世界その3:コール・リコール・ペトリコール
『あまりきちんと確認できませんでしたので、推測の範疇なのですが……そちらの猫ちゃんは、もともと当院に通われていた可能性がありまして』
「……」
沈黙で先を促すカイに、女性は声のトーンを落として続けた。
『数か月前から来院されなくなった方がいらっしゃるのですが、そちらの飼い主様がちょうどロエルちゃんに似た三毛猫を飼っていまして……当時、その猫ちゃんはひどく病院を嫌っていて、その……飼い主様の方も、猫ちゃんをあまり大切にされていないように見受けられたので』
憶測ですが、もしかしたら、と後ろ暗そうに話す女性スタッフに、カイもつられて口を開く。
「そうですか。この猫は、つい一か月くらい前に近所の公園で拾ったもので……」
『すると……そういうこと、かもしれませんね』
互いに曖昧な物言いで濁しつつ、カイとスタッフは確信を深めて息を吐く。
『そうなると、猫ちゃんを当院まで連れてきていただくのはかなり大変かもしれません。洗濯ネットに入れると落ち着く子もいるのですが……』
ぱっとしない口調から察するに、ロエルはそのやり方でも抵抗するのだろう。
女性スタッフは申し訳なさそうに恐縮しきって、当院では往診を受けつけていないということを説明した。
カイは「いえ、お話ありがとうございました」と電話越しに頭を下げ、しばらく様子を見つつ良い案を考えてから、また改めて連絡しますと言って電話を切った。
健康診断の予約は取り消しになってしまったが、今のところロエルはおおむね健康そうだというのがせめてもの救いか。
受話器を置いて机に戻り、再度パソコンで動物の病院嫌いについて検索する。
これからどうするべきか――外に出ること自体は平気そうなので、徐々に病院へと近づいて慣らすか。しかしそれだと時間がかかりそうなので、家でキャリーケースに慣らす方が手っ取り早いかもしれない。
ネット上の意見では、キャリーケースに好物のおやつやお気に入りのタオル、オモチャなどを入れておくと、ケースを怖がらなくなるともあった。
ロエルの好きなものといえば、エノコログサがぱっと浮かぶ。
……猫じゃらしで誘導したら、うっかり入ってくれたりしないだろうか。しかし不意を突くような真似で騙し討ちにすると、後が大変そうでもある。
はたまた、と『ロエルの病院嫌い』克服に向けて思索するカイの耳に、ノエルの切羽詰まった声が届いた。
「カイ、ちょっと、これ」
狼狽するノエルが指さした先には、うつぶせに寝ているロエルの姿。
その脇に、わずかながら生々しく異臭を放つ吐瀉物のかたまりがあった。
「……腸閉塞とかでは、なさそうなんですけどねぇ……持病なんかもないようですし」
薄汚れた白衣に身を包んだ男は、煮え切らない態度でロエルを見ていた。同じ室内には笑理とみちるの二人もいて、みちるは不安げにロエルを見つめ、笑理は「なんで私まで……」と愚痴をこぼしている。
アスナロの研究員には他所から引き抜かれた人材も多いと聞いてはいたが、獣医師の免許を持っている人間がいたのは幸運だった。
獣医学を専攻し、とある製薬会社で動物実験に携わっていたという理知的な研究員は、実験台に寝かせたロエルの腹部を触診している。
「大丈夫? そいつ死んじゃわない?」
「断定はできませんが……そこまで心配することでもないとは思いますよ。猫は比較的よく吐く生き物ですし」
研究員はロエルが吐いた物を持ってきていないか訊ね、すかさずカイが、吐瀉物を収めたビニール袋を差し出した。
研究員は躊躇なく中身を検分する。
「うーん……毛玉が混じっていますが、胃液なんかではないですね」
