世界その???:賢者と憎愛の花言葉

 どんなに過酷な訓練を受けようが、弱音ひとつ吐かなかったセイが、初めて声を震わせていた。
 怖い、死にたくないと。泣きながら息絶えたセイを抱擁して、生き残ってしまったカイも大きく泣いた。
 初対面の頃からしばらくは、自他共に認める険悪な仲で。
 ある出来事を通じて、実の兄弟同然に打ち解けて。
 カイは、セイとよく訓練していた裏庭のことを思い出した。春先に咲いていた花を蹴散らそうとするセイと、ムキになってそれを止めるカイ。花はいつも静かにそこで咲いていて、セイが何度踏み荒らそうと、カイに守られるまでもなく鮮やかに空を仰いでいた。
 久しぶりの追想は、幸せなひとときのことを際限なく想起させる。現実逃避にも近しい回想を、カイはほのかにその表面だけを撫でるので留めておいた。
 こんなところで立ち止まっている暇はない。そう胸の中で強く思い、セイとの日々をしまい込む。自身が無事では済まなかったとき――死の間際に思い出せたらと、大切に丁寧に封じ込める。
 カイは隠し部屋とピンクの部屋を繋ぐ通気口を見やり、辺りに人の気配がないことを確認する。組織側の人間、生存者たちのどちらもいないと判断し、素早く三階フロアへの移動を試みる。
 フロア奥の医務室を目指して駆ける顔に、動揺や迷いは少しも残ってはいなかった。

「あう、カイさん……こちらに戻ってきてしまったんですか?」
 医務室奥の研究室で、ハンナキーは困惑をあらわにした。
「そろそろ、フロアの最終点検に行かないと……」
 困っているハンナキーをよそに、カイはベッドから起き上がっているノエルに声をかけた。改まって名を呼ぶとなると、セイの面影も相まって無駄に気まずくなってしまう。
「ええと、……トト・ノエル、でしたね」
 ノエルは、トゲのある声で「あー?」とカイを振り返った。すっかり調子を取り戻したらしい。
 カイは、軽く咳払いして言った。
「父は、あなたをセイだとは見なしていませんでした。完全に独立した別個体……でしょうか。セイの人格をもとにしつつ正の感情を抜いたあなたこそ、自分に忠実で理想的な息子だそうです」
 話を聞いて、ハンナキーが「えっ」と間の抜けた声で目を見開いた。
 聞かされたノエルは、不機嫌な顔のままに「……で?」とカイを睨んだ。
「いまさらなんだよ。父さんと話でもしてきたわけ?」
 地を這うような低音が、カイに絡みついて粘着質にまとわりつく。
 ノエルは、吐き出す言葉の一音、一音に深い憎しみの感情を込めて言った。
「オレ以外の息子なんか、父さんに必要ない……」
 そうでしょ? 父さん。場違いな笑い声と共に、彼の瞳が渦巻きを浮かび上がらせていく。
 カイがじり……と後退して、ノエルがカイに一歩近づいた。腰に刺さっているパネルを口元に運び、彼は物騒な目付きでカイを捉える。
 ノエルがカイを攻撃しようとして、その動作は、コンマ一秒のところで緊急停止した。前傾姿勢でカイに突っ込もうとしたノエルの首を、ハンナキーがスタンガンでぶん殴っていた。
「うう……私はガシューさんではないので、手荒に止めるしかないんですよ」
 ばちばちと電撃の線が走るスタンガンを握り、彼女は恐怖を顔に貼り付けて呟いた。床に崩れ落ちたノエルを見ながら、「さすがに、ここで暴れられると困るんです」と強気の口調でこぼしている。
「カイさんは、極力ノエルさんと顔を合わせないでください」
 気弱な空気を消し去り、語気を強めて申しつけるハンナキー。
 カイは「……すみません」と大人しく謝罪して、フリーズしたノエルから目を離した。そして不意に、「そういえば」となにか思い出した顔でハンナキーへ向き直った。
「ノートパソコンを見ていませんか? 私物なのですが、父に取られてしまって」
 一階でガシューに回収されたままのパソコンについて、手掛かりがないかと問いかけるカイ。
 ハンナキーはノエルをベッドに立てかけながら首をひねった。
「パソコン……ですか。残念ながら、見た覚えはないですね」
 言って、彼女は「あっ、でも」とさらに言葉を追加した。
「三階フロアには、ガシューさんしか知らない秘密の部屋があると聞きました。隠しごとをしているなら、そこかもしれません」
 思いついたままに喋ったハンナキーは、すべて言ってしまったあとで慌ててカイに言い募った。
「でも、この階はもうすぐで次の会場になるので、カイさんはうろついちゃダメですよ」
