棒は今に始まったことでもない。冷蔵庫を開けて食材のストックを確認し、とりあえず夕食のメインは野菜炒めにしようかと献立の変更を検討していると、再び調理室の扉が開いた。大きなぬいぐるみを抱いた小さな影が、快活に朝の挨拶をする。
「おはようニャン、ロン毛エプロン!」
相変わらず失礼なあだ名で呼ぶギンに、カイは気分を害した風でもなく挨拶を返した。
「はい、おはようございます。早起きですね」
「一人で来たのかい? 単独行動は危ないよー」
ぽんぽんとギンの頭を撫でるケイジ。
「子ども扱いするなニャン」
ギンは嫌そうに手を払い、カイへ向き直った。
「ロン毛エプロン、今日の夕ご飯はオムライスが食べたいニャン!」
「オムライス……ですか?」
尋ね返すと、ギンはニャーちゃんクッションを強く抱きしめて頷いた。心なしかニャーちゃんの表情もきりりと引き締まって見える。
「ここに来たばかりのとき、ご飯にニャーちゃんの顔を描いてくれたワン? あれ、また食べたいニャン!」
朝一番に元気良く主張するギンの言葉で、カイは二週間前のことを思い出して「ああ、あのときの」と相槌を打つ。この施設に集められた当日の夜、夕食は最年少のギンが食べたい物を優先しようという話になって、そこで彼はオムライスをリクエストしたのだった。
カイは人数分のオムライスを仕上げたうえで、さらに手先の器用さを活かしてケチャップアートまで添えた。ギンのオムライスは特に凝っていて、チキンライスに海苔やチーズを加えてニャーちゃんの顔を再現したのだ。
あのときは「かえって食べにくいニャン!」と怒っていたギンだが、内心とても気に入っていたらしい。自分の料理で他人が喜んでくれるのは嬉しいことで、けれどもカイは申し訳なさそうに首を振った。
「すみません、ちょうど卵の在庫が切れてしまって」
「!? オムライス、作れないニャン?」
ガーンと背景に擬音が聞こえるほどショックを見せたギンの後ろで、ケイジが抜き足差し足でこそこそと扉の方へ向かう。カイはちらりとその背中に視線を投げ、ギンも眼差しを追うようにしてケイジに目を留めた。
「……ちなみにあれが、その元凶の卵泥棒さんです」
「!!」
忍び足で逃走しようとしていたケイジに、ギンとニャーちゃんは目を吊り上げて襲いかかった。「卵返すニャン!」
勢いよく飛びかかられて、ケイジは「わっ、もう消化しちゃったよー」とたじたじの様子で防御に徹した。
どたばたと騒がしい二人に、カイはフライパンを口元に当てて仲裁に入る。
「まだ消化はされていないと思いますが……それより二人とも、ここで暴れないでください。埃が立ちますし、朝ご飯が作れません」
しかし興奮状態のギンには聞こえていないらしい。
ケイジはともかく、ギンに手荒な真似をするわけにはいかないと悩むカイのもとに、慌てた表情のナオが現れた。彼女は切羽詰まった様子で調理室の扉を開け、「か、カイさん、助けてくださぁいっ!」とひどくうろたえた声で助けを求めた。
「……おや、ナオさん。どうしましたか?」
くるりと振り向き尋ねたカイに、ナオは必死になって身振り手振りで説明する。
「わ、私、ちょっと夜中まで作業をしてたんですけど……学校の課題用に、水彩画の練習をしていて」
それを聞いて、カイは「ああ」と顎に手を添えた。そういえば昨夜の夕食時、ナオは大学の課題や単位が心配だと話していた気がする。学生のくくりとはいえ、小中学生や高校生よりも大人の区分に入る大学生といった身分では、不安もひとしおだろう。
ナオは困った顔でうつむいている。その腕にはなにかの生地が抱きしめられていた。
「それで、さっき作業着を洗濯に出したんですけど……絵具が他の人の服に付いてしまったみたいで」
自分の作業着なら汚れたままで構わないんですけどと前置きして、彼女は抱いている生地を広げた。それは一枚の上着だった。
白と黒の縞模様をしたその服は、カイの方でも見覚えがあるものだ。シンプルな縞々の生地に、ほんのりと赤や青の絵具が染みこんでいるのが分かる。