吐いた物が黄色かったり透明、または白い泡を吐いた場合は胆汁の可能性が高く、お腹が空きすぎたり胃の運動が低下している状態だと説明して、彼は強烈な悪臭を放つ吐瀉物の袋を片付ける。
「毛玉を吐くのは、それほど気にしなくて大丈夫です。ちなみに、便はきちんと出ていますか?」
問われ、カイは「そういえば」と記憶の糸を手繰る。
「昨日の朝から排便がなかったかもしれません。雨で、散歩にも連れていけませんでしたし」
そうですよね? とノエルに目をやり、ノエルは頷いて肯定する。
「では、便秘かもしれませんね。栄養剤を注射して、今日は絶食して様子を見ましょうか」
研究員はロエルを軽く撫で、ノエルにロエルの注意を引いているように頼む。ノエルは「ちょっと待ってろ」と言い残して退室し、さほど経たずにエノコログサを持って戻ってきた。
「こいつ、これ好きだから」
「せっかく名前を付けたんだから、名前で呼んであげなさいよ」
笑理が横から口を挟み、ノエルは「なんか呼びづれーんだよ」と言い返しながらエノコログサをロエルの鼻先に垂らす。
ロエルは琥珀色の瞳を薄く開いて、小さく溜息を吐いた。
「……猫も溜息を吐くんですね」
「呆れているんじゃないでしょうか」
しげしげとロエルを観察するみちる。カイがストレートな言葉を放つ。
囲まれたロエルは、胴体を伸ばすように寝そべって顎を下げ、静かに目を閉じていた。もとから活発な性格ではないものの、元気を失っていることは誰の目にも明らかだった。
研究員はロエルの背後に回ると、栄養剤入りの水分を込めた注射器を構え、数秒のうちにロエルの背中へと注射する。ロエルは一瞬びくりと体を硬直させ、黒い耳先を震わせた。
「……暴れるかと思いましたが、大丈夫そうですね」
カイが意外そうに言い、笑理はカイの両手に注目する。早い段階で絆創膏を剥がした両手には、痛々しい傷跡が残っていた。
「それ、もしかしてあの猫にやられたわけ?」
せせら笑う笑理に、カイは、むっとするでもなく淡々と言った。
「あれから病院の方に話を聞いたのですが、どうもこの猫……ロエルは、以前の飼い主に大切にされていなかったらしく」
病院に近づいただけでも大変でした、と手をさすってみせるカイに、みちるが「もしかして、ノエルさんの傷も」と、ノエルの頬へ手を伸ばす。かさぶたにもなっていない裂傷は、皮膚がべろりとめくれているようだった。
「ロエルさんの経過観察のあいだに、こちらも修理しましょうか」
隣の研究室へと誘導するみちるに、ノエルは少しだけロエルを気にかけて振り向いた。
ロエルは前足に顔を乗せて、身じろぎもせずに眠っていた。
ロエルの治療とノエルの修理が終わり、研究所から出ると、雨はいっそう強くなっていた。篠突く雨、というのだろうか、降りしきる粒は地面を穿つような勢いだ。
コンクリートを濡らし一面を水浸しにする雨粒に、ノエルは鼻をひくつかせて空を見る。
「なんか、変な匂いがするな」
端整な顔を歪めるノエルに、カイも「ペトリコールでしょうか」と雨雲に目をやった。
カイに抱かれて、ロエルは顔を洗うようにひげを擦っていた。
傘をくるりと回し、瞳に雨を映しながら、ノエルは短く呟いた。
「そいつも、不良品だったりすんのかな」
「……ノエル」
咎めるような視線を送るカイに、ノエルは無機質に笑う。
そしてそれでも人らしい温もりを乗せた声で、彼はロエルの頭に手を置いた。
「オメーの病院嫌いが治んなくても、オメーがなにか病気持ってたとしても、捨てねーから」
……オメーは、悪くないからな。
雨を反射して光る目は、本当の人間のように優しい色を帯びている。
帰路に就きながら、ノエルは訥々と昔話を語った。
「オレができたばかりの頃には、周りにたくさんの科学者がいて、他の人形もいっぱいあったんだよな。いわゆる、兄弟? ってやつかも」
