世界その4:着せ替え人形は白日の夢を見るか?
「あとは――『生死』の概念じゃないかしら。うふふ、人形は人間と違って部品の交換をすれば長持ちするし、記憶や情報のデータさえあれば、体は壊れても何度だって復活できるでしょう?」
明らかに作った声で笑う笑理に、ノエルは不快感をあらわにしつつも反発はしないでおいた。人形が死なないことは現実で、これから夢を見るためのチップを作ってもらうにあたり、相手の機嫌をむやみに損ねるのも得策ではない。というか、端的に相手をするのが面倒くさいというのもある。
人形と人間では命の重みが違う、という結論を出して、ノエルは帰り支度を始めた。笑理の言った「二日後」にまた来ると言い、研究所を後にする。
裏口から出ると、施設を覆い隠すように植樹された木々の合間から一匹の蝶が姿を見せた。
陽に透ける青緑色の羽。ガラス細工のような、繊細なまだら模様の羽で踊るように空を舞っている。
どこかで見たことあるような……ノエルはそれが、カイと図書館で見た蝶だと思い当たった。同じ個体ではないだろうが、美しい模様と触れれば壊れてしまいそうな羽には見覚えがあった。
「わぁ、可愛いですね」
見送りのみちるは、蝶を追って空を見上げた。屋外に出るのは久々だったのか、太陽の光を直視して「うぅ……」と顔をしかめている。
蝶はみちるの髪にまとわりつくように飛んだ。
「蝶が寄ってくるやつってなんなんだろうな」
図書館からの帰り、カイも蝶に懐かれていたなと思うノエルの質問。みちるは片手で前髪のあたりにひさしを作りながら答えた。
「蝶の餌は花蜜ですから、たとえばシャンプーや香水などの良い香りにも寄ってくると聞いたことがあります」
「ふーん」
それならこっちにも寄ってきていいはずだけど、と、ノエルはオレンジの髪の毛先をいじる。カイは男のくせに長髪だから、そのせいかもしれないと自己解決した。
蝶は数分ほどで木々の彼方に消えていき、残されたみちるは「あ、それと」と別の説を語る。
「種類にもよりますが、中には人や動物の糞尿、血液を吸う蝶もいるそうで、こういった暑い日には汗の匂いに反応することもあるそうですね」
そこまで詳しく説明して、みちるは額の汗を拭った。
今朝のニュースでは今日は気温の低い一日だと言っていたが、研究室にこもりきりの出不精な生活をしている彼女は、充分に暑く感じるらしい。実験用に長袖の白衣を着ているせいもあるのだろうが。
みちるに見送られて家路を辿り、帰宅後はカイが仕事を終えるまで本を読んで過ごす。
ここ最近お決まりの習慣で、普段通りの日常だったが、その日のノエルはいつもより入念にシャンプーで髪を洗うなどしてみるのだった。
二日後に研究所へ行くと、笑理は宣言した通りばっちりと、夢を見るためのチップを完成させていた。それを埋め込むついでに定期メンテナンスまで行って、研究所に着いたのは午前中だったが、帰りは昼過ぎになった。
作業はすべて笑理が担当した。みちるは仕事と趣味の実験、研究に忙殺されているとのことで影も見えなかった。
いつものように裏口から出るも、二日前に見た蝶が現れる気配はない。
あの蝶は、もしかすると人間と人形の違いがわかっているのかもしれないと思いながら、ノエルは寄り道せずに帰宅して本を開く。『思考実験』の本は、自分の頭で考えながら――時には他者と意見を交わしながら読む必要があるので、他の本よりも読むのに時間がかかっていた。
書かれている『実験』が、どれも面白いというのも理由のひとつだった。人形の視点から見てわからないことは、カイに訊ねることで解決する。理解できない事象についても、むしろ人間と人形の違いを考えるうえで重要な要素になると思えた。
カイが用意してくれた弁当を冷蔵庫から出し、電子レンジで温めて食べながら本を読む。カイの前では絶対にできない芸当だ。最悪の場合、ご飯抜きの刑がくだされる。
食べなくても済む体なので、その刑罰も結局のところカイの自己満足ではあるのだが、ノエルもカイをやたらとわずらわせたいわけではなかった。