 ピンク部屋の奥の隠し部屋にいてくださいと言われ、カイはガシューにもそこにいろと言われていたことを思い出す。ハートの通気口さえ開かなければバレることのない密室だ。
 ノエルさんが起きる前に早く、とカイを追い立てるようにして部屋から退出させるハンナキー。
 カイは「しょうがないですね」と物わかりのいいふりをして、ガレキの部屋へと引っ込んだ。そこからハンナキーが研究室へと戻ったのを見届けると、彼は足音も立てずにフロアの廊下へときびすを返す。
 周辺には誰の気配も感じられない。生存者たちがこの階へ来るまで、まだ余裕はありそうだった。
 カイはガシューの「秘密の部屋」を探して探索を始めた。

 しんと静まり返っている三階フロアは、長い廊下のあちらこちらに部屋がある。いくつも同じ扉が並んでいるのは、寝所として使う個室だと思われた。
 ガレキ部屋を過ぎてただまっすぐに歩を進め続けると、やがて広間に突き当たった。内装がホテルのようなので、ロビーと言うのが正しいかもしれない。照明はついておらず、呼吸音や衣擦れの音は聞こえない。
 隈なく調べるべきだろうか。歩を止めたカイは、そこでふと広間の手前に怪しい部屋があると気付いた。明かりがないので、気付かずに素通りしてしまうところだった。
 カイは用心深く部屋へと身を滑り込ませ、そして室内に並ぶモニターを確認した。どれも電源が入っていない、合わせて九つの画面。
 操作パネルと思しき仰々しい機械の向こう側、モニター群の後ろに、はしごがあった。
「……」
 これ見よがしに設置されているはしごに、カイはその先に誰か居やしないかと上目遣いでうかがった。はしごの先は小さな出入り口に通じている。耳を澄ませたが、なにかが動く音は聞こえない。
 意を決してはしごを上り、怪しげな空間に顔を出す。そこは狭すぎず広すぎない、ワンルームより少し幅のある部屋だった。フロアの構造的に天井裏と呼べる造りだが、狭苦しい感じは一切ない。
 部屋には電気が点いておらず、四つのモニターが仄明るく発光していた。中心にはやたらと大きな肖像画があり、テーブルの上にデスクトップパソコンが備え付けられている。その横に、ガシューに取り上げられたカイのパソコンも置かれていた。
 目的のものを見つけた安堵で息を吐き、カイは周囲に余計なものが取り付けられていないか確かめてから、パソコンを小脇に抱えた。もうひとつのテーブルには手帳のようなものと紙切れが数枚置かれていたが、それらを確認できるほどの時間はない。
 奪還したパソコンを、出来るだけサラたちが見つけやすいところに置ければ完璧だ。しかしもちろんアスナロ側の人間に発見されてはいけない。
 さきほどの、個室と思われる部屋のどこかに隠そうか……カイもこの施設の全容を把握しているわけではないので、リスキーな賭けになってしまうのは致し方ない。
 そんなことを考えながらはしごを軽く飛び降り、着地すると、薄暗闇に亡霊の如く立ちふさがる男がいた。目の影がより深く、作り物のような眼球の白が強調されている。
「……自ら処分の理由になり得る行動をとるとは。行動力ある愚か者こそ、いちばん救いようがないな」
 マネキンじみて感情の希薄な男――ガシューは、たいした感慨もなさそうにぼやいた。
 嫌味たらしくも冷徹な空気をまとい、彼は体の前で手を組んだ直立不動の姿勢でカイの行く手を阻んでいる。カイは脇に挟んでいるパソコンを強く抱き寄せて、厳しい眼差しを父に向けた。
「とはいえ、無駄なあがきもようやく終わりだ」
 事務的な一言。ガシューは軽く首を鳴らし、緩慢な歩調でカイとの間合いを詰めてくる。
 カイはモニターの操作パネル裏で身を屈めた。徐々に迫りくるガシューの動きを見極め、進行方向と反対側に向かって一気に走り出す。
「!」
 虚を突かれたガシューが振り返ると、出入り口から逃亡するカイの後ろ髪だけが見えた。
「…………」
 後も追わず、ガシューはカイの走り去った方を見て深く、深く嘆息した。
 息せき切って廊下に踊り出たカイは、とにかくパソコンを安全な場所へ隠すことだけを考えて周りを見回した。三階フロアの廊下に連なる扉は、どれも似た見た目をしている。どの部屋が安全かなどと、ひとつひとつ調べる暇もない。
 と、ロビーの方向から人影が接近してくるのが見えた。カイは、しょうがなくいちばん近くのガレキ部屋に飛び込んだ。
「はあ……」
 飛び込んで気付いたが、パソコンを隠すにはこの部屋でも充分そうだった。無造作に積み上げられたガレキの奥にスペースを作り、手前のガレキをがっちりと組みなおす。万が一ガレキが崩れても、パソコン本体には極力ぶつかったりしないよう、それでいてなるべく人目につきづらい空間に隠しておく。
