世界その???:賢者と憎愛の花言葉
――惨苦に溺れて呼吸が止まり、心臓の鼓動を感じられなくなる。まるで体内が空っぽになったみたいだ。五感が鈍く機能停止したのだと、カイは悟った。
視界は白くなったり、黒くなったりしていて、妙に現実味が感じられない。自分の体から魂が抜け出てしまった風の感覚で、けれどかえって脳は濃い霧が晴れていくようだった。
「……」
ああ。今度こそ、本当に死んでしまった。色のない世界で他人事じみた思いを抱く。
せっかく幸運にも蘇生したのに、またしても死を迎えてしまった。手首を切ったときには、こんな感覚にはならなかったから、ここから生き返ることはできないのだろう。そう確信するに足る、あまりにも説得力に満ちた「抜け殻」の感覚。
ゲームオーバーという単語が脳裏をよぎり、けれどまあ、わずかな延命の時間中にやれるだけのことはやったはずだと己を慰める。ガシューから取り返したパソコンが、サラたちを希望に導く一助となれば……それで思い残すことはない。死してなお、サラや千堂院家の夫妻、他の生存者たちが無事にもとの日常へ戻れることを祈るだけだ。
カイの心は不思議と凪いでいた。諦めではなく、最期まで全力を尽くせたことに対する満足感に包まれている。あんな地獄にサラたちを置いてきてしまったことは心苦しいものの、きっと彼女たちならば組織を打ち倒すことができるだろうとも予感していた。それはただの希望的観測に過ぎなかったが、カイは一片の曇りもなく全員の無事を願っていた。……サラの、これからの成長を見守ることができないのは、とても悲しく不甲斐ないことではあるのだが。
ところで、ここは一体どこだろう。一人での思索を中断し、カイは漠然と浮上した疑問について考えた。とっくに肉体の感覚はなく、まるで夢を見ているときのような思考の波だけが寄せては返している。
夢現。まどろみの如きおぼろげな意識の向こう側から、唐突にだれかの声が響いてきた。
「――ずいぶん遅かったじゃねーか」
カイ、と。
自分の名前を呼ぶ声に、カイはまぶたの裏が真っ白く光ったと錯覚した。いや、それは錯覚ではなく、気付くと彼は自らの肉体を取り戻して草原に立っていた。
どこまでも続く草原。地平線が見えるくらいにだだっ広い庭は、カイにとって見覚えのある原風景……子ども時代に多大なる時間をそこで過ごした、アスナロの訓練場だ。外界と施設内を隔てる柵は見当たらず、揺れる草花や木々の手前に、一人の少年の立ち姿が見える。
陽に照らされた鮮やかなオレンジ色の短髪。あどけない焦げ茶色の目。黒い長袖長ズボンの制服。子どもらしい未成熟な体躯。
まっすぐにこちらを見つめる少年へ、カイは震える唇で彼の名を呼び返した。
「……セイ……?」
「おー。なんだオメー、お化けでも見たって顔してさ」
少年――セイは頭の後ろで腕を組んで頷き、「今じゃオメーもお化け仲間だっての」と笑う。その声も笑顔も、懐かしい記憶そのままによみがえっていて、カイはがむしゃらにセイへと飛びついていた。
「わっ、」
セイが避ける暇もなく、彼の全身をカイがすっぽりと覆い尽くしてしまう。大人のカイに抱きしめられた子どものセイは、カイの腕の中で息苦しそうに身をよじった。
「おい、ちょっと、急に……」
不機嫌な声でカイを押しのけようとするセイだったが、
「っ……」
頭上から降ってくる雫が頬を濡らし、漏れ聞こえる嗚咽に動きを止める。
少しだけためらって、彼はカイの頬にそっと手を伸ばした。制服の袖でカイの目元を乱暴に拭い、呆れ気味の苦笑いで顔を上げる。
「まったく、しょうがねー『おとうと』だな」
カイが返事の代わりに鼻をすする。彼はとめどなく溢れる涙を流したままで、セイの肩に顔を埋めていた。なにかを言おうとするのにしゃくりあげるばかりで、息が詰まって一向に言葉を発することができずにいる。体を離せば消えてしまうのではと、セイを抱きすくめる力はますます強くなった。
カイの背を叩くセイは、見た目は幼い少年だが、もう何年もそうしていたかのような「おにいちゃん」の包容力を感じさせた。泣きじゃくる弟をなだめる兄といった風情で、年長者らしい仕草が様になっている。もっとも、外見年齢的には立場が逆転しているのだが。
「鼻水つけんなよー?」
冗談混じりに言いながら、セイはカイが落ち着くまでずっと背中をさすってやった。
