世界その???:賢者と憎愛の花言葉
施設の裏庭は、地平線が見えるほど広かった。
その少し手前には金網の柵があり、施設と外界を隔てる境界となっている。柵は侵入者対策と脱走者対策を兼ねて、不用意に触れると容赦なく電流が流れる仕組みだった。
裏庭一帯は、施設で育つ子どもたち専用の訓練場だ。より正確に言うなら、暗殺者となるために育成されているエージェントたちの訓練場。彼らはまだ実戦に出たことはないが、いずれはアスナロの一員として手となり足となることを想定されている。
そんな広々とした訓練場に二人の少年がいた。
「早く手合わせしようぜ、カイ」
オレンジ色の髪を持つ少年が、裏庭の中心で笑みを見せる。多少好戦的ともとれるが、無邪気で実に子どもらしい表情だ。
カイと呼ばれた黒髪の少年は、頷きながらもなにか気にかかる様子で周囲を見回した。
「うん……でも、もう少し向こうでやろう」
地面に目を落として提案する彼に、オレンジ髪の少年が訝しげな口調で返す。
「えー? なんで?」
問われ、カイは足元に目を向けたままで返答した。
「ほら、この辺りは花が咲いてるだろ。こんなにいっぱい……荒らすのは可哀想だ」
「花ぁ?」
呟いて、オレンジ髪の少年は自分が立っている地面に目をやった。
言われると確かに、二人が立っている辺りには小さな青い花が群生していた。指先よりも小さな五枚の花びらに、黄色い花芯が彩りを添えている。ひとつひとつはとても小さな花たちだが、無数に寄り集まっている様はけっこうな存在感があった。
少年は、きょとんと目を丸くして、それから大きな溜息を吐いた。
「……オメーさー。ほんと、そういうところだぜ」
わざとらしく脱力する彼に、カイがむっとした表情を作る。
カイがなにか反論するより先に、少年の方が言葉を続けた。
「そんなんで立派な殺し屋になれると思ってんのかよ」
「こ、殺し屋は、いまは関係ないだろ。わざわざこんな場所でやらなくてもいいって思っただけだし……」
慌てて言い返すカイ。自分の甘さを指摘されて焦ったようで、いつもより早口になってしまう。
「はいはい。……ったく甘ちゃんだなー」
軽く受け流そうとしたオレンジ髪の少年は、不意に意地の悪い笑みを浮かべてカイを見た。焦げ茶色の瞳は、玩具を見つけた悪戯っ子のように光っている。
「じゃあ、この花が荒らされねーようにオメーが守ってみろよ」
思いがけない台詞に、カイは大きな目を瞬いた。守る、と口先だけで呟き戸惑っている。
相対する少年は事もなげに言い募った。
「弱いやつがなに言ったって、誰にも聞いてもらえねーぜ。オメーもちょっとは強くなったんだろー?」
挑発するようでいて、どこか期待もしている眼差し。オレンジ色の短髪を揺らして笑う少年に、カイも少しの迷いを振り払って戦闘態勢に入る。
二人は格闘術の構えをとって、どちらからともなく戦闘訓練を開始した。
手合わせは十分も経たずに決着がついた。
「っ、はぁ……」
何度も的確に蹴りを入れられた脇腹を押さえ、カイはくずおれそうになりながら必死で息を整える。額には脂汗が滲み、頬は疲労で火照っている。呼吸のたびに両肩が上下して、彼はゆっくりと草花の隣に腰を下ろした。
さっきまで可憐に咲いていた花々は、二人の訓練に巻き込まれて大半が無残にも荒らされてしまっていた。踏み潰され、千切れてしまった花を見て、カイは悔しげに唇を噛む。戦闘スキルや身体能力は双方、互角といって差し支えないのだが、花を守ろうとしながら戦うカイは、やはりオレンジ髪の少年より圧倒的に不利だった。
コテンパンにのされ、地面へ仰向けに倒れるカイ。少しだけ湿った土や草花の香りが、疲れた体を優しく包む。ひんやりとした土、青く爽やかな匂いのする自然に身を委ねると、オレンジ髪の少年もカイの横に座った。
「はは、だらしねーなー」
