世界その4:着せ替え人形は白日の夢を見るか?

「綺麗ですね」
 カイも木陰から出て、興味深そうに蝶を覗き込んだ。
 蝶はノエルの指から離れ、カイの髪に惑うように飛んだ。羽が動くたび、まだら模様が陽に透けて涼しげに光る。
「……遊んでいるのでしょうか?」
「オメーって動物に好かれそうだよな」
 二人はそんなことを話しながら門を通り抜ける。
 蝶は、門を越えてついてくることはなかった。

 本を借りてから一週間。
 ノエルは日中の大半を図書館で過ごし、閉館後は帰宅して家事を手伝いつつ読書にふけった。健全極まりない日常を確立して、夏の日々はあっというまに過ぎていった。
 リビングのカレンダーに書いた『図書館の日!』という文字の下には、予定などを書き込む少しの空欄スペースがある。カイは、そこに借りてきた本のタイトルをメモしたらどうかとノエルに言った。
「なにを借りたか忘れないように」
 言われて、ノエルは素直に、借りてきた本のタイトルを書きつけておいた。

 八月も半ばに入り、カイは夕食を終えて家事をこなしていた。普段ならばノエルに家事の手伝いを頼むところだが、食事を終えるなり熱心に読書しているところを邪魔するのも忍びない。
 ノエルが本に目覚めるとは意外だったが、人工知能の特性としては自然なのかもしれないと思いながら皿を洗う。
 やがて、ノエルは読んでいた本から顔を上げた。
「カイ、ちょっと」
 呼ばれたカイは「なんですか?」と応じた。ノエルは「これなんだけど」と、読んでいた本を見せる。あの日に二人で読んだ『思考実験』の本だった。開かれたページには、『テセウスの船』とある。
 概要はこうだった。
 あるところに一隻の船があった。船は大切に飾られていたが、経年劣化で朽ちていくため、老朽化した部分は少しずつ新しい部品、建材と交換されていった。
 やがてすべての部品、建材が新しいものと置き換えられたとき、はたしてこの船は、元の船と同一だと言えるのだろうか。
 ノエルはページに指を滑らせて文章を示し、カイに聞いた。
「これって、人間で例えると臓器移植とかってことかな」
 カイは唇に手を当てて「そうですね」と肯定する。
「聞いた話ですが、臓器移植をされた人間に、提供者の記憶や嗜好が転移することもあるそうですよ」
「へー。おもしれーな」
「……こういう話は、アスナロの研究員が詳しいかもしれません」
 カイの言葉に「そうかもなー」と同意して、ノエルは自分の手をまじまじと見つめた。定期メンテナンスを受けているこの体は、仮に破損したとしても、優秀な科学者たちの技術で元通りに修復される。
 頭部にある重要な部分を破壊されて意識を失えば、人でいうところの「死」になるのだろうか。頭部以外のすべてのパーツを別のもので置き換えられたら、それはそれでもトト・ノエルといえるのか?
