世界その5:失敗作兄弟
月の綺麗な夜だった。
見事に真ん丸な形をした――満月というんだっけか。濃紺の空で黄金色に輝くそれに、夜道は明るく照らされている。おかげで深夜の住宅街はとても歩きやすかった。
人気のない閑静な夜道を歩くオレの足元を、一枚の枯葉が通り過ぎていく。音を立てて飛んでいく、乾いた薄茶色の葉っぱ。
枯葉を転がす一陣の風はオレの頬にも容赦なく吹き付けて、温度なんか感じない体をわざとらしくすくめてみる。
歩道に沿って植えられている街路樹は、随分と葉が少なくなっている。まだ丸裸にはなってないけど、真夏の頃に見たときは、もっとたくさんの葉がわさわさと生い茂っていたはずだ。
樹の色は、濃い緑から薄く変化していた。月光の下で、葉の一枚一枚が風に揺れている。
久しぶりに通る道は、たった一カ月で思ったよりも様変わりするもんだ。季節の変わり目というやつのせいか。感心しつつ、オレは目的の場所で足を止める。
それぞれに独立した家が密集しているエリアの、派手すぎず地味すぎない一軒家。こんな時間だ、住民は眠っているんだろう。物音ひとつしない夜の底、眩しいほどの月明かりを受けて、家はなんだか宙に浮いて見えるようだった。
敷地の外側で待っていると、やがて用のある人間が現れた。
こんなに月の明るい晩じゃなかったら気付かなかったかもしれない。黒い長髪に黒い服。見たことのないエプロンを着ていて一瞬人違いしたかと思ったが、そいつは間違いなくオレの知り合いだった。
黒ずくめの服装にエプロンだけが真っ赤な色をしていて、それも気を抜けば闇に紛れて見失いそうだ。そうなる前にオレは、いつもの調子でそいつに声をかけた。
「よっ。遅くまでごくろーさん」
驚いた顔で振り向いたそいつは、危うく手元で鈍く光る小物を落とすところだった。この家のスペアキーみたいだ。信頼されているようでなによりというか、なんというか。
「……ノエル」
短く呼ばれ、「はーい、ノエルくんでーす」と茶化して頭部の後ろで両手を組む。
カイは大袈裟なそぶりで溜息を吐いた。
「あなた、夜に出歩くときは明るい服を着た方がいいですよ。心臓が止まるかと思いました」
カイはほとんど表情を変えなかったけど、実はかなりびっくりしていたらしい。言われて、改めて自分の格好を見直してみる。
黒いシャツと黒いズボン、黒い靴。腰には、口元の絵を描いた手持ちパネルを突っ込んである。
「ここは明るいけど?」
冗談めかして、首に巻いた黄色いスカーフを引っ張ってみせると、もう一度大きな溜息を吐かれた。なんともムカつく反応だ。
「……まあ、いいでしょう。何の用ですか?」
なにげなさを装いつつ、カイは探りを入れる眼差しを向けてきた。……チドウインにはだいぶ懐いてるくせに、失礼ってやつなんじゃねーかなー。
「用がなきゃ、一緒に帰っちゃいけねーわけー?」
友好的に笑いかけてやると、「どこかに出かけていたんですか?」と感情の読めない声で訊ねられる。
「散歩だよ。どうせ暇だし。ついでにオメーのこと『護衛』してやろーと思ってさー」
言って、オレは近くの電柱を親指で示した。不審者注意の貼り紙がある。
「ほら、この辺も物騒らしいぜ? こんなやつに出くわしたらこえーじゃん」
「……誠に遺憾です」
電柱に掲示されているのは、最近この辺りに出没すると噂の不審人物のイラストだった。
目撃情報によると、長い黒髪に、全身は黒尽くしの服装。いかにも怪しさ満載の風体だ。口角を上げるオレとは対照的に、カイは唇を少しだけへの字に曲げていた。
周辺の住人に注意喚起されている不審者とはカイのことに違いない。長髪だけど女にしては背が高いのと、骨格とか体格? とかで印象がぼやけたんだろう。性別は不明になっていた。
「ただ、忠実に任務をこなしているだけなのですが」
