信用と信頼



 ――どうして、こんなことになってしまったんでしょうか。

 誰もいない食堂を見回して、人影ひとつ、足音ひとつ逃さないように辺りを注視して、私はほっと息を吐きました。それなりの大人数が入りそうな食堂ですから簡単に身を隠すこともできそうですが、ひとまず私以外に人の気配はありません。
 強いて言うなら、調理室の前に立つ男性の眼光が恐ろしいのですが、彼は感情の見えない声で「さあ、急いでください」と私の背を押します。口調だけは丁寧で、まるで催眠術にかけられているような気持ちです。
 握り締めたフライパンの持ち手が震えるのを感じ――いえ、震えているのは私自身の両手です。そんなことは、自分がいちばんわかっています。
 両手どころか頭のてっぺんから足の先まで冷や汗をかき、私――絵心菜緒は、隠し部屋に向かって歩を進めました。ばくばくと跳ねる心臓が、いまにも体を突き破って飛び出してしまいそうです。ふと、大学を受験したときの緊張感を思い出しましたが、それすら比にならないほどの重圧と恐怖で、正直いますぐ裸足で逃げ出してしまいたいです。
 それでも――私は、やらなくてはなりません。もう、後戻りはできないのだから。
 覚悟を決めて扉を開くと、パソコンを操作する音が聞こえました。こっそり中をうかがうと、ニット帽を被った青年がパソコンの画面を食い入るように見つめていました。淡く青白い光を放つ画面に照らされて、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がっています。
 真剣に作業しているらしい彼がこちらに気づく前に、私は無意識に顔を伏せながら、フライパンを大きく振りかぶりました。狙いを外してパソコンに当たってしまわないよう、申し訳ないと思いつつもこちらを振り向く寸前のニット帽子めがけて渾身の力で殴りかかります。
 大きな音がしたような、でもそれは私の頭の中だけで聞こえたような。奇妙で恐ろしい打撲音が響きました。
 思っていたほどの衝撃がなく焦りましたが、殴られた彼は短い驚愕の声を発して、うつぶせに床へ崩れ落ちました。どうやら、顔は見られずに済んだようです。
 机上のパソコンを回収し、私は一目散に隠し部屋を飛び出します。いま誰かに会ったら一発でアウトです。私は決定的に言い訳のしようがない、残忍で凶悪な加害者です。
 凶器となったフライパンを投げ捨ててしまいたい衝動に駆られつつ、ノートパソコンをしっかりと抱きしめて戻った私を調理室に迎え入れて――カイさんは、静かに扉を閉めました。
「……お疲れさまでした」
 カイさんは声の調子をほんの少し柔らかくして、なにを考えているのかわからない瞳に、たしかな安堵の色を滲ませています。彼の様子を見るに、私は大きな問題を起こすこともなく、役目を無事に遂行できたのでしょう。
 安心感と疲労が押し寄せて、深い溜息がこぼれました。緊張の糸が切れた途端、額を中心に全身から汗が噴き出します。
「助かりました、ありがとうございます」
 律儀にぺこりと頭を下げたカイさんから箱を受け取り、私はその場に座り込みました。震えは止まりましたが、しばらくは足に力が入らない気がします。
 箱と交換にノートパソコンを受け取ったカイさんは、暗闇に紛れるようにしてどこかへ去ってしまいました。その後ろ姿へ声をかける気力もなくなり、すがる思いで箱を抱きしめます。
 ――本当に、どうしてこんなことになってしまったんでしょうか。
 カイさんに脅迫されたのは、私の身勝手さが招いた事態ではありますが、そもそもこの状況は最初からすべてがおかしいのです。なにもかも間違っていて、歪んでいて、狂っています。
 中学生の女の子のお姉さんが亡くなったりだとか、みんなで組み立てた人形が意思を持って動き出すとか――ミシマ先生が、死んでしまう、だとか。