「色移りしたときでも、作業着のときは簡単に落とせた気がするんですけど、この服のはなかなか落ちなくて……」言って、ナオは困ったように肩を落とす。
カイは服を受け取り、少し考えてから口を開いた。
「生地の違いと展色剤のせいかもしれませんね。でんぷんのりをつけて洗ってみましょう」
言って、カイは棚から調理器具のボウルを取り出した。さらに別の棚から小さな袋を持ってくる。
袋の中身――小麦粉を大さじ二杯分と、水道から計量カップで量った水を二百ccほどボウルに入れて、中身をよくかき混ぜる。均等に混ざったら小鍋に移し、弱火にかけて粘り気が出るまでゆっくりと混ぜ続けた。ギンとケイジの喧嘩(というよりもギンによる一方的な制裁)はまだ続いているので、彼らが火に近づかないように細心の注意を払う。
やがて鍋の中身が充分に粘り、カイは小鍋の火を消して、出来上がったでんぷんのりを服の汚れた部分にたっぷり塗りつけた。ナオはメモを取りながら作業を見守っている。
「のりが繊維の奥まで入って絵具に付着するので、このまま水洗いすれば落ちると思います」
「あ、ありがとうございます……!!」
ぱっと顔を輝かせて頭を下げるナオに、カイは「これくらいならいつでも頼ってください」と微笑する。
さて、余ったのりは捨ててしまうのも勿体ないが、防腐剤を入れているわけでもないので日持ちはしない。なにかに活用できないかと思案するカイの背に、執拗にギンから攻撃されているケイジの腕が当たった。
咄嗟のことでバランスを崩したカイが小鍋をひっくり返し、彼は着用しているエプロンを庇うように腕を伸ばす。結果、でんぷんのりはカイの着ている服の袖に直撃した。
カイの右腕から、粘度の高いのりがぼたりと落ちる。
「……いい加減、ここで暴れないでいただけますか?」
軽く溜息を吐き、彼は額に薄く青筋を立てた。冷ややかな眼差しは絶対零度の如く冷え切って、ケイジとギンがひゅっと息を呑む。
「……やりすぎたね、うん」
「ご、ごめんニャン。退散するワン」
彼らはどちらからともなく連れ立ってそそくさと調理室を後にする。
カイはもう一度おもむろに息を吐き、「まあ、のりで良かったですが……」とエプロンを脱いだ。のりが付かないよう注意してテーブルの上に置き、ナオと共に洗濯機のある場所へ向かうことにする。
三階の洗濯場まで向かう途中、調理室での一連の顛末を見ていたナオが、カイへと控えめに質問を投げかけた。
「カイさんのあのエプロン、大切なものなんですか?」
問われ、カイはあまり間を置かずに「……そうですね」と首肯する。
「あのエプロンは、大切な方々からもらったものですから。……着ていないと、なんだか落ち着きません」
言って、自身のまとう黒ずくめの服を着心地悪そうに見下ろすカイ。ナオは不思議そうに疑問符を浮かべつつ、あえて言及はしないでおいた。
三階へとあがり、そこで二人は洗濯機の前に誰かが立ち尽くしているのを見つけた。遠目からでも判別できる巨体の持ち主、Qタロウはカイとナオを見て挙動不審な反応をする。
「! 誰かと思ったらおまえさんたちか」
「なにかありましたか?」
カイの視線から目を逸らし、Qタロウは煮え切らない態度で顎をさする。
「あーその、さっきナオと入れ替わりで洗い物を出しに来たんじゃが、どうにもボタンが反応しなくてよ……パネルの表示がつかないもんだから、一発ガツンとじゃな」
「……殴ったんですか?」
「家電は叩けば直るっちゅうのが通説ぜよ!」
力強く言ったQタロウだが、彼と洗濯機の周りには不穏な空気が漂っている。試しにカイが電源ボタンを押してみるものの、うんともすんとも反応しない。完全に沈黙している洗濯機から視線を移すと、Qタロウは「……悪かったぜよ」と素直に頭を垂れた。
「わ、私のせいかもしれません。絵具の欠片とかのせいで故障したのかも」
取り乱すナオを、カイは冷静に制した。
「落ち着いてください。もともと、この洗濯機に大人数の洗濯は容量オーバーだったのかもしれません。回数を分けてはいましたが、一日の稼働時間も長かったですし……」