わざとか、それとも真面目に言っているのか。カイは物憂げに呟いて、貼り紙から視線を外す。
「オメーも人のこと言えねーじゃん」
さっきの意趣返しで笑ってやると、ちらりと横目で見られた。
「……あなたは、人ではないでしょう」と言い返される。
やっぱりムカつくやつだと、オレはカイのふくらはぎに蹴りを入れようとする。ひょいとかわされてさらにイラッとした。
しょうがねーから、強引に話題を変えることにした。
「そういや、エプロン変わってんな」
確か、以前は青一色のやつを着ていたはずだ。
エプロンなんか正直どうでもいいけど、カイがいま着ているやつには特徴的な柄が入っていた。『量産品』というより、『特別なもの』みたいだ。自分で言うのもなんだけど、オレはそういう類の機微には聡い方だったりする。
カイは戸惑ったように言いよどんで、それからなんでもないことのように淡々と言った。
「先日いただいたものです。旦那さんが、長く働いている褒美に、と」
「……へー」
あくまで無表情を貫く姿勢のようだが、カイの目には嬉しそうな色がにじんでいる。自分では気づいてねーんだろーなー。そう思うとなんだか滑稽で、ちょっとだけ気分がすっとする。
それはそうと、ご褒美をもらって無邪気に微笑むカイは、まだなにか隠している気がする。
並んで歩きながら見つめていると、なにを思ったか、カイは芝居がかった仕草でオレの頭を撫でた。
「あなたには、父がいるでしょう」
オレは無意識に眉を寄せる。
「……何の話だよ」
オレの機嫌を損ねたと気付いてか、カイは似合わない冗談を飛ばす。
「私は、もうアスナロにいるよりも、千堂院家にいることの方が多くなっています。あなたが寂しがっているかと思いまして」
「笑えねーなー。誰が寂しがるかってのー」
けっ、と吐き捨ててカイの手を払いのける。
ふと父さんの顔が思い浮かんだ。身内への情が薄そうな父さんは、めったに組織の方へ戻らなくなったこいつをどう思ってるんだろう。
カイは再び口を開く。
「父は、変わりありませんか?」
オレは素直に頷いた。
変化というか、父さんの考えていることは今も昔もよくわからない。けど、とりあえず健康とか生活的な意味では、こいつがいた頃からたいして変わっていないと思う。
そう伝えると、カイは安堵の顔を見せた。
「オメーも、父さんが恋しいとか思ったりするわけ?」
なんとなく気になって訊いてみる。カイは少し躊躇して視線をさまよわせ、言葉を選びながら答えた。
「恋しいというか……まあ、一応は血の繋がった肉親ですから。気にはなりますよ」
「ふーん。そういうもんか」
家族とか親子の情はよくわからねーけど、父さんもカイも、互いに意識し合っている気はする。実の父親、実の息子。オレには決して立ち入ることのできない領域だ。
おもしろくねーなと道端の小石を蹴飛ばすと、カイは困ったように苦笑した。
「こう言ってしまうのもなんですが、あなたの方がよっぽど父の息子らしい感じがしますがね」
それは、カイが人間であるという点と、父さんの血を分けた実の息子であるという点の両方から、オレの劣等感を強く刺激する。
「……嫌味かよ」
ちくりと胸を刺されたような痛みに、我知らず声が低くなる。痛覚なんか搭載されていたかな。
痛みの正体を考える間もなく、カイは首を横に振った。緩慢な仕草は、どこか父さんに似ている気がする。
「いえ。純粋に、あなたはとても父を慕っていますし。私は暗殺の命を失敗した時点で、組織からも父からも見放されているでしょうし」
重い内容とは裏腹に、カイの口調は少しあっさりとしていた。
……オレが父さんを慕う理由は、なんのことはない。オレがそう作られているからだ。
