世界その4:着せ替え人形は白日の夢を見るか?
夏の夜明けは早い。
空は徐々に明るさを増して、地表の大気は少しずつ温度を上げていく。
朝ぼらけの風がカーテンレースを揺らし、眠る人形の前髪をそよがせる。少年とも青年ともつかない見た目をした彼は、タオルケットを蹴飛ばして寝返りを打った。
太陽は、緩やかに上昇して大地をまんべんなく照らす。まっすぐに伸びる陽射しが、人形の顔を白く光らせた。
やがて、部屋の扉がノックされる。
「ノエル。起きていますか?」
扉を叩く硬い音が鳴り、扉越しに穏やかな声がかけられる。
問いに反し、熟睡している人形は目を覚まさなかった。寝乱れたベッドの上、陽光を受ける肌に一筋の涎が垂れている。
「……入りますよ」
扉の外側で溜息を吐いて、声の主はドアノブを回し入室した。
棚や椅子に衣服が放り出されたままの、雑然とした室内――よく見ると物自体はとても少ないシンプルな部屋――に踏み入って、黒髪の青年は眠る人形の肩へ手をかける。
「起きなさい、ノエル。もう七時ですよ」
軽く揺さぶられ、人形は形の良い眉を寄せて眉間にしわを作った。黒々とした睫毛が震え、まぶたがゆっくりと開かれる。気だるげな声は、寝起きのわりにはっきりとしていた。
「あー……? いま何時?」
「七時です。あなた、また時計を落としましたね」
青年は、床に落ちている時計を拾って枕元の棚に置いた。
丸いボディに二つのベルが搭載された、よくあるデザインの目覚まし時計は、全体的に細かい傷がついている。健気に針を動かしてはいるが、役目を果たせたことはまだ一度もない代物だ。
毎朝決まった時間にアラームを鳴らすものの、そのたびに持ち主の人形――ノエルが止めてしまうからだ。今日のように、勢い余って床へと叩き落とされることも少なくない。
「どうしてあなたはこう……寝汚いのでしょうか」
言い淀みながら、結局ストレートに小首を傾げる青年。
ノエルは軽く伸びをしながら、「誰が意地汚いってー?」と顔をしかめた。
「意地汚いじゃなくて、寝汚いです。ほら、はやく顔を洗ってきてください」
青年はベッドシーツを整え始めた。
追い立てられたノエルは、部屋を出てすぐそばの洗面所で顔を洗う。人形だから本来は洗顔の必要もないのだが、冷たい水を肌に浴びると、なんとなく気分がすっきりした。
リビングへ行くと、仕事の早い青年が朝食の準備をしていた。
手伝いを頼まれる前に、ノエルは自発的に戸棚からコップを出して牛乳を注ぐ。二人分の牛乳をテーブルに置いて椅子に座り、青年も朝食を並べて席に着いた。
手を合わせ、「いただきます」と声を揃える。今日のメニューは、ワンプレートのベーコンエッグトーストとサラダ、フルーツの入ったヨーグルトだった。
ノエルは温かいトーストの端を持ち、卵の黄身が垂れないように気をつけながらかじる。青年も黙々とトーストを咀嚼して、しばし無言だが和やかなひとときが流れた。
ふと、ノエルは牛乳を一息に飲んで口を開いた。
「オメーも毎日律儀だよなー。オレなんかほっときゃいいのに」
可愛らしい顔に口ひげを作って軽口を叩く。
青年は「ひげができてますよ」と口周りを示して前置きし、淡々と答えた。
「せっかく一緒に住んでいるのですから。……眠りこけるあなたを起こすのは面倒ですが、放置して私だけ食事をとるのもなんですし」
「人形って飯いらないんだけど、知ってる?」
口元をティッシュで拭いつつ、ノエルは皮肉まじりに質問を重ねた。
青年は感情の見えない面持ちで「はい、知っていますよ。あなたこそ、私の名前がテメーやオメーじゃないことも知っていますよね」と返す。
「……変なやつ」
「変なやつという名前でもありません」
冗談か本気か、真顔で告げる青年を、ノエルは「はいはい」と鬱陶しそうにあしらった。
青年はノエルの顔をじっと見つめ続け、ついにノエルの方が根負けする。
「……カイ」
しぶしぶ、不承不承といった声音だったが、ようやく名前を呼ばれた青年――カイは満足げに食事を再開する。
ノエルは負け惜しみのように「めんどくせーやつだな」と呟いた。
「感情なんかないみてーな顔してるくせに、けっこうしつこいよな」
「私も一応、人間ですから。感情くらいありますよ」