ページをめくり、紙の擦れる音を聴きながら次の『思考実験』を黙読する。『ポールワイスの思考実験』。
このタイトルには直接的に思考実験の文字が入ってるなと思いながら、ページ下部のイラストを見て、ノエルはわずかに眉を寄せた。
ページの三分の一を埋めているイラスト部分には、二本の試験管が描かれ、それぞれAとBにわけられている。Aの試験管にはひよこが入っていて、Bの試験管は液体で半分ほど満たされているようだ。Aの図の下には「ひよこをすりつぶす」と記されていた。
本文を読むと、この実験の内容はこうだった。試験管にひよこを入れてすりつぶしたとき、失われるものは何か。
ひよこの血は赤いのだろうかと純粋な疑問が湧くが、それは本題からズレている。ノエルは頬杖をついて先を読んだ。
解説によると、回答例として多いのは「命」「倫理観」「道徳心」などだった。「ひよこの未来」という、やや情緒的な答えもあった。
試験管の中で生きているひよこと、試験管の中ですりつぶされたひよこ。物質的に変化はなく、質量も成分も変わってはいない。体液が溢れて皮膚や羽毛は無残だろうが、いくら潰されたとしてもそれらが消えてなくなるわけではない。なら、いったい何が失われたのだろうか。
考えて、ノエルはこの問題をもっと身近なものに置き換えてみた。
たとえば――カイを巨大な試験管に入れてすりつぶしたとき、失われるものは。罪悪感を覚えるより先に、ノエルの脳内にもうひとつの「もしも」が発生する。
もしも、巨大な試験管にノエル自身が入れられて、すりつぶされたとしたら。そこにひよこをすりつぶしたときや、カイをすりつぶしたときと、なにか明確な違いはあるのだろうか。
ひよこやカイと違って、ノエルの身体から体液が流れることはない。涙を流すことは可能らしいが、人間のそれとは違って本当に単なる水分や電解質の寄せ集めだ。
試験管の中ですりつぶされたとき、カイやひよこは「死んだ」とみなされるのだろう。
魂を失う、骸になる。他界、逝去、永眠。瀕死。轢死。圧死。
死を形容する言葉はいくつも知っているが、しかしノエルが死の本質を理解することはできない。彼がすりつぶされたところで、それは「死」ではなく「破壊」でしかないからだ。
思考の濁流は、奔流となってノエルを呑み込んだ。体は動かしていない、仮に動いていたとしても疲労を感じないボディのはずが、ひどく頭が重い。これが「疲労」というやつか。『夢』のチップを入れてもらったことでデータが重くなったのだろうか。
テーブルについた肘がずりずりと滑る。頭脳の役割を果たす回路が熱暴走している気がする。
ノエルはテーブルに額を押し当て、自分でもわけがわからないままに目を閉じた。
――真っ白な部屋だった。色のない、白と灰色だけの世界。無彩色だがやけに明るく感じられる。
部屋の中心には棺があった。なぜか西洋風の、見てすぐにそれとわかる棺桶だ。緑の植物で飾られて、十字架が貼り付けてある。
棺のそばには大勢の人間がいて、みんな黒い服を着ていた。誰も彼もが沈痛な面持ちだった。
ポニーテールの少女は、口元を手で押さえながらも、こらえきれない嗚咽を漏らし滂沱の涙を流している。あれは、カイの勤め先の一人娘だったか。
他に、なぜかノエルの見知らぬ人間の姿もあったが、全員が悲愴な顔をしていることだけは共通していた。
その輪に入れず遠くから眺めていると、輪にいた女性がノエルのもとに歩み寄ってきた。黒いワンピースを着た彼女は、ノエルがよく知っている人間――みちるだった。
みちるはノエルを連れて棺桶の前に立つ。ノエルは反射的に拒否しようとしたが、どうしてか体が思うように動かなかった。
自身の意思に反して、棺の中身を覗き込む。横たわっているのは、頭のどこかで予想していた人間だった。
清流のようにゆったりとした、豊かな黒髪。
女性のようにも見える中性的な顔は、長い睫毛が伏せられて影が落ちている。
すっと通った鼻梁に、少しかさついた唇。肌は血色が悪く、不健康なほど青白かった。否――彼の体からは、生気が抜けている。