創造主に反抗しないよう、オレには父さんを敬愛するプログラムが組まれている。いつだったか、父さん自身が教えてくれた。だからオレが父さんに抱く好意は、人が呼吸しないと生きていけないのと同じくらい当然の感情だ。
言おうとして口をつぐむ。オレにプログラムされているものの中身ぐらい、こいつは把握しているだろう。
こいつも『人形』みたいに、盲目的に父親を崇拝して疑わないプログラムが組まれていれば幸せだったのかもな。合理的に考えてみたけど、それをそのまま伝えたら否定されそうだったのでやめておいた。
代わりに、カイの台詞の後半部分に言及する。父さんや組織の連中にとって、カイはもうお役御免ってやつらしい。
「そのわりには、ヒソーカンがないみてーだけどー?」
悲愴感。覚えたての言葉を使うと、カイはなにか迷うように眉を寄せた。言葉の意味、間違ってねーよなー。カイの思いつめた表情を見るに、たぶん大丈夫そう。少しでもこいつの脆い部分を突けていると良い。
カイは十数メートルの夜道を沈黙で進み、逡巡の後に、ふっと観念した頬笑みを浮かべた。
「……私は、組織を裏切るつもりです」
黒い瞳に満月を映し、抑揚のない声で呟く。感情を無理に制御しているような硬い声だった。
白い肌に月光が差して、長い睫毛が青白く影を落としている。その顔は不思議と晴れやかだった。
「千堂院の方々には、本当にお世話になりました。その御恩もありますし……私には、こちらの方が性に合っていたようです」
いっそ清々しささえ感じさせる声音で言うカイ。
オレは思わず鼻で笑う。
「性に合ってるって、マジで言ってんのかよ。テメー人殺しの能はなくても、裏でいろいろやってきたんだろー?」
オレも詳しくは知らないけど、アスナロのエージェントとして使われていた以上、普通の人間とは決して相容れない人生だったことは想像に難くない。きっと、人を殺す任務の他にも相当えぐいことをやってきたはずだ。
こいつが他人を殺せなかった理由が、単なる技量の問題かそれ以外の要因によるものかは、興味もないけど。でもこいつとはそれなりに長い付き合いだから、だいたいの想像はつくってもんだ。
「やりたくてやっていたことではありませんから。……それに気付いたのも、ここ最近のことですが」
強めの風が吹いて、カイはエプロンの胸元にそっと手を当てる。心なしか優しい眼差しに、手を伸ばせば触れられるほど近くにいながら、謎の距離を感じた。
「つーか、そんな話オレにして良かったわけー? 父さんにチクっちゃうかもよー?」
挑発の笑みを向ける、カイは落ち着いた態度で応えた。
「もう、腹はくくりましたから」
ぼんやりとして何を考えているのかわかりづらい眼に、いまは凛とした輝きが満ちている。
幸せとか、揺るぎない自信とか、決意とか……覚悟とか。人間は随分といろんな感情を抱くもんだ。
「……あっそ。つまんねーなー」
投げやりにズボンのポケットに手を突っ込み、また足元の小石を蹴飛ばす。石ころは道端の空き缶に当たって、乾いた金属質な音が響いた。
「いざとなれば、あなたも敵になるかもしれませんね」
「……なるかもっつーか、なるだろ。フツーに」
牽制するような目を向けられて、オレはへらりと笑って両手を挙げた。
右手にナイフ。左手に拳銃。どっちも、オレの頭上でぎらりと光っている。
ナイフは抜き身で、銃もすでに六発分の弾丸が装填され、オレは銃の撃鉄が起きた状態で引き金に指をかけていた。オレが少し人差し指を曲げるだけで、夜も深い静寂の住宅街に銃声が響き渡るわけだ。
カイは素早くオレの手から銃を奪い、撃鉄を指で押さえたまま引き金を引いて、ゆっくりと撃鉄を下ろした。横からタックルでもかませば暴発するだろうけど、どうせ動いた瞬間に容赦なく蹴り飛ばされるんだろう。オレにスパコン並みの計算力はなくても、それくらいは予測できる。
