世界その6:ミザントロープ

「どっかで見たことあると思ったら……オメー、しょっちゅうオレのところに来てた子どもかー」
 けらけらと笑うノエルに、少なからず動揺する少年。あのときの青年は、いつ会ってもぐっすりと眠っていたはずです。
 疑問が顔に出ていたのでしょう。ノエルは簡潔に答えを述べました。
「オレが作られたときから、この部屋は二十四時間三百六十五日、父さんや組織の連中に監視されてんだよ」
 親指を立て、部屋の天井を示すノエル。照明が点いていないので視認は難しいですが、そこに監視カメラがあるということでしょう。つまり――少年がたびたび部屋を訪れていたのも、父や上層部の人間には筒抜けだったというわけです。
 絶句する少年に、ノエルはなにやらぼそりと呟きました。
「……オメーが、父さんの『息子』かぁ……」
「……?」
 声色こそ落ち着いていますが、その奥に不穏な響きを感じ取った少年に、ノエルは少年の服の胸ぐらを掴みました。
 少年はとっさにノエルの手首を掴み返して、「なにをするんですかっ!」と噛みつきます。ノエルは、薄気味悪い笑顔で答えました。
「オレさ、父さん以外の人間は嫌いなんだよねー。生理的にキモく感じるっていうかさ……人間、気持ち悪いじゃん?」
 同意を求めているようで突き放した笑顔を浮かべ、ノエルは不気味なほどに口角を吊り上げて独白します。
「オメーは父さんの息子らしいから見逃してやるけど……あんまりオレの周りをうろちょろすんなよなー? オレだって父さんに作られた『息子』なんだからさー」
 言って、ノエルはぱっと手を離しました。しわになった衣服を整え、少年はノエルの瞳を見返します。
 まぶたの底に閉じられていた眼球は、毛髪と同じく鮮やかなオレンジ色で、中心が焦げ茶色に染まっています。縁は輪郭をなぞるような黄色に縁取られ、光源もないのに白いハイライトが入っています。
 ノエルは見た目だけならば相当の愛嬌がありますが、その口から放たれる言葉はどこまでも悪辣でした。
 乱れた服装と共に呼吸まで整えて、少年は改めてノエルに向き直ります。
 自分が幼い頃から頼りにしていた存在は、どうやら完全に理想とは違う種類のなにかだったようです。思えば勝手なイメージを持って拠り所にしていたのは少年の方で、その本質など、外見以外のことはなにひとつ知らない相手でした。裏切りだといった感情はお門違いでしょう。落ち度は、未知の相手を妄信していた少年にあります。
 裏切り。味方だと思っていた相手に、手のひらを返されること。
 その言葉と共に千堂院の夫婦を思い浮かべ、少年は汗ばんだ手をぎゅっと握りました。
「そう、ですか。……一向に外見が変わらないので、おかしいとは思っていましたが」
 少年の負け惜しみととったのか、ノエルは下卑た笑みを崩さずに返します。
「オメーさ、今はチドーインってやつのところにいるんだろー?」
 言い慣れない名詞のせいか発音が不明瞭ですが、少年は一瞬で身を固くしました。
 ノエルは一方的に言葉を重ねます。
「組織の中で居場所を失くして、逃避先にしてたオレはこんなで、次はチドウインのところにでも逃げるつもりー?」
 心底楽しそうに笑って、ノエルはオレンジの瞳に暗い影を落とします。眼球全体が黒く塗りつぶされ、表面にオレンジと黄色の渦巻きが表れました。口元だけが、奇妙に歪な笑みを作っています。
「そんで、チドウインにまで裏切られたら……今度こそマジで居場所がなくなっちまうなー?」
「……黙ってください」
 思考を飛び越して吐き出された言葉に、誰よりも少年自身が驚いていました。
 感情の揺らぎをノエルに悟られないよう、彼は努めて平坦に言い返します。
「何に忠誠を誓うかは、私自身が決めることです。……少なくとも私は、あなたのように可哀想な存在ではありませんから」
 ノエルの片眉が、ぴくりと吊り上がりました。
「……可哀想?」
 笑うのをやめたノエルに、少年は独り言のように言いました。
「あなたが父を慕うのは、生みの親である父があなたを都合良く扱うための制御装置にすぎません。自らの生んだ存在に、反抗されては仕方ありませんからね」
 ノエルは、いつしかすんとした真顔になっています。感情というものが欠落した素顔です。
 少年は、黒い瞳を凛と光らせて語ります。
「守るものすら、自分の居場所すら自らの意思で選べないあなたは、私よりもよっぽど『可哀想』です」
 きっぱりと言い切った少年に、ノエルの頬がひくひくと痙攣しました。人形にも筋肉の役割を担う機能が付いているのかと、少年は自分でも驚くほど冷めた目でノエルを見つめます。
「……さっさと出てけよ。父さんの息子だろうがなんだろうが、ぶっ殺しちまうかもしんねーからさー」
 地を這うような低音。それが単純な脅しでないことを察し、少年は部屋の出入り口に向かいます。
 退室する前に、彼はノエルへと軽く頭を下げました。
「……幼い頃から、それなりに面倒は見ていただきましたので」
「……オメーが勝手に来てただけだろ。寝てるやつの顔、じろじろ覗きやがって」
 これ以上の会話は肉弾戦になりそうだったので、少年は無言で部屋を出て扉を閉めました。
 外には、父の姿がありました。寡黙な父親は、威圧的なぎょろりとした眼で、少年を見下ろしています。
 物心づいた頃から変わらない視線を向けられて、少年は薄い笑みをこぼしました。妖しく不敵な笑みでした。
「私が忠誠を誓うのは、あなたでも千堂院家でもありません。……この組織です」
 振り返ってみれば、父に笑顔を向けたのはいつぶりのことでしょう。それにしては自然に笑えている自信がありました。
 父はかたい表情のまま、「……そうだ。それでいい」と満足げに笑い、少年を施設の外まで送り届けました。