言った後で、はっと目を伏せて「……すみません」と謝るカイ。ノエルは「謝んじゃねーよ。そっちの方がムカつくって」と気まずげに目を逸らす。
二人は再び口を閉ざして、沈黙のうちに食事を終えた。
皿を片付けるついでに、ノエルは流しで歯を磨く。そういえば、この体は歯を磨かないとどうなるのだろう。虫歯はないとしても、食べかすの汚れや詰まりで動作不良くらい起こすのだろうか。無意味な想像を巡らせながら歯ブラシを洗って口をすすぐ。
着替えのために自室へ戻る途中で玄関を覗くと、カイは仕事に出る支度をしていた。
「今日も帰りは夕方ですから、適当に過ごしていてください」
テキトーに、と繰り返して、ノエルは唇を尖らせた。
「暇なんだよなー」
カイは仕事で使う赤いエプロンを丁寧にたたみ、「暇、ですか……研究所の方へ行っては?」と提案する。
二人にとって馴染み深いアスナロの研究室を思い浮かべ、しかしノエルは気乗りしない表情で首を振った。
「んー、このあいだ『実験の邪魔すんな』って怒られたからなー」
特に親しい研究員の顔を思い浮かべながら言うと、カイは「ふむ」と唇に指を当てた。黙考するそぶりを見せて、「では、図書館に行くのはどうでしょう」と新たな案を出す。
「図書館?」
そのまま返したノエルに、荷物をまとめ終えたカイは靴を履きながら首肯した。
「私もついこのあいだ知りましたが、近所に古い図書館があるそうで。時間を持て余しているのなら、暇潰しにはなると思いますよ」
この付近の地図なら、リビングの壁に貼っていますから。
そう言い残して出勤していったカイを見送り、ノエルは言われた通りの場所を捜索する。目的のものはすぐに見つかった。
「えーと、図書館……」
地図上を指でなぞりながら探すと、この辺りの地名を冠する図書館は、思ったよりも近くにあるらしい。方向は反対だが、アスナロの研究所よりも近かった。
ノエルは腕を組んで考え、まあたまには気分転換してみるかと、出かける準備を始めた。
家を出たのは午前十時過ぎだったが、夏の陽射しは燦々と地面を照り付けていた。
新陳代謝の行われない身体を持つノエルは、汗ひとつかかず道路の中心を歩く。直射日光を避け、隠れるように歩道を歩く通行人を尻目に悠々と陽を浴びるのは気分が良い。
けれど、いつだったか「道路の真ん中を歩いてはいけませんよ」とカイに言われたことを思い出して、ノエルは逡巡ののちに道の脇へ寄った。街路樹が並ぶ歩道は、木陰に風が通って見た目以上に涼しく感じられる。
歩きながら木漏れ日を見上げていると、不意に葉の一枚が不自然に動いた気がした。
風で揺れたのではない、なんらかの意思を持ったような動きに目を留める。木々の隙間からこぼれる陽射しが眼球へ直に降り注ぎ、ノエルは両目を細めて立ち止まった。
動きのある場所を注視すると、しばらくして薄い羽が見えた。
真っ白な陽光から抜け出るように現れたそれは、一匹の蝶だった。ガラス細工に似た繊細なまだら模様の羽を持ち、太陽の光を透かして美しく輝いている。羽は青みがかった薄い緑色で、気を抜くと見失ってしまいそうだった。
――捕まえられるだろうか。
好奇心から手を伸ばしてみるが、蝶はノエルを翻弄するようにひらひら舞った。音もなく羽ばたいて、葉と空の境界へ吸い込まれるように消えていく。
なす術も、さしたる執着もなく視線を前方に戻すと、いつのまにか目当ての建物に到着していた。
ノエルの瞳に、古びた図書館が映る。
肩に届かないほどの高さしかない門は、赤茶色の錆に覆われていた。その気になればひょいと飛び越えることもできそうだが、ノエルは大人しく押して門の中へ入っていく。
無駄に植物が多い――というか、雑草や樹木が放置されているだけにしか見えない駐車場を横切り、建物に向かって歩を進める。
建物は全体が石の柵で覆われていて、正面から左手の方にはトイレがあると看板が立っていた。まわって確認すると、ボロ小屋のような(一応は石造りの)一角が見えて、ノエルは無言で正面玄関にきびすを返す。どのみち彼は使用することのないものだ。
短い石段を上り、自動ドアの横に飾られている木製看板を見る。図書館の名前が黒く達筆に刻まれた看板は、文字が光って見えるぐらいぴかぴかに磨かれていた。しかし外壁はところどころ剥落していて、かえって看板が浮いているように見える。