言いながら、彼は散ってしまった小さな花を片手に集めてカイの髪にかけた。黒髪に青い花が散らばり、カイは「やめろよ」と頭につけられた花を払う。
彼は上体を起こして小さな花ひとつを手に取り、まじまじと眺めた。
「これ、前に図鑑で見た花だ。……たぶん、勿忘草っていう花」
「ふーん? よく知ってんな」
オレンジ髪の少年は、カイの手元を覗き込み、たいして興味もなさそうに相槌を打つ。
「まあオメー、戦闘訓練じゃオレに勝てねーもんな。座学で差をつけようっていう、涙ぐましい努力ってやつー?」
茶化すように笑う少年。露骨に眉根を寄せるカイ。「いちいち癪に障る言い方を……」
言いつつ、カイの方も少年の天邪鬼な性格は充分理解していて、無駄に突っかかることもなく言葉を続けた。
「この花には、『私を忘れないで』って意味があるんだって。あとは『真実の友情』とか」
いわゆる「花言葉」ってやつ、と言ったカイに、オレンジ髪の少年は「へー」と感情のこもっていない平坦な声を返す。そして彼は、自分が散らした青い花の群れを眺めながらぽつりと言った。
「……まー、本当に大事なやつのことは、忘れたくても忘れられねーけど」
ほんのわずか、うつむき湿っぽい声を漏らした彼に、カイは少年の父親について思いを馳せる。オレンジ髪の少年は、父親を亡くしてこの施設に連れてこられた身の上だ。彼は以前、父親について愛憎の入り混じった複雑な情を吐露したこともある。
なんと声をかけたものか迷うカイだったが、少年はさして気に留めた様子もなく顔を上げた。感傷的だった顔は、いつのまにか悪戯っ子のように口角を上げていた。
「あとはムカつくやつも。忘れようって思っても、忘れられねーんだよなー」
皮肉っぽい物言いと眼差しに、今度はカイもつられて苦笑いする。
「それで言ったら、たぶんボクも、セイのことはずっと忘れられないんだろうな」
セイは最初とんでもなくいけ好かない腹立たしいやつで、だけど今では唯一無二の大事な兄弟だから。
手に収まる青い花を見つめながら言うカイに、オレンジ髪の少年――セイは目を丸くして口を閉じる。彼は無言でカイの横顔を凝視して、それからふいとそっぽを向いた。
「なんだよ、急に……恥ずかしーやつ」
言われてカイも自分の発言へ我に返ったらしく、彼は赤面して言い訳の言葉を探した。
「兄弟っていうか、毎日こんなに一緒にいるし。お父様だって家族って言ってたし」
気付けばセイはカイの顔をまっすぐ見ていて、にやにやと品のない笑みを寄越していた。焦げ茶の瞳には、カイをからかうのが楽しくて仕方ないというような、それでいて心から嬉しそうな色をたたえている。
「たぶんじゃなくて、ぜってー忘れねーだろ?」
そう言って、セイは座ったままで肩だけをカイにぶつけた。
カイは油断していたところを体当たりされて、地面に手をつくよりも勢いを殺すためにごろりと横に倒れた。「わっ、なにするんだ」怒るカイの頭に、先ほどのように青い花をかけるセイ。
「オメーの中でもオレは兄弟みてーだし? オレのことは『おにいちゃん』だろー?」
「ちょ、調子に乗るなよっ」
戦闘の疲労とは違う汗をかいて抵抗するカイだったが、セイは「照れんなって」と聞く耳も持たずに青い花を舞い散らせる。散ってなお可愛らしさを保っている花は、さながら柔らかな小雨の如くカイに降り注いだ。
「だから、むだに花を荒らすなってば!」
照れ隠しも含んで憤るカイの髪は、青い花々をまとって艶やかに光っている。
「なんだ、もう一戦やるかー?」
答えるセイの目も、一片の曇りなく年相応の爛漫さで輝いていた。
青い花咲く裏庭の真ん中で、二人は騒々しくも賑やかな時間を過ごしていった。
子ども時代の記憶は遥か遠く。大人になるまでの忙しない日々に、幼少の頃の思い出は、取り出す暇もなくいつしか心の奥底に封印されてしまう。
