世界その6:ミザントロープ
久しぶりに呼び出しを受けて、少年は緊張を胸に父の部屋へ入ります。かたい表情で入室した少年を、父と上層部の人間が待っていました。
彼らは、それほど重要視されている任務ではないと前置きして言いました。緊張をほぐす気遣いに見せかけ、多少の揶揄を含んでいることに少年は気付いていました。
――千堂院家の見張り。
それが、久方ぶりに少年へと命じられた大きな任務でした。
千堂院とは初めて聞く名字ですが、見張り程度ならば殺人ほどの重責はありません。油断せず今度こそ完璧にこなすことを誓って、少年は「御意」と深くこうべを垂れました。
見張りの任務は最初のうちこそ施設から出向いていましたが、そのうちに組織が少年の住む自宅を手配してくれました。それは彼の負担を減らすというよりも、体のいい厄介払いに近い扱いでしたが、針のむしろである組織にいるより息はしやすくなることでしょう。ただ、少年には少し残念なことでもありました。
組織に用意された「自宅」へ移る前日。少年は三階奥の「箱の青年」へ会いに行きました。それなりの年月を過ごした施設の中で、この部屋には特別な愛着が残っています。
箱の縁に手をかけ、少年はガラスに隔てられて眠る青年に寂しげな眼差しを送りました。ついに一度も話すどころか、起きているところさえ見ることはかないませんでしたが、少年は未練を断ち切るように唇を固く引き結びます。
千堂院を見張る任務は、少年が当初想定していたよりも長いものになりそうです。専用の自宅まで与えられたのですから、短くても数週間程度では済まないでしょう。何か月か……年単位の規模でも不思議ではありません。
「……いってきます」
黒い瞳をおぼろげに揺らして、少年は別れの挨拶を告げました。
それは任務を無事に完遂するまで、青年のところへは戻らないという、自分自身への戒めでもありました。まだ幼さの残る相貌に決意を秘めて、彼は目つきを鋭くします。
人殺しの任務を失敗したのは、少年の心身が未熟だったせいです。技術不足、技量不足――なによりあの頃の少年には、覚悟が足りませんでした。
誰かを殺してでも、大切なものを守るという覚悟。
少年は険しい表情で部屋から退出します。今の彼には、それまでと違って守るべきものがあるのです。
再び青年と会うとき、胸を張って笑顔で報告するために――そうできることを願いながら、少年は一人、組織の施設を去っていきました。
初めての一人暮らしは戸惑うこともありましたが、おおむね問題なく、日々は淡々と過ぎていきました。
千堂院一家の様子を観察しては、父を経由して組織に報告のメールを送ります。その傍ら、一通りの家事も自分でこなす必要がありました。
組織にいた頃はなんだかんだ周囲の人間に助けられていたのだと、少年は複雑な心境で家事を覚えていきました。掃除や洗濯はともかく、料理や家計簿の記入、やりくりなどは完全に未知の領域です。
しかしそれらは元来、少年の性に合っていたようで、彼はいつしか自立した暮らしを確立していきました。収入は組織から経費としてもらうほかありませんが、わずかながら貯金を積み立てる余裕もできたほどです。
任務開始、及び一人暮らしを始めてから半年が経過した頃。
生活と任務がバランス良く軌道に乗ったところで、少年の父から一通のメールが送られてきました。メールには任務の労をねぎらう言葉と、追加の任務の資料が添付されていました。今までは遠目から見張るだけでしたが、千堂院家で「お手伝いさん」が募集されていることをきっかけに、少年自身がお手伝いさんとして潜り込むようにとの命令です。
資料は捏造された履歴書で、ひとつのファイルにまとめられていました。少年はファイルにざっと目を通し、それらを自分の情報として記憶していきます。書類の右上に貼られた顔写真には、険しい顔をした少年が映っていました。
