カイさん、主夫をお休みします(後編)


 結局、カイはモニタールームを後にしたその足で一階フロアへ戻ることにした。モニターで確認すると、調理室には作業をする参加者の姿があったので、少々遠回りだが階段を使って階下へと降りていく。
 静かなフロア内をたった一人で歩いていると、まるで施設にひとりきりになったような錯覚を起こす。それはカイが幼少期にアスナロで過ごしていた頃の感覚とよく似ていた。千堂院家で働くようになってから、そしてこの閉鎖空間で他の参加者たちと過ごすようになってからは忘れていた感覚だ。
 彼らと、どんな顔で再会すればいいものか。カイは陰鬱な気分で下を向く。それでも、歩みを止めることはしなかった。立ち止まったところで、他に逃げ込む場所もない。
 せめて職務を放り出したことは謝らなければ、と、それだけの使命感にも似た責任感に背を押され、二階フロアへ続く扉にそっと手をかける。キィ、と鉄の扉がきしむ音に、周辺に人影がないか注意しながら、細身の体を素早くすべりこませた。
 たった半日も経っていないというのに、大半をサラたちと過ごしていたフロアの空気は懐かしい気さえした。さて、モニターで確認した通りなら、サラたちは一階フロアの食堂付近を探索しているところだろう。サラたちとは別動隊に、二階と一階を繋ぐ階段近くにも、施設内を探索している参加者がいたはずだ。大浴場では洗濯をしている面々もいるかもしれない。
 まずは家事を肩代わりしてくれているであろう参加者に、謝罪と礼を言わなくては……カイは一階へ降りるより先に、大浴場の方へ歩を進めた。本来ならば自分を探している参加者たちのもとに行くべきことは重々承知しているが、最初にサラと顔を合わせれば、罪悪感で押し潰されてしまいそうだった。
 カイの読み通り、二階の大浴場には電気がついていた。中では複数人の話し声も響いている。小さく咳払いをして、カイは浴場のドアに手をかけた。
 すみません、と声をかけようとしたそのとき、それよりも先にカイの背に衝撃が与えられた。
 押されるのとは違う、身を委ねられるような、それでいてすがりつかれるような奇妙な感覚。
 背後を取られたことに一瞬だけ狼狽したカイは、しかし自身の背に突撃してきた者の柔らかな感触に敵意がないことを感じ取って警戒を解く。落ち着いて振り向けば、そこには見慣れたポニーテールが揺れていた。
「……サラ、さん」
 思わず呆けた声をこぼしたカイに、彼の背中に顔を埋めた格好のサラは、頷きだけで返事をした。一拍の間を置いて、彼女からも消え入りそうな声が返ってくる。
「……心配しました」
「……すみません」
 深い悲しみが内包されている声に、カイは叱られた子どものように眉を下げる。「ご迷惑をおかけしました」と続けたカイの謝罪に、サラはばっと顔を上げた。きらきらと光る宝石のような紫の瞳が、正面からカイの目をまっすぐに見た。痛いほど真摯な瞳に、カイの目は射抜かれたように動けなくなる。
 カイの目を見据え、サラは彼の手を取って「こっちに来てください」と階段に向かって手を引いた。突然の行動に、カイは口を挟む余裕もなくサラの後をついていく。
 そのまま一階フロアに降りると、サラは無言のまま迷いのない足取りで先に進んだ。広間を横切り、食堂の前でおもむろに足を止めてカイに向き直る。なんの説明もなく引っ張ってこられたカイは、自分を見つめる少女にびくりと硬直して立ち止まった。
 そんなカイに気付いているのかいないのか、サラはカイの手を取りもう一度謝罪の言葉を口にする。
「私たち、カイさんがいなくなってから本当に心配で……寂しかったんです。いっぱい迷惑をかけていたことに気付けなかったのも、申し訳なくて」
 ときおり声を詰まらせながら述べるサラに、カイの方がかえって恐縮してしまう。
「そんな、私の方こそ自分の力量を見誤っていたのですから……サラさんが謝るようなことは、なにも」
 おろおろとかぶりを振るカイ。サラは一旦そこで言葉を区切り、「――なので、カイさんにはもっと伝えなきゃいけないことがあったんです」と真面目な顔で言った。
 それを聞いたカイは、まさか「カイさんはもう家事とかしないで大丈夫です!」と解雇宣言をされるのではと背中に冷や汗を垂らす。必要とされなくなるのは、彼にとってどんな迷惑をかけられることよりもつらいことだった。
 一気に顔色が悪くなったカイには気付かず、サラは食堂に一歩、足を踏み入れた。「サラさん、待ってください」震える声で引きとめるカイを、無邪気な笑顔で招き入れる。
 彼女には抗えず、恐る恐る食堂へ足を踏み入れたカイは――中央のテーブルを囲む複数の参加者たちの姿に再び体の動きを止める。遅れて、鼻孔をくすぐる匂いに気付き、卓上の大皿を見下ろす。テーブルにはリボン型のパスタで作られたシーフードグラタンと、色鮮やかなミモザサラダが並んでいた。グラタンの上には、薄くスライスされたゆで卵が添えられている。
「これは……」
「マイさんに教えてもらって、オレたちで作ったんっス」
 テーブルのそばで、ジョーが白い歯を見せて笑う。「ギンがサラダの葉をちぎって、オレとサラはグラタン担当で」
「家事も他の連中が済ませとるきに、お前さんの今日の仕事は、よく食って休むことじゃな」
 カカカ、と豪快に笑うQタロウ。ぽかんと口を半開きにしていたカイのお腹が、思い出したようにきゅぅと鳴る。そういえば今朝の騒動で朝食を食べ損ねてしまい、今日はなにも食べていないままだった。
「ええと」
 降ってわいた出来事にまだ戸惑っているカイ。サラは、場にいる参加者を見回して苦笑しながら言った。
「いつも頑張ってくれているカイさんに、ちゃんとお礼がしたかったんです。カイさん、いつもありがとうございます」
 にっこりと微笑まれて、カイの頬に薄く赤みが差した。ジョーやギンも「いつも本当にありがとうございますっ」「やっぱり、ロン毛エプロンのご飯がいちばん美味しいニャン」とカイに感謝の意を示す。
「おまわりさんたちは食堂の掃除とテーブルセッティングなんかを手伝ったけど、見かけによらず意外と疲れるもんだね」
「これからはオレたちも積極的に手伝うきに、いつでも声をかけるぜよ」
 ケイジが首の後ろに手を当てて呟き、Qタロウも「これはこれで良い運動になるぜよ」と溌剌と笑う。
 サラは胸に手を当てて頬を染めた。
「今まで、こんなに大変なことを一人で頑張ってくださってたんだなって……反省もしましたけど、感謝の方が大きかったです」
「……いえ。私の方こそ、大人げなかったです……」
 気恥ずかしさに耐えられなくなったのか、カイはどこからか取り出したフライパンで顔を覆った。「そんなもんどこに隠してたんじゃ!?」驚愕するQタロウに、ジョーが「だめっスよ」とカイのフライパンを取り上げてしまった。
「今日は一日、主夫をお休みしてもらいますから」
 フライパンを背に隠したジョーに、カイはあわわと動揺した様子を見せる。しかし絶対にカイを休ませるという目的で結託したらしい彼らの顔を見て、観念したという風にふっと笑った。
「……私の方こそ、ありがとうございます」
 目を細めて、カイは大人しくテーブルに着き手を合わせた。良い香りのするグラタンをスプーンですくい、唇に触れる直前で息を吹きかける。ぱくりと一口分だけ食んで咀嚼し、彼はふにゃりと頬を緩めた。
「ふふ、とても美味しいです」
 憑き物が落ちたような清々しい笑みを浮かべるカイに、サラとジョーが手の甲を合わせて逆ハイタッチをする。ギンが「サラダも食べるニャン!」とぐいぐい勧め、食堂には和やかなひとときが流れた。
 ところどころ焦げ目の付いたグラタンと、瑞々しく盛りつけられたサラダは、カイがそれまでに食べた料理の中でも一等美味しく感じられた。

