世界その???:賢者と憎愛の花言葉
壮絶な内容に、ハンナキーはまたも憐憫に近い表情で帽子の端を握っていた。話の途中からうつむき気味だった彼女は、カイの説明が終わると、顔を上げてノエルに目をやった。
「……ガシューさんがノエルさんに正の感情を与えなかった理由が、少しわかったような気がします」
ハンナキーは、ノエルに「負の感情」を組み込んだのはガシューだが、本当はそれに併せて自分が「正の感情」を組み込むはずだったのだと語った。プラスとマイナス両方の感情を持つことで、生きた人間と同じ心を得ることができる。
「けれどもガシューさんは、ノエルさんが完成する間際、急遽「正の感情」の搭載を取り下げると言いだしました」
彼曰く「負の感情が強いほど、嫉妬や憎悪が生まれてより人間らしくなる」「不完全である方が人間らしい」との意向で、立場的に下であるハンナキーは抗うことができず、ノエルは人間に対して明確な敵意を持って誕生した。
そこまで言って、ハンナキーは薄く微笑を浮かべてカイを見た。
「カイさんにとって大切な、優しい人の人格をもとに作ったので、正の感情を与えればまた情に流されると思ったのでしょう」
「優しい人……ですか」
小首をかしげるカイに、ハンナキーが「ええ」と柔らかな声で頷く。
「セイさんのことを話しているカイさんは、淡々としているようで、とても懐かしそうな……穏やかで、それでいて心苦しそうな顔をしていました。血が繋がっていなくても、きっと仲の良いご兄弟だったのかなと、」
言葉にしながらも「で、出過ぎた感想ですね……すみません」と首を垂れるハンナキー。
カイは、自分の胸にちりっと刺すような痛み、そして晴天の太陽のような明るい光が灯るのを感じた。確かにセイとの思い出は優しい出来事ばかりではなかったが、幸せや楽しさを共有する時間も存分にあった。
それを思い出せただけでも、悪くないひとときだっただろう。
「まあ、困ったところもありましたが……私にとっては、いい『おにいちゃん』でした」
ほんのかすかに頬を緩めるカイへ、ハンナキーもほっと胸を撫で下ろして笑みを見せる。
一瞬の和やかな空気を、無機質な言葉が中断した。
「正の感情セイの感情って、好き勝手にオレの脳内弄り回しやがって」
ベッドを見ると、いつのまにか再起動していたらしいノエルがそっぽを向いて嘆いていた。彼は寝転がったままパネルを口元に当て、拗ねたようにごろりと寝返りを打った。
片手だけで器用に膝を抱えて丸まるノエル。まるでいじけた子どものような背中に、カイはハンナキーへ不可解な視線を投げた。
「……なんだか随分と大人しくなりましたね」
ノエルは情緒が安定したというより、冷めきってへそを曲げている風にも受け取れる。
哀愁さえ漂う背を見つめて、ハンナキーは「ああ、それはですね」と科学者らしいはきはきした口調で答えた。
「思考が少しだけ自責寄りになるよう、回路を組み替えたんです。劣等感が強い状態で他責思考だと、いろいろ問題が起こりますから……」
つまりは考え方を人為的に変えてしまったのだと言って、彼女はやや疲れた顔で息を吐いた。
「本当……ノエルさんは少し目を離すと、すぐにあちこちで問題を起こすので……」
実感のこもった溜息を繰り返すハンナキー。「ゲームが再開されれば、元に戻さないといけませんが」
カイは、ふてくされたように寝ているノエルを見やった。奇抜な衣装に身を包んではいるが、細い手足や特徴的な髪色は、あの日のセイが少し大きくなってそこにいるようだった。
かける言葉もなく口をつぐんでいるカイに、ハンナキーがふと目を輝かせて提言する。
「セイさんの性格や人格が詳しくわかれば、完璧な人工知能を作ってノエルさんと同じ型の人形に組み合わせることもできますよ。時間はかかりますけど、本物と遜色ないセイさんも生み出せます!」
湿っぽい空気から一転。生き生きと提案する彼女に、カイは驚きながらも何度か目を瞬いて返答した。
「……いえ、遠慮しておきます」
凪いだ声に揺らぎはなく、ハンナキーは少し困った顔をして別の案を出す。
「トラウマを忘れる装置もありますけど……」
それは科学者故の純粋な親切心、及び少々行き過ぎたお節介だとわかっていて、カイはきっぱりと拒絶の意思を告げる。