 誰もいない調理室で、私は無意識に、ミシマ先生の頭部が納められた箱に顔を寄せます。
「……変、ですよね。こんなの」
 箱の中から返事はなく、だけど中身を開いて確認する気にもなれず、私は当分の間じっと目を瞑っていました。これが悪い夢なら、はやく覚めてほしい。
 けれど、いくら力を込めて頬をつねっても、悪夢は一向に終わる気配がありません。
 暗闇の一部となって身を縮こまらせているうちに、いつのまにか私は本当に眠ってしまいました。

 この異常な環境に閉じ込められてから、まだたった一日も経っていないはずです。
 それなのに、こんな狂った閉鎖環境の中――ミシマ先生は、たったの二十四時間も経たないうちに、ひどく理不尽で不条理な投票の結果、死んでしまいました。
 ミシマ先生は投票の際、私に「お互いに票を入れ合ってみましょう」と言いました。投票を単なる操作テストだと疑いもしていなかった私は、素直にミシマ先生へと票を入れてしまいました。どんな理由を述べようと、私がミシマ先生に投票したのは紛れもない事実です。
 その結果、私を守るために自分自身へ投票していたミシマ先生は――ミシマ先生は。
 肉が焦げる匂いを発するほど熱くなった首輪に焼かれ、それでも教え子の私を必死で守ってくれました。きっと、絵を描くために必要な、私の手が焼かれてしまわないように。
 いつもにこにこしていて温和な先生からは想像もできない、大きな叫び声と、突き飛ばされた時の力の強ささえ、最期まで先生は優しくて。その優しさが永遠に失われてしまったことが、耐えられないほどにつらすぎて。
「……せん、せい……」
 枯れたと思っていた涙が、際限なく溢れだします。たぶん、私が死ぬまで枯れることなんてないのでしょう。それぐらい、ミシマ先生は素敵で尊敬している先生でした。家族や友人とは違う、特別な「恩師」でした。憧れで、理想の大人で――とても、大切な存在でした。
『……私にとっても、大切な人ですよ』
 不意に、暗闇の中で誰かの声が聞こえました。ミシマ先生のような、もっと感情の薄い、別人のような。ミシマ先生のことばかり考えていたから、空耳でも聞いてしまったのでしょうか。
 うっかり眠っていた自分に気づいて、私は目を覚ますと同時に慌ててミシマ先生の箱を抱きなおしました。
「……ミシマ先生」
 箱越しに呼びかけても、当然のように返事はありません。どんなに忙しいときでも、嫌な顔ひとつせずに笑って応えてくれた先生は、もうずっと長い間沈黙を続けています。そんな現実を振り払うように、私は何度も何度もミシマ先生の名前を呼びました。
 そうして一瞬、さっき聞こえた声は、もしかしたら本当にミシマ先生の声だったんじゃないかと思った私は――首を振って、もう一度声の温度を思い出してみました。表情の乏しい、だけど限りなく優しい、あの声は。
 混乱する脳を整理する間もなく、調理室の扉に鍵の差し込まれる音がして、私は瞬時にそちらへ目をやりました。カイさんや誘拐犯ではなくて、サラちゃんたちが私を探しに来たのだと直感します。
 私はミシマ先生の入った箱をそっと床に置き、扉を――正確には、扉の向こう側にいる人たちを、きつく睨みつけました。
 ミシマ先生は誰にも奪わせない。今度こそ私が守るんだという、見当違いな決意を抱えて。

 どこまでも独りよがりで自分勝手な私の決意は、サラちゃんたちの言葉と熱意によって、少しずつ解きほぐされていきました。今にして思うと、周囲のことを想い親身になってくれるサラちゃんの優しさは、なんだかミシマ先生に似ています。
 私にとってミシマ先生がどれだけ大切な恩師であっても、それで他の人を危険に晒してはいけない――ミシマ先生は、もう死んでしまったのだから。
 改めて突きつけられた現実は、やはりまだ受け入れがたいほど残酷でしたが……私は、おとなしくミシマ先生の箱をサラちゃんたちに渡しました。ミシマ先生だったら、そうすると思って。これ以上周りに迷惑をかける私を見られるのも恥ずかしいというか、ミシマ先生に怒られてしまいそうです。