既視感に黙考し、自分の父に似ているのだと気付いて、少年は考えることをやめました。
組織や父に誘導されて募集へ申し込むと、三日と経たないうちに採用の通知が届きました。
不採用の可能性を不安視していた少年は、第一関門の突破に慢心することなく、気を引き締めて「お手伝いさん」としての仕事に向かいます。
組織以外の人間のもとで働くのは初めてですが、千堂院家の人間は気さくで明るい人たちでした。
朗らかな笑顔と温和な空気に満たされた、世界中の幸福だけを集めた場所。快活で優しい夫婦と一人娘で構成される家族は、心優しく慈愛に溢れた一家でした。悪意というものに触れたことすらなさそうです。
それは平穏な日常や愛情というものを知らずに育った少年にとって、決して小さくない衝撃でした。世の中にはこんなに穏やかな家族、暮らしがあるのかと、それこそ眩しい日差しに眩暈がする感覚で――気を許してはいけないと、彼はいっそう強く自身に言い聞かせます。
組織がなにを企んでいるのかはわかりませんが、アスナロに目を付けられている以上、一家に危害が及ぶ可能性は充分にあります。それどころか、危害を加えるのは自分の役目になるかもしれません。
どんな任務でも完璧に遂行するべく、少年は一家から一歩引いた立場でお手伝いさんをこなしました。
しかし千堂院家の人間は親身でした。ただの手伝いにすぎない少年を、まるで家族の一員のように迎え入れて、分け隔てのない愛情を注いでくれました。
そんなことではほだされないと決意するまでもなく、少年はそれらの情に嫌悪と忌避感を抱きます。彼らを無遠慮な人間だと嫌って、仕事をするのに感情は不必要だと……むしろ足枷でしかないものだと、一家から与えられる一切をわずらわしいものだと切り捨てました。
少年が生まれて初めて手にした「愛情」は、彼にとって異物でしかありません。人間は自分がよくわからないものを恐れるものですから、少年が嫌悪を感じるのも致し方ないことでした。
自分には得体のしれない、理解できないものを拒絶する少年に、それでも夫婦は愛情を示し続けました。そのたびに少年は、彼らと自分は生きている世界が違うのだと、何度も心の内側に線を引きました。
少年が千堂院家のお手伝いさんになってから、季節が一巡りする直前の頃のことです。少年は、家事の一環として食後の皿洗いをしていました。
まかないという名目で少年も同じ時間に食事をとっていましたが、一家と同じ食卓に着くのは彼自身が頑として拒否しました。千堂院の夫婦は、少年が本当に嫌がることには配慮してくれる、察しが良くて気配りのできる二人でした。
流しで食器を洗っていると、予定より早く仕事が片付いたと一家の主――旦那さまが、なんの気まぐれか少年の家事を手伝い始めました。
ぎょっとして断った少年に、旦那さまは「本当は、自分の家のことぐらい自分でやらなきゃいけないしなぁ」と笑います。そういえば奥さまの方もそんなことを言って、ときどき掃除などを手伝ってくれると思い出し、少年はしぶしぶ台所の片付けをお願いしました。
少年が食器を洗うあいだ、旦那さまは他愛ない雑談に興じます。さっさと洗い物を済ませて逃げたい少年でしたが、根が真面目なので手抜きができず、適当に応じていました。
旦那さまの雑談は、やがて真面目なものに変わりました。
こちらが本当に話したいことだったのでしょう、彼は頑なに食卓を共にしない少年へ探るような視線で問いかけます。
「無理強いはしないが、どうしてそこまで嫌がるんだ?」
「……人と食卓を囲むことに、慣れていないもので」
組織にいた頃は職員と共用の食堂を利用していたので、これは当然真っ赤な嘘です。