「どうあがこうと、セイが戻ってくることはあり得ません。だからこそ私は、ずっとセイを覚えていなければいけないんです」
他の誰も、彼になることはできませんから。
声は凛と透き通り、カイは無自覚に淡く儚い微笑を浮かべていた。
彼の宣言にハンナキーが口を閉ざした直後。ちょうどのタイミングで、隠し部屋に新たな人形が顔を出した。
「げっ。本当に生きてるじゃないか……」
忌々しげに吐き捨てた微笑み人形のホエミーは、大きく顔をしかめて両腕を組んだ。
カイも、あえて穏和な再会の挨拶でホエミーに顔を向ける。
「おや。お元気そうでなによりです」
飄々とした嫌味で返すカイに、ホエミーは頭部をさすりながら思い切りカイを睨みつけた。その頭に包帯などは見当たらず、恐らく彼女もハンナキーの持っていた傷薬を使ったのだろうと推察される。メインゲームの時点でも完治していたようで、少しおかしいとは思っていたのだが。
思わぬところで謎が解けたと一人納得するカイ。
ホエミーは苛立ったように歯噛みして、そして本来の目的を忘れていないとばかり、カイへデスゲーム進行の手伝いをしろと呼びつけた。一階フロアのマスターである彼女だが、裏方は裏方で忙しいらしい。
「言っておくが、お前に拒否権はないからな」
デスゲームの管理側の人間として、彼女は余所行きの口調ではなく荒々しい物言いでカイを急き立てる。
「まったく。これだけ大規模な事件を起こしておきながら人員不足とは」
カイは、やれやれとかぶりを振ってホエミーの後についた。
「それでは」
「……こう言うのもなんですが、気を付けてくださいね」
ハンナキーと会釈を交わし、研究室を出て行くカイの後ろ姿。
ベッド上のノエルは静かに寝返りを打ってカイを見送り、舌を出した絵柄のパネルを回転させる。彼は焦げ茶色の瞳を細め、真意の読めない面持ちで、じっとカイの背を見つめ続けていた。
ホエミーに連れられ、カイは一階フロアへと戻ってきた。
そういえば、生存した面々はいまどこにいるのだろうか。訊くと、「さあ? その辺りで反省会でもやってるのでは」と投げやりに返される。
彼女はピンク部屋の通気口を開けて奥へ進み、隠された部屋で足を止めた。
「三階フロアでは、生存者全員に『アトラクション』を受けてもらう。その準備がぎりぎりでな」
彼女の示した作業台には、統一性のない道具や小物類が乱雑に置かれている。かなり小ぶりなサイズのメダル、星型の雑貨。
メダルにはなにか模様が刻まれていて、カイがそれを確認する前に、ホエミーは新しい箱を出した。段ボール製で、お世辞にも物の保存には適していなさそうな箱だ。
中には毒々しい色の液体が入った容器と、医療器具セット。空の注射器が五本。そして雑に走り書きされたメモが落ちている。
「五本全部、そこに書いてある量を入れろ。過不足ない量だ……あとで私が確認する」
それだけ言って、ホエミーは別の作業に取りかかった。カイはその注射器が何に使われるか、あまり考えないようにして器具に触れる。手順や注意事項はすべてメモに記載されていた。
妙なところで律儀だなと思い、参加者が死ぬ要因はあくまでゲーム内での実力に合わせたいのだろうと推察して、明らかに薬ではないだろう液体を注射器で吸い上げる。容器の中身は、言われた通り注射器五本分でちょうどくらいだった。
粛々と手を動かし、だが無心でとはいかずカイは物思いに耽った。どうすればサラを――欲を言うなら、いま生きている者たち全員を助けることができるのか。
思案するカイの横顔に、ホエミーが感情の乗っていない声で言う。
「……諦めていない顔だな」
嘲るでもなく、憐れむわけでもない一言。ただ事実だけを述べた台詞に、カイは明確に無視をして作業を続行する。
ホエミーはなおも言葉を続けた。今度は、少し余裕ある笑みの混ざった声だった。
「まあいい。私も、諦めの悪い人間は嫌いじゃない」
カイは二本目の注射器を液で満たし、三本目に手を伸ばす。
満ち満ちていく液体を、量を間違えないよう注視していると、ホエミーが不意にわざとらしく宙を見た。芝居がかった言い方で、独り言だという風に小首をかしげている。
「そういえば、あの着せ替え人形の頭部には、この施設の機密データが詰まったチップが埋め込まれているんだったか」