 食後のコーヒーを飲み終え、いそいそと後片付けをしようとするカイを「もはや職業病っスね」と苦笑して風呂へ向かわせるジョー。「まだお昼ですが」遠慮するカイに「たまには昼風呂もいいもんぜよ」とQタロウも背中を押し、入浴の前に他の参加者たちへ帰ってきたことの報告をして回る。みんな一様にカイの帰還を喜んで、それから普段のお礼と謝罪をした。カイも、心配をかけてしまったことを謝り、これからは出来るだけ人の力を借りるようにすると約束する。
 挨拶回りを終えて湯浴みをし、個室に戻って休息をとる。まだ日の高い時間帯だというのに、カイはいつのまにか深い眠りへと落ちていった。

 久しぶりの熟睡から目を覚ますと、体は随分と軽くなっていた。時計を確認してそろそろ夕食時の時間だなとあたりをつけ、カイは食堂に足を踏み入れる。
「あれ、もう起きたのかい? もう少し休んだら?」
 こりずに卵泥棒を働くケイジの手をフライ返しでぺちんと叩き、カイは「じっとしていると、なんだかかえって落ち着かないもので。私はやはり、主夫をやっている方が性に合うようです」と困ったように笑う。
「カイさんのご飯が食べられるのは嬉しいけど、あんまり無理しちゃだめっスよ?」
「おやおやぁ? ジョーくん、私のご飯じゃ物足りなかったかなー?」
「マッ、マイさん! それとこれとは別っスよ!」
 わちゃわちゃと騒ぐ面々を困った顔で見つめ、それでもカイはどこか嬉しそうな笑みをたたえた。それは、世話を焼くべき存在がいることの大変さと、その幸せの両方を含んだ穏やかな笑顔だった。
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