世界その6:ミザントロープ

 ――時計を見ると、夜の九時をまわっていました。
 日々のほとんどを建物の中で過ごす少年にとって、長い一日の終わり、時計の短い針が七を越したあたりからが「夜」という概念の時間です。
 日課の勉学と訓練を済ませ、少年は父親の部屋へ向かいました。まだ幼い彼ですが、食事や入浴の前に、父へ「一日の報告」をする義務があります。
 少年は父の部屋の扉をノックしました。しかし、なぜかいつまで経っても返事がありません。思い切ってドアノブを回してみましたが、部屋は当然のように鍵がかけられていました。それは彼が報告をするようになってから初めてのことで、少年は不安な気持ちになって父を探しに行きました。
 彼は夜の施設の廊下を歩き出します。
 アスナロと呼ばれる組織の施設は、日常生活を送るだけならば充分すぎるほど広く感じられます。けれど、一人の人間が成長する箱庭としては、あまりに狭く閉鎖的な空間でした。
 幼い少年にとって世界のすべてである施設内を、彼は庭のように迷いのない足取りで巡ります。
 途中、白衣を着た科学者たちとすれ違い「父を見ませんでしたか」と問うと、研究員は快く「三階奥の個室にいましたよ」と教えてくれました。
「ありがとうございます」
 礼を述べ、教わった通りに階段を上り廊下を進むと、三階の奥には一枚の扉がありました。スチール製の扉です。
 ルームプレートは貼られていませんが、研究員の言ったことが正しければここに父がいるはずです。
 コンコンコン。少年は父の部屋へ入るときと同じ、規則的なノックを三回繰り返します。十数秒から数分ほど待ちましたが、またも返事はありませんでした。
 父の部屋のドアノブを回したときよりは気楽な気持ちで、少年は謎の部屋のドアノブをひねります。鍵のかかっていない扉は、拍子抜けするほどあっさり開きました。
「……父さん、いますか?」
 恐る恐る室内を覗き込み、父親を呼んでみる少年。人の気配は薄く、部屋には誰もいないようです。
 よく見ると、部屋の隅には大きな箱が置かれていました。電気の点いていない室内で、箱はひっそりと人工的な光を放っています。淡く澄んだ、乳白色の光でした。
 少年は、ほのかな好奇心で箱に近づきました。
 箱は少年の全身よりも大きく、縦に長い形をしています。どことなく棺に似ていますが、少年は本物の棺桶を見たことがないので、本で得た知識を思い起こすだけでした。
 箱には支えとなる四本の脚がついていて、天辺は少年の頭を超すくらいの高さでした。 少年は部屋の一角から椅子を持ってきて、きちんと靴を脱いでから、椅子に乗って箱の縁に手をつきます。
 箱の表面はガラス張りになっていて、光は内側から溢れていました。無機質ですが、どこか温かい光です。
 透き通った光を覗き込み、少年は思わず息を呑みました。幼い黒目がちの瞳が、驚愕と動揺で大きく見開かれます。
 ――箱に収まっていたのは、一人の青年でした。
 透明感のある白磁の肌。黒々とした長い睫毛。
 絹のように細くしなやかな、そして鮮やかなオレンジ色の短髪。
 中性的な外見ですが、体つきを見るにおそらく男性でしょう。作り物のように洗練された外見の青年です。目をつむっているので瞳の色はわかりませんが、黒い服に包まれた手足はすらりと長く、均整のとれた体つきをしています。
 彼は全体重を箱に預けて、大人しく眠っているようでした。
「……」
 呼吸さえ忘れていた少年は、眠る青年の胸が微塵も上下していないと気が付いて首をひねります。ガラスが邪魔で、鼻や口元に手を当てて確認することもできません。
 さらに奇妙なことに、青年の体は全身がなにかの線で繋がれていました。コードとケーブルの違いもわからない少年ですが、赤や青の導線の先は箱本体に繋がっています。この箱自体が機械である可能性に思い至り、彼は掴んでいた箱の縁からぱっと手を離しました。