――サラたちが手に入れたら、このデスゲームを根本から破壊する突破口になりそうだな。
「実際問題、あいつらがトト・ノエルの頭部を奪うなんて真似ができるかは……ほとんど無理だろうが」
自己完結して、意味深にカイへ笑いかけるホエミー。オッドアイの瞳が弓なりに細められ、底知れない危うさを感じさせる。
カイは、疑いの色濃い顔つきで押し黙った。敵方であるホエミーの台詞を鵜呑みにするほど馬鹿ではないが、一応は組織へ正式に戻ってきたカイを罠にはめる理由も思い当たらない。猜疑心に眉をひそめるカイに、ホエミーは鼻歌でも歌うような軽い調子でこぼす。
「とはいえ、それ単体では何の意味も持たないけど。解析するためのパソコン……いや、ガシューしか知らない、あの……」
後半は尻すぼみになって消え、カイがさらに怪訝な表情を作る。
それからわずか十数秒後。隠し部屋の扉が開き、ガシュー本人が顔を覗かせた。
「二人揃って仲良く内職か。三階フロア用の準備は進んでいるんだろうな」
「ああ、いま終わりました。まったく、担当フロアでの仕事が終わっても気が抜けないわね」
ホエミーは軽口を叩いて笑い、五本すべてに液を込め終えたカイから注射器を受け取った。重たげな箱にさまざまな品物を詰め込み、彼女は口元だけを笑みの形に歪めて部屋を退出する。
シンプルな部屋で再度、カイはガシューと二人きりになった。
「生存者に見つかれば事だ。ゲームが終わるまで、お前はここで待機していろ」
ガシューの指示を受け、それには答えずカイが口を開く。できる限り感情を抑えて言うつもりが、自分でもコントロールできない笑みを含んでしまう。
「……あの人形に父と呼ばせて、随分と悪趣味ですね」
冷笑するカイに、ガシューは取り乱す様子もなく眼球だけでカイを見据えた。
彼は、表情の乏しい、泰然とした態度で言葉を返した。
「私への反抗心が薄い人間をもとにする必要があったのでな。……あれで、実の息子よりよっぽど扱いやすい」
自虐的に笑うガシュー。「私にとって、もっとも出来の良い息子だ」そうたたみかけた彼の言葉に、カイは声を荒らげることなく説き伏せるように言う。
「セイのことは……セイの命は、私が自らの目で看取りました。あんな人形はセイではありません」
「ああ、あれはセイではない。私が作った最高傑作、トト・ノエルだ」
ガシューは食い入るように声を被せ、カイの言葉を封殺とせんばかりに言い切った。
無感情な瞳は狂信的な光を宿し、力強くも狡猾な表情を見せている。
「私が私のために作った人形……情などに縛られず、忠実な手足となる。まさに理想の息子というものだ」
「……」
言い合いにさえならない、絶望的に噛み合わない主張。
カイは、小さく唇を噛んで議論を諦めた。怒りを発露させることすら無意味で、父に対する喜怒哀楽の感情すべてが欠落するのを感じていた。失望とも違い、ただ見ているものが決定的に違うのだということを痛いほど思い知らされる。
わかっていたつもりだったが、もはや父に自分の言葉が届くことはない。口を閉ざしたカイの耳に、ガシューの冷たい声が響く。
「……余計なことは考えるな。お前の命は、初めから終わりまで組織のためだけにある」
――あの日のセイのようにな。
突き放すように言って、ガシューは靴音を立ててカイの前から消える。
一人きり、自分以外に誰もいなくなった隠し部屋。カイは机に手をついて瞑目した。
自分が「死んだ」扱いになってからというもの、セイとの記憶を掘り返されてばかりいる。暗い意識の中で、セイとの別れの場面がよみがえる。
それまでのいつよりも過激な言い争い。泣いているカイに、ままならない激情をぶつけるセイの顔。劣等感に苛まれ、自分の居場所を欲して苦悩の叫びをあげる様。
『カイだけは、オレをちゃんと見てくれると思ってたのに……!!』
悲痛に、叩きつけるように言って、セイはカイの眼前で凶刃に倒れた。
『クソみじめに死んでいく……結局誰にも……認められないまま……』
虚ろな声が宙に浮く。投げ捨てるような、寂しげな言葉。
セイはカイに「お前の手で殺してほしい」と言ったが、カイにはそれを叶えられなかった。兄弟を、殺めることなんてできるはずがなかった。