黒髪の青年――かつて少年だった青年、佐藤戒は、たった十数人しかいないデスゲーム会場を一人で探索していた。実際のところカイはデスゲームを企んだ組織側の人間であり、この状況もあらかじめ予見していたのだが、他の参加者にそれを悟られると面倒なことになる。それでいて彼にはどうしても守り通したい参加者の存在もあって、なかなかどうして難しい任務だとカイは内心で息を吐いた。その任務を課したのは彼自身ではあるものの、己の立場を伏せての行動にはさまざまな制約がある。
カイは食堂のテーブル下に『鍵番』のカードを仕込み、エプロンのポケットに『賢者』のカードがあることを確認する。どちらも所持だけで死が確定するほど物騒なものではないが、生存率がより高くなる方を当然、保護対象者に拾わせるべきだと考えての行動だった。
べつに相手から守ってほしいと頼まれているわけでもない。けれどカイはたとえ自分がどれほど不利に追い込まれようと、彼女を守れる喜びと使命感に駆られていた。
そういえば昔にも、似たことがあったような。かすかな思い出が脳裏をかすめ、カイは記憶の糸を手繰り寄せて小首をかしげる。決して油断できない相手との対決。カイは巻き込まれただけの無力な存在を守ろうとして、それで結局カイの方が倒されたのだったか。守ろうとした小さなものも無残に散ってしまい、だけどなぜだか心から笑っていたような覚えもある。
青い花の面影がちらつく直前。食堂で待機しているカイのもとに、守るべき対象――千堂院沙良が姿を見せた。カイは彼女と二言、三言の会話を交わし、故意に辺りを停電させた。サラはカイの思惑通り、無事に『鍵番』のカードを拾ってくれた。
息つく暇もなく次の過程に移るカイ。ミシマの頭部を持って逃げるナオを調理室に匿い、彼女を包丁で脅して、ソウのパソコンを奪いに行ってもらう。どうしてかカイのパソコンは施設の隠し部屋にあり、カイ自身より先にソウが見つけてしまっていた。まさか他人の手に渡ると思っていなかったので、パスワードを解かれるだけでサラへの不信に繋がる恐れがあった。
ナオが調理室から出て行ってすぐ、カイはミシマの頭部を持って隠し通路へと上った。調理室と施設の三階にある一室は、一目ではわからない通路で繋がっている。ミシマの首には、まだ壊れていない首輪がついたままで、カイはそれを密かに移動させる役目を言い渡されていた。――デスゲームを計画した、組織側の人間たちに。
三階に到達すると、そこは荒れ果てたガレキだらけの部屋だった。電気も点いておらず、うっかり転ばないよう用心して室内を見回す。ミシマの頭部はこのまま机にでも置いておけばいいのだろうか。しかし剥き出して放置するのはさすがに気が咎め、迷っていると、部屋の扉が開く音がした。
扉の向こうは照明が点いていて、白い光を背に一人分の影が立っていた。背丈はカイより少し低め。全体的に細身で、逆光のせいで顔に黒い影が落ちている。男か女かは判断できなかった。
影は、カイの方をじっと見つめて言った。
「あ、オメーが父さんの言ってたやつ? 運搬ご苦労さん」
その声は朗らかに高く、けれど少年のように幼い響きを残していた。どこか聞き覚えのある声に、カイの眉間が訝しげに動く。
目が暗闇に慣れ始め、カイは相手の出方をうかがうように待っていた。そして彼は、影の姿を捉えるのと同時に息を呑んだ。
「あ……あなたは…………っ!」
統一感のない奇妙な服装に身を包んでいるため、一見しただけでは気付かなかった影の容姿。それはカイが幼少期を共にした兄弟――セイの姿と酷似していた。
鮮やかなオレンジ色の短髪。白い肌。黄色に縁取られた、オレンジと焦げ茶色の瞳。
体格こそ成長して、昔のセイよりずっと背が伸びているが、それでもカイよりは数センチほど低く見える。カイと同じかそれ以上に華奢な印象を持つ、小柄な少年だ。