理解した瞬間、ノエルは自分でも驚くほど唐突に涙をこぼした。頬の濡れる感触に、一拍遅れて感情が追い付いてくる。
悲しい、寂しい。胸が、きゅっと締め付けられる。
知識として「知っている」感情の名前より、体に起こる変化の方が的確な気がした。ノエルは人間ほど繊細な痛覚を持ち合わせてはいないが、胸のあたりに鈍い痛みを感じた。
呼吸を制限されるような息苦しさ。閉塞感。理屈を追求するだけ無駄とわかりながらも、痛みから逃れるように理由を探してしまう。流れる涙が熱いのは、頬が熱く紅潮しているからだろうか。
「……それが死です」
立ち尽くし茫然と落涙するノエルに、みちるは起伏のない声で告げた。
比喩でなく胸が張り裂けそうな激情に戸惑うノエルへ、みちるは抑揚をつけずに語りかける。
「人間は、いずれ死にます。ノエルさんの大嫌いな人も、大好きな人も、平等に」
残酷な物言いは、いっそ清々しかった。
「私たちとあなたの、決して埋められない大きな違い」
「やめろ……、…………やめろっ!」
ノエルは泣きながら振り払うように咆哮した。
生命の有無。
それが生き物とそれ以外の決定的な違いなら、どうして機械に心を与えたりしたんだろう。
みちるは悲痛な顔でうつむいている。
命は、やがていつか失われるもの。どれだけ大切に想っても、いつかは必ず終わりがきてしまうもの。
そうして取り残されたノエルの胸には、空虚な穴が開いている。大切な他人を失った胸に、寂しい風が通り抜けていく。
ここにあった温もりに、もう二度と触れることはできない。死者は蘇らない。
ときどき見せる薫風のような笑みも、物静かにノエルを優しく呼ぶ声も、すべては心臓と共に停止してしまった。過去にしか存在しない。時は止まった。この遺体に『これから』はない。
ノエルは痛む胸元へ無意識に手を当てる。人間なら、この位置に心臓があったのだろうか。
喪失感に涙はとめどなく溢れて、ノエルは棺の縁に手をかけて泣いた。死ぬということは、なにもかもを喪失することだった。肉体や意識も、未来さえも。
「……さい。起きなさい、ノエル」
名前を呼ばれて、ノエルは目を覚ました。まぶたを開いた拍子に、涙の粒がぽろりと落ちる。
ノエルを起こした人間――カイは、ぎょっとしたように硬直した。
「ど、どこか怪我でもしたんですか?」
よっぽど動揺したらしく、彼は人形に対し怪我の心配をしている。
「や、なんか変な夢見て……」
目尻を拭うノエルに、カイはきょとんと目を丸くする。「……人形も夢を見るのですか?」
そういえば、夢を見るためのチップを埋めてもらった報告をしていないなと気付いて、ノエルは冗談交じりに笑ってみせる。「ん、いま初めて見たところ」
カイはなおも小首をかしげて、それでもノエルが平気そうなことで安堵したのか、ほっと笑顔を返した。
「初めてですか。夢は現実と区別がつきにくいですからね」
混乱するのもしょうがないと、ノエルの頭を撫でるカイ。
優しい手つきと眼差しに、ノエルはカイが生きていることを実感する。頭で考えるより先に、とっさに体が動いていた。
「っ!」
抱き着かれて狼狽するカイへ、ノエルは「……じっとしてろよなー」と言って腰のあたりに顔を埋める。カイはノエルの声が震えていることに気が付いて、おずおずとノエルの身体を抱き返す。
ノエルは数秒ほどで体を離して、「なんでもない」と恥ずかしげに目を逸らした。カイはよくわからないなりに「そうですか」と微笑する。そして、床に落ちている目覚まし時計を拾い上げた。
傷だらけの時計を見て、ノエルは自分が自室のベッドに寝ているのだと気付く。揺れるカーテンレースの外は抜けるような青空で、白い雲がノエルたちを見下ろしていた。昼ご飯を食べた後から、ずっと眠っていたのだろうか。
なんにせよ、自分をベッドへ運んでくれたのはカイに違いない。その礼を言うべきか、しかし夕食のときに起こしてくれれば良かったのにと文句をぶつけるべきか悩んで、ノエルは先ほどまで見ていた夢を思い出す。
失ってから、なくしてからでは間に合わない。命あるものとないものが、同じ時間を生きられている『今』は幸運だ。