代わりに全力でセイを抱きしめると、彼はカイの腕に包まれて泣いていた。
『オレ……死んじゃうの……?』
「……ガシューさんがノエルさんに正の感情を与えなかった理由が、少しわかったような気がします」
ハンナキーは、ノエルに「負の感情」を組み込んだのはガシューだが、本当はそれに併せて自分が「正の感情」を組み込むはずだったのだと語った。プラスとマイナス両方の感情を持つことで、生きた人間と同じ心を得ることができる。
「けれどもガシューさんは、ノエルさんが完成する間際、急遽「正の感情」の搭載を取り下げると言いだしました」
彼曰く「負の感情が強いほど、嫉妬や憎悪が生まれてより人間らしくなる」「不完全である方が人間らしい」との意向で、立場的に下であるハンナキーは抗うことができず、ノエルは人間に対して明確な敵意を持って誕生した。
そこまで言って、ハンナキーは薄く微笑を浮かべてカイを見た。
「カイさんにとって大切な、優しい人の人格をもとに作ったので、正の感情を与えればまた情に流されると思ったのでしょう」
「優しい人……ですか」
小首をかしげるカイに、ハンナキーが「ええ」と柔らかな声で頷く。
「セイさんのことを話しているカイさんは、淡々としているようで、とても懐かしそうな……穏やかで、それでいて心苦しそうな顔をしていました。血が繋がっていなくても、きっと仲の良いご兄弟だったのかなと、」
言葉にしながらも「で、出過ぎた感想ですね……すみません」と首を垂れるハンナキー。
カイは、自分の胸にちりっと刺すような痛み、そして晴天の太陽のような明るい光が灯るのを感じた。確かにセイとの思い出は優しい出来事ばかりではなかったが、幸せや楽しさを共有する時間も存分にあった。
それを思い出せただけでも、悪くないひとときだっただろう。
「まあ、困ったところもありましたが……私にとっては、いい『おにいちゃん』でした」
ほんのかすかに頬を緩めるカイへ、ハンナキーもほっと胸を撫で下ろして笑みを見せる。
一瞬の和やかな空気を、無機質な言葉が中断した。
「正の感情セイの感情って、好き勝手にオレの脳内弄り回しやがって」
ベッドを見ると、いつのまにか再起動していたらしいノエルがそっぽを向いて嘆いていた。彼は寝転がったままパネルを口元に当て、拗ねたようにごろりと寝返りを打った。
片手だけで器用に膝を抱えて丸まるノエル。まるでいじけた子どものような背中に、カイはハンナキーへ不可解な視線を投げた。
「……なんだか随分と大人しくなりましたね」
ノエルは情緒が安定したというより、冷めきってへそを曲げている風にも受け取れる。
哀愁さえ漂う背を見つめて、ハンナキーは「ああ、それはですね」と科学者らしいはきはきした口調で答えた。
「思考が少しだけ自責寄りになるよう、回路を組み替えたんです。劣等感が強い状態で他責思考だと、いろいろ問題が起こりますから……」
つまりは考え方を人為的に変えてしまったのだと言って、彼女はやや疲れた顔で息を吐いた。
「本当……ノエルさんは少し目を離すと、すぐにあちこちで問題を起こすので……」
実感のこもった溜息を繰り返すハンナキー。「ゲームが再開されれば、元に戻さないといけませんが」
カイは、ふてくされたように寝ているノエルを見やった。奇抜な衣装に身を包んではいるが、細い手足や特徴的な髪色は、あの日のセイが少し大きくなってそこにいるようだった。
かける言葉もなく口をつぐんでいるカイに、ハンナキーがふと目を輝かせて提言する。
「セイさんの性格や人格が詳しくわかれば、完璧な人工知能を作ってノエルさんと同じ型の人形に組み合わせることもできますよ。時間はかかりますけど、本物と遜色ないセイさんも生み出せます!」
湿っぽい空気から一転。生き生きと提案する彼女に、カイは驚きながらも何度か目を瞬いて返答した。
「……いえ、遠慮しておきます」
凪いだ声に揺らぎはなく、ハンナキーは少し困った顔をして別の案を出す。
「トラウマを忘れる装置もありますけど……」
それは科学者故の純粋な親切心、及び少々行き過ぎたお節介だとわかっていて、カイはきっぱりと拒絶の意思を告げる。
「どうあがこうと、セイが戻ってくることはあり得ません。だからこそ私は、ずっとセイを覚えていなければいけないんです」