少年は黒いパネルのようなもので口元を隠していて、細かい表情はうかがい知れなかった。それでも子ども時代に生活の大半を共にしていたカイの目はごまかせない。カイは、愕然として目の前の少年に絶句した。
セイは、子どもの頃にカイの腕の中で死んだ。カイと違って大人にはなれなかった。それなのに、どうしてか彼と瓜二つの少年がいる。これはどういうことだろう。
動揺で硬直したカイに、セイに似た謎の少年が冷めた視線を送る。敵意に近いその目の温度は、カイにとっては一度も見たことのない表情だった。青い炎とでも言うべきか、激情が宿っているのにやけに冷え切って見える目つきだ。
「……ああ、オメーが父さんの……」
カイが微動だにできないでいると、謎の少年は不穏な呟きを漏らしてカイを睨んだ。その声もセイのものとよく似ていて、いや、セイはもっと感情を露骨に出すような喋り方だったと、カイは無意識に少年とセイの相違点を探そうとする自分に気付く。
少年は、呆然と立ちすくむカイからミシマの頭部をひったくるように奪い取った。
「オレは父さんに言われて、こいつを回収しにきただけだよ」
父さんという物言いには、セイのそれを彷彿とさせる感情が滲んでいる。
混乱のやまないカイは、ミシマの頭部をボールのように放って弄ぶ少年へ険しい顔つきを向けた。少年は何者か。問おうとした寸前、少年の方から質問される。
「なに? そんなに見つめちゃって……父さんの息子対決でもしてーわけ?」
いいぜ、受けて立とうか。
冗談めかして声だけで笑う少年の瞳は、紛れもなくカイへの害意に満ちている。
彼がセイだとしてもしなくても、そんな目で見られる覚えはない。カイは困惑しながらも問いかけを返した。
「父さん、というのは」
なにから聞くべきか迷い、シンプルな疑問が口をつく。
その少し手前には金網の柵があり、施設と外界を隔てる境界となっている。柵は侵入者対策と脱走者対策を兼ねて、不用意に触れると容赦なく電流が流れる仕組みだった。
裏庭一帯は、施設で育つ子どもたち専用の訓練場だ。より正確に言うなら、暗殺者となるために育成されているエージェントたちの訓練場。彼らはまだ実戦に出たことはないが、いずれはアスナロの一員として手となり足となることを想定されている。
そんな広々とした訓練場に二人の少年がいた。
「早く手合わせしようぜ、カイ」
オレンジ色の髪を持つ少年が、裏庭の中心で笑みを見せる。多少好戦的ともとれるが、無邪気で実に子どもらしい表情だ。
カイと呼ばれた黒髪の少年は、頷きながらもなにか気にかかる様子で周囲を見回した。
「うん……でも、もう少し向こうでやろう」
地面に目を落として提案する彼に、オレンジ髪の少年が訝しげな口調で返す。
「えー? なんで?」
問われ、カイは足元に目を向けたままで返答した。
「ほら、この辺りは花が咲いてるだろ。こんなにいっぱい……荒らすのは可哀想だ」
「花ぁ?」
呟いて、オレンジ髪の少年は自分が立っている地面に目をやった。
言われると確かに、二人が立っている辺りには小さな青い花が群生していた。指先よりも小さな五枚の花びらに、黄色い花芯が彩りを添えている。ひとつひとつはとても小さな花たちだが、無数に寄り集まっている様はけっこうな存在感があった。
少年は、きょとんと目を丸くして、それから大きな溜息を吐いた。
「……オメーさー。ほんと、そういうところだぜ」
わざとらしく脱力する彼に、カイがむっとした表情を作る。
カイがなにか反論するより先に、少年の方が言葉を続けた。
「そんなんで立派な殺し屋になれると思ってんのかよ」
「こ、殺し屋は、いまは関係ないだろ。わざわざこんな場所でやらなくてもいいって思っただけだし……」