その事情を知る由もない旦那さまは、申し訳なさそうに「そうだったか」と呟きました。糸目の目尻が、感情豊かな眉と一緒にきゅっと下がっています。同情されているのかと、少年は少しだけ嫌な気持ちになりました。
「うちでは、そんなに気を遣わなくていいんだぞ」
「……はい。ありがとうございます」
他に答える言葉もなく、少年は曖昧に礼を言って頭を下げました。洗い物を片付け、備え付けのタオルで手を拭きます。
彼が一家と食卓を共にしたくない理由は、この家の一人娘にもありました。
自分よりもずっと幼い子どもを理由にするのは、さすがに罪悪感と自己嫌悪を覚えますが……陽だまりのようなこの家で、家族からの愛情を一身に受けて育つ彼女を見ていると、自分との違いでどうしてもわだかまりができてしまいます。世界は初めから平等ではないことを、まざまざと見せつけられるのです。
夫婦は絶えず少年にも愛情の手を差し伸べてくれましたが、彼がその手を取ることは絶対にできません。もう、失敗は許されないのですから。
その日の帰り、少年は千堂院家宅に忘れ物をしたことに気付きました。旦那さまとの雑談に気を取られてしまったのでしょうか。
こんなことではいけないと自責しつつ、忘れ物を取りにきたと伝えるため旦那さまを探します。幸い、一家は午後からも家にいるようでした。
リビングに向かうと、一人娘は庭で遊んでいるらしく、夫婦の二人だけがリビングで話をしています。
扉は開いていて、少年が顔を出そうとしたときでした。
「……あの子、悪い子ではないんでしょうけど……」
聞こえてきたのは女性、この家の奥方の声です。いつもの人の好い口調ではなく、困っているような、戸惑っているような声でした。
「なにを考えているのか、ちょっとわからないのよね。単なるお手伝いさんにしては素性が怪しい気もするし……」
批判めいた声色ではありませんが、勘の鋭い奥さまに少年はどきりとしました。自分が不愛想なことは自覚していますが、こうも不信感や猜疑心を持たれていたというのは初耳です。
……もう少し、一家との距離を詰めるべきか。
千堂院家との間合いを計りかねる少年の耳に、旦那さまの鷹揚な声が聞こえました。
「あいつは真面目にこの家の仕事をこなしてくれているだろう。オレの仕事もきちんと任せられる、信頼できる人間だよ」
悠然とした声は、旦那さまの笑顔まで目の前に浮かんで見えるほどです。
少年は扉の影に隠れたまま、無意識に小さく唇を噛みました。
「でも、なにかあってからじゃ」
奥さまは不安そうでしたが、旦那さまは「かかか」と懸念を吹き飛ばすように笑います。そして神妙な口調で言いました。
「この家に危険が及んだときは、家族まとめてオレが守る覚悟だ。その中には、あいつのことも入っている」
思いもよらない言葉に、少年は息を呑んで目を見開きました。
その気配には気付かず、旦那さまは真剣な様子で言葉を続けます。
「仮に裏切られたとしても、あいつには今まで裏切る対象もなかったんだろう。すべてに見放された顔……自分のことさえどうでもいいといった顔をすることが、よくあるからなぁ」
空気がぴんと張り詰め、そしてそれを和らげるように、旦那さまは再び明朗に笑いました。
「裏切るってのは、信頼できる味方がいて初めて成り立つもんだ。オレは、あいつの――カイの、信頼できる人間になりたいと思ってるよ」
まあ、未だにオレを「旦那さま」と呼んでるあたり、他人の扱いなんだろうがな。
そう苦笑して締めくくる旦那さまに、奥さまも納得したようでした。
「……あなたがそう言うなら」
口ぶりこそ苦笑の残った雰囲気ですが、自らの伴侶を信じている声音でした。
互いに全幅の信頼を寄せている声で、二人はしばし少年について語り合います。
「生真面目すぎるところがある」「でも、仕事は本当によくやってくれている」「どうしたら、もっと心を開いてくれるだろうか」