 椅子の上に立ったまま、少年は改めて箱の中の青年を見下ろします。
 幼い少年よりも十歳は年上でしょうか。白い肌には傷ひとつなく、まぶたは静謐に閉じられています。寝息は聞こえませんが、その寝顔は神秘的なほど綺麗で、安らかでした。
 少年は、じっと自分の手を見ました。連日の訓練で傷こそ負っていないものの、ナイフや銃といった多様な武器を握る両手には硬い血豆やタコができています。
 慣れればいずれ消えると言われているものですが、少年は少しだけ寂しそうに青年の手元を見つめました。青年は手の甲が上向きになっていて、手のひらは見えません。それでも、爪の先まで光るような両手は、裏も表も美しく整っているとわかります。
 しばし青年の寝顔を眺めていた少年は、やがて欠伸を漏らし、就寝前の報告を済ませていないと思い出します。それどころか、夕食や入浴さえ失念していました。
 この部屋には時計がないらしく、少年は急いで椅子を片付けて父親探しを再開します。
 退室する直前、少年は扉を開いたままでちらりと箱の方にめをやり、黒髪をひるがえして部屋を後にしました。

 少年が「箱の青年」と出会った日から、早くも一カ月が経ちました。
 一日も欠かさずに行われる訓練を終えて、日課の報告まで済ませ、少年は三階の奥部屋へ足を運びます。
 あの日以来、少年は二、三日に一度くらいの頻度で部屋を訪れていましたが、「箱の青年」以外の人間が現れたことは父親でさえありませんでした。
 いつものように椅子を持ってきて、少年は髪が顎先に触れるほどの前傾姿勢で箱を覗き込みました。青年は今日も穏やかに眠っています。薄い唇が、半開きになっていました。
「……今日も綺麗ですね」
 箱の縁で両腕を組み、少年は真っ黒な瞳をかすかに細めます。連動するように口元が緩んで、音のない微笑みを形作りました。
 ガラスには触れないよう注意しつつ、組んだ両腕に顎を乗せ、彼は青年にぽつぽつと語りかけました。それは、少年の一日の報告です。
 訓練では普段通り怪我のひとつもせず、座学の方でも好成績を残したこと。一日の終わりに父へ報告したのとほとんど同じ内容を、少年は楽しそうに話し続けます。
 ついでに、夕食は好物のカレーだったことも話しました。それは、父には話していないことでした。
 箱に収まっている青年は、相変わらず目を覚ます気配がありません。遠い昔に本で読んだ「眠り姫」を思い出しましたが、箱の青年は少年の推測によるとたぶん男性です。彼が着ているのはいつも同じ服で、黒くぴったりとした、体の線がとてもわかりやすい服装でした。
 少年が一日の報告をするとき、父は常に真面目な顔をしています。というよりも、少年の父親は常日頃から仏頂面です。
 父はとても優秀な科学者で、多くの研究員たちに尊敬されています。それは少年にとっても誇らしいことでしたが、同時に、少年にとって父は畏怖の対象でもありました。……少年のあげた成果を聞いて、褒めてくれることがないわけでもありませんが。
 無感情な眼差しと、なにを考えているのかわからない面立ちの父のことを考えながら、少年は箱の中の青年を見ます。こちらを射抜くような視線を投げてくる父と違って、青年の目は、今日もかたく閉ざされていました。
 この一カ月、彼が起きているところは一度も見たことがありません。けれども、少年は青年の眠る姿を見ることが好きでした。
 二人の年頃は決して近いとは言えませんが、アスナロの組織は大部分が成人した大人で構成されています。その中で、未成年と思しき青年の存在は稀有で貴重でした。
 眠る青年を見下ろして、少年は彼の全身に繋がるコードを見ます。なんとなくの予想ですが、彼もまたアスナロの一員として組織にその身を捧げている一人なのでしょう。
 静穏な寝顔に一方的な痛ましさを感じ、少年は青年を想って眉を八の字に下げました。