ここはお礼を言っておこうと決めて口を開きかけたノエルの耳に、カイの声が被さった。
「さあ、朝食ができていますから。顔を洗ってきてください」
寝乱れて床に落ちているタオルケットも拾い、彼は夏の青空にも似た爽やかな笑みで言った。
「今日は、図書館へカードを作りに行くのでしょう?」
「……え?」
間抜けな声が漏れて、ノエルは自身の聞き違い、もしくはカイの言い間違いかと思いなおす。
けれどカイは、ノエルの表情には気付かない様子で続けた。
「あの図書館には初めて行きますから、道案内はお願いしますね」
当たり前のように言われて、背中に嫌な汗が伝う。
「なに言ってんだよ」
絞り出した声は中途半端に震えて、笑おうとした頬は力なく引き攣った。カイが当惑した目でノエルを見る。
ノエルは自室の机に目をやり、反射的に部屋を飛び出した。
廊下を抜け、リビングのテーブルを、脱衣所の洗濯機の上を、玄関まわりを確認する。図書館から借りてきた五冊の本は、どこにも見当たらなかった。
はっとリビングのカレンダーに目をやれば、『図書館の日!』と書かれた赤い丸の下、メモスペースには何も書かれていなかった。ひとつの汚れも染みもない白が、ぽっかりと空欄のままで確かに存在している。ここになんと書いたか、ノエルはひとつも思い出すことができなかった。
頭が痛い。気持ちが悪い。脳内の熱暴走が止まらない。
「ノエル、廊下を走ってはいけないと……!」
追ってきたカイの声を振り切り、ノエルはたまらず家を飛び出していた。
猛暑の炎天下。アスファルトを灼く陽差しが陽炎を生んで、熱された空気が不安定に揺れている。蝉時雨が、やけに遠く聞こえた。
アスナロの研究所と図書館、どちらに向かうべきか悩むノエルを、カイが息を切らして追いかけてくる。
風のない道を、赤いエプロンと長髪をなびかせて駆けてくるカイ――その後ろで青緑の羽を輝かせた蝶が舞っている。それを目にした瞬間、ノエルの目の前は真っ暗になった。
カイは道路に倒れたノエルを抱き起こし、何度も彼の名前を呼ぶ。
二人の頭上には、一匹の蝶がひらひらと虚空を飛び回っていた。
明らかに作った声で笑う笑理に、ノエルは不快感をあらわにしつつも反発はしないでおいた。人形が死なないことは現実で、これから夢を見るためのチップを作ってもらうにあたり、相手の機嫌をむやみに損ねるのも得策ではない。というか、端的に相手をするのが面倒くさいというのもある。
人形と人間では命の重みが違う、という結論を出して、ノエルは帰り支度を始めた。笑理の言った「二日後」にまた来ると言い、研究所を後にする。
裏口から出ると、施設を覆い隠すように植樹された木々の合間から一匹の蝶が姿を見せた。
陽に透ける青緑色の羽。ガラス細工のような、繊細なまだら模様の羽で踊るように空を舞っている。
どこかで見たことあるような……ノエルはそれが、カイと図書館で見た蝶だと思い当たった。同じ個体ではないだろうが、美しい模様と触れれば壊れてしまいそうな羽には見覚えがあった。
「わぁ、可愛いですね」
見送りのみちるは、蝶を追って空を見上げた。屋外に出るのは久々だったのか、太陽の光を直視して「うぅ……」と顔をしかめている。
蝶はみちるの髪にまとわりつくように飛んだ。
「蝶が寄ってくるやつってなんなんだろうな」
図書館からの帰り、カイも蝶に懐かれていたなと思うノエルの質問。みちるは片手で前髪のあたりにひさしを作りながら答えた。
「蝶の餌は花蜜ですから、たとえばシャンプーや香水などの良い香りにも寄ってくると聞いたことがあります」
「ふーん」
それならこっちにも寄ってきていいはずだけど、と、ノエルはオレンジの髪の毛先をいじる。カイは男のくせに長髪だから、そのせいかもしれないと自己解決した。
蝶は数分ほどで木々の彼方に消えていき、残されたみちるは「あ、それと」と別の説を語る。
「種類にもよりますが、中には人や動物の糞尿、血液を吸う蝶もいるそうで、こういった暑い日には汗の匂いに反応することもあるそうですね」
そこまで詳しく説明して、みちるは額の汗を拭った。