 翌日。少年は、いつも通りに千堂院家のお手伝いさんとして働いていました。
 朝から出かけていた旦那さまが帰宅して、ちょうどお昼ご飯の時間になります。用意した食事を旦那さまと奥さまと娘のサラさんの三人分、残りを自分用にわけて、少年はリビングで昼食の準備をします。
 配膳を終えたタイミングで旦那さまが顔を出し、まだ幼い少女のサラさんが足元から顔を覗かせます。
 少年は一拍、戸惑いの間を置いてから、サラさんの頭をそっと撫でました。
 二人の後ろから遅れて現れた奥さまが、手を口に当てて目を丸くし――ぱっと花の咲くような笑顔を見せます。
「……旦那さん、奥さん、サラさん。お昼ご飯のご用意ができました」
 平然と装ってはいたものの、少年の頬は真っ赤に染まっていました。
 呼び方が変わったことに気付いているのか、いないのか。旦那さんは両腕を組んでおおらかに笑います。
「ああ。……いつもありがとうな、カイ」
 その瞬間。少年――佐藤戒は、人生で初めて「生き甲斐」を見つけたのでした。


 千堂院一家を守ること。それは組織に逆らい、離反することを意味します。いつまでも隠し通せることではありません。
 それでも少年は――私は、実の父とさえ縁を断つ覚悟で、一家を見守り続けました。
 組織に捕らわれ、光の当たらない道を歩んでいた私に、陽だまりのような世界を教えてくれた人。幸せの意味を、その身をもって示してくれた人たち。この方たちに命を尽くすならば、きっと後悔はしないでしょう。
 千堂院家での日々は、瞬く間に過ぎていきました。季節が何度も移り変わり、私はいつしか、立派に成長した大人になっていました。もう少年と呼べる年ではありません。
 かつての私が今の私を見たらどう思うことでしょう。我ながら、あまりの変わりように目を白黒させる様が思い浮かびます。
 それでも私は、幼少の自分に胸を張れることだけは自負していました。それで充分なのかもしれません。
 長い年月のあいだに、サラさんのことは影から見守るだけになってしまいましたが、組織の手から守るには、これが最善の策と言わざるを得ませんでした。
 組織とは定期的に連絡を取っていますが、彼らはいよいよ本格的な動きを見せ始めています。旦那さんとのやりとりで、そう遠くないうちに今の家も引き払うことになりそうだと言われました。少なからず寂しい気持ちにもなりましたが、なによりも生き延びることが最優先です。
 多少の影はよぎりつつ、表面上は平穏無事な日常のさなか。
 私は、旦那さんからある贈り物をいただきました。赤い生地に黄色の模様が散った……千堂院家の絆として受け継がれてきたというエプロンです。
 不覚にも感極まって目が潤んでしまいましたが、旦那さんは至極真剣にサラさんの身を案じています。血の繋がらない義理の親子だと聞いていますが、旦那さんは本当にサラさんを大切にされていました。父と子というのは、本来このような姿であるべきなのかもしれません。
 恩人である旦那さん、奥さん、そしてサラさん自身のために、私はなにがあってもサラさんを守り抜くと誓います。……旦那さんはサラさんのことになると周りが見えなくなるようで、それも心配と言えば心配でした。
 とはいえ、毎日は何事もなく平和です。
 この平和が続けば……という望みを持ってしまった矢先のことでした。
 父から、計画始動のメールが届いたのは。