 少年はその年齢の子どもにしては聡明で大人びていましたが、その感情が身勝手な同情心であることには、気付くことができませんでした。

 それから長い月日が経った、ある日の午後。
 訓練を終えた少年は、上層部の人間から父と共に呼び出しを受けました。
 日々の訓練と勉強に不備があったのでしょうか。心配する少年に、組織の人間は「重要な任務」を言い渡します。それはむしろ、少年が優秀だと認められての任命でした。
 それまでにも数々の指令を受けてきた少年は、ほっと胸を撫で下ろし、そして一瞬で精悍な面持ちに変わります。
 漆黒の瞳に怜悧な光を宿した少年へ、組織の人間は重々しい口調で告げました。
 ――暗殺の任務です。
 命じられたのは、とある人間の殺害でした。つまりは人の命を奪うようにとのお達しです。
 少年の瞳孔が、言葉の意味を理解したのと同時に小さく収縮します。星のない夜空のような暗い眼に、人間らしい感情の揺らぎが見えました。真っ白になった頭の中で、己の心音がやけに速く、力強く聞こえます。
 鼓動に意識を引き戻されて、彼は横一文字に引き結んでいた唇を開きました。
「……御意」
 背筋が冷たくなるのを感じながら、それだけを言うのがやっとでした。
 少年の後方に立つ父は、無言のまま身動きひとつしていません。父が何を考えているのか、想像もつかない少年は振り向くことができませんでした。
 殺人の命を受けてからというもの、訓練は日ごとに激しくなっていきました。座学に割かれる時間は減り、生身の人間を相手に人殺しの技術を叩きこまれる日々が続きます。
 肉体的な特訓はもちろん、どんな状況下でも冷静な判断を下せるように、精神も厳しく鍛え上げられました。
 しかし少年は、自分の体が強くなるたび、なにかが欠けていくような危機感を抱き始めます。訓練は順調に進み、比例するように彼の目からは光が失われていきました。
 訓練は過酷さを増し、三階奥の部屋へはすっかり足が遠のいていました。
 一日の終わりは父への報告で締めくくり、体力回復のために食事と風呂を済ませると、それだけで気力が尽きてしまうのです。朝早くから訓練に励み、夜は泥のように眠る。単調ですが苛烈な毎日が続きました。
 人の命を奪い、殺してしまうという行為。その命令は、少年本人が認識しているよりもはるかな重圧となって、彼の心身を押し潰そうとしていました。
 そして、あっというまに命令を実行する日がやってきます。
 人殺しの武器を手にした少年は――小さなその両手を、血に染めることができませんでした。

 少年が人殺しの任務を失敗してからの記憶は、ひどくおぼろげです。
 上層部の人間にきつく叱責され、父には失望の溜息を漏らされたような気がしますが、どれも少年の意識をすり抜けていきました。
 物心ついたときから一日たりとも途絶えなかった訓練は、任務の失敗を機に、体力維持程度の軽いものへと変わりました。
 義務教育程度の座学の時間も減り、しかし少年を取り巻く環境は、命令を受ける以前よりも影の濃いものとなっていきます。組織の人間たちは、重要な任務を失敗した少年を見下すようになりました。
 まだ子どもじゃないか。一部からは少年を庇う声も上がりましたが、それらもやがて同調圧力や集団主義に呑みこまれ、かき消されていきました。自分の立場を犠牲にしてでも少年を助けようとするような大人は、はなからこんな組織には入っていないのです。
 とはいえどちらにせよ、少年の耳には誰の言葉も届いていませんでした。
 あの日から少年は、まるで宙に浮いているような感覚が続いています。悪い意味での夢心地、と言えるでしょうか。何の作業をしていても、からっぽになった自分を背後から他人事のように見ている自分の視点がつきまとっていました。
 少年が朝、目覚めてから朝食を摂るとき。座学や訓練に励んでいるとき。昼食や清掃、眠りに落ちる寸前まで。抜け殻になった精神の奥底から、非難と罵倒、嘲笑の声が聞こえてきます。――「失敗作」「出来損ない」「恥晒し」。