銃に安全装置までかけて、カイは咎めるようにこっちを睨む。ナイフは奪うまでもないと判断されたらしい。
「言っとくけど、先に裏切ったのはオメーの方だからな」
軽く睨み返すと、「……わかっています」とそっけない返事で逸らされた。
「ま、はなから戦闘でテメーに勝てるとは思っちゃいねーけどさ」
アスナロのエージェントとして幼少期から厳しく教育されていたカイは、訓練ではまったく手傷を負うことがなかったらしい。戦闘には才能があっても、使いこなすだけの器がなければ組織にとっては不要な人間だ。むしろ敵に回ったら脅威になりかねない。
「あなたも充分強いですよ。血も涙もありませんし」
カイは言葉遊びのようなことを言って、それがカイ自身への皮肉であると気付く。
この肉体に一滴の血も涙も流れていないオレは、なるほど肉体的にも精神的にも無傷で父さんの役に立てるわけだ。カイよりも優れている点を発見して、優越感に口の端が上がった。
「……ですので、私がいなくなった後は父を頼みますね」
ちょっとだけ湿った声で、カイは寂しげに微笑んだ。裏切りを決めたのは自分のくせに、よくもまあそんな顔をする。
矛盾を抱えてもなお自分の意思で決めなければいけない、人間という生き物には心から同情する。
「まあ、オメーの方から出て行ってくれるなら、願ったり叶ったりってやつだなー。出来損ないのオメーが消えて、名実ともにオレがいちばん父さんの役に立つってわけだ」
胸を張って強気に笑えば、カイは余裕のある笑顔でにこりと返した。
「はい、お互い頑張りましょうね」
……こいつ、やっぱり気に食わねー。
予備動作なしに大きく片足を振り上げると、カイは安全装置をかけた銃を握る手の甲でオレの蹴りを受け止めた。そのまま体をひねってくるりとターンし、ニ撃目の蹴りも難なく回避する。
見事に真ん丸な形をした――満月というんだっけか。濃紺の空で黄金色に輝くそれに、夜道は明るく照らされている。おかげで深夜の住宅街はとても歩きやすかった。
人気のない閑静な夜道を歩くオレの足元を、一枚の枯葉が通り過ぎていく。音を立てて飛んでいく、乾いた薄茶色の葉っぱ。
枯葉を転がす一陣の風はオレの頬にも容赦なく吹き付けて、温度なんか感じない体をわざとらしくすくめてみる。
歩道に沿って植えられている街路樹は、随分と葉が少なくなっている。まだ丸裸にはなってないけど、真夏の頃に見たときは、もっとたくさんの葉がわさわさと生い茂っていたはずだ。
樹の色は、濃い緑から薄く変化していた。月光の下で、葉の一枚一枚が風に揺れている。
久しぶりに通る道は、たった一カ月で思ったよりも様変わりするもんだ。季節の変わり目というやつのせいか。感心しつつ、オレは目的の場所で足を止める。
それぞれに独立した家が密集しているエリアの、派手すぎず地味すぎない一軒家。こんな時間だ、住民は眠っているんだろう。物音ひとつしない夜の底、眩しいほどの月明かりを受けて、家はなんだか宙に浮いて見えるようだった。
敷地の外側で待っていると、やがて用のある人間が現れた。
こんなに月の明るい晩じゃなかったら気付かなかったかもしれない。黒い長髪に黒い服。見たことのないエプロンを着ていて一瞬人違いしたかと思ったが、そいつは間違いなくオレの知り合いだった。
黒ずくめの服装にエプロンだけが真っ赤な色をしていて、それも気を抜けば闇に紛れて見失いそうだ。そうなる前にオレは、いつもの調子でそいつに声をかけた。
「よっ。遅くまでごくろーさん」
驚いた顔で振り向いたそいつは、危うく手元で鈍く光る小物を落とすところだった。この家のスペアキーみたいだ。信頼されているようでなによりというか、なんというか。
「……ノエル」
短く呼ばれ、「はーい、ノエルくんでーす」と茶化して頭部の後ろで両手を組む。