慌てて言い返すカイ。自分の甘さを指摘されて焦ったようで、いつもより早口になってしまう。
「はいはい。……ったく甘ちゃんだなー」
軽く受け流そうとしたオレンジ髪の少年は、不意に意地の悪い笑みを浮かべてカイを見た。焦げ茶色の瞳は、玩具を見つけた悪戯っ子のように光っている。
「じゃあ、この花が荒らされねーようにオメーが守ってみろよ」
思いがけない台詞に、カイは大きな目を瞬いた。守る、と口先だけで呟き戸惑っている。
相対する少年は事もなげに言い募った。
「弱いやつがなに言ったって、誰にも聞いてもらえねーぜ。オメーもちょっとは強くなったんだろー?」
挑発するようでいて、どこか期待もしている眼差し。オレンジ色の短髪を揺らして笑う少年に、カイも少しの迷いを振り払って戦闘態勢に入る。
二人は格闘術の構えをとって、どちらからともなく戦闘訓練を開始した。
手合わせは十分も経たずに決着がついた。
「っ、はぁ……」
何度も的確に蹴りを入れられた脇腹を押さえ、カイはくずおれそうになりながら必死で息を整える。額には脂汗が滲み、頬は疲労で火照っている。呼吸のたびに両肩が上下して、彼はゆっくりと草花の隣に腰を下ろした。
さっきまで可憐に咲いていた花々は、二人の訓練に巻き込まれて大半が無残にも荒らされてしまっていた。踏み潰され、千切れてしまった花を見て、カイは悔しげに唇を噛む。戦闘スキルや身体能力は双方、互角といって差し支えないのだが、花を守ろうとしながら戦うカイは、やはりオレンジ髪の少年より圧倒的に不利だった。
コテンパンにのされ、地面へ仰向けに倒れるカイ。少しだけ湿った土や草花の香りが、疲れた体を優しく包む。ひんやりとした土、青く爽やかな匂いのする自然に身を委ねると、オレンジ髪の少年もカイの横に座った。
「はは、だらしねーなー」
言いながら、彼は散ってしまった小さな花を片手に集めてカイの髪にかけた。黒髪に青い花が散らばり、カイは「やめろよ」と頭につけられた花を払う。
彼は上体を起こして小さな花ひとつを手に取り、まじまじと眺めた。
「これ、前に図鑑で見た花だ。……たぶん、勿忘草っていう花」
「ふーん? よく知ってんな」
オレンジ髪の少年は、カイの手元を覗き込み、たいして興味もなさそうに相槌を打つ。
「まあオメー、戦闘訓練じゃオレに勝てねーもんな。座学で差をつけようっていう、涙ぐましい努力ってやつー?」
茶化すように笑う少年。露骨に眉根を寄せるカイ。「いちいち癪に障る言い方を……」
言いつつ、カイの方も少年の天邪鬼な性格は充分理解していて、無駄に突っかかることもなく言葉を続けた。
「この花には、『私を忘れないで』って意味があるんだって。あとは『真実の友情』とか」
いわゆる「花言葉」ってやつ、と言ったカイに、オレンジ髪の少年は「へー」と感情のこもっていない平坦な声を返す。そして彼は、自分が散らした青い花の群れを眺めながらぽつりと言った。
「……まー、本当に大事なやつのことは、忘れたくても忘れられねーけど」
ほんのわずか、うつむき湿っぽい声を漏らした彼に、カイは少年の父親について思いを馳せる。オレンジ髪の少年は、父親を亡くしてこの施設に連れてこられた身の上だ。彼は以前、父親について愛憎の入り混じった複雑な情を吐露したこともある。
なんと声をかけたものか迷うカイだったが、少年はさして気に留めた様子もなく顔を上げた。感傷的だった顔は、いつのまにか悪戯っ子のように口角を上げていた。
「あとはムカつくやつも。忘れようって思っても、忘れられねーんだよなー」
皮肉っぽい物言いと眼差しに、今度はカイもつられて苦笑いする。
「それで言ったら、たぶんボクも、セイのことはずっと忘れられないんだろうな」
セイは最初とんでもなくいけ好かない腹立たしいやつで、だけど今では唯一無二の大事な兄弟だから。