今朝のニュースでは今日は気温の低い一日だと言っていたが、研究室にこもりきりの出不精な生活をしている彼女は、充分に暑く感じるらしい。実験用に長袖の白衣を着ているせいもあるのだろうが。
みちるに見送られて家路を辿り、帰宅後はカイが仕事を終えるまで本を読んで過ごす。
ここ最近お決まりの習慣で、普段通りの日常だったが、その日のノエルはいつもより入念にシャンプーで髪を洗うなどしてみるのだった。
二日後に研究所へ行くと、笑理は宣言した通りばっちりと、夢を見るためのチップを完成させていた。それを埋め込むついでに定期メンテナンスまで行って、研究所に着いたのは午前中だったが、帰りは昼過ぎになった。
作業はすべて笑理が担当した。みちるは仕事と趣味の実験、研究に忙殺されているとのことで影も見えなかった。
いつものように裏口から出るも、二日前に見た蝶が現れる気配はない。
あの蝶は、もしかすると人間と人形の違いがわかっているのかもしれないと思いながら、ノエルは寄り道せずに帰宅して本を開く。『思考実験』の本は、自分の頭で考えながら――時には他者と意見を交わしながら読む必要があるので、他の本よりも読むのに時間がかかっていた。
書かれている『実験』が、どれも面白いというのも理由のひとつだった。人形の視点から見てわからないことは、カイに訊ねることで解決する。理解できない事象についても、むしろ人間と人形の違いを考えるうえで重要な要素になると思えた。
カイが用意してくれた弁当を冷蔵庫から出し、電子レンジで温めて食べながら本を読む。カイの前では絶対にできない芸当だ。最悪の場合、ご飯抜きの刑がくだされる。
食べなくても済む体なので、その刑罰も結局のところカイの自己満足ではあるのだが、ノエルもカイをやたらとわずらわせたいわけではなかった。
ページをめくり、紙の擦れる音を聴きながら次の『思考実験』を黙読する。『ポールワイスの思考実験』。
このタイトルには直接的に思考実験の文字が入ってるなと思いながら、ページ下部のイラストを見て、ノエルはわずかに眉を寄せた。
ページの三分の一を埋めているイラスト部分には、二本の試験管が描かれ、それぞれAとBにわけられている。Aの試験管にはひよこが入っていて、Bの試験管は液体で半分ほど満たされているようだ。Aの図の下には「ひよこをすりつぶす」と記されていた。
本文を読むと、この実験の内容はこうだった。試験管にひよこを入れてすりつぶしたとき、失われるものは何か。
ひよこの血は赤いのだろうかと純粋な疑問が湧くが、それは本題からズレている。ノエルは頬杖をついて先を読んだ。
解説によると、回答例として多いのは「命」「倫理観」「道徳心」などだった。「ひよこの未来」という、やや情緒的な答えもあった。
試験管の中で生きているひよこと、試験管の中ですりつぶされたひよこ。物質的に変化はなく、質量も成分も変わってはいない。体液が溢れて皮膚や羽毛は無残だろうが、いくら潰されたとしてもそれらが消えてなくなるわけではない。なら、いったい何が失われたのだろうか。
考えて、ノエルはこの問題をもっと身近なものに置き換えてみた。
たとえば――カイを巨大な試験管に入れてすりつぶしたとき、失われるものは。罪悪感を覚えるより先に、ノエルの脳内にもうひとつの「もしも」が発生する。
もしも、巨大な試験管にノエル自身が入れられて、すりつぶされたとしたら。そこにひよこをすりつぶしたときや、カイをすりつぶしたときと、なにか明確な違いはあるのだろうか。
ひよこやカイと違って、ノエルの身体から体液が流れることはない。涙を流すことは可能らしいが、人間のそれとは違って本当に単なる水分や電解質の寄せ集めだ。
試験管の中ですりつぶされたとき、カイやひよこは「死んだ」とみなされるのだろう。
魂を失う、骸になる。他界、逝去、永眠。瀕死。轢死。圧死。
死を形容する言葉はいくつも知っているが、しかしノエルが死の本質を理解することはできない。彼がすりつぶされたところで、それは「死」ではなく「破壊」でしかないからだ。