 けれど、もちろん先生への敬愛の念が消えたわけではありません。本音を言うと、ミシマ先生とあの箱への執着心も、少しだけ残っていました。
 だから――ミシマ先生の頭部が消えたと聞いたときは、頭が真っ白になってしまいました。
 ミシマ先生の頭部が納まっていた箱は、ずっと私が持っていましたから、そうなると怪しいのはカイさんです。私は、カイさんに脅迫されてソウさんからパソコンを奪う際、あの箱を調理室に置いていきました。ずっと調理室で私を待っていたカイさんなら、箱の中身を――ミシマ先生の頭部を隠すことも容易だったでしょう。
 だけど、カイさんは平然とした顔ですべてを否定しました。正面から堂々と私を嘘つきだと言ってのける姿に、私は困惑と戸惑いの混ざった複雑な心境で彼を見返します。
 ――思えば、初対面のときからカイさんは不思議な人でした。
 普通とは変わっているというか、変人とはまた違いますが、どこか浮世離れしているような……ミシマ先生もよく変な人と見られてしまうことが多いですが(失礼ながら私も最初の頃はそう思っていましたが)、カイさんの纏う「変わった雰囲気」は、ミシマ先生のそれとは似て非なる異質なものです。
 男性にしては長い髪に、女性と見間違いそうなほど整った顔立ち。黒づくめの服に赤いエプロンを身に着けた体は、すらりと均整がとれていて、デッサン用の石膏像みたいだなと思ったことを覚えています。
 そのときは「少し不思議な、変わった人」でしかなかったカイさんへの印象は、笑い人形を名乗るホエミーとの邂逅で、「敵ではない、私たちの味方側にいる人」に変わりました。
 ホエミーに責められたカンナちゃんを庇うような様子には、きっと誰もがカイさんに一目置いたことでしょう。あのときは私もカイさんをすっかり信頼して、だからカイさんへ調理室に引きずり込まれたとき、驚きながらも強く抵抗することはできませんでした。
 私の信用さえ逆手に取ったカイさんが何を考えているのか、まるで見当もつきませんでしたが、この期に及んでも私は――なぜだか、カイさんを根からの悪人だとは思えませんでした。
 彼の何事にも動じない眼差しや言動は、ときおり見せるとぼけた仕草も相まって、欲というものを感じさせません。……むしろ彼は、彼自身以外のなにかに重きを置いているような。
 そんなことを考えつつ、私も私にかかる疑惑を払うために必死で反論します。カイさんがなにを考えているか、悪人なのか善人なのかは、私が考えてもしょうがないことです。
 そうして議論が進み、さまざまなことが明らかになるにつれて、カイさんの怪しさはどんどんと増していきました。
 ソウさんの説明でカイさんは誘拐犯側の人間であるという線が浮上しましたが、肝心のパソコンがないこともあり、いまいち決め手に欠ける状況です。けれどもカイさんは、白熱した議論の末に多数の票を集めてしまいました。
 私を脅迫したことを認めたにもかかわらず、あのときカイさんを糾弾した人はほとんどいなかったように思います。余裕がなかったのもあるでしょうが、やっぱりみんな、どこかでカイさんに対して引っかかる所があったのでしょう。
 決して善人ではないけれど、完全な悪人とも言い切れない。誰の味方かわからないけれど、単純な敵でもない。
 あまりにも謎めいているカイさんの素性に悩んでいるうちに、彼もまたミシマ先生と同様に犠牲者となってしまいました。
 死を宣告されて初めて、強い感情をあらわにした彼は――死にたくないと蒼白な顔で懇願し、けれど結果が覆らないと決まったときには肝の据わった態度を見せていました。もともと美しい容姿の彼は、死を前にしていっそう精悍に見えましたが――それとは正反対の、人間らしい弱さものぞかせていた気がします。