「ただでさえ図体のでかい連中が多いんじゃ、量も凄かったしなぁ」
この場にサラやジョーがいればQタロウに突っ込みを入れただろうが、立ちすくむ三人のもとに現れたのは、事態を余計にややこしくする男だった。
「こんなところでなにしてるんだ? ……ってちょっと、どういうことよっ!」
クールな物言いから一変し、アリスはオネエ口調で絶叫した。ナオの持つ縞々模様の上着をひったくるように奪い取り、それが得体のしれない液体まみれにされている惨状に「なにこれ? 汚いじゃない!」と眉を寄せる。
「す、すみません、私の作業のせいで服に色移りしちゃって」
「色移り!? どんな色の移り方したら、こんなドロドロになるのよっ!」
ナオの弁明を遮り吠えるアリスに、カイは誤解を解くべく「いえ、それは」と二人の間に入ろうとする。と、アリスの後ろからレコが顔を出した。
彼女は「朝っぱらからうるせーぞ」とアリスを睨みつける。すでにばっちりメイクをきめているので迫力満点だった。
「って、なんだよ、これ。ひどいありさまだな」
アリスが広げている上着に付いたなにかに顔をしかめるレコ。ナオは肩をすぼめ、改めて二人へ経緯を説明する。
一通り話を聞いたレコは、「じゃあ、これから水で洗えば綺麗になるんだな」とナオを安心させるように笑った。
「ったく、相手の話を聞く前に騒ぐんじゃねぇよ」
黒く縁取られた目でぎろりと睨まれて、アリスは「む、むぅ……悪かったな」と謝罪の言葉を述べる。「いえ、元はと言えば私が」ぺこぺこと頭を下げるナオの隣で、Qタロウが「しかしなぁ」と口を挟んだ。
「洗濯機は故障中がやき、洗いもんは風呂場に持っていった方がよさそうぜよ」
アリスが「壊れたのか?」と短く尋ね、Qタロウは苦笑いで言葉を濁す。「壊れたっちゅうか、壊したっちゅうか……」
「じゃあ、ぜんぶ手洗いか? バケツかなんかあった方が良さそうだな……」
辺りを見回したレコは、目線の先に小ぶりな青いバケツを見つけて手を伸ばした。
「きゃっ!」
バケツの下から悲鳴が漏れ、レコはバケツを手に取り声の主を覗き込む。
冷蔵庫を開けて材料を調理台に並べていると、不意に食堂の方から物音がした。もう起きてきた人がいるのかと、カイは一旦手を止めて調理室から顔を覗かせる。
食堂の椅子に腰を下ろしているのは、赤髪赤眼の巨漢であるQタロウと、鈍く光る金髪の男、ケイジだった。二人とも首にタオルをかけ、額から流れる汗を拭っている。
「ロードワークですか? お疲れさまです」
カイはコップに麦茶を淹れて二人の前に置いた。氷は入れていないが、冷蔵庫で冷やしていたのでひどく冷たい。
「ふー……生き返るぜよ」
Qタロウは一息でコップの中身を飲み干して、まるでビールを飲んだ時のように大仰な息を吐いた。ケイジも、流した汗を補うように麦茶へ口をつける。
「カイも早いね。いつもこの時間に起きてるのかい?」
ケイジの質問に、カイは「朝食の支度がありますから」と答えた。三人はしばしたわいもない雑談を交わす。
話が一区切りついて、カイは二人が空にしたコップを回収して調理室へ戻った。
「さて、今日の朝食は――っ!」
調理台に出したままの食材を手に取ったカイは、不穏な気配を察知して素早く振り向いた。その反射神経は常人をはるかに凌駕しているが、相手の方が一枚上手だったらしい。
「今日も良い卵を使ってるねー」
ケイジは冷蔵庫にしまってあった生卵にストローを差し、容赦なくちゅうちゅうと吸っている。見た目的には小さなココナッツジュースでも飲んでいるようだ。
「ほら、麦茶にはたんぱく質が含まれてないからね」
平然と弁解にもならない言い訳をするケイジに、カイは眉間に深いしわを刻む。
「あなたという人は、本当に卵が好きですね……」
彼はおもむろにお玉を口元に当てる。
「……いいでしょう。二つまでなら許可します」
諦めの境地に達したのか、カイは最大限の譲歩だと語尾を強くして言った。