「……」
雨音の途切れない帰り道。世界から隔絶された傘の中、カイはノエルの声を遮らないように黙っていた。
「感情を持った人工知能の開発って、すげー難しいらしくてさ。ま、オレがいちばんの最高傑作って言われてるし、他のやつはほとんどみんな『失敗作』だったらしーんだよね」
他人事のように言いながら、ノエルは長い睫毛を瞬かせる。
「こないだ言ってた『リコール』と違って、研究所での失敗作は廃棄されるだけ……修理なんかされねーわけ。欠陥品にコストをかけるより、新しくもっと性能の良いやつ作った方が効率いいもんな」
無意識に撫でた頬の裂傷は、みちるの手によって綺麗に修復されていた。
引っ掻かれる前と何も変わらない、陶器のように滑らかな肌。どんな傷を負っても、決して血が流れることのない、作り物の白磁の肌だ。
「でもさー、他人に好き勝手作られた挙句、欠陥品だの失敗作だのって言われて廃棄処分とか、普通にムカつくよな。好きでそうできたわけじゃねーし」
笑ってロエルを覗き込むと、ロエルは大きく尻尾を振った。カイの差す傘から尻尾がはみ出て、大きな雨粒を弾いて揺れる。
「にゃっ」
カイは、ロエルの首根っこを掻きながら目を細めた。
「……ロエルを飼うとき、責任を持って世話できるのかと聞きましたね」
もう半月以上も前になる日を振り返り、ノエルの口から「懐かしーなー」と自然に声が漏れる。
カイはロエルを撫でながら言葉を重ねていった。
「生き物を飼うことの責任とは、その生き物が最期まで幸せであるよう全力を尽くすことだと、私は思います。……この猫は、あなたに拾われて良かったですね」
陽の差さない、薄暗い雨の中。耳をつんざくような土砂降りの音は、不思議と遠い世界のものに聞こえている。まるで、傘を中心に自分たちを守る膜が張られているような。
微笑みかけるカイの目は、どこまでも優しく、柔らかかった。
ノエルは気恥ずかしげに目を逸らして「……お互い様だろ」と呟き、その声もまた、雨に消されることなくカイとロエルへ聞こえていたのだった。
翌日。カイが仕事に出てから、ノエルは窓辺で眠るロエルを眺めていた。昨日より体調は悪くなさそうなものの、ロエルは変わらず排便する様子はなかった。
ノエルにはぴんとこないが、カイやみちるいわく、生き物は体内に毒素を溜め続けると死んでしまうこともあるらしい。
「……死ぬなよなー」
研究所で研究員がやっていたように、ロエルの腹部を柔く揉んでみる。真っ白な腹は、呼吸に合わせて規則的に上下していた。意識して触れると、硬くなにかが詰まっているような感覚もある。
ロエルは寝苦しそうに顔を背け、ゆっくりと起き上がった。前屈みになってえずき、周囲をぐるぐると歩き回る。また吐くのかもしれないと、ノエルは慌てて新聞紙を取りに走った。
床に新聞紙を広げ、なにかあればすぐ研究所に向かうつもりで準備をする。張り詰めた空気の中、ロエルは何かを吐き出したそうに何度もえずいた。
一人でいるのが急に心細くなり、もう研究所に行ってしまおうかとノエルが腰を浮かしかけた、そのときだった。
ロエルは自ら猫用トイレに入り、二、三度その場でくるくる回ると、ゆっくり腰を落ち着けた。
固唾を呑んで見守るノエルの目の前で、ロエルは実に数日ぶりに排便したのだった。
「……で、出てきたのがこれですか」
昼過ぎ、通常よりも早めに帰宅したカイは、報告のためにと取っておかれた猫用トイレの中身を覗いた。
猫砂をかけられた中に、糞便に混じって緑色の物体が見える。それは、細長い一本の植物だった。
カイは「ふむ」と指を唇に当てる。
「猫じゃらし、ですね」
「……こいつ、しょっちゅう食べてたもんな」