……平和な会話を聞いていられなくなり、少年は音を立てないよう細心の注意を払いながら、足早にその場を立ち去りました。
目頭が熱く、両目には薄い膜が張っています。どう対処したものかと服の袖を押しつければ、膜は弾けるように決壊して、袖を大量の涙で濡らしました。
「……っ」
出入りに使っている千堂院家の裏口で、少年は誰にも見つからないように膝を抱えて顔を埋めます。初めての感情に心が揺さぶられて、自我さえ見失ってしまいそうです。
温もりを受け入れることは、少年のそれまでを否定されることに等しい感覚でした。そして一度受け入れてしまえば、彼はそれまでと明確に違う人間へ変わってしまうでしょう。それはひどく恐ろしいことに思えて、少年は涙と共に自分自身の肩を強く抱きました。
思考の濁流に翻弄されながら、彼はふと組織に残っているだろう箱の青年を思い出しました。もう長いこと顔を見てはいませんが、あの美しい造形と穏やかな寝姿は、脳裏に鮮明に焼き付いています。
生まれて初めて触れた陽の温もりか。冷たい施設で自ら見つけ出した静穏の場所か。
どちらを守るべき居場所と定めるべきか――焦燥に追い立てられ、少年はアスナロの施設に向かいました。
鼻をすすり、涙の跡を可能な限り消し去って、一年と少しぶりに組織の施設へ足を踏み入れます。セキュリティは自前のIDで問題なく通ることができました。
父や他の人間に声をかけるべきかと迷いましたが、今の自分が情緒不安定なことは自覚していたので、できるだけ他の人間と顔を合わせないよう手短に済ませることにします。
施設内は特に大きな変化もなく、少年はすぐに三階奥の部屋に辿り着きました。祈るような気持ちで扉に手をかけ、室内に入ります。部屋は消灯されていました。
棺のような形の箱は、昔と変わらず部屋の隅に設置されていました。上部のガラス蓋が開いていて、その上に人の影がありました。
「……んー? 誰だテメー」
箱の縁に腰かけた青年が、ぶしつけな眼差しで少年を睨みます。部屋の暗さと同化するような、黒く体の線がよくわかる服を着ていました。
光を失った箱に腰を下ろし、青年は心なしか窮屈そうでした。
オレンジの短髪は、右側頭部のあたりが少し跳ねています。色白な肌は、部屋が薄暗いせいでしょうか、血色が悪く見えました。血の気が失せている、とも表現できそうな肌に、少年の背筋がぞくりと粟立ちました。
彼は、首元に黄色いスカーフを巻いていました。以前の彼は身に着けていなかったものです。逆に言うと、そのスカーフ以外、青年は頭の上から爪先までどこも変わっていないように見えました。
「……あなたは」
呆気にとられる少年へ、青年は渦を巻く瞳を弓なりに細めます。
「オレ? オレの名前はトト・ノエル。すげー科学者の父さんに作られた、すげー人工知能を持つ人形だぜー」
すごいだろーと、茶化すように笑う青年――ノエルの台詞に、少年は「父さん……?」となおもいぶかしげに眉を寄せます。
ノエルは不機嫌そうに首を傾げました。
「オメー、ここの人間じゃねーの? 佐藤我執って、すげー科学者がいるのも知らねー感じ?」
「っ!」
彼が口にしたのは、紛れもなく少年の父親の名前です。
たしかにアスナロの中でも高名な科学者の一人ですが、彼の口からその名前が出てきたことには驚きを禁じ得ません。
ノエルと名乗った青年――彼の言葉を信じるなら、人工的に作られた知能を有する人形――は、少年をじろりと見つめました。
少年は困惑を隠しきれないままに伝えます。
「佐藤我執は……私の父です」
「はあ? 父さんの息子ぉ?」
素っ頓狂な声を上げて、ノエルは箱から降りて少年に顔を寄せました。床に足をついてまっすぐ立つと、身長は少年と変わらないか、ノエルの方が少し高いくらいでした。