思考の濁流は、奔流となってノエルを呑み込んだ。体は動かしていない、仮に動いていたとしても疲労を感じないボディのはずが、ひどく頭が重い。これが「疲労」というやつか。『夢』のチップを入れてもらったことでデータが重くなったのだろうか。
テーブルについた肘がずりずりと滑る。頭脳の役割を果たす回路が熱暴走している気がする。
ノエルはテーブルに額を押し当て、自分でもわけがわからないままに目を閉じた。
――真っ白な部屋だった。色のない、白と灰色だけの世界。無彩色だがやけに明るく感じられる。
部屋の中心には棺があった。なぜか西洋風の、見てすぐにそれとわかる棺桶だ。緑の植物で飾られて、十字架が貼り付けてある。
棺のそばには大勢の人間がいて、みんな黒い服を着ていた。誰も彼もが沈痛な面持ちだった。
ポニーテールの少女は、口元を手で押さえながらも、こらえきれない嗚咽を漏らし滂沱の涙を流している。あれは、カイの勤め先の一人娘だったか。
他に、なぜかノエルの見知らぬ人間の姿もあったが、全員が悲愴な顔をしていることだけは共通していた。
その輪に入れず遠くから眺めていると、輪にいた女性がノエルのもとに歩み寄ってきた。黒いワンピースを着た彼女は、ノエルがよく知っている人間――みちるだった。
みちるはノエルを連れて棺桶の前に立つ。ノエルは反射的に拒否しようとしたが、どうしてか体が思うように動かなかった。
自身の意思に反して、棺の中身を覗き込む。横たわっているのは、頭のどこかで予想していた人間だった。
清流のようにゆったりとした、豊かな黒髪。
女性のようにも見える中性的な顔は、長い睫毛が伏せられて影が落ちている。
すっと通った鼻梁に、少しかさついた唇。肌は血色が悪く、不健康なほど青白かった。否――彼の体からは、生気が抜けている。
理解した瞬間、ノエルは自分でも驚くほど唐突に涙をこぼした。頬の濡れる感触に、一拍遅れて感情が追い付いてくる。
悲しい、寂しい。胸が、きゅっと締め付けられる。
知識として「知っている」感情の名前より、体に起こる変化の方が的確な気がした。ノエルは人間ほど繊細な痛覚を持ち合わせてはいないが、胸のあたりに鈍い痛みを感じた。
呼吸を制限されるような息苦しさ。閉塞感。理屈を追求するだけ無駄とわかりながらも、痛みから逃れるように理由を探してしまう。流れる涙が熱いのは、頬が熱く紅潮しているからだろうか。
「……それが死です」
立ち尽くし茫然と落涙するノエルに、みちるは起伏のない声で告げた。
比喩でなく胸が張り裂けそうな激情に戸惑うノエルへ、みちるは抑揚をつけずに語りかける。
「人間は、いずれ死にます。ノエルさんの大嫌いな人も、大好きな人も、平等に」
残酷な物言いは、いっそ清々しかった。
「私たちとあなたの、決して埋められない大きな違い」
「やめろ……、…………やめろっ!」
ノエルは泣きながら振り払うように咆哮した。
生命の有無。
それが生き物とそれ以外の決定的な違いなら、どうして機械に心を与えたりしたんだろう。
みちるは悲痛な顔でうつむいている。
命は、やがていつか失われるもの。どれだけ大切に想っても、いつかは必ず終わりがきてしまうもの。
そうして取り残されたノエルの胸には、空虚な穴が開いている。大切な他人を失った胸に、寂しい風が通り抜けていく。
ここにあった温もりに、もう二度と触れることはできない。死者は蘇らない。
ときどき見せる薫風のような笑みも、物静かにノエルを優しく呼ぶ声も、すべては心臓と共に停止してしまった。過去にしか存在しない。時は止まった。この遺体に『これから』はない。
ノエルは痛む胸元へ無意識に手を当てる。人間なら、この位置に心臓があったのだろうか。
喪失感に涙はとめどなく溢れて、ノエルは棺の縁に手をかけて泣いた。死ぬということは、なにもかもを喪失することだった。肉体や意識も、未来さえも。
「……さい。起きなさい、ノエル」
名前を呼ばれて、ノエルは目を覚ました。まぶたを開いた拍子に、涙の粒がぽろりと落ちる。
ノエルを起こした人間――カイは、ぎょっとしたように硬直した。
「ど、どこか怪我でもしたんですか?」