手に収まる青い花を見つめながら言うカイに、オレンジ髪の少年――セイは目を丸くして口を閉じる。彼は無言でカイの横顔を凝視して、それからふいとそっぽを向いた。
「なんだよ、急に……恥ずかしーやつ」
言われてカイも自分の発言へ我に返ったらしく、彼は赤面して言い訳の言葉を探した。
「兄弟っていうか、毎日こんなに一緒にいるし。お父様だって家族って言ってたし」
気付けばセイはカイの顔をまっすぐ見ていて、にやにやと品のない笑みを寄越していた。焦げ茶の瞳には、カイをからかうのが楽しくて仕方ないというような、それでいて心から嬉しそうな色をたたえている。
「たぶんじゃなくて、ぜってー忘れねーだろ?」
そう言って、セイは座ったままで肩だけをカイにぶつけた。
カイは油断していたところを体当たりされて、地面に手をつくよりも勢いを殺すためにごろりと横に倒れた。「わっ、なにするんだ」怒るカイの頭に、先ほどのように青い花をかけるセイ。
「オメーの中でもオレは兄弟みてーだし? オレのことは『おにいちゃん』だろー?」
「ちょ、調子に乗るなよっ」
戦闘の疲労とは違う汗をかいて抵抗するカイだったが、セイは「照れんなって」と聞く耳も持たずに青い花を舞い散らせる。散ってなお可愛らしさを保っている花は、さながら柔らかな小雨の如くカイに降り注いだ。
「だから、むだに花を荒らすなってば!」
照れ隠しも含んで憤るカイの髪は、青い花々をまとって艶やかに光っている。
「なんだ、もう一戦やるかー?」
答えるセイの目も、一片の曇りなく年相応の爛漫さで輝いていた。
青い花咲く裏庭の真ん中で、二人は騒々しくも賑やかな時間を過ごしていった。
子ども時代の記憶は遥か遠く。大人になるまでの忙しない日々に、幼少の頃の思い出は、取り出す暇もなくいつしか心の奥底に封印されてしまう。
黒髪の青年――かつて少年だった青年、佐藤戒は、たった十数人しかいないデスゲーム会場を一人で探索していた。実際のところカイはデスゲームを企んだ組織側の人間であり、この状況もあらかじめ予見していたのだが、他の参加者にそれを悟られると面倒なことになる。それでいて彼にはどうしても守り通したい参加者の存在もあって、なかなかどうして難しい任務だとカイは内心で息を吐いた。その任務を課したのは彼自身ではあるものの、己の立場を伏せての行動にはさまざまな制約がある。
カイは食堂のテーブル下に『鍵番』のカードを仕込み、エプロンのポケットに『賢者』のカードがあることを確認する。どちらも所持だけで死が確定するほど物騒なものではないが、生存率がより高くなる方を当然、保護対象者に拾わせるべきだと考えての行動だった。
べつに相手から守ってほしいと頼まれているわけでもない。けれどカイはたとえ自分がどれほど不利に追い込まれようと、彼女を守れる喜びと使命感に駆られていた。
そういえば昔にも、似たことがあったような。かすかな思い出が脳裏をかすめ、カイは記憶の糸を手繰り寄せて小首をかしげる。決して油断できない相手との対決。カイは巻き込まれただけの無力な存在を守ろうとして、それで結局カイの方が倒されたのだったか。守ろうとした小さなものも無残に散ってしまい、だけどなぜだか心から笑っていたような覚えもある。
青い花の面影がちらつく直前。食堂で待機しているカイのもとに、守るべき対象――千堂院沙良が姿を見せた。カイは彼女と二言、三言の会話を交わし、故意に辺りを停電させた。サラはカイの思惑通り、無事に『鍵番』のカードを拾ってくれた。
息つく暇もなく次の過程に移るカイ。ミシマの頭部を持って逃げるナオを調理室に匿い、彼女を包丁で脅して、ソウのパソコンを奪いに行ってもらう。どうしてかカイのパソコンは施設の隠し部屋にあり、カイ自身より先にソウが見つけてしまっていた。まさか他人の手に渡ると思っていなかったので、パスワードを解かれるだけでサラへの不信に繋がる恐れがあった。
ナオが調理室から出て行ってすぐ、カイはミシマの頭部を持って隠し通路へと上った。調理室と施設の三階にある一室は、一目ではわからない通路で繋がっている。ミシマの首には、まだ壊れていない首輪がついたままで、カイはそれを密かに移動させる役目を言い渡されていた。――デスゲームを計画した、組織側の人間たちに。
三階に到達すると、そこは荒れ果てたガレキだらけの部屋だった。電気も点いておらず、うっかり転ばないよう用心して室内を見回す。ミシマの頭部はこのまま机にでも置いておけばいいのだろうか。しかし剥き出して放置するのはさすがに気が咎め、迷っていると、部屋の扉が開く音がした。
扉の向こうは照明が点いていて、白い光を背に一人分の影が立っていた。背丈はカイより少し低め。全体的に細身で、逆光のせいで顔に黒い影が落ちている。男か女かは判断できなかった。
影は、カイの方をじっと見つめて言った。
「あ、オメーが父さんの言ってたやつ? 運搬ご苦労さん」
その声は朗らかに高く、けれど少年のように幼い響きを残していた。どこか聞き覚えのある声に、カイの眉間が訝しげに動く。
目が暗闇に慣れ始め、カイは相手の出方をうかがうように待っていた。そして彼は、影の姿を捉えるのと同時に息を呑んだ。
「あ……あなたは…………っ!」
統一感のない奇妙な服装に身を包んでいるため、一見しただけでは気付かなかった影の容姿。それはカイが幼少期を共にした兄弟――セイの姿と酷似していた。
鮮やかなオレンジ色の短髪。白い肌。黄色に縁取られた、オレンジと焦げ茶色の瞳。
体格こそ成長して、昔のセイよりずっと背が伸びているが、それでもカイよりは数センチほど低く見える。カイと同じかそれ以上に華奢な印象を持つ、小柄な少年だ。
少年は黒いパネルのようなもので口元を隠していて、細かい表情はうかがい知れなかった。それでも子ども時代に生活の大半を共にしていたカイの目はごまかせない。カイは、愕然として目の前の少年に絶句した。
セイは、子どもの頃にカイの腕の中で死んだ。カイと違って大人にはなれなかった。それなのに、どうしてか彼と瓜二つの少年がいる。これはどういうことだろう。
動揺で硬直したカイに、セイに似た謎の少年が冷めた視線を送る。敵意に近いその目の温度は、カイにとっては一度も見たことのない表情だった。青い炎とでも言うべきか、激情が宿っているのにやけに冷え切って見える目つきだ。
「……ああ、オメーが父さんの……」
カイが微動だにできないでいると、謎の少年は不穏な呟きを漏らしてカイを睨んだ。その声もセイのものとよく似ていて、いや、セイはもっと感情を露骨に出すような喋り方だったと、カイは無意識に少年とセイの相違点を探そうとする自分に気付く。
少年は、呆然と立ちすくむカイからミシマの頭部をひったくるように奪い取った。
「オレは父さんに言われて、こいつを回収しにきただけだよ」
父さんという物言いには、セイのそれを彷彿とさせる感情が滲んでいる。
混乱のやまないカイは、ミシマの頭部をボールのように放って弄ぶ少年へ険しい顔つきを向けた。少年は何者か。問おうとした寸前、少年の方から質問される。
「なに? そんなに見つめちゃって……父さんの息子対決でもしてーわけ?」
いいぜ、受けて立とうか。
冗談めかして声だけで笑う少年の瞳は、紛れもなくカイへの害意に満ちている。
彼がセイだとしてもしなくても、そんな目で見られる覚えはない。カイは困惑しながらも問いかけを返した。
「父さん、というのは」
なにから聞くべきか迷い、シンプルな疑問が口をつく。
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