警戒で臨戦態勢に入った少年をよそに、ノエルは少年の全身を頭から爪先までじっくりと観察して、「ああ」と酷薄な笑みを作ります。
彼らは、それほど重要視されている任務ではないと前置きして言いました。緊張をほぐす気遣いに見せかけ、多少の揶揄を含んでいることに少年は気付いていました。
――千堂院家の見張り。
それが、久方ぶりに少年へと命じられた大きな任務でした。
千堂院とは初めて聞く名字ですが、見張り程度ならば殺人ほどの重責はありません。油断せず今度こそ完璧にこなすことを誓って、少年は「御意」と深くこうべを垂れました。
見張りの任務は最初のうちこそ施設から出向いていましたが、そのうちに組織が少年の住む自宅を手配してくれました。それは彼の負担を減らすというよりも、体のいい厄介払いに近い扱いでしたが、針のむしろである組織にいるより息はしやすくなることでしょう。ただ、少年には少し残念なことでもありました。
組織に用意された「自宅」へ移る前日。少年は三階奥の「箱の青年」へ会いに行きました。それなりの年月を過ごした施設の中で、この部屋には特別な愛着が残っています。
箱の縁に手をかけ、少年はガラスに隔てられて眠る青年に寂しげな眼差しを送りました。ついに一度も話すどころか、起きているところさえ見ることはかないませんでしたが、少年は未練を断ち切るように唇を固く引き結びます。
千堂院を見張る任務は、少年が当初想定していたよりも長いものになりそうです。専用の自宅まで与えられたのですから、短くても数週間程度では済まないでしょう。何か月か……年単位の規模でも不思議ではありません。
「……いってきます」
黒い瞳をおぼろげに揺らして、少年は別れの挨拶を告げました。
それは任務を無事に完遂するまで、青年のところへは戻らないという、自分自身への戒めでもありました。まだ幼さの残る相貌に決意を秘めて、彼は目つきを鋭くします。
人殺しの任務を失敗したのは、少年の心身が未熟だったせいです。技術不足、技量不足――なによりあの頃の少年には、覚悟が足りませんでした。
誰かを殺してでも、大切なものを守るという覚悟。
少年は険しい表情で部屋から退出します。今の彼には、それまでと違って守るべきものがあるのです。
再び青年と会うとき、胸を張って笑顔で報告するために――そうできることを願いながら、少年は一人、組織の施設を去っていきました。
初めての一人暮らしは戸惑うこともありましたが、おおむね問題なく、日々は淡々と過ぎていきました。
千堂院一家の様子を観察しては、父を経由して組織に報告のメールを送ります。その傍ら、一通りの家事も自分でこなす必要がありました。
組織にいた頃はなんだかんだ周囲の人間に助けられていたのだと、少年は複雑な心境で家事を覚えていきました。掃除や洗濯はともかく、料理や家計簿の記入、やりくりなどは完全に未知の領域です。
しかしそれらは元来、少年の性に合っていたようで、彼はいつしか自立した暮らしを確立していきました。収入は組織から経費としてもらうほかありませんが、わずかながら貯金を積み立てる余裕もできたほどです。
任務開始、及び一人暮らしを始めてから半年が経過した頃。
生活と任務がバランス良く軌道に乗ったところで、少年の父から一通のメールが送られてきました。メールには任務の労をねぎらう言葉と、追加の任務の資料が添付されていました。今までは遠目から見張るだけでしたが、千堂院家で「お手伝いさん」が募集されていることをきっかけに、少年自身がお手伝いさんとして潜り込むようにとの命令です。
資料は捏造された履歴書で、ひとつのファイルにまとめられていました。少年はファイルにざっと目を通し、それらを自分の情報として記憶していきます。書類の右上に貼られた顔写真には、険しい顔をした少年が映っていました。