自動ドアをくぐって中に入ると、カウンター奥のクーラーが冷えた空気を吐き出していた。フォーマルな制服を着た職員が数名、カウンターの向こう側で作業をしている。
入り口付近には給水機が設置されて、簡易的ながら手洗い場もあった。
案内図によると、館内は一階が図書コーナー、右手の階段を上がって二階が多目的室、三階が学習室になっているらしい。
カウンターの左手側に曲がると、蔵書検索用にデスクトップパソコンが置かれていた。その先にはたくさんの書架が並んでいて、スペースの半分は机と椅子で埋まっている。だが、ノエル以外に人の気配は感じられなかった。閑古鳥、という言葉がよぎったが、お店でもないのだから少し違う気がする。
フロアの半分を埋める本棚には、ひとつひとつにプレートが貼られていた。『総記』『哲学』『伝記』――すべての本は内容別に分類されているらしい。
ノエルは、ひとまず本棚を一通り見て回ることにした。主に上の段を中心に、年季の入った本の群れを眺めていく。
百科事典や心理学、宗教から経済に芸術などジャンルは多種多様だが、どれもノエルの興味を惹くにはいたらない。ただ、科学の書架を目にしたときは、なんだか複雑な心境になった。人間で言うと解剖学でも見るような気分だろうか。
適当な棚の前で足を止め、あえて表紙を見ずに一冊だけ手に取ってみる。歴史上の人物、偉人と呼ばれる人間の生涯がまとめられた、『伝記』というものだった。ぱらぱらとめくって目を通してみるが、残念なことにさっぱり頭に入ってこない。
会ったこともない、ましてや時代さえ違う赤の他人の人生を知ったところで何になるのだろうと思い、でもそれは自分が人でないからそう思うのかもしれないと考え直して、ノエルは本を元あった場所に戻す。
さして広くないスペースで、フロアを一周するのに時間はかからなかった。
少しだけ悩み、今度は心理学の棚でイラストの描かれた本を選ぶ。背表紙には『心を暴く心理テスト』と、なかなかインパクトのあるうたい文句のタイトルがあった。
空は徐々に明るさを増して、地表の大気は少しずつ温度を上げていく。
朝ぼらけの風がカーテンレースを揺らし、眠る人形の前髪をそよがせる。少年とも青年ともつかない見た目をした彼は、タオルケットを蹴飛ばして寝返りを打った。
太陽は、緩やかに上昇して大地をまんべんなく照らす。まっすぐに伸びる陽射しが、人形の顔を白く光らせた。
やがて、部屋の扉がノックされる。
「ノエル。起きていますか?」
扉を叩く硬い音が鳴り、扉越しに穏やかな声がかけられる。
問いに反し、熟睡している人形は目を覚まさなかった。寝乱れたベッドの上、陽光を受ける肌に一筋の涎が垂れている。
「……入りますよ」
扉の外側で溜息を吐いて、声の主はドアノブを回し入室した。
棚や椅子に衣服が放り出されたままの、雑然とした室内――よく見ると物自体はとても少ないシンプルな部屋――に踏み入って、黒髪の青年は眠る人形の肩へ手をかける。
「起きなさい、ノエル。もう七時ですよ」
軽く揺さぶられ、人形は形の良い眉を寄せて眉間にしわを作った。黒々とした睫毛が震え、まぶたがゆっくりと開かれる。気だるげな声は、寝起きのわりにはっきりとしていた。
「あー……? いま何時?」
「七時です。あなた、また時計を落としましたね」
青年は、床に落ちている時計を拾って枕元の棚に置いた。
丸いボディに二つのベルが搭載された、よくあるデザインの目覚まし時計は、全体的に細かい傷がついている。健気に針を動かしてはいるが、役目を果たせたことはまだ一度もない代物だ。
毎朝決まった時間にアラームを鳴らすものの、そのたびに持ち主の人形――ノエルが止めてしまうからだ。今日のように、勢い余って床へと叩き落とされることも少なくない。
「どうしてあなたはこう……寝汚いのでしょうか」
言い淀みながら、結局ストレートに小首を傾げる青年。
ノエルは軽く伸びをしながら、「誰が意地汚いってー?」と顔をしかめた。
「意地汚いじゃなくて、寝汚いです。ほら、はやく顔を洗ってきてください」
青年はベッドシーツを整え始めた。