カイは大袈裟なそぶりで溜息を吐いた。
「あなた、夜に出歩くときは明るい服を着た方がいいですよ。心臓が止まるかと思いました」
カイはほとんど表情を変えなかったけど、実はかなりびっくりしていたらしい。言われて、改めて自分の格好を見直してみる。
黒いシャツと黒いズボン、黒い靴。腰には、口元の絵を描いた手持ちパネルを突っ込んである。
「ここは明るいけど?」
冗談めかして、首に巻いた黄色いスカーフを引っ張ってみせると、もう一度大きな溜息を吐かれた。なんともムカつく反応だ。
「……まあ、いいでしょう。何の用ですか?」
なにげなさを装いつつ、カイは探りを入れる眼差しを向けてきた。……チドウインにはだいぶ懐いてるくせに、失礼ってやつなんじゃねーかなー。
「用がなきゃ、一緒に帰っちゃいけねーわけー?」
友好的に笑いかけてやると、「どこかに出かけていたんですか?」と感情の読めない声で訊ねられる。
「散歩だよ。どうせ暇だし。ついでにオメーのこと『護衛』してやろーと思ってさー」
言って、オレは近くの電柱を親指で示した。不審者注意の貼り紙がある。
「ほら、この辺も物騒らしいぜ? こんなやつに出くわしたらこえーじゃん」
「……誠に遺憾です」
電柱に掲示されているのは、最近この辺りに出没すると噂の不審人物のイラストだった。
目撃情報によると、長い黒髪に、全身は黒尽くしの服装。いかにも怪しさ満載の風体だ。口角を上げるオレとは対照的に、カイは唇を少しだけへの字に曲げていた。
周辺の住人に注意喚起されている不審者とはカイのことに違いない。長髪だけど女にしては背が高いのと、骨格とか体格? とかで印象がぼやけたんだろう。性別は不明になっていた。
「ただ、忠実に任務をこなしているだけなのですが」
わざとか、それとも真面目に言っているのか。カイは物憂げに呟いて、貼り紙から視線を外す。
「オメーも人のこと言えねーじゃん」
さっきの意趣返しで笑ってやると、ちらりと横目で見られた。
「……あなたは、人ではないでしょう」と言い返される。
やっぱりムカつくやつだと、オレはカイのふくらはぎに蹴りを入れようとする。ひょいとかわされてさらにイラッとした。
しょうがねーから、強引に話題を変えることにした。
「そういや、エプロン変わってんな」
確か、以前は青一色のやつを着ていたはずだ。
エプロンなんか正直どうでもいいけど、カイがいま着ているやつには特徴的な柄が入っていた。『量産品』というより、『特別なもの』みたいだ。自分で言うのもなんだけど、オレはそういう類の機微には聡い方だったりする。
カイは戸惑ったように言いよどんで、それからなんでもないことのように淡々と言った。
「先日いただいたものです。旦那さんが、長く働いている褒美に、と」
「……へー」
あくまで無表情を貫く姿勢のようだが、カイの目には嬉しそうな色がにじんでいる。自分では気づいてねーんだろーなー。そう思うとなんだか滑稽で、ちょっとだけ気分がすっとする。
それはそうと、ご褒美をもらって無邪気に微笑むカイは、まだなにか隠している気がする。
並んで歩きながら見つめていると、なにを思ったか、カイは芝居がかった仕草でオレの頭を撫でた。
「あなたには、父がいるでしょう」
オレは無意識に眉を寄せる。
「……何の話だよ」
オレの機嫌を損ねたと気付いてか、カイは似合わない冗談を飛ばす。
「私は、もうアスナロにいるよりも、千堂院家にいることの方が多くなっています。あなたが寂しがっているかと思いまして」
「笑えねーなー。誰が寂しがるかってのー」
けっ、と吐き捨ててカイの手を払いのける。
ふと父さんの顔が思い浮かんだ。身内への情が薄そうな父さんは、めったに組織の方へ戻らなくなったこいつをどう思ってるんだろう。