既視感に黙考し、自分の父に似ているのだと気付いて、少年は考えることをやめました。
組織や父に誘導されて募集へ申し込むと、三日と経たないうちに採用の通知が届きました。
不採用の可能性を不安視していた少年は、第一関門の突破に慢心することなく、気を引き締めて「お手伝いさん」としての仕事に向かいます。
組織以外の人間のもとで働くのは初めてですが、千堂院家の人間は気さくで明るい人たちでした。
朗らかな笑顔と温和な空気に満たされた、世界中の幸福だけを集めた場所。快活で優しい夫婦と一人娘で構成される家族は、心優しく慈愛に溢れた一家でした。悪意というものに触れたことすらなさそうです。
それは平穏な日常や愛情というものを知らずに育った少年にとって、決して小さくない衝撃でした。世の中にはこんなに穏やかな家族、暮らしがあるのかと、それこそ眩しい日差しに眩暈がする感覚で――気を許してはいけないと、彼はいっそう強く自身に言い聞かせます。
組織がなにを企んでいるのかはわかりませんが、アスナロに目を付けられている以上、一家に危害が及ぶ可能性は充分にあります。それどころか、危害を加えるのは自分の役目になるかもしれません。
どんな任務でも完璧に遂行するべく、少年は一家から一歩引いた立場でお手伝いさんをこなしました。
しかし千堂院家の人間は親身でした。ただの手伝いにすぎない少年を、まるで家族の一員のように迎え入れて、分け隔てのない愛情を注いでくれました。
そんなことではほだされないと決意するまでもなく、少年はそれらの情に嫌悪と忌避感を抱きます。彼らを無遠慮な人間だと嫌って、仕事をするのに感情は不必要だと……むしろ足枷でしかないものだと、一家から与えられる一切をわずらわしいものだと切り捨てました。
少年が生まれて初めて手にした「愛情」は、彼にとって異物でしかありません。人間は自分がよくわからないものを恐れるものですから、少年が嫌悪を感じるのも致し方ないことでした。
自分には得体のしれない、理解できないものを拒絶する少年に、それでも夫婦は愛情を示し続けました。そのたびに少年は、彼らと自分は生きている世界が違うのだと、何度も心の内側に線を引きました。
少年が千堂院家のお手伝いさんになってから、季節が一巡りする直前の頃のことです。少年は、家事の一環として食後の皿洗いをしていました。
まかないという名目で少年も同じ時間に食事をとっていましたが、一家と同じ食卓に着くのは彼自身が頑として拒否しました。千堂院の夫婦は、少年が本当に嫌がることには配慮してくれる、察しが良くて気配りのできる二人でした。
流しで食器を洗っていると、予定より早く仕事が片付いたと一家の主――旦那さまが、なんの気まぐれか少年の家事を手伝い始めました。
ぎょっとして断った少年に、旦那さまは「本当は、自分の家のことぐらい自分でやらなきゃいけないしなぁ」と笑います。そういえば奥さまの方もそんなことを言って、ときどき掃除などを手伝ってくれると思い出し、少年はしぶしぶ台所の片付けをお願いしました。
少年が食器を洗うあいだ、旦那さまは他愛ない雑談に興じます。さっさと洗い物を済ませて逃げたい少年でしたが、根が真面目なので手抜きができず、適当に応じていました。
旦那さまの雑談は、やがて真面目なものに変わりました。
こちらが本当に話したいことだったのでしょう、彼は頑なに食卓を共にしない少年へ探るような視線で問いかけます。
「無理強いはしないが、どうしてそこまで嫌がるんだ?」
「……人と食卓を囲むことに、慣れていないもので」
組織にいた頃は職員と共用の食堂を利用していたので、これは当然真っ赤な嘘です。
その事情を知る由もない旦那さまは、申し訳なさそうに「そうだったか」と呟きました。糸目の目尻が、感情豊かな眉と一緒にきゅっと下がっています。同情されているのかと、少年は少しだけ嫌な気持ちになりました。