 自らの手で死を迎えた彼の最期は、ひどく凄惨であり、壮絶でした。
 そして彼は、両の手首からおびただしい鮮血を流しながらも、死の間際までサラちゃんに強く呼びかけていました。
 苛烈な叱咤と慈しむような激励を贈って、満足だと笑ったカイさんの死に様は……ただの悪人とは思えない潔さに満ちていました。
 結局、彼が何者だったのかは分かりませんでしたが、おそらく本当に敵ではなかったのでしょう。直に脅迫を受けた私でさえそう思ったのですから、他のみんなもだいたい似たようなことを思っていたはずです。……ソウさんやアリスさんは、分かりませんが。
 ともかく、カイさんが実際はどういう人物だったのか、彼が何を目的に動いていたのかは謎のままでしたが、本人が死んでしまった以上、私たちに彼の真意を知るすべはないのでしょう。
 私たちは、自分が生き残るために最善を尽くし続けるしかない。犠牲となったジョーくんやカイさん、ミシマ先生の分まで、このゲームに抵抗し続けなければいけない。もう、泣いてばかりいるわけにはいかないのです。
 カイさんの謎にかすかな疑問を抱きつつ、それももう忘れた方がいいと記憶に蓋をしたときでした。
 人工知能としてよみがえったミシマ先生と、再会を果たしたのは。

 モニターに浮かぶミシマ先生を見たときの心情は、今でも的確に言い表すことはできません。純粋な歓喜と、そんなはずないという動揺と、でも画面に映るミシマ先生は、本当に大好きな先生その人だという確信と。いろんな気持ちが渦を巻いて、またミシマ先生に会えたという揺るぎない現実がひたすらに幸せでした。……あのときは、別れの言葉も言えないほど唐突でしたから。
 もう流さないと決めたはずの涙をぼろぼろとこぼして、それでも私は、この幸せに甘えてはいけないのだと理解していました。
 モニターのミシマ先生は、ミシマ先生であってミシマ先生ではありません。先生は死んでしまったのです。死んでしまった人が生き返るなんて、きっとあってはいけないことなのです。
 だから私は、しばらく懐かしのミシマ先生とたくさんの話をした後で――きっぱりと、決別する道を選びました。
 ……悲しくて、辛くて、どうしようもないやりきれなさに胸が締め付けられます。心臓の位置が分かるくらい痛む胸に、溢れる涙はやけに水っぽくて。
 味のしない涙で服をびしょびしょに濡らし別れを告げた私に、ミシマ先生は少し寂しそうな――それ以上に嬉しそうな顔で、私のことを褒めてくれました。本当に強くなったと笑って、誇りに思うと微笑んで、出会ったときと変わらない優しさで背中を押してくれました。
 せっかくきちんとしたお別れができるのですから、泣いている顔で別れてしまうのは勿体ない気がして、私は一生懸命口角を上げて笑みを作ります。不格好な笑顔になってしまったでしょうが、今度こそ笑ってさよならを言えました。
「さようなら、ナオさん」
 笑顔のミシマ先生は、慈愛に満ちた表情で告げて、モニターの画面は真っ暗になりました。
 私は、電源の落ちたモニターに額をつけて声を殺して泣きました。床に水溜まりができるのを感じながら、二度と会わないと決めた先生に心の中で語りかけます。
 私は、きっとまだまだ弱い存在で。一人で立つことも、一人で歩いていくこともできない、臆病で頼りない人間です。
 でも、だからこそ、みんなで力を合わせて、支え合って、このデスゲームから脱出したいと思っています。誰かに助けてもらった分、誰かを助けられる人間でありたいと強く願っています。誰に利用されても、誰かを利用することになっても、もう逃げ出すつもりはありません。
 もしも、またいつか会えることがあるならば――そのとき胸を張って、心からの笑顔を見せられるように。

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