カイは再び口を開く。
「父は、変わりありませんか?」
オレは素直に頷いた。
変化というか、父さんの考えていることは今も昔もよくわからない。けど、とりあえず健康とか生活的な意味では、こいつがいた頃からたいして変わっていないと思う。
そう伝えると、カイは安堵の顔を見せた。
「オメーも、父さんが恋しいとか思ったりするわけ?」
なんとなく気になって訊いてみる。カイは少し躊躇して視線をさまよわせ、言葉を選びながら答えた。
「恋しいというか……まあ、一応は血の繋がった肉親ですから。気にはなりますよ」
「ふーん。そういうもんか」
家族とか親子の情はよくわからねーけど、父さんもカイも、互いに意識し合っている気はする。実の父親、実の息子。オレには決して立ち入ることのできない領域だ。
おもしろくねーなと道端の小石を蹴飛ばすと、カイは困ったように苦笑した。
「こう言ってしまうのもなんですが、あなたの方がよっぽど父の息子らしい感じがしますがね」
それは、カイが人間であるという点と、父さんの血を分けた実の息子であるという点の両方から、オレの劣等感を強く刺激する。
「……嫌味かよ」
ちくりと胸を刺されたような痛みに、我知らず声が低くなる。痛覚なんか搭載されていたかな。
痛みの正体を考える間もなく、カイは首を横に振った。緩慢な仕草は、どこか父さんに似ている気がする。
「いえ。純粋に、あなたはとても父を慕っていますし。私は暗殺の命を失敗した時点で、組織からも父からも見放されているでしょうし」
重い内容とは裏腹に、カイの口調は少しあっさりとしていた。
……オレが父さんを慕う理由は、なんのことはない。オレがそう作られているからだ。
創造主に反抗しないよう、オレには父さんを敬愛するプログラムが組まれている。いつだったか、父さん自身が教えてくれた。だからオレが父さんに抱く好意は、人が呼吸しないと生きていけないのと同じくらい当然の感情だ。
言おうとして口をつぐむ。オレにプログラムされているものの中身ぐらい、こいつは把握しているだろう。
こいつも『人形』みたいに、盲目的に父親を崇拝して疑わないプログラムが組まれていれば幸せだったのかもな。合理的に考えてみたけど、それをそのまま伝えたら否定されそうだったのでやめておいた。
代わりに、カイの台詞の後半部分に言及する。父さんや組織の連中にとって、カイはもうお役御免ってやつらしい。
「そのわりには、ヒソーカンがないみてーだけどー?」
悲愴感。覚えたての言葉を使うと、カイはなにか迷うように眉を寄せた。言葉の意味、間違ってねーよなー。カイの思いつめた表情を見るに、たぶん大丈夫そう。少しでもこいつの脆い部分を突けていると良い。
カイは十数メートルの夜道を沈黙で進み、逡巡の後に、ふっと観念した頬笑みを浮かべた。
「……私は、組織を裏切るつもりです」
黒い瞳に満月を映し、抑揚のない声で呟く。感情を無理に制御しているような硬い声だった。
白い肌に月光が差して、長い睫毛が青白く影を落としている。その顔は不思議と晴れやかだった。
「千堂院の方々には、本当にお世話になりました。その御恩もありますし……私には、こちらの方が性に合っていたようです」
いっそ清々しささえ感じさせる声音で言うカイ。
オレは思わず鼻で笑う。
「性に合ってるって、マジで言ってんのかよ。テメー人殺しの能はなくても、裏でいろいろやってきたんだろー?」
オレも詳しくは知らないけど、アスナロのエージェントとして使われていた以上、普通の人間とは決して相容れない人生だったことは想像に難くない。きっと、人を殺す任務の他にも相当えぐいことをやってきたはずだ。