追い立てられたノエルは、部屋を出てすぐそばの洗面所で顔を洗う。人形だから本来は洗顔の必要もないのだが、冷たい水を肌に浴びると、なんとなく気分がすっきりした。
リビングへ行くと、仕事の早い青年が朝食の準備をしていた。
手伝いを頼まれる前に、ノエルは自発的に戸棚からコップを出して牛乳を注ぐ。二人分の牛乳をテーブルに置いて椅子に座り、青年も朝食を並べて席に着いた。
手を合わせ、「いただきます」と声を揃える。今日のメニューは、ワンプレートのベーコンエッグトーストとサラダ、フルーツの入ったヨーグルトだった。
ノエルは温かいトーストの端を持ち、卵の黄身が垂れないように気をつけながらかじる。青年も黙々とトーストを咀嚼して、しばし無言だが和やかなひとときが流れた。
ふと、ノエルは牛乳を一息に飲んで口を開いた。
「オメーも毎日律儀だよなー。オレなんかほっときゃいいのに」
可愛らしい顔に口ひげを作って軽口を叩く。
青年は「ひげができてますよ」と口周りを示して前置きし、淡々と答えた。
「せっかく一緒に住んでいるのですから。……眠りこけるあなたを起こすのは面倒ですが、放置して私だけ食事をとるのもなんですし」
「人形って飯いらないんだけど、知ってる?」
口元をティッシュで拭いつつ、ノエルは皮肉まじりに質問を重ねた。
青年は感情の見えない面持ちで「はい、知っていますよ。あなたこそ、私の名前がテメーやオメーじゃないことも知っていますよね」と返す。
「……変なやつ」
「変なやつという名前でもありません」
冗談か本気か、真顔で告げる青年を、ノエルは「はいはい」と鬱陶しそうにあしらった。
青年はノエルの顔をじっと見つめ続け、ついにノエルの方が根負けする。
「……カイ」
しぶしぶ、不承不承といった声音だったが、ようやく名前を呼ばれた青年――カイは満足げに食事を再開する。
ノエルは負け惜しみのように「めんどくせーやつだな」と呟いた。
「感情なんかないみてーな顔してるくせに、けっこうしつこいよな」
「私も一応、人間ですから。感情くらいありますよ」
言った後で、はっと目を伏せて「……すみません」と謝るカイ。ノエルは「謝んじゃねーよ。そっちの方がムカつくって」と気まずげに目を逸らす。
二人は再び口を閉ざして、沈黙のうちに食事を終えた。
皿を片付けるついでに、ノエルは流しで歯を磨く。そういえば、この体は歯を磨かないとどうなるのだろう。虫歯はないとしても、食べかすの汚れや詰まりで動作不良くらい起こすのだろうか。無意味な想像を巡らせながら歯ブラシを洗って口をすすぐ。
着替えのために自室へ戻る途中で玄関を覗くと、カイは仕事に出る支度をしていた。
「今日も帰りは夕方ですから、適当に過ごしていてください」
テキトーに、と繰り返して、ノエルは唇を尖らせた。
「暇なんだよなー」
カイは仕事で使う赤いエプロンを丁寧にたたみ、「暇、ですか……研究所の方へ行っては?」と提案する。
二人にとって馴染み深いアスナロの研究室を思い浮かべ、しかしノエルは気乗りしない表情で首を振った。
「んー、このあいだ『実験の邪魔すんな』って怒られたからなー」
特に親しい研究員の顔を思い浮かべながら言うと、カイは「ふむ」と唇に指を当てた。黙考するそぶりを見せて、「では、図書館に行くのはどうでしょう」と新たな案を出す。
「図書館?」
そのまま返したノエルに、荷物をまとめ終えたカイは靴を履きながら首肯した。
「私もついこのあいだ知りましたが、近所に古い図書館があるそうで。時間を持て余しているのなら、暇潰しにはなると思いますよ」
この付近の地図なら、リビングの壁に貼っていますから。
そう言い残して出勤していったカイを見送り、ノエルは言われた通りの場所を捜索する。目的のものはすぐに見つかった。
「えーと、図書館……」
地図上を指でなぞりながら探すと、この辺りの地名を冠する図書館は、思ったよりも近くにあるらしい。方向は反対だが、アスナロの研究所よりも近かった。
ノエルは腕を組んで考え、まあたまには気分転換してみるかと、出かける準備を始めた。
家を出たのは午前十時過ぎだったが、夏の陽射しは燦々と地面を照り付けていた。
新陳代謝の行われない身体を持つノエルは、汗ひとつかかず道路の中心を歩く。直射日光を避け、隠れるように歩道を歩く通行人を尻目に悠々と陽を浴びるのは気分が良い。