 これで、あとはサラたちが探索の際に気付いてくれたらいいのだが。立ち上がり、さてどこに逃げようかと考えたカイのもと。
 ガレキ部屋の入り口に、ノエルが戻ってきていた。彼は右手のパネルで口元を隠し、左手にはなにか細い糸のようなものを握っていた。暴走も錯乱もしていない冷めた瞳でカイを見据えていた。
「そこで父さんに会ったんだ。テメーのこと、好きに処分していいって」
 ノエルの声は、カイが聞いた中で特別に明るかった。ただ「正の感情」が組まれていないせいか、嬉しそうな声音ながらも不穏で鬱々とした陰りも伴っている。喜びの根底に、嫉妬や羨望を煮詰めて発散したがっている凶暴性が垣間見えていた。
「準備中にさ、いいもん見つけたんだよね……ほらこれ、『幸せのクモの糸』ってやつ」
 彼は右手に持っている糸を掲げてみせ、心なしかワントーン低い声を出した。
 糸は、よく見るとワイヤーロープのようだった。見た目は細いがそれなりに強度があるらしく、けっこうな長さで床に垂れ、廊下の明かりを反射して鈍く光っている。
 ノエルはワイヤーロープを軽く巻き取ると、足元のガレキをひとつ蹴飛ばして距離を詰めた。カイが、パソコンを隠したばかりの一角を庇うように前へ歩み出る。
 全身を粟立たせる強い殺意。ノエルの目がうっすらと黒く染まり、彼は笑っているパネルを口に寄せて『幸せのクモの糸』を握る。
「クモの糸ってあれだろ? 死んだ人間が、あの世でみじめったらしくすがるもの」
 ……テメーも早く死ねよ、カイ。
 冷えた一言が場に落ちて、それが戦闘開始の合図だった。
 カイは、ノエルの懐めがけて強く地面を蹴った。暗い室内で、ノエルが出す殺気だけを頼りに攻撃を仕掛ける。呼吸をしないノエルを相手取るにあたり、彼が感情の制御を苦手としていることだけが幸いだ。
 カイの拳がノエルの脇腹へ綺麗に命中する。衝撃で一瞬よろけたノエルだったが、彼は痛覚を感じていない様子で首を傾けていた。カイは続けざまに、寸分の狂いなく同じ部位へ回し蹴りを見舞ったが、それもノエルの身体に損傷を与えるまでにはいかなかった。
 パネルを扱うノエルは片手分、カイより不利に思われたが、人形の体というアドバンテージのおかげで勝負は拮抗していた。ノエルのパンチやキックは、それほど脅威でもないのだが、さしものカイも辺りのガレキを避けながら戦うのは体力の消耗が激しかった。
 部屋から出ればガシューと鉢合わせる可能性が高い。かといって、隠し通路から下のフロアへ逃げるほどの隙もない。こうしているうちにも、ガシューがこの部屋にやってきてしまうだろう。
 思考を巡らせるカイに、ノエルは機械特有の疲労しない体をフルに生かした攻めを続けた。カイは防御に徹しつつ、パソコンを隠した辺りにノエルが近づかないよう誘導するので精一杯だった。
 わかりやすくノエルの動作を止められそうな部分と言えば、やはり頭部だろう。機械である以上、その体を物理的に破壊すればカイの勝ちだ。けれど、ホエミーはノエルの頭部に「この施設の機密データが詰まったチップが埋め込まれている」と言っていた。それは間違いなく、サラたちが犠牲とならずに脱出するための手がかりになるだろう。
 頭部と胴体を繋ぐ首だけを破壊できないか。ノエルの喉元へ手を伸ばしたカイだったが、その材質は想像以上に硬く、とても人間が素手で壊すことなど不可能だった。
「窒息させようってったって無駄だぜー。人形は息しねーもん」
 カイの真意を測り違えたノエルが、お返しとばかりにカイの首へ手を伸ばす。とっさに身を引いたカイだったが、刹那、カイの首筋に冷たく細いものが巻きつけられた。
「ぐっ、かは……っ!」
 身を捩るも一歩遅く。カイの喉に『幸せのクモの糸』が何重にも巻き付けられて、彼は必死で指を食いこませ締め付けを回避しようともがく。だが、ワイヤーロープはカイの首にきつく食い込んで、気道を閉塞し血流を止めた。
 血管が圧迫されて頭が重い。空気が上手く吸えず、鈍い頭痛が脳内を明滅させる。
 眼前に暗い幕が下りて、言葉を組み立てることも難しくなっていく。苦しい。苦しい。他のなにも考えられない、苦痛の極致に落とされていく。
「っぁ、……っ、」
 カイは声にならない喘ぎを漏らし、やがて完全に意識を失った。
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