しかしケイジは、「……手遅れだねー」となにかをすっと差し出した。十個入りの卵パックがひとつ、中には綺麗な穴が開いた卵が鎮座している。中身がすべて空っぽになっていることは誰の目にも明らかだ。この男、カイの目を盗んですべての卵を吸いつくしてしまったらしい。
もはやかける言葉も見当たらず、カイは無言で目を伏せた。「つーか腹壊すぜよ」調理室の扉から顔を出すQタロウの呆れ声は、ケイジにもカイにも届いていない。
カイは肌身離さず持ち歩いている調理器具のフライパンで、ケイジの後頭部に狙いを定めてじりじりと間合いを詰める。普段は冷静な眼差しが、いよいよ堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに殺気をにじませている。
「今日という今日は許しませんよ」
言うが早いか、フライパンがうなりを上げてケイジへと襲いかかる。さして広くない調理室で、ケイジは気だるげな顔つきに似合わず俊敏な動きでカイのパライフンアタックをかわした。
「朝食の準備をする前に、あなたを潰す方が先のようです」
フライパンで殴りかかりながら物騒な言葉を放つカイ。「毎朝こりずに卵泥棒するくらいなら、いっそ永遠に眠っていただいても構わないのですが」
冗談の欠片も感じさせない声音で呟くカイのフライパンを避け、ケイジはへらりと締まりのない顔で笑う。
「はは、おまわりさんも成長期だからさ」
「……それ以上どこまで成長するつもりですか。まったく、有能な警察官がいたら真っ先に捕まえてもらうところです」
カイは嫌味を言いつつ空になった卵パックでケイジの後頭部を叩き、一日の献立を組みなおすことにした。
栄養価が高くレパートリーも豊富な卵料理は、一日三食どの場面でも活躍する万能食材だ。
そんな卵を十個も失ってしまったのは手痛いが、ケイジの卵泥棒は今に始まったことでもない。冷蔵庫を開けて食材のストックを確認し、とりあえず夕食のメインは野菜炒めにしようかと献立の変更を検討していると、再び調理室の扉が開いた。大きなぬいぐるみを抱いた小さな影が、快活に朝の挨拶をする。
「おはようニャン、ロン毛エプロン!」
相変わらず失礼なあだ名で呼ぶギンに、カイは気分を害した風でもなく挨拶を返した。
「はい、おはようございます。早起きですね」
「一人で来たのかい? 単独行動は危ないよー」
ぽんぽんとギンの頭を撫でるケイジ。
「子ども扱いするなニャン」
ギンは嫌そうに手を払い、カイへ向き直った。
「ロン毛エプロン、今日の夕ご飯はオムライスが食べたいニャン!」
「オムライス……ですか?」
尋ね返すと、ギンはニャーちゃんクッションを強く抱きしめて頷いた。心なしかニャーちゃんの表情もきりりと引き締まって見える。
「ここに来たばかりのとき、ご飯にニャーちゃんの顔を描いてくれたワン? あれ、また食べたいニャン!」
朝一番に元気良く主張するギンの言葉で、カイは二週間前のことを思い出して「ああ、あのときの」と相槌を打つ。この施設に集められた当日の夜、夕食は最年少のギンが食べたい物を優先しようという話になって、そこで彼はオムライスをリクエストしたのだった。
カイは人数分のオムライスを仕上げたうえで、さらに手先の器用さを活かしてケチャップアートまで添えた。ギンのオムライスは特に凝っていて、チキンライスに海苔やチーズを加えてニャーちゃんの顔を再現したのだ。
あのときは「かえって食べにくいニャン!」と怒っていたギンだが、内心とても気に入っていたらしい。自分の料理で他人が喜んでくれるのは嬉しいことで、けれどもカイは申し訳なさそうに首を振った。
「すみません、ちょうど卵の在庫が切れてしまって」
「!? オムライス、作れないニャン?」
ガーンと背景に擬音が聞こえるほどショックを見せたギンの後ろで、ケイジが抜き足差し足でこそこそと扉の方へ向かう。カイはちらりとその背中に視線を投げ、ギンも眼差しを追うようにしてケイジに目を留めた。
「……ちなみにあれが、その元凶の卵泥棒さんです」