他の誰も、彼になることはできませんから。
声は凛と透き通り、カイは無自覚に淡く儚い微笑を浮かべていた。
彼の宣言にハンナキーが口を閉ざした直後。ちょうどのタイミングで、隠し部屋に新たな人形が顔を出した。
「げっ。本当に生きてるじゃないか……」
忌々しげに吐き捨てた微笑み人形のホエミーは、大きく顔をしかめて両腕を組んだ。
カイも、あえて穏和な再会の挨拶でホエミーに顔を向ける。
「おや。お元気そうでなによりです」
飄々とした嫌味で返すカイに、ホエミーは頭部をさすりながら思い切りカイを睨みつけた。その頭に包帯などは見当たらず、恐らく彼女もハンナキーの持っていた傷薬を使ったのだろうと推察される。メインゲームの時点でも完治していたようで、少しおかしいとは思っていたのだが。
思わぬところで謎が解けたと一人納得するカイ。
ホエミーは苛立ったように歯噛みして、そして本来の目的を忘れていないとばかり、カイへデスゲーム進行の手伝いをしろと呼びつけた。一階フロアのマスターである彼女だが、裏方は裏方で忙しいらしい。
「言っておくが、お前に拒否権はないからな」
デスゲームの管理側の人間として、彼女は余所行きの口調ではなく荒々しい物言いでカイを急き立てる。
「まったく。これだけ大規模な事件を起こしておきながら人員不足とは」
カイは、やれやれとかぶりを振ってホエミーの後についた。
「それでは」
「……こう言うのもなんですが、気を付けてくださいね」
ハンナキーと会釈を交わし、研究室を出て行くカイの後ろ姿。
ベッド上のノエルは静かに寝返りを打ってカイを見送り、舌を出した絵柄のパネルを回転させる。彼は焦げ茶色の瞳を細め、真意の読めない面持ちで、じっとカイの背を見つめ続けていた。
ホエミーに連れられ、カイは一階フロアへと戻ってきた。
そういえば、生存した面々はいまどこにいるのだろうか。訊くと、「さあ? その辺りで反省会でもやってるのでは」と投げやりに返される。
彼女はピンク部屋の通気口を開けて奥へ進み、隠された部屋で足を止めた。
「三階フロアでは、生存者全員に『アトラクション』を受けてもらう。その準備がぎりぎりでな」
彼女の示した作業台には、統一性のない道具や小物類が乱雑に置かれている。かなり小ぶりなサイズのメダル、星型の雑貨。
メダルにはなにか模様が刻まれていて、カイがそれを確認する前に、ホエミーは新しい箱を出した。段ボール製で、お世辞にも物の保存には適していなさそうな箱だ。
中には毒々しい色の液体が入った容器と、医療器具セット。空の注射器が五本。そして雑に走り書きされたメモが落ちている。
「五本全部、そこに書いてある量を入れろ。過不足ない量だ……あとで私が確認する」
それだけ言って、ホエミーは別の作業に取りかかった。カイはその注射器が何に使われるか、あまり考えないようにして器具に触れる。手順や注意事項はすべてメモに記載されていた。
妙なところで律儀だなと思い、参加者が死ぬ要因はあくまでゲーム内での実力に合わせたいのだろうと推察して、明らかに薬ではないだろう液体を注射器で吸い上げる。容器の中身は、言われた通り注射器五本分でちょうどくらいだった。
粛々と手を動かし、だが無心でとはいかずカイは物思いに耽った。どうすればサラを――欲を言うなら、いま生きている者たち全員を助けることができるのか。
思案するカイの横顔に、ホエミーが感情の乗っていない声で言う。
「……諦めていない顔だな」
嘲るでもなく、憐れむわけでもない一言。ただ事実だけを述べた台詞に、カイは明確に無視をして作業を続行する。
ホエミーはなおも言葉を続けた。今度は、少し余裕ある笑みの混ざった声だった。
「まあいい。私も、諦めの悪い人間は嫌いじゃない」
カイは二本目の注射器を液で満たし、三本目に手を伸ばす。
満ち満ちていく液体を、量を間違えないよう注視していると、ホエミーが不意にわざとらしく宙を見た。芝居がかった言い方で、独り言だという風に小首をかしげている。
「そういえば、あの着せ替え人形の頭部には、この施設の機密データが詰まったチップが埋め込まれているんだったか」
――サラたちが手に入れたら、このデスゲームを根本から破壊する突破口になりそうだな。