よっぽど動揺したらしく、彼は人形に対し怪我の心配をしている。
「や、なんか変な夢見て……」
目尻を拭うノエルに、カイはきょとんと目を丸くする。「……人形も夢を見るのですか?」
そういえば、夢を見るためのチップを埋めてもらった報告をしていないなと気付いて、ノエルは冗談交じりに笑ってみせる。「ん、いま初めて見たところ」
カイはなおも小首をかしげて、それでもノエルが平気そうなことで安堵したのか、ほっと笑顔を返した。
「初めてですか。夢は現実と区別がつきにくいですからね」
混乱するのもしょうがないと、ノエルの頭を撫でるカイ。
優しい手つきと眼差しに、ノエルはカイが生きていることを実感する。頭で考えるより先に、とっさに体が動いていた。
「っ!」
抱き着かれて狼狽するカイへ、ノエルは「……じっとしてろよなー」と言って腰のあたりに顔を埋める。カイはノエルの声が震えていることに気が付いて、おずおずとノエルの身体を抱き返す。
ノエルは数秒ほどで体を離して、「なんでもない」と恥ずかしげに目を逸らした。カイはよくわからないなりに「そうですか」と微笑する。そして、床に落ちている目覚まし時計を拾い上げた。
傷だらけの時計を見て、ノエルは自分が自室のベッドに寝ているのだと気付く。揺れるカーテンレースの外は抜けるような青空で、白い雲がノエルたちを見下ろしていた。昼ご飯を食べた後から、ずっと眠っていたのだろうか。
なんにせよ、自分をベッドへ運んでくれたのはカイに違いない。その礼を言うべきか、しかし夕食のときに起こしてくれれば良かったのにと文句をぶつけるべきか悩んで、ノエルは先ほどまで見ていた夢を思い出す。
失ってから、なくしてからでは間に合わない。命あるものとないものが、同じ時間を生きられている『今』は幸運だ。
ここはお礼を言っておこうと決めて口を開きかけたノエルの耳に、カイの声が被さった。
「さあ、朝食ができていますから。顔を洗ってきてください」
寝乱れて床に落ちているタオルケットも拾い、彼は夏の青空にも似た爽やかな笑みで言った。
「今日は、図書館へカードを作りに行くのでしょう?」
「……え?」
間抜けな声が漏れて、ノエルは自身の聞き違い、もしくはカイの言い間違いかと思いなおす。
けれどカイは、ノエルの表情には気付かない様子で続けた。
「あの図書館には初めて行きますから、道案内はお願いしますね」
当たり前のように言われて、背中に嫌な汗が伝う。
「なに言ってんだよ」
絞り出した声は中途半端に震えて、笑おうとした頬は力なく引き攣った。カイが当惑した目でノエルを見る。
ノエルは自室の机に目をやり、反射的に部屋を飛び出した。
廊下を抜け、リビングのテーブルを、脱衣所の洗濯機の上を、玄関まわりを確認する。図書館から借りてきた五冊の本は、どこにも見当たらなかった。
はっとリビングのカレンダーに目をやれば、『図書館の日!』と書かれた赤い丸の下、メモスペースには何も書かれていなかった。ひとつの汚れも染みもない白が、ぽっかりと空欄のままで確かに存在している。ここになんと書いたか、ノエルはひとつも思い出すことができなかった。
頭が痛い。気持ちが悪い。脳内の熱暴走が止まらない。
「ノエル、廊下を走ってはいけないと……!」
追ってきたカイの声を振り切り、ノエルはたまらず家を飛び出していた。
猛暑の炎天下。アスファルトを灼く陽差しが陽炎を生んで、熱された空気が不安定に揺れている。蝉時雨が、やけに遠く聞こえた。
アスナロの研究所と図書館、どちらに向かうべきか悩むノエルを、カイが息を切らして追いかけてくる。
風のない道を、赤いエプロンと長髪をなびかせて駆けてくるカイ――その後ろで青緑の羽を輝かせた蝶が舞っている。それを目にした瞬間、ノエルの目の前は真っ暗になった。
カイは道路に倒れたノエルを抱き起こし、何度も彼の名前を呼ぶ。
二人の頭上には、一匹の蝶がひらひらと虚空を飛び回っていた。
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