「!!」
忍び足で逃走しようとしていたケイジに、ギンとニャーちゃんは目を吊り上げて襲いかかった。「卵返すニャン!」
勢いよく飛びかかられて、ケイジは「わっ、もう消化しちゃったよー」とたじたじの様子で防御に徹した。
どたばたと騒がしい二人に、カイはフライパンを口元に当てて仲裁に入る。
「まだ消化はされていないと思いますが……それより二人とも、ここで暴れないでください。埃が立ちますし、朝ご飯が作れません」
しかし興奮状態のギンには聞こえていないらしい。
ケイジはともかく、ギンに手荒な真似をするわけにはいかないと悩むカイのもとに、慌てた表情のナオが現れた。彼女は切羽詰まった様子で調理室の扉を開け、「か、カイさん、助けてくださぁいっ!」とひどくうろたえた声で助けを求めた。
「……おや、ナオさん。どうしましたか?」
くるりと振り向き尋ねたカイに、ナオは必死になって身振り手振りで説明する。
「わ、私、ちょっと夜中まで作業をしてたんですけど……学校の課題用に、水彩画の練習をしていて」
それを聞いて、カイは「ああ」と顎に手を添えた。そういえば昨夜の夕食時、ナオは大学の課題や単位が心配だと話していた気がする。学生のくくりとはいえ、小中学生や高校生よりも大人の区分に入る大学生といった身分では、不安もひとしおだろう。
ナオは困った顔でうつむいている。その腕にはなにかの生地が抱きしめられていた。
「それで、さっき作業着を洗濯に出したんですけど……絵具が他の人の服に付いてしまったみたいで」
自分の作業着なら汚れたままで構わないんですけどと前置きして、彼女は抱いている生地を広げた。それは一枚の上着だった。
白と黒の縞模様をしたその服は、カイの方でも見覚えがあるものだ。シンプルな縞々の生地に、ほんのりと赤や青の絵具が染みこんでいるのが分かる。
「色移りしたときでも、作業着のときは簡単に落とせた気がするんですけど、この服のはなかなか落ちなくて……」言って、ナオは困ったように肩を落とす。
カイは服を受け取り、少し考えてから口を開いた。
「生地の違いと展色剤のせいかもしれませんね。でんぷんのりをつけて洗ってみましょう」
言って、カイは棚から調理器具のボウルを取り出した。さらに別の棚から小さな袋を持ってくる。
袋の中身――小麦粉を大さじ二杯分と、水道から計量カップで量った水を二百ccほどボウルに入れて、中身をよくかき混ぜる。均等に混ざったら小鍋に移し、弱火にかけて粘り気が出るまでゆっくりと混ぜ続けた。ギンとケイジの喧嘩(というよりもギンによる一方的な制裁)はまだ続いているので、彼らが火に近づかないように細心の注意を払う。
やがて鍋の中身が充分に粘り、カイは小鍋の火を消して、出来上がったでんぷんのりを服の汚れた部分にたっぷり塗りつけた。ナオはメモを取りながら作業を見守っている。
「のりが繊維の奥まで入って絵具に付着するので、このまま水洗いすれば落ちると思います」
「あ、ありがとうございます……!!」
ぱっと顔を輝かせて頭を下げるナオに、カイは「これくらいならいつでも頼ってください」と微笑する。
さて、余ったのりは捨ててしまうのも勿体ないが、防腐剤を入れているわけでもないので日持ちはしない。なにかに活用できないかと思案するカイの背に、執拗にギンから攻撃されているケイジの腕が当たった。
咄嗟のことでバランスを崩したカイが小鍋をひっくり返し、彼は着用しているエプロンを庇うように腕を伸ばす。結果、でんぷんのりはカイの着ている服の袖に直撃した。
カイの右腕から、粘度の高いのりがぼたりと落ちる。
「……いい加減、ここで暴れないでいただけますか?」
軽く溜息を吐き、彼は額に薄く青筋を立てた。冷ややかな眼差しは絶対零度の如く冷え切って、ケイジとギンがひゅっと息を呑む。
「……やりすぎたね、うん」
「ご、ごめんニャン。退散するワン」
彼らはどちらからともなく連れ立ってそそくさと調理室を後にする。