 自らの身に置き換えて思考するノエルに、カイは「生き物と無生物で、また変わってくるのかもしれませんね」とノエルの頭を撫でる。
 ノエルは本を閉じて「休憩ー」と両手を天井へ突き上げた。横に置かれた本を、カイが拾い上げて目を通す。
「……あなたは、夢は見るんですか?」
 ふと、カイはとあるページを開いてノエルに問いかけた。ノエルは頬を掻いて否定する。
「一回もないなー。記憶とか情報は、機械で勝手に処理されるらしいけど」
「ふむ……人間は情報を整理する過程で夢を見ると聞いたことがありますが、私はこういった話が恐ろしいかもしれません」
 カイが指したのは、『胡蝶の夢』と書かれたページだった。
 前から内容を知っていたと言い、彼は内容をかいつまんで説明する。
「――自分が見ている世界は、本当は夢の中かもしれないという話です」
 ……朝、目が覚めて、窓から吹き込む風を気持ち良く思うのも。
 炎天下の道で、突き刺すように肌を灼く太陽の熱も。
 日課の運動や仕事、作り立ての食事。誰かと共に過ごす時間。交わした言葉や、笑顔さえ。
 幸福を感じた次の瞬間に目が覚めて、今まで見ていたすべては夢だったのだと現実に引き戻される。そんな話を昔、読んだことがあるらしい。
 本の中に書かれている他の思考実験、『水槽の脳』にも通じる話だと言って、カイは自分の頬をつねってみせた。
「昔から、いまが夢か現実かわからないときには、こうして頬をつねるそうです。……夢の中でも痛覚はあったりしますから、あまり信用はできませんが」
 カイは冗談混じりにぱっと手を離す。
 聞いて、けれども夢を見たことのないノエルはいまいち腑に落ちない様子だった。
 いまここに存在する自分が、自分じゃない可能性。いや違う。この世界は、本当は存在していないという可能性。世界の方が作り物だという「もしも」の話。
 いくら想像しようとしてもなんとなく核心を掴めないのがもどかしいが、夢自体を実体験として知らないのだからどうしようもない。
 考えて、ノエルは簡単なことを思いついた。
「研究所のやつなら、オレに夢を見る機能もつけられるかな」
「……なるほど。アスナロの技術力ならば、不可能ではなさそうです」
 賛同を得て、ノエルは機嫌良く明日の予定を立て始める。
 アスナロの研究所は図書館と反対方向なので、明日の図書館通いは休みになってしまうが、研究室には図書館にないような本も置いてあるに違いない。
 ノエルを生んだ科学者たちは、ノエルが読書を趣味にしていると知ったらなんというだろうか。彼らの驚くさまを思い、悪戯心に近い笑みが漏れる。
 その夜ノエルは、夢について考えながらベッドに潜った。
 スリープモード――人間でいうと睡眠に値する体勢に入りながら、別の部屋で眠るカイのことが脳裏をよぎる。カイは、いつもどんな夢を見ているのだろう。
 夜風にカーテンレースがふわりと揺れ、濃紺の夜空に星が瞬くのが見えた。カイは胡蝶の夢を恐ろしいと表現したが、静謐な星月は「夢」への憧憬をいっそう強くするようだ。
 まだ未体験の「夢」に思いを馳せつつ、ノエルの体は次第に睡眠状態へと移行していく。
 窓の外を一匹の蝶が飛んでいることには気が付かなかった。

 翌日。ノエルは、思考実験の本だけを鞄に入れてアスナロの研究所へ向かった。
 朝食時に見たニュースは、連日の猛暑から一転、今日は涼しい一日になる予報だと言っていた。気温など関係のない体ではあるが、確かに陽射しは随分と和らいで見える。
 研究所には、ノエルと親交の深い二人の科学者がいた。仲が良いというわけではなく、腐れ縁という方がふさわしい間柄だ。
「よっ。久しぶりー」
 研究に熱中している後ろ姿へ声をかけたが、相手は一向に気付く気配がない。
「無視すんなよなー」
「っひゃぁぁっ!」
 近くの棚で冷やされている薬品を取り、机にかじりついている研究員の首筋に当てると、研究員は文字通り飛びあがって絶叫した。長い髪でそれほど直には触れなかったはずだが、振り向いた彼女は怯えて半泣きになっている。
 激務と狂科学者気質が合わさって疲労の濃い顔色は、ホラー番組の登場人物のようだ。
「やっほー。久しぶりじゃん」
「の、ノエルさん……びっくりさせないでください」
 大きな目から涙をこぼさんばかりの彼女は、「あっそれ、危ないやつじゃないですかぁ!」と、ノエルの持っている薬品を回収した。
 散らかっている机まわりを整理し、緑髪の女性は「きょ、今日はメンテナンスの日でしたっけ」とカレンダーを確認する。