ロエルはすっかり回復したようで、ノエルに抱かれてけろりとした顔で喉を鳴らしている。
「毒性はないとありましたが、つい飲み込んでしまったのでしょうね」
それで便秘になっていた、と。
言葉にするとなんとも間抜けな顛末だが、清々しい面持ちで尻尾を揺らすノエルを見るうち、元気になっただけで一安心だと苦笑が漏れる。
「これからは、市販のオモチャで遊ばせるべきですね。散歩のときも気をつけないと」
「なんでもかんでも食うんじゃねーぞー」
二人にかわるがわる撫で回され、ロエルは「にゃん」と鳴き声を返す。
カイは、仕事帰りに買ってきたという大きな袋を開けた。
「ベッドにもなるキャリーバッグがあったので、これなら入ってくれるかと……」
紙袋から取り出されたのは、ドラム缶型のバッグだった。天井部分の蓋が開き、胴部分を伸縮させることで半ドーム型のベッドに変形する。蓋を開けて横倒しにすると、トンネルとしても使える仕様になっていた。
さっそく底面にクッションを敷き、ロエルの前に置いてみる。
ロエルは怪しそうにバッグ全体の匂いを嗅いで、前足でクッションを踏みしめ、その上にくるりと丸くなった。
カイがバッグを持ち上げて蓋を閉めてみると、ロエルはバッグの胴部分のメッシュ窓から外の様子をうかがい、数秒ほどで前足に顎を乗せてリラックスした体勢を取る。
バッグに付属している持ち手を持って室内を運んでみたが、暴れたり怯えたりする様子は見られなかった。
「すげーじゃん、全然びびってねーよ」
ノエルは瞳をきらきらさせて、メッシュの窓越しにロエルの鼻をつつく。
「これで、病院の方にも連れていけそうですね。……まあ、いざ院内に入れば、また暴れるとは思いますが」
バッグを下ろし蓋を開けてベッドタイプに変形させ、カイはロエルの頭を撫でておやつを与える。バッグに入ると良いものがもらえると思わせる手段だ。
「せっかくですし、今からこれを使ってお散歩にでも行きましょうか。途中でお昼ご飯を買って、公園に着いたらロエルをバッグから出してあげて……」
「そっか、これがあると一緒に出掛けられる場所も増えるのか」
午後からの計画に頬を緩め、ノエルはいそいそと外出の支度を始めた。
バッグごとロエルを連れて外に出ると、雨はいつのまにかやんでいた。長らく鬱々としていた梅雨の空は、爽やかな青に澄み渡っている。蒼穹には、半透明の虹が架かっていた。
「カイ、空になんかすげーものが……」
水溜まりに足を止めて見上げたノエルに、カイは「初めて見ますか」と微笑する。ノエルは嬉しげにバッグ内のロエルへと声をかけた。「見ろよロエル、綺麗なもんがあるぞー」
それを微笑ましい気持ちで見つめて、カイもまた、黒い瞳に鮮やかな七色を映した。
きっとこの先ノエルとロエルは、互いに様々な『初めて』を見つけ合っていくのだろう。それが彼らにとって良い影響を与え合うことができたらいいと思い、しかしその願いはもうほとんど叶っているのだと確信する。
猫のロエルと、人間のカイと、人形であるノエルと。
生きる時間の長さは違っても、できるだけ幸せな瞬間を共に過ごせるようにと願いながら、二人と一匹は青空に架かる虹の下を歩いていった。
「……」
沈黙で先を促すカイに、女性は声のトーンを落として続けた。
『数か月前から来院されなくなった方がいらっしゃるのですが、そちらの飼い主様がちょうどロエルちゃんに似た三毛猫を飼っていまして……当時、その猫ちゃんはひどく病院を嫌っていて、その……飼い主様の方も、猫ちゃんをあまり大切にされていないように見受けられたので』
憶測ですが、もしかしたら、と後ろ暗そうに話す女性スタッフに、カイもつられて口を開く。
「そうですか。この猫は、つい一か月くらい前に近所の公園で拾ったもので……」