カイはもう一度おもむろに息を吐き、「まあ、のりで良かったですが……」とエプロンを脱いだ。のりが付かないよう注意してテーブルの上に置き、ナオと共に洗濯機のある場所へ向かうことにする。
三階の洗濯場まで向かう途中、調理室での一連の顛末を見ていたナオが、カイへと控えめに質問を投げかけた。
「カイさんのあのエプロン、大切なものなんですか?」
問われ、カイはあまり間を置かずに「……そうですね」と首肯する。
「あのエプロンは、大切な方々からもらったものですから。……着ていないと、なんだか落ち着きません」
言って、自身のまとう黒ずくめの服を着心地悪そうに見下ろすカイ。ナオは不思議そうに疑問符を浮かべつつ、あえて言及はしないでおいた。
三階へとあがり、そこで二人は洗濯機の前に誰かが立ち尽くしているのを見つけた。遠目からでも判別できる巨体の持ち主、Qタロウはカイとナオを見て挙動不審な反応をする。
「! 誰かと思ったらおまえさんたちか」
「なにかありましたか?」
カイの視線から目を逸らし、Qタロウは煮え切らない態度で顎をさする。
「あーその、さっきナオと入れ替わりで洗い物を出しに来たんじゃが、どうにもボタンが反応しなくてよ……パネルの表示がつかないもんだから、一発ガツンとじゃな」
「……殴ったんですか?」
「家電は叩けば直るっちゅうのが通説ぜよ!」
力強く言ったQタロウだが、彼と洗濯機の周りには不穏な空気が漂っている。試しにカイが電源ボタンを押してみるものの、うんともすんとも反応しない。完全に沈黙している洗濯機から視線を移すと、Qタロウは「……悪かったぜよ」と素直に頭を垂れた。
「わ、私のせいかもしれません。絵具の欠片とかのせいで故障したのかも」
取り乱すナオを、カイは冷静に制した。
「落ち着いてください。もともと、この洗濯機に大人数の洗濯は容量オーバーだったのかもしれません。回数を分けてはいましたが、一日の稼働時間も長かったですし……」
「ただでさえ図体のでかい連中が多いんじゃ、量も凄かったしなぁ」
この場にサラやジョーがいればQタロウに突っ込みを入れただろうが、立ちすくむ三人のもとに現れたのは、事態を余計にややこしくする男だった。
「こんなところでなにしてるんだ? ……ってちょっと、どういうことよっ!」
クールな物言いから一変し、アリスはオネエ口調で絶叫した。ナオの持つ縞々模様の上着をひったくるように奪い取り、それが得体のしれない液体まみれにされている惨状に「なにこれ? 汚いじゃない!」と眉を寄せる。
「す、すみません、私の作業のせいで服に色移りしちゃって」
「色移り!? どんな色の移り方したら、こんなドロドロになるのよっ!」
ナオの弁明を遮り吠えるアリスに、カイは誤解を解くべく「いえ、それは」と二人の間に入ろうとする。と、アリスの後ろからレコが顔を出した。
彼女は「朝っぱらからうるせーぞ」とアリスを睨みつける。すでにばっちりメイクをきめているので迫力満点だった。
「って、なんだよ、これ。ひどいありさまだな」
アリスが広げている上着に付いたなにかに顔をしかめるレコ。ナオは肩をすぼめ、改めて二人へ経緯を説明する。
一通り話を聞いたレコは、「じゃあ、これから水で洗えば綺麗になるんだな」とナオを安心させるように笑った。
「ったく、相手の話を聞く前に騒ぐんじゃねぇよ」
黒く縁取られた目でぎろりと睨まれて、アリスは「む、むぅ……悪かったな」と謝罪の言葉を述べる。「いえ、元はと言えば私が」ぺこぺこと頭を下げるナオの隣で、Qタロウが「しかしなぁ」と口を挟んだ。
「洗濯機は故障中がやき、洗いもんは風呂場に持っていった方がよさそうぜよ」
アリスが「壊れたのか?」と短く尋ね、Qタロウは苦笑いで言葉を濁す。「壊れたっちゅうか、壊したっちゅうか……」
「じゃあ、ぜんぶ手洗いか? バケツかなんかあった方が良さそうだな……」
辺りを見回したレコは、目線の先に小ぶりな青いバケツを見つけて手を伸ばした。
「きゃっ!」
バケツの下から悲鳴が漏れ、レコはバケツを手に取り声の主を覗き込む。