「実際問題、あいつらがトト・ノエルの頭部を奪うなんて真似ができるかは……ほとんど無理だろうが」
自己完結して、意味深にカイへ笑いかけるホエミー。オッドアイの瞳が弓なりに細められ、底知れない危うさを感じさせる。
カイは、疑いの色濃い顔つきで押し黙った。敵方であるホエミーの台詞を鵜呑みにするほど馬鹿ではないが、一応は組織へ正式に戻ってきたカイを罠にはめる理由も思い当たらない。猜疑心に眉をひそめるカイに、ホエミーは鼻歌でも歌うような軽い調子でこぼす。
「とはいえ、それ単体では何の意味も持たないけど。解析するためのパソコン……いや、ガシューしか知らない、あの……」
後半は尻すぼみになって消え、カイがさらに怪訝な表情を作る。
それからわずか十数秒後。隠し部屋の扉が開き、ガシュー本人が顔を覗かせた。
「二人揃って仲良く内職か。三階フロア用の準備は進んでいるんだろうな」
「ああ、いま終わりました。まったく、担当フロアでの仕事が終わっても気が抜けないわね」
ホエミーは軽口を叩いて笑い、五本すべてに液を込め終えたカイから注射器を受け取った。重たげな箱にさまざまな品物を詰め込み、彼女は口元だけを笑みの形に歪めて部屋を退出する。
シンプルな部屋で再度、カイはガシューと二人きりになった。
「生存者に見つかれば事だ。ゲームが終わるまで、お前はここで待機していろ」
ガシューの指示を受け、それには答えずカイが口を開く。できる限り感情を抑えて言うつもりが、自分でもコントロールできない笑みを含んでしまう。
「……あの人形に父と呼ばせて、随分と悪趣味ですね」
冷笑するカイに、ガシューは取り乱す様子もなく眼球だけでカイを見据えた。
彼は、表情の乏しい、泰然とした態度で言葉を返した。
「私への反抗心が薄い人間をもとにする必要があったのでな。……あれで、実の息子よりよっぽど扱いやすい」
自虐的に笑うガシュー。「私にとって、もっとも出来の良い息子だ」そうたたみかけた彼の言葉に、カイは声を荒らげることなく説き伏せるように言う。
「セイのことは……セイの命は、私が自らの目で看取りました。あんな人形はセイではありません」
「ああ、あれはセイではない。私が作った最高傑作、トト・ノエルだ」
ガシューは食い入るように声を被せ、カイの言葉を封殺とせんばかりに言い切った。
無感情な瞳は狂信的な光を宿し、力強くも狡猾な表情を見せている。
「私が私のために作った人形……情などに縛られず、忠実な手足となる。まさに理想の息子というものだ」
「……」
言い合いにさえならない、絶望的に噛み合わない主張。
カイは、小さく唇を噛んで議論を諦めた。怒りを発露させることすら無意味で、父に対する喜怒哀楽の感情すべてが欠落するのを感じていた。失望とも違い、ただ見ているものが決定的に違うのだということを痛いほど思い知らされる。
わかっていたつもりだったが、もはや父に自分の言葉が届くことはない。口を閉ざしたカイの耳に、ガシューの冷たい声が響く。
「……余計なことは考えるな。お前の命は、初めから終わりまで組織のためだけにある」
――あの日のセイのようにな。
突き放すように言って、ガシューは靴音を立ててカイの前から消える。
一人きり、自分以外に誰もいなくなった隠し部屋。カイは机に手をついて瞑目した。
自分が「死んだ」扱いになってからというもの、セイとの記憶を掘り返されてばかりいる。暗い意識の中で、セイとの別れの場面がよみがえる。
それまでのいつよりも過激な言い争い。泣いているカイに、ままならない激情をぶつけるセイの顔。劣等感に苛まれ、自分の居場所を欲して苦悩の叫びをあげる様。
『カイだけは、オレをちゃんと見てくれると思ってたのに……!!』
悲痛に、叩きつけるように言って、セイはカイの眼前で凶刃に倒れた。
『クソみじめに死んでいく……結局誰にも……認められないまま……』
虚ろな声が宙に浮く。投げ捨てるような、寂しげな言葉。
セイはカイに「お前の手で殺してほしい」と言ったが、カイにはそれを叶えられなかった。兄弟を、殺めることなんてできるはずがなかった。
代わりに全力でセイを抱きしめると、彼はカイの腕に包まれて泣いていた。
『オレ……死んじゃうの……?』