『すると……そういうこと、かもしれませんね』
互いに曖昧な物言いで濁しつつ、カイとスタッフは確信を深めて息を吐く。
『そうなると、猫ちゃんを当院まで連れてきていただくのはかなり大変かもしれません。洗濯ネットに入れると落ち着く子もいるのですが……』
ぱっとしない口調から察するに、ロエルはそのやり方でも抵抗するのだろう。
女性スタッフは申し訳なさそうに恐縮しきって、当院では往診を受けつけていないということを説明した。
カイは「いえ、お話ありがとうございました」と電話越しに頭を下げ、しばらく様子を見つつ良い案を考えてから、また改めて連絡しますと言って電話を切った。
健康診断の予約は取り消しになってしまったが、今のところロエルはおおむね健康そうだというのがせめてもの救いか。
受話器を置いて机に戻り、再度パソコンで動物の病院嫌いについて検索する。
これからどうするべきか――外に出ること自体は平気そうなので、徐々に病院へと近づいて慣らすか。しかしそれだと時間がかかりそうなので、家でキャリーケースに慣らす方が手っ取り早いかもしれない。
ネット上の意見では、キャリーケースに好物のおやつやお気に入りのタオル、オモチャなどを入れておくと、ケースを怖がらなくなるともあった。
ロエルの好きなものといえば、エノコログサがぱっと浮かぶ。
……猫じゃらしで誘導したら、うっかり入ってくれたりしないだろうか。しかし不意を突くような真似で騙し討ちにすると、後が大変そうでもある。
はたまた、と『ロエルの病院嫌い』克服に向けて思索するカイの耳に、ノエルの切羽詰まった声が届いた。
「カイ、ちょっと、これ」
狼狽するノエルが指さした先には、うつぶせに寝ているロエルの姿。
その脇に、わずかながら生々しく異臭を放つ吐瀉物のかたまりがあった。
「……腸閉塞とかでは、なさそうなんですけどねぇ……持病なんかもないようですし」
薄汚れた白衣に身を包んだ男は、煮え切らない態度でロエルを見ていた。同じ室内には笑理とみちるの二人もいて、みちるは不安げにロエルを見つめ、笑理は「なんで私まで……」と愚痴をこぼしている。
アスナロの研究員には他所から引き抜かれた人材も多いと聞いてはいたが、獣医師の免許を持っている人間がいたのは幸運だった。
獣医学を専攻し、とある製薬会社で動物実験に携わっていたという理知的な研究員は、実験台に寝かせたロエルの腹部を触診している。
「大丈夫? そいつ死んじゃわない?」
「断定はできませんが……そこまで心配することでもないとは思いますよ。猫は比較的よく吐く生き物ですし」
研究員はロエルが吐いた物を持ってきていないか訊ね、すかさずカイが、吐瀉物を収めたビニール袋を差し出した。
研究員は躊躇なく中身を検分する。
「うーん……毛玉が混じっていますが、胃液なんかではないですね」
吐いた物が黄色かったり透明、または白い泡を吐いた場合は胆汁の可能性が高く、お腹が空きすぎたり胃の運動が低下している状態だと説明して、彼は強烈な悪臭を放つ吐瀉物の袋を片付ける。
「毛玉を吐くのは、それほど気にしなくて大丈夫です。ちなみに、便はきちんと出ていますか?」
問われ、カイは「そういえば」と記憶の糸を手繰る。
「昨日の朝から排便がなかったかもしれません。雨で、散歩にも連れていけませんでしたし」
そうですよね? とノエルに目をやり、ノエルは頷いて肯定する。
「では、便秘かもしれませんね。栄養剤を注射して、今日は絶食して様子を見ましょうか」
研究員はロエルを軽く撫で、ノエルにロエルの注意を引いているように頼む。ノエルは「ちょっと待ってろ」と言い残して退室し、さほど経たずにエノコログサを持って