こいつが他人を殺せなかった理由が、単なる技量の問題かそれ以外の要因によるものかは、興味もないけど。でもこいつとはそれなりに長い付き合いだから、だいたいの想像はつくってもんだ。
「やりたくてやっていたことではありませんから。……それに気付いたのも、ここ最近のことですが」
強めの風が吹いて、カイはエプロンの胸元にそっと手を当てる。心なしか優しい眼差しに、手を伸ばせば触れられるほど近くにいながら、謎の距離を感じた。
「つーか、そんな話オレにして良かったわけー? 父さんにチクっちゃうかもよー?」
挑発の笑みを向ける、カイは落ち着いた態度で応えた。
「もう、腹はくくりましたから」
ぼんやりとして何を考えているのかわかりづらい眼に、いまは凛とした輝きが満ちている。
幸せとか、揺るぎない自信とか、決意とか……覚悟とか。人間は随分といろんな感情を抱くもんだ。
「……あっそ。つまんねーなー」
投げやりにズボンのポケットに手を突っ込み、また足元の小石を蹴飛ばす。石ころは道端の空き缶に当たって、乾いた金属質な音が響いた。
「いざとなれば、あなたも敵になるかもしれませんね」
「……なるかもっつーか、なるだろ。フツーに」
牽制するような目を向けられて、オレはへらりと笑って両手を挙げた。
右手にナイフ。左手に拳銃。どっちも、オレの頭上でぎらりと光っている。
ナイフは抜き身で、銃もすでに六発分の弾丸が装填され、オレは銃の撃鉄が起きた状態で引き金に指をかけていた。オレが少し人差し指を曲げるだけで、夜も深い静寂の住宅街に銃声が響き渡るわけだ。
カイは素早くオレの手から銃を奪い、撃鉄を指で押さえたまま引き金を引いて、ゆっくりと撃鉄を下ろした。横からタックルでもかませば暴発するだろうけど、どうせ動いた瞬間に容赦なく蹴り飛ばされるんだろう。オレにスパコン並みの計算力はなくても、それくらいは予測できる。
銃に安全装置までかけて、カイは咎めるようにこっちを睨む。ナイフは奪うまでもないと判断されたらしい。
「言っとくけど、先に裏切ったのはオメーの方だからな」
軽く睨み返すと、「……わかっています」とそっけない返事で逸らされた。
「ま、はなから戦闘でテメーに勝てるとは思っちゃいねーけどさ」
アスナロのエージェントとして幼少期から厳しく教育されていたカイは、訓練ではまったく手傷を負うことがなかったらしい。戦闘には才能があっても、使いこなすだけの器がなければ組織にとっては不要な人間だ。むしろ敵に回ったら脅威になりかねない。
「あなたも充分強いですよ。血も涙もありませんし」
カイは言葉遊びのようなことを言って、それがカイ自身への皮肉であると気付く。
この肉体に一滴の血も涙も流れていないオレは、なるほど肉体的にも精神的にも無傷で父さんの役に立てるわけだ。カイよりも優れている点を発見して、優越感に口の端が上がった。
「……ですので、私がいなくなった後は父を頼みますね」
ちょっとだけ湿った声で、カイは寂しげに微笑んだ。裏切りを決めたのは自分のくせに、よくもまあそんな顔をする。
矛盾を抱えてもなお自分の意思で決めなければいけない、人間という生き物には心から同情する。
「まあ、オメーの方から出て行ってくれるなら、願ったり叶ったりってやつだなー。出来損ないのオメーが消えて、名実ともにオレがいちばん父さんの役に立つってわけだ」
胸を張って強気に笑えば、カイは余裕のある笑顔でにこりと返した。
「はい、お互い頑張りましょうね」
……こいつ、やっぱり気に食わねー。
予備動作なしに大きく片足を振り上げると、カイは安全装置をかけた銃を握る手の甲でオレの蹴りを受け止めた。そのまま体をひねってくるりとターンし、ニ撃目の蹴りも難なく回避する。
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