 ノエルは「ちげーけど」とマイペースに遮った。
「ちょっと、テメーに協力してほしーことがあってさー」
「協力、ですか……?」
 不穏な台詞に、アスナロの科学者である女性――並田みちるは恐る恐る訊ね返す。ノエルはあっけらかんと言った。
「夢を見る機能、オメーならつけられるだろ?」
 ――かくかくしかじか、ふみふみうまうま。
 要件とその発端を説明すると、みちるはノエルの期待以上の反応をした。常におどおどした表情ばかりしている彼女は、目の隈を散らすように瞳を輝かせる。薄い唇は歓喜に震えていた。
「好奇心や知識欲を持つ人工知能は世界中で研究が進められていますが、そもそも知性と自我はまったく別の概念であって、ノエルさんが自ら夢を見てみたいと思ったことは自意識の発達に大きな影響を受けたと」
「そういうのいいから、結論だけ言えよ。できるわけー?」
「はい、もちろん!」
 彼女らしからぬ溌剌とした笑顔に、ノエルは「じゃ、よろしくー」とみちるの肩を叩く。と、みちるはあうあうと眉を下げて一気に申し訳なさそうな顔になった。
「で、でも今は別の仕事が立て込んでいるので……二週間ほど待ってもらってもいいですかぁ?」
「はー? 二週間?」
 月をまたぐ長さを提示されて鼻白むノエル。
 彼の背後から、今度は別の人間の声が届いた。
「あら、誰かと思えば」
 優雅にコーヒーをすする彼女――もう一人の腐れ縁である、原井笑理という名の女性は、不審者を見る眼差しをノエルに向ける。
「ガシューならいないわよ」
「知ってるよ。今日の用事はそれじゃねーから」
 敬愛する「父さん」の名前を出され、ノエルはますます不愉快に眉をひそめた。不可解そうな目をした笑理には、みちるの方から事情を説明する。
 コーヒー一杯分の時間をかけて耳を傾け、笑理は嘲笑するように片頬を上げる。
「……へぇ。人形が夢を、ねぇ……」
 生意気だとでも思っているのか。ノエルが反撃の言葉を出すより早く、笑理は思いもよらない言葉を口にする。
「いいわよ。そこのと違って、こっちの仕事は片付いてるし。特別にチップを作ってあげる」
 二日もあればできそうね、と余裕たっぷりに告げる笑理。
「……なんか逆に気持ちわりーな」
 厚意を警戒するノエルに、笑理は真意の見えない微笑を返した。「要らないなら、別にいいけど」
 ノエルはみちるに目配せして、察したみちるが「……まあ、笑理さんは実力と実績のある科学者ですから」と太鼓判を押す。
「……性格は、ちょっとアレですけど」
「なにか言った?」
 小声で付け加えると即座に笑顔で凄まれて、みちるは「な、なんでもないですぅ」と情けない声で顔を伏せた。
 ノエルは「じゃーまあオメーでもいいけど。変なことすんなよなー」と釘を刺し、「そうだ、これなんだけど」と、家から持ってきた本を二人に差し出した。
 『思考実験』の文字を見て、みちるは心なしか好意的に笑い、対照的に笑理はくだらないとでも言いたげに鼻で笑う。
「これ読んでて、人間と人工知能ってなにがちげーんだろって思ったんだけど」
 言いながら二人の意見を仰ぐように顔を見ると、みちると笑理はどちらからともなく顔を見合わせた。
 先に答えたのは、みちるの方だった。
「人間と人工知能……人間の知能をコンピュータで再現した、作られた知性との違いと言えば、個人的には他者の存在を前提に自己を確立するか否か、でしょうか」
「……言ってることが、よくわかんねー」
 正直に白旗を振るノエルへ、みちるは慌てて言葉を噛み砕く。
「ええと、人間は社会的な生き物ですから、自分以外の存在と関係しあうことで初めて個人として扱われるというか……」
「…………」
「…………」
 閉口したノエルの隣で、気付けば笑理まで呆れた顔をしていることに気付いて、みちるは再度「うう……すみません」と降参した。
 バトンタッチで、次は笑理が持論を述べる。
「人間と人工知能の違いなんて、生殖能力の有無くらいじゃないの? 感受性とか創造力が云々なんて言われてるけど、感情を持つ『強いAI』の開発は進んでるわけだし、実際アナタみたいに知識欲のある人形もいることだし」
 淡白な意見は、それ故にすんなりと納得できた。
「生殖機能。子孫を残すとか、そーいう」
 ノエルが言い、それはそれでわからない価値観、本能だなと唇をへの字に曲げる。
 笑理は、ついでのようにもうひとつ付け加えた。
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