世界その4:着せ替え人形は白日の夢を見るか?

 他の本と比べてサイズの小さいそれを持って、棚の側面に備えられた丸椅子へ腰を下ろす。ページをめくると、簡単な質問が書かれていた。
 予定のない雨の日、あなたは何をして過ごすか。
 質問の下には四つの選択肢が並んでいて、その中から最も自分の考えに近いものを選んで答える方式のようだ。
 いち、傘を差して散歩に行く。に、友だちと電話をする。さん、室内で勉強や筋トレをする。よん、趣味に没頭する。
 提示された四択を見て、ノエルは無意識に口元を歪めていた。
 雨の中、わざわざ外出しようなんてやつの気が知れないので、一番は当然のように却下した。ノエルには友人らしい友人がいないので、必然的に二番目も除外される。研究所の科学者には親しい人間もいるが、アレを友人と呼ぶのは、なにか違う気がした。
 三番に関しては、勉強も筋肉トレーニングもノエルとは無縁の行為だ。そして四番目。趣味と言われてぱっと思いつくものなどひとつもない。
 結局そのテストでわかるのは「あなたが恋人に求めるもの」とかいう理解不能の代物で、ノエルは忌々しい気持ちで本を閉じる。本を元あった場所に戻して、しばし休憩とばかりにその場でしゃがみこんだ。
 そもそも心理テストなんてものは人間が楽しむべき娯楽で、はなから人形向けではなかったのだ。……それでもつい気になってしまったのは、朝食のときに交わした会話のせいか。
 人間なのだから感情くらい持ち合わせていると言ったカイが、直後に見せた申し訳なさそうな表情と謝罪の言葉。やや太めの眉が珍しいくらいにわかりやすく下がり、黒い瞳には失言への後悔が滲んでいた。
 それはそのままの重みでノエルにのしかかり、ノエルはそれを「憐憫」や「同情」の類と受け取った。
 人間なんかに、しかもよりによって「父さん」の息子であるカイに哀れまれるなど、耐えがたい屈辱でしかない。それでもあの場で怒りを爆発させなかったのは、カイとの暮らしがそれなりに長く、カイがノエルを人間のように扱ってくれているからだった。
 朝が来れば起こしに来て、同じ食卓に着き、美味しいものを食べさせてくれる。
 ノエルはカイと暮らし始めて最初の頃、「味はわかるけど機械的に処理してるだけだし」と食事を突っぱねたことがあった。皿ごと拒絶されたカイは、不思議そうに首を傾げて平然と言った。
「人間だって、舌にある味蕾という器官で味覚を感じているだけですよ。あなたと、そうたいして変わらないでしょう」
「ミライ?」
 漢字に変換できなかったノエルへ、カイは空中に字を書く仕草で教えてくれた。
「味の蕾と書いて味蕾です。外部からの刺激を処理して機能するという点では、人間も機械やロボットと大差ないかと」
 科学者の面々からは不評を買いそうな台詞だったが、真面目な顔で言うカイの言葉に、ノエルは胸の内側をくすぐられたような感覚を覚えた。
 それが「嬉しい」という感情だと気付くには、まだまだ情緒が育っていなかった頃の話だ。ノエルはいまだにそのときのカイをよく覚えている。
 ほんの数ミリ上がった口角と、事実を持って新しい価値観を提示してくれたカイの目は、相手を慈しむ優しさに満ちていた。それはノエルにとって初めて向けられた微笑だった。
 ぼんやりとしてどこを見ているかわからないだけど確かな慈愛を伴った眼差し。あのときノエルは初めて、人の目には温度が宿ることを知ったのだ。
 懐かしい記憶を呼び起こし、ひとり気恥ずかしくなったノエルは、気を紛らわせるように別の棚を見て回った。天体や動物の写真集などを見ては、知らない世界や生き物の知識に触れる。研究所にいた頃は施設だけが世界のすべてだったが、外には知らないことがたくさんあるのだと素直に感嘆した。
 目についた本を開いて斜め読みし、気になる箇所は集中して読みこんでみる。ノエルは特に人体の仕組みに興味を抱いた。
 イラストや写真を中心にした書籍から、次第に文字だけで埋め尽くされた本にも慣れていった。
 美味しい部分だけをつまみ食いするように乱読するうち、突然に華やかな音楽が館内中に鳴り響いた。夢中で本を読んでいたノエルは、びくりと肩を跳ね上げる。館内のスピーカーから流れる音声は、柔らかな敬語で閉館五分前だと告げた。
 外を見ると、窓から見える駐車場は夕陽で赤く染まっている。もうそんなに経ったのかと、時間の感覚が狂ったようで軽く眩暈がした。
 ノエルは読みかけの本を閉じて棚に差し、本のタイトルをしっかりと脳のメモリに刻み付けた。明日からはしばらく退屈せずに済みそうだと思い、知らず知らずのうちに口元が緩む。
 退館し、錆びた門を通り抜けてつつがなく帰路に就く。
 夕焼けに照らされた帰り道ではヒグラシの鳴く声が聞こえて、ノエルは今度、生き物の図鑑も詳しく読んでみようかという気になっていた。

 充実した一日とは、こういう日のことを言うのだろうか。