 幻聴だとわかっていて、少年は自罰的にそれをただ受け入れていました。
 徐々に精神を病みつつある彼を置き去りに、世界は――組織は来る日も来る日も、変わらぬ日常を繰り返します。
 座学と訓練、ときおり雑用と簡単な任務を与えられるだけの日々は、首を真綿で締められるような息苦しさでした。

 そんな毎日の中。唐突に、わずかな変化が訪れます。それは、指導員の都合で日課の訓練が早めに切り上げられた日のことでした。
 夕食や入浴の時間まで唐突にぽっかりとした空白が生まれ、少年は所在なげに自室のベッドに腰かけます。父への報告は、任務の失敗以来、一度も行っていませんでした。組織の人間に疎まれていることを自覚しているので、誰かの手伝いを申し出るのも気が引けます。
 白い室内灯に照らされて、しばらく虚ろな目で空を眺めていると、不意に三階奥部屋のことが脳裏をよぎりました。正確には「箱の青年」の寝姿です。
 逡巡して、少年は静かに自分の部屋から抜け出しました。
 箱自体がなくなっているかもしれない、という不安もありましたが、ともかく他の人に見とがめられないよう、こっそりと三階を目指します。
 到達点の三階奥部屋、施錠されていないスチールの扉は簡単に開きました。棺のような箱は、少年が最後に見たときとなにも変わらずに部屋の隅に鎮座しています。
 箱の天辺からこぼれる乳白色の光が懐かしく、少年はあの日と同じように椅子を持ってこようとして、それがもう必要ないことに気付きました。初めて箱を見た日から、少年は随分と背が伸びていました。
 まだ子どもであることには変わりませんが、自らの成長を実感した少年は、ふっと自嘲の笑みを漏らします。
 箱の中を覗くと、そこにはかつての青年が変わらない姿でおさまっていました。瞑目して唇を薄く開いた寝顔は、この世のどんな悪意や不条理とも無縁そうに安穏としています。
 美しい寝顔を見つめるうちに、少年は自分の意識が戻ってくるのを感じました。肉体と精神が、元通り一つに重なるような感覚です。
 それまで遠く乖離していた、世界と自分の意識とがようやく馴染んだことに安堵して、彼は深い溜息を吐きました。礼を言うように、ガラス越しに青年の頬を撫でる真似をします。
 本当は座って青年を見ていたいのですが、おそらく精密機器であろう箱を動かすのは危険です。少年は立ちっぱなしで、夕食の時間まで飽きもせずに青年を見つめていました。

 理不尽な仕打ちは一向に終わりが見えないままでしたが、「箱の青年」と再会してからの少年は、少しずつ精神を回復していきました。機械的に流し込んでいた食事に味が付き、入浴時に体を温めることまで意識できるようになっていました。
 変化に目ざとく勘付いた職員もいましたが、特に口を出されることはありません。無関心で放置されるのは、少年にとっても助かることでした。
 少年の仕事は訓練と座学、ときおり雑用じみた任務をこなすことで、あとは最低限の生活を送り、組織の人間として働くことだけです。それにプラスしてたまに箱の青年と会うことができれば、それだけで充分すぎるほど満足のいく日々を過ごすことができました。
 人殺しの任務を失敗してから、さらに数年が経ちました。
 記憶するほどの価値がないせいか、少年には思い出と呼べるくらいの思い出はほとんどありません。だけど青年と過ごしていたときのことだけは、いつでもすぐに思い出すことができました。
 組織はなにやら不穏な計画を立てているようですが、任務を失敗して期待されなくなった少年には、きっと関係のない話でしょう。彼は組織と自分の繋がりに見切りをつけ、青年との時間を維持するためだけに神経を使っていました。
 けれども、平坦な日常が一変するのは、いつも突然でした。
1/3ページ