「うちでは、そんなに気を遣わなくていいんだぞ」
「……はい。ありがとうございます」
他に答える言葉もなく、少年は曖昧に礼を言って頭を下げました。洗い物を片付け、備え付けのタオルで手を拭きます。
彼が一家と食卓を共にしたくない理由は、この家の一人娘にもありました。
自分よりもずっと幼い子どもを理由にするのは、さすがに罪悪感と自己嫌悪を覚えますが……陽だまりのようなこの家で、家族からの愛情を一身に受けて育つ彼女を見ていると、自分との違いでどうしてもわだかまりができてしまいます。世界は初めから平等ではないことを、まざまざと見せつけられるのです。
夫婦は絶えず少年にも愛情の手を差し伸べてくれましたが、彼がその手を取ることは絶対にできません。もう、失敗は許されないのですから。
その日の帰り、少年は千堂院家宅に忘れ物をしたことに気付きました。旦那さまとの雑談に気を取られてしまったのでしょうか。
こんなことではいけないと自責しつつ、忘れ物を取りにきたと伝えるため旦那さまを探します。幸い、一家は午後からも家にいるようでした。
リビングに向かうと、一人娘は庭で遊んでいるらしく、夫婦の二人だけがリビングで話をしています。
扉は開いていて、少年が顔を出そうとしたときでした。
「……あの子、悪い子ではないんでしょうけど……」
聞こえてきたのは女性、この家の奥方の声です。いつもの人の好い口調ではなく、困っているような、戸惑っているような声でした。
「なにを考えているのか、ちょっとわからないのよね。単なるお手伝いさんにしては素性が怪しい気もするし……」
批判めいた声色ではありませんが、勘の鋭い奥さまに少年はどきりとしました。自分が不愛想なことは自覚していますが、こうも不信感や猜疑心を持たれていたというのは初耳です。
……もう少し、一家との距離を詰めるべきか。
千堂院家との間合いを計りかねる少年の耳に、旦那さまの鷹揚な声が聞こえました。
「あいつは真面目にこの家の仕事をこなしてくれているだろう。オレの仕事もきちんと任せられる、信頼できる人間だよ」
悠然とした声は、旦那さまの笑顔まで目の前に浮かんで見えるほどです。
少年は扉の影に隠れたまま、無意識に小さく唇を噛みました。
「でも、なにかあってからじゃ」
奥さまは不安そうでしたが、旦那さまは「かかか」と懸念を吹き飛ばすように笑います。そして神妙な口調で言いました。
「この家に危険が及んだときは、家族まとめてオレが守る覚悟だ。その中には、あいつのことも入っている」
思いもよらない言葉に、少年は息を呑んで目を見開きました。
その気配には気付かず、旦那さまは真剣な様子で言葉を続けます。
「仮に裏切られたとしても、あいつには今まで裏切る対象もなかったんだろう。すべてに見放された顔……自分のことさえどうでもいいといった顔をすることが、よくあるからなぁ」
空気がぴんと張り詰め、そしてそれを和らげるように、旦那さまは再び明朗に笑いました。
「裏切るってのは、信頼できる味方がいて初めて成り立つもんだ。オレは、あいつの――カイの、信頼できる人間になりたいと思ってるよ」
まあ、未だにオレを「旦那さま」と呼んでるあたり、他人の扱いなんだろうがな。
そう苦笑して締めくくる旦那さまに、奥さまも納得したようでした。
「……あなたがそう言うなら」
口ぶりこそ苦笑の残った雰囲気ですが、自らの伴侶を信じている声音でした。
互いに全幅の信頼を寄せている声で、二人はしばし少年について語り合います。
「生真面目すぎるところがある」「でも、仕事は本当によくやってくれている」「どうしたら、もっと心を開いてくれるだろうか」
……平和な会話を聞いていられなくなり、少年は音を立てないよう細心の注意を払いながら、足早にその場を立ち去りました。