ひとしきり泣いて、カイはようやく我に返った。黒い瞳はまだ濡れていて、赤く充血した目にハイライトのような光が反射している。泣きすぎたせいで鼻の頭もかすかに赤くなっていて、セイは「ほんと泣き虫なやつ」と今度は笑わずに言った。
「図体ばっかでかくなって、すぐ泣く癖は変わってねーのな」
「そ、そんなに泣いてませんよ……普段は」
気恥ずかしさで口ごもりながら言い返すカイ。
セイは、やっと抱擁を解いたカイに、にやりと笑って目線を合わせた。
「知ってる。ずっと見てたし」
物言いに、カイは複雑な面持ちで口をつぐんだ。つまりは幽霊、ということだろうか。質問は声に出せず、言葉に詰まってただ下を向くことしかできない。
二人は訓練場の一角、草花が揺れる木陰に腰を下ろしていた。眩しい陽光や頬を撫でる風は、現実と遜色ない温度や心地良さを持っている。けれど、ここが現実世界でないことくらいカイはすぐにわかった。カイとセイがよく訓練していた裏庭は、心象風景らしく郷愁を誘う美しさだった。
実際に過ごしていた頃は、美しいだなんてただの一度も思わなかった。遠い過去を追想するカイに、セイが沈黙に耐えかねた調子でぼそりと呟いた。
「……にしてもオメー、けっこう長いあいだ、オレのこと忘れてただろ」
言いづらそうに、でもはっきりと棘を含んでカイを見るセイ。「薄情なやつ」と付け加えた眼差しは、幼い子どもがすねたようでもある。
カイは思わずセイを見返して、すぐには「違う」と否定できずに言いよどんだ。どうしても泳いでしまう目の先で、青い小花が群れとなって咲いているのが見える。とても小さくて可憐な花は、彼が忘れていた思い出を鮮明に想起させた。
大袈裟に唇を尖らせるセイへ、カイは言い訳じみた釈明の言葉を発した。
「た、確かに、ここ最近はいろいろ大変で、過去に浸る時間もありませんでしたが」
恩人である千堂院家の人々と、その愛娘を守るためだったのだから仕方ないでしょう? ……ちょっと台詞が長すぎる。それになんだかんだで言い訳くさいし、これまでのあれこれをつぶさに説明するのも大変だ。だいたい、ずっと見てたと言うならある程度の経緯はセイ自身も把握しているだろう。
考えて、言い回しよりも内容自体の方向性を変える。
「……本当に大事な人のことは、忘れたくても忘れられないんでしょう? 昔、セイからそう聞きました」
言いながらすぐそばに咲いている花へ目をやると、セイもつられて青い花へ視線を移した。もう十数年も前のこと、いつもと代わり映えのない日課訓練のときのことだ。
晴天の下で、通常通り手合わせをすることになって。カイが「せっかく咲いている花を荒らしてはいけない」と言い、それを小馬鹿にしたセイが「それなら、オメーがその花を守ってみろよ」と挑発した。最終的にカイは花を守り切れず負けてしまい、踏み荒らされてしまった青い小花たちは、けれどいまこの場所ではまさに盛りといった様子で愛らしく咲き誇っていた。
セイも、当時のことはしっかりと覚えていたらしい。彼は尖らせていた唇をへの字に曲げて、「ふん」とわかりやすく鼻を鳴らす。
「ってか、なんだよその喋り方。なんかぞわぞわして気持ち悪いから、やめてくんねー?」
セイはわざと悪ぶった険のある言い方をして、言われたカイは困り顔で声を途切れさせる。ややあって、彼は恐る恐るといった挙動で子どもの頃の口調を使った。
「う。……もう大人、だし。セイ以外にはずっと敬語だから、なんだかむず痒くて変な感じ……だ、」
幼少期の言動を思い返し、こうだっただろうかと不安になりながら昔の己をトレースする。世界に絶望するより以前の自分は、それ以降の自分とはひどく乖離していて、いまになってなぞろうとしてもぎこちなさが残った。第一、成長した大人の姿で子どもの頃の振る舞いをするのは、一種の幼児退行じみていてなかなか羞恥心を煽られる。
それでもセイはそちらの方が居心地が良いらしく、「そーそー。そっちの方がオメーっぽい」と上機嫌で相槌を打った。
セイは本当になにも変わっていないらしい。無慈悲な実状を突き付けられ、カイは湿っぽく微笑んだ。
「セイが大人になってたら、どんな風だったかな」
残酷な想像だろうか。
機嫌を悪くするかも、とセイをうかがうカイに、セイは思いのほかあっけらかんとして口を開く。彼は、足元の青い花に触れながら言った。
「まあ、オメーよりでかかっただろうなー。んで、カイよりもずっとたくさんの任務をこなして、父さんにいっぱい褒められて、カイのことなんか顎で使ってたりして」