けれど、いつだったか「道路の真ん中を歩いてはいけませんよ」とカイに言われたことを思い出して、ノエルは逡巡ののちに道の脇へ寄った。街路樹が並ぶ歩道は、木陰に風が通って見た目以上に涼しく感じられる。
歩きながら木漏れ日を見上げていると、不意に葉の一枚が不自然に動いた気がした。
風で揺れたのではない、なんらかの意思を持ったような動きに目を留める。木々の隙間からこぼれる陽射しが眼球へ直に降り注ぎ、ノエルは両目を細めて立ち止まった。
動きのある場所を注視すると、しばらくして薄い羽が見えた。
真っ白な陽光から抜け出るように現れたそれは、一匹の蝶だった。ガラス細工に似た繊細なまだら模様の羽を持ち、太陽の光を透かして美しく輝いている。羽は青みがかった薄い緑色で、気を抜くと見失ってしまいそうだった。
――捕まえられるだろうか。
好奇心から手を伸ばしてみるが、蝶はノエルを翻弄するようにひらひら舞った。音もなく羽ばたいて、葉と空の境界へ吸い込まれるように消えていく。
なす術も、さしたる執着もなく視線を前方に戻すと、いつのまにか目当ての建物に到着していた。
ノエルの瞳に、古びた図書館が映る。
肩に届かないほどの高さしかない門は、赤茶色の錆に覆われていた。その気になればひょいと飛び越えることもできそうだが、ノエルは大人しく押して門の中へ入っていく。
無駄に植物が多い――というか、雑草や樹木が放置されているだけにしか見えない駐車場を横切り、建物に向かって歩を進める。
建物は全体が石の柵で覆われていて、正面から左手の方にはトイレがあると看板が立っていた。まわって確認すると、ボロ小屋のような(一応は石造りの)一角が見えて、ノエルは無言で正面玄関にきびすを返す。どのみち彼は使用することのないものだ。
短い石段を上り、自動ドアの横に飾られている木製看板を見る。図書館の名前が黒く達筆に刻まれた看板は、文字が光って見えるぐらいぴかぴかに磨かれていた。しかし外壁はところどころ剥落していて、かえって看板が浮いているように見える。
自動ドアをくぐって中に入ると、カウンター奥のクーラーが冷えた空気を吐き出していた。フォーマルな制服を着た職員が数名、カウンターの向こう側で作業をしている。
入り口付近には給水機が設置されて、簡易的ながら手洗い場もあった。
案内図によると、館内は一階が図書コーナー、右手の階段を上がって二階が多目的室、三階が学習室になっているらしい。
カウンターの左手側に曲がると、蔵書検索用にデスクトップパソコンが置かれていた。その先にはたくさんの書架が並んでいて、スペースの半分は机と椅子で埋まっている。だが、ノエル以外に人の気配は感じられなかった。閑古鳥、という言葉がよぎったが、お店でもないのだから少し違う気がする。
フロアの半分を埋める本棚には、ひとつひとつにプレートが貼られていた。『総記』『哲学』『伝記』――すべての本は内容別に分類されているらしい。
ノエルは、ひとまず本棚を一通り見て回ることにした。主に上の段を中心に、年季の入った本の群れを眺めていく。
百科事典や心理学、宗教から経済に芸術などジャンルは多種多様だが、どれもノエルの興味を惹くにはいたらない。ただ、科学の書架を目にしたときは、なんだか複雑な心境になった。人間で言うと解剖学でも見るような気分だろうか。
適当な棚の前で足を止め、あえて表紙を見ずに一冊だけ手に取ってみる。歴史上の人物、偉人と呼ばれる人間の生涯がまとめられた、『伝記』というものだった。ぱらぱらとめくって目を通してみるが、残念なことにさっぱり頭に入ってこない。
会ったこともない、ましてや時代さえ違う赤の他人の人生を知ったところで何になるのだろうと思い、でもそれは自分が人でないからそう思うのかもしれないと考え直して、ノエルは本を元あった場所に戻す。
さして広くないスペースで、フロアを一周するのに時間はかからなかった。
少しだけ悩み、今度は心理学の棚でイラストの描かれた本を選ぶ。背表紙には『心を暴く心理テスト』と、なかなかインパクトのあるうたい文句のタイトルがあった。
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