 足取りも軽やかに上機嫌で帰宅したノエルは、玄関扉を開けると同時にカイと鉢合わせて「うおっ」と声を上げる。
 カイの方も驚いた表情で、彼は履きかけていた靴を半分踏みつけた格好で目を見張った。
「びっくりしたー……なにしてんだよ」
「なにしてるかは、こちらの台詞です。帰りが遅いので心配しました」
 靴を戻し、カイはじろりとノエルに目をやった。咎める視線に、しかしノエルは得意げに笑みを作る。
「あのあとすぐ図書館に行ってきたんだけど、けっこー面白かったかも。オレの知らねーこととかいっぱい書いてあったし」
 聞いて、カイは意外そうに「ほう……」と声を漏らす。
 先に手洗いを促されて洗面所へ回り、ノエルはリビングのテーブルに着いて今日の過ごし方を語った。本の好きなところだけを読んでいると、時間が経つのは一瞬だったという話をする。
「最初に本棚を見たときは、全然すくねーと思ったのになー。あんなに小さくて軽いのに、読むのけっこう時間かかるな」
 そっけない口調ながら興奮を隠しきれていないノエルに、カイも嬉しそうに笑う。
 ノエルはつまみ食いして得た知識の数々を話し続け、それは完全に陽が落ちて夕食の時間になっても続いた。

 夕飯の夏野菜カレーを食べながら、相変わらずノエルは生き生きと喋り、カイはにこにこと話を聞いている。ノエルは高度な人工知能を有しているので、吸収した情報に自分なりの感想や意見をプラスして、内容を発展させることができた。
 ひとしきり話し終えて食事の箸、改めスプーンを進めるノエル。カイは、ふっとなにか思い至った顔をした。
「そんなに気に入ったのなら、図書カードも作りましょうか」
「図書カード?」
 初めて聞く単語に、ノエルはおもむろに首を横に倒す。
 カイは小さく頷いた。
「はい。カードを作れば、何冊かは図書館から本を借りることができます。たぶん身分証明書が必要だと思うので、次の休みに私が作って、本を借りてみましょう」
 途端に、ノエルは「ほんと?」と目を輝かせた。
「ええ」
 微笑するカイに、急いでカレーを食べ終えて流しに皿を運び、壁掛けカレンダーで次の休日を確認する。いちばん近い休みは三日後だった。
 ノエルは、カイの休日に赤い丸を何重にも書いて、『図書館の日!』と印をつけた。
「えー、何冊くらい借りれんだろ……」
 早々に借りる本のことを考え出したノエルへ、カイは思わず苦笑する。なんにせよ、ノエルに好きなものができたことは単純に喜ばしかった。

 図書館へ通うようになって、ノエルはあることに気付いた。本を読むと、環境や身の回りの変化に敏感になるということだ。
 夜の星や道端の草木にも名前があると知り、長らく雑草だと思っていた駐車場の緑が、職員の手で管理されているのだと気付く。まるで世界が少しずつ変化していったようだったが、カイに言わせれば「ノエルの方が変わったから」らしい。
 三日後。ノエルとカイは、約束通り図書館へ行った。
 到着するとカイはさっそくカウンターに向かい、職員へ図書カードの発行について訊ねた。職員が書類を出して、カイは偽造された住民票をもとに手続きを進める。
 待っているあいだ、ノエルは『文学』の棚を見ていた。実在した人物の『伝記』は苦手だが、架空の人間たちによる物語は嫌いじゃない。
 さして広さのない図書館の配架図は、この三日でだいたい覚えてしまった。『文学』の中でも薄い短編集を選び、文章を丁寧に目で追っていく。連日の図書館通いで、短編と名のつくものは一息で読みきれる程度の集中力が身についていた。
 カウンターで職員とやり取りしていたカイは、五分ほどで手続きを終えたらしい。淡い青緑色のカードを持って、ノエルへ声をかける。
「できましたよ。一人で五冊まで借りられるそうです。……本人でないと使えないので、私と一緒のときでなければ借りられませんが」
 ノエルはちょうど読み終えた短編集を閉じて、「五冊かー」と呟いた。カイが補足する。
「あまりたくさん借りても運ぶのが大変ですし。貸出期間は三週間だそうですので、そのうちで読みきれるだけの本を借りましょう」
「オメーは、なんか借りたい本とかねーの?」
 問われ、カイは虚を突かれたように押し黙った。十秒ほど考えて首を横に振る。
「私はとくに……。あなたが好きなものを選んでください」
 ノエルは「おっしゃー」と喜んで、借りる本の選別を始めた。
 そのあいだ、カイもゆっくりと数々の蔵書を見て回る。料理本のコーナーを覗いてみたが、家庭料理が中心のものがほとんどで、すでにレパートリー豊富なカイには無用そうだった。
 一般図書コーナーの隅には、今月の新刊コーナーというスペースがあった。長方形の机に、さまざまなジャンルの本が十数冊ほど並べられている。
 そのうちの一冊を取ったとき、数冊の本を胸に抱いたノエルが戻ってきた。
「五冊までだっけ? あと一冊、いいのが見つかんねーの」