「……」
現実にならなくて良かったと思いつつ、カイは額に怒りのマークを浮かべて黙った。ろくでもない大人だなとか、そんなことになってたまるかと口答えしたくもあったが、そのどれもを呑み込んで押し殺す。仮にどんな未来だったとして、やっぱりセイにも生きて大人になってほしかった。
気を抜くとすぐに黙ってしまうカイに代わり、自然とセイの口数が多くなる。彼は努めてなんでもないことのように告げた。
「たられば話なんか意味ないって。……オレと再会したってことは、オメーの人生も、もう終わっちまったってことだ」
極力、感情を排した口ぶりで。セイは周りの草花をむやみに手で探り、ちぎるでも荒らすでもなく所在なげに地面へ後ろ手を突いた。
カイは、さすがにうなだれて声を落とした。わかっていたことでも、面と向かって断言されるとやはり辛いものがある。彼は未練を断ち切るように白々しく笑った。
「……まあ、やれるだけのことはやったさ」
セイは勢いよくカイを見て、しんみりしていた空気を吹き飛ばして笑った。
「いやー、凄かったよな。組織の連中、デスゲームなんてガキくせーバカみたいなこと始めやがったと思ったら、オメーは早々に死んじゃってさ。こっちにくんのかなーって待ってたら、いつのまにか生き返ってるし。それで父さんのパソコン盗ったりしてさ。なんかオレそっくりの人形? もいるし、」
あの世からの観客として、一連の騒動をそれなりに楽しみながら観ていたらしい。
面白さと驚きがないまぜになった感想を聞き、カイはセイにそっくりな人形について軽く話した。あまり触れたくない話題だが、無視することもできない。
「ガシューは、自分に逆らわない息子が欲しかったんだって」
セイは、カイが「ガシュー」と呼んだことをスルーした。
彼は過剰に反応するでもなく平然としていた。
「あー。お前、千堂院に行ってから変わったもんな。オレにも多少の反抗期はあったんだけどなー」
片足だけ立膝にして、膝頭に肘を乗せて頬杖をつき目を伏せるセイ。
カイは、思い立ってセイに気になることを訊ねた。
「そういえば、結局ここっていわゆる『あの世』ってところでいいのかな」
いまさらな質問を、セイは首を縦に振って肯定した。「じゃあ、セイが見てたみたいに、ここから現実世界を見ることもできる?」少しの希望を持って問いを重ねたカイだったが、セイはあまり勧めないと言いたげな表情を作る。
「見るだけ見れても介入は無理だし。だいぶ歯痒いからやめとけよ」
「む……そっか、介入はできないのか……」
そうなると積極的に見たいと思う気持ちも萎えて、カイはもうひとつだけ問いかけた。
「ここに、セイ以外の人はいないの?」
ほとんど間を置かない首肯。セイは無言で、首の動きだけで答えて、「……オメーより先に死んだやつらも見てねーし」と足した。
「……まあ、ここはアスナロのエージェント育成用の訓練場だし。共通の思い出がある人しかこられないのかも」
納得したように呟いたカイへ、セイが「センチなやつだな」と笑う。
そして、彼はカイに向かって直球の質問を投げた。
「千堂院のサラさんが心配?」
訊かれ、カイは苦虫を噛み潰した顔で嘆く。
「……こう、一方的に知られてると……ちょっと気持ち悪いな」
「死者の特権ってやつ?」
引き気味のカイに、セイは悪びれずに言って先を促した。
カイは、もはや隠す必要もない本心を吐露した。
「せめて、サラさんが大人になるまでは守りたかったんだけど」
「そんなに気に病まなくても、充分恩は返したんじゃね?」
「そうかな……返そうにも、返しきれない恩って感じだったから」
セイを失ってから、温度さえ消えてしまった無彩色の世界に放り込まれた過去を思い出す。誰のことも信じられず、頼る相手もおらず、ただ死なないために生きているだけだった子どものカイに、新しい「生きる理由」を与えてくれた一家。
全身に血の巡る感覚が戻り、生きていることが楽しいと――幸せだと思えるようになったのは、紛れもなく千堂院家の人々のおかげだ。その恩義に報いるためには、貰った命を使い果たすことさえ惜しくないと思っていたのだが。気付けば本末転倒で、もっと長くあの温かな居場所に留まりたいと願ってしまっていた。
寂しげな横顔で空を見るカイに、セイが大仰な溜息を吐く。カイは、はっとしてセイを見た。