目頭が熱く、両目には薄い膜が張っています。どう対処したものかと服の袖を押しつければ、膜は弾けるように決壊して、袖を大量の涙で濡らしました。
「……っ」
出入りに使っている千堂院家の裏口で、少年は誰にも見つからないように膝を抱えて顔を埋めます。初めての感情に心が揺さぶられて、自我さえ見失ってしまいそうです。
温もりを受け入れることは、少年のそれまでを否定されることに等しい感覚でした。そして一度受け入れてしまえば、彼はそれまでと明確に違う人間へ変わってしまうでしょう。それはひどく恐ろしいことに思えて、少年は涙と共に自分自身の肩を強く抱きました。
思考の濁流に翻弄されながら、彼はふと組織に残っているだろう箱の青年を思い出しました。もう長いこと顔を見てはいませんが、あの美しい造形と穏やかな寝姿は、脳裏に鮮明に焼き付いています。
生まれて初めて触れた陽の温もりか。冷たい施設で自ら見つけ出した静穏の場所か。
どちらを守るべき居場所と定めるべきか――焦燥に追い立てられ、少年はアスナロの施設に向かいました。
鼻をすすり、涙の跡を可能な限り消し去って、一年と少しぶりに組織の施設へ足を踏み入れます。セキュリティは自前のIDで問題なく通ることができました。
父や他の人間に声をかけるべきかと迷いましたが、今の自分が情緒不安定なことは自覚していたので、できるだけ他の人間と顔を合わせないよう手短に済ませることにします。
施設内は特に大きな変化もなく、少年はすぐに三階奥の部屋に辿り着きました。祈るような気持ちで扉に手をかけ、室内に入ります。部屋は消灯されていました。
棺のような形の箱は、昔と変わらず部屋の隅に設置されていました。上部のガラス蓋が開いていて、その上に人の影がありました。
「……んー? 誰だテメー」
箱の縁に腰かけた青年が、ぶしつけな眼差しで少年を睨みます。部屋の暗さと同化するような、黒く体の線がよくわかる服を着ていました。
光を失った箱に腰を下ろし、青年は心なしか窮屈そうでした。
オレンジの短髪は、右側頭部のあたりが少し跳ねています。色白な肌は、部屋が薄暗いせいでしょうか、血色が悪く見えました。血の気が失せている、とも表現できそうな肌に、少年の背筋がぞくりと粟立ちました。
彼は、首元に黄色いスカーフを巻いていました。以前の彼は身に着けていなかったものです。逆に言うと、そのスカーフ以外、青年は頭の上から爪先までどこも変わっていないように見えました。
「……あなたは」
呆気にとられる少年へ、青年は渦を巻く瞳を弓なりに細めます。
「オレ? オレの名前はトト・ノエル。すげー科学者の父さんに作られた、すげー人工知能を持つ人形だぜー」
すごいだろーと、茶化すように笑う青年――ノエルの台詞に、少年は「父さん……?」となおもいぶかしげに眉を寄せます。
ノエルは不機嫌そうに首を傾げました。
「オメー、ここの人間じゃねーの? 佐藤我執って、すげー科学者がいるのも知らねー感じ?」
「っ!」
彼が口にしたのは、紛れもなく少年の父親の名前です。
たしかにアスナロの中でも高名な科学者の一人ですが、彼の口からその名前が出てきたことには驚きを禁じ得ません。
ノエルと名乗った青年――彼の言葉を信じるなら、人工的に作られた知能を有する人形――は、少年をじろりと見つめました。
少年は困惑を隠しきれないままに伝えます。
「佐藤我執は……私の父です」
「はあ? 父さんの息子ぉ?」
素っ頓狂な声を上げて、ノエルは箱から降りて少年に顔を寄せました。床に足をついてまっすぐ立つと、身長は少年と変わらないか、ノエルの方が少し高いくらいでした。
警戒で臨戦態勢に入った少年をよそに、ノエルは少年の全身を頭から爪先までじっくりと観察して、「ああ」と酷薄な笑みを作ります。