 言って、ノエルはカイの手にある本を見た。本の表紙には『思考実験』というシンプルな記載があった。
「面白い?」
 ノエルが覗き込み、カイは「どうでしょう」と本を開く。
 前書きに、思考実験というのは「頭の中で想像するだけの実験」を指すと書かれている。
 器具や装置を用いらず、脳内または他者との議論で仮説を立て、考えを深める――「実験」に馴染みのあるノエルは、しかし「脳内で行う実験」という言葉にどうもイメージが湧かず首を捻った。
 カイは、目次の数行を読んで合点のいった顔をしている。内容に覚えがあるようだった。
「トロッコ問題は有名ですね。読んでみますか?」
 訊ねられ、このあいだの心理テストみたいなやつだったら嫌だなとノエルは苦い記憶を思い出す。カイからの誘いなので、とりあえず一問だけ付き合ってみることにする。
 カイは、咳払いして『トロッコ問題』の項目を読んだ。
「……ある線路を走っていたトロッコが、ブレーキの故障により暴走してしまいました。線路の先は二手に分かれていて、片方には一人の作業員が、もう片方には踏切を渡ろうとする五人の若者がいます。この状況下で、分岐点のスイッチを動かせる人間はどのような行動をとるべきでしょうか」
 実際はもっと硬い口調で書かれているのだが、カイは敬語のまま質問文を読み上げた。話を聞いたノエルは、「なにが問題なんだ?」というように怪訝な顔をする。
「そんなの、フツーは作業員の方にスイッチを動かすに決まってるだろー? 五人より一人の方が、犠牲が少ねーじゃん」
 カイは「では、こちらの場合はどうでしょう」とページをめくった。
「あなたはトロッコが通る線路の上の橋にいて、近くには太った男性がいます。トロッコはこのままだと五人の人間を轢き殺してしまいますが、この男性を落としてトロッコを止めれば、五人の命は助かります。あなたは、どうしますか?」
 質問はより残虐なものに変わっていたが、ノエルは迷わず即答する。「え、フツーに落とすだろ。一人だし」
 返答を聞き、カイは困ったように笑った。小さな図書館で、周囲に人がいないのは幸いだったかもしれない。
「まあ、この質問にはいろいろとツッコミどころも多いのですが――太った男性を一人で橋から落とせるものか、とか。それはさておき、こちらだと手出しをせずに傍観するだけの人間が増えるそうですよ」
「ふーん。なんで?」
 本気でわからないといった表情のノエルへ、カイは表情を崩さずに答えた。
「分岐スイッチを動かすくらいはできても、実際に自らの手で人の命を左右できる人間は、そうはいないということでしょう。……現実には、分岐スイッチにさえ触れられない人も多そうです」
 ノエルの瞳が、与えられた情報を理解しようと薄く渦を巻く。
 わかるようなわからないような、という感覚に見舞われる彼の様子を見て、カイは苦笑いした。
「人間の感情は複雑、ということでしょうか」
「……貸せよ。それも借りて読むから」
 カイは挑発したつもりはなかったのだが、ノエルは半ばムキになっていた。カイから本を受け取り、改めて目次に目を通す。
『シュレディンガーの猫』『中国語の部屋』『メアリーの部屋』――カイいわく、どれも有名な話らしい。
 思考実験は人によって答えが変わり、考えの違う人間同士が話し合って議論を深めていく実験だという。
 人でないノエルにも、人工知能である人形ならではの答えが出せるだろうか。もし仮にそうだとしたら、それは人間たちとなにがどう違うのか。
 この本でカイと議論するのも悪くなさそうだと、ノエルは他の本と『思考実験』の本をまとめてカウンターに持っていった。カイが粛々と手続きを申し込む。
 職員はノエルにも貸出カードを作らないかと勧めたが、住民票も健康保険証もないとはさすがに言えず、カイが「学生証をなくしてしまったんですよね」とごまかしておいた。
 無事に貸し出し手続きを終えて外に出ると、真夏の陽射しは八月らしい鋭さだった。アスファルトは太陽の熱が目視できるんじゃないかと思うほどに熱されて、車の少ない駐車場に陽炎が揺らめいている。
 今日も今日とて黒ずくめの服装に身を包んでいるカイは、さほど暑さを感じていないような顔つきで「日陰を行きましょうか」と言った。
 植物に身を寄せるようにして歩くと、門のそばを飛び回る生き物がいた。ノエルはオレンジ色の瞳を眇めて、それが蝶々であると気付く。一匹だけの蝶だ。
 蝶は夜明けの空を思わせる青緑色の羽を上下させ、門扉の周りを不規則に飛び回っている。この暑さで熱に浮かされているのだろうか。
 近づいて手を出すと、蝶はノエルの頭上に飛んできた。ノエルは落ち着いて指を差し出してみる。蝶は、意思の疎通を図るように指先に止まった。
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