春風に溶ける
――油断していた。
天気の良い午後。青年は、春の陽気に似つかわしくない冷や汗を垂らしていた。
穏やかな陽光に照らされる一軒家の庭先で、幼い少女が人懐っこい笑みを浮かべている。
「おにいさん、なにしてるんですか?」
ランドセルを背負っているのと、制服を着ていることから察するに、年は小学校低学年といったところか。明るいオレンジがかった長髪の一部を編みこんで、ポニーテールにしている。
少女は見た目こそあどけないものの、青年に対する口調や態度はとてもしっかりしていた。その眼は、しかし年相応の好奇心で無邪気に輝いている。
一方、おにいさんと呼びかけられた青年は、不測の事態にひどく動揺していた。癖のついた黒髪を揺らし、目の前の少女にどう対応すべきかと狼狽している。不審者として通報されそうな場面だが、少女が満面の笑顔なので犯罪っぽさは薄まっていた。
青年は必死で状況を整理する。彼は今日も「お手伝いさん」として通っている家で一通りの家事をこなし、いつも通り一人娘の少女が帰ってくる前には帰宅する予定だった。
普段は万が一にも少女と鉢合わせないように裏口から帰っていた青年は、今日に限って庭の花木の様子が気になり、帰り際にほんの少しだけ手入れしていた。そこに、今日に限って学校が早く終わったらしい少女が帰ってきたという状況だ。
(なんというタイミングの悪さ……)
己の失態に内心で溜息を吐き、青年はとりあえず両手の土汚れを払い落とす。すると少女は、ひらめいたように「あっ!」と弾んだ声を上げた。
「もしかして、おとうさんがいってた、『かげのひーろー』さん?」
たどたどしくも尊敬に満ちた声音で言う少女に、一瞬だけ顔を曇らせる青年。「影のヒーロー」とは、以前、青年が雇用主から冗談交じりに与えられた称号だ。
「……ヒーローではありません。佐藤です」
語気を強めて否定すると、少女は不思議そうに首を傾げた。
「サトー? ……シオと、サトウ……」
「……調味料は関係ありませんよ」
子どもらしい発想に、青年は眉を寄せて目を逸らす。子どもは苦手だ。青年が属する組織とは無縁で、陽だまりのような笑顔は、見ていると落ち着かない気持ちになる。未知の生物というか、正直に言って扱いに困る存在だった。
だから、これまでも出来るだけ近づかないようにしていたのに……自分のうかつさを恨みつつ「……では」とその場から逃げようとした青年の服を、少女がぎゅっと掴んだ。
「……離してください」
無理に振り払うわけにもいかず硬い声音で言う青年に、少女は服の裾を握ったまま勢いよく頭を下げる。後頭部で結い上げられた長髪が大きく揺れた。
「サトーさん。いつもサラのおうちをまもってくれて、ありがとうございますっ!」
「……!」
予想もしていなかった言葉に、青年は虚を突かれた表情で目を丸くした。サラと自分の名を呼んだ少女は、照れくさそうに口角を上げる。
「にわのおはながきれいなのとか、おいしいごはんがいつでもたべられるのは、『かげのひーろーさん』のおかげって、おとうさんとおかあさんがいってたから。ずっと、おれいがいいたくて」
青年が「自分はヒーローではない」と否定したのにも関わらず、サラは青年をヒーローだと疑わずにはにかんでいる。彼女は再び「あっ」と呟いて、スカートのポケットからハンカチを取り出した。
「て、よごれてるから。サラのハンカチ、つかってください」
ハンカチを強引に青年へ持たせて、サラはもう一度軽くお辞儀をすると、ぱたぱたと玄関の方へ駆けだした。青年はとっさに声をかける。
「カイです。……佐藤、戒」
どうして名前を告げたのか、理由もわからず自分自身に驚く青年。
振り向いたサラは、白い歯を見せて笑った。
「カイさん! また、おはなししてくださいねっ」
手を振り、サラは恥ずかしそうに玄関へと引っ込んでしまう。
ひとり庭に残されたカイは、手に持たされたハンカチを握りしめた。……情を移さないようにと意識的に取っていた距離を、子ども特有のマイペースで一方的に縮められて、なんだか「らしくない」言動をしてしまった気がする。なによりそれを不快に思っていない自分が、カイにとっていちばん不可解だった。
……とりあえずハンカチは明日の洗濯で回して、いつもと同じようにタンスへ戻しておこう。明日の段取りを考えることで平常心を取り戻し、カイは先ほど言われた言葉を思い出す。サラは「また、おはなししてください」と笑っていたが、その願いを叶えられる自信はなかった。
結局のところ、カイは子どもが苦手で、特に幸せそうな子どもを見るのが苦痛だった。温かな家庭も、平穏な子ども時代も、カイにはおとぎ話のように遠い世界の話だったから。
まったく、サラと自分のどちらが子どもなのかと自嘲の笑みが漏れる。
いつか――あの子の名前を、心から慈しむように呼ぶことができるだろうか。でもきっとそれは、カイがいま持っている小さな居場所を裏切ることになるだろうと、カイは直感していた。
「……」
手元のハンカチをポケットにしまい、庭を横切って帰路に就く。サラさん、と唇だけ動かして呼んだ名前は、音にならずに春茜の空へと溶けていった。
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