 月明かりが、辺りを白く照らす夜でした。煌々と降り注ぐ月光は、アスナロの施設にあった棺のような箱を想起させます。箱の青年――ノエルは結局父の支配下でしたが、初めて彼を見たときの美しさは、言葉を失うほどでした。
 邪念を払うように首を振り、私は夜の住宅街を駆け抜けます。普段ならとっくに帰宅しているはずのサラさんは、友人と寄り道でもされているのでしょうか、今日に限って姿が見えません。
 汗で髪が額に張り付き、千堂院家までの道のりがやけに遠く感じられます。体力には自信がある方ですが、全速力でも足りないくらいでした。
 千堂院の家に向かう途中、眼前に大きな影が立ちふさがりました。誰かと思えば、よく知った顔の青年、トト・ノエルです。
 彼は無表情で淡々と告げました。
「やっほー。久しぶりじゃん、元気?」
「……どいてください」
 殺伐とした空気を嘲るように、ノエルはにんまりと品のない笑顔で応じます。
「そう怒んなよ。……なあ、今だったら組織の連中、オメーを許してやってもいいってさ」
 月光を背に、彼は瞳だけを爛々と輝かせて甘言をささやいてきます。
 私は、彼の言葉に回し蹴りで応えました。ビュッと、空気を裂くような音が響きます。
「意地になってんだろー? くだんねー『絆』なんかに惑わされて、自分まで死ぬつもりかー?」
 父に何か吹き込まれたのでしょうか。ノエルは身軽に私の蹴りをかわし、執拗に心変わりを迫ってきます。
「……私はもう、父とも組織とも関係ありません」
 何度目かの蹴りがノエルの腰に当たり、彼は露骨に機嫌を損ねたようでした。
「都合のいいこと言ってんなよなー。失敗作の、出来損ないが」
 短く舌打ちして、彼は腰からパネルを取り出しました。多様な図柄が描かれたそれを、口元に当てて表情の一部にしています。
「……ほんと、オレよりもよっぽど人形みてーなやつ」
 ノエルの戯言を受け流し、私は彼を振り払うようにして先を急ぎます。彼は早々に諦めたのか、追ってくる様子はありませんでした。
 千堂院家の近くまで来ると、不審者注意の貼り紙が目に入りました。長い黒髪に全身が黒ずくめ、性別は不詳ですが細身ながら体格はそこそこ……この辺りも、随分と物騒になったものです。
 思い当たる節のない不審者のことはさておき、私は千堂院家の目前に迫る二人組を見つけました。ちょうど良いタイミングで、サラさんは友人と共に帰宅しようとしています。しかし千堂院の家には組織の人間がいるかもしれません。
 私は夜道の先から、大声で二人に叫びました。
「……帰っちゃダメだ!」
 肺に残った空気を振り絞るように絶叫します。彼女だけは、絶対に守らなくてはいけません。
 千堂院夫妻の安否も不安ですが、旦那さんたちのためにも彼女の身の安全を確保しなくては。その一心で駆け寄ると、二人はサラさんの自宅へ一目散に逃げだしました。あっというまに遠ざかる後ろ姿に、私も慌てて後を追います。
 しかし、走り出そうと足を踏み出した瞬間。何者かが私の肩を掴んで、強引に地面へと引き倒しました。コンクリートの道路で反射的に受け身を取りますが、相手は矢継ぎ早にこちらの動きを妨害します。
 多勢に無勢で、抵抗するだけで精一杯の私の眼前に、ゆらりと影が立ちました。
 月明かりに照らされて――ノエルは、オレンジ色の瞳を気だるげに細めていました。歪んだ眼差しの奥で、眼球の表面がぐるぐると渦巻いています。
「オメーさえいなければ、父さんはオレだけを見てくれる……」
 うわごとのような呟きを聞いた直後、私の視界は真っ黒な闇に落とされました。全身に強い衝撃が走り、それと気づかないうちに、意識は深い闇へ落ちていきます。
 ノエルの声が耳につき、先ほど彼の言っていた「オレよりもよっぽど人形みてーなやつ」という言葉が、耳の奥で何度も反響していました。その声も、やがてかすんで聞こえなくなっていきます。
 父からの愛情を欲して人間のように足掻き続けるノエルは、またもパネルで口元を覆っています。それは彼が見せる無機質な人形らしさによく似合っていて――そしてその目には、強い憎悪と激情が宿っていました。
 その正体が嫉妬と羨望であることに気付いた次の瞬間。私の意識は完全に途切れてしまいます。
 目が覚めたとき、まずはなによりもサラさんを探さなくては。
 そして、旦那さんと奥さんの安全を確保して、そして――。

 最後の一瞬に思い浮かんだのが、初めて見たときのノエルの寝顔だったのはどうしてでしょう。あの安らかな居場所に身を委ね、それなのにまたべつの居場所をも求めたことへの罰なのか。
 疑問に答えを出す暇もなく、暗闇にただ、彼の笑い声が聞こえた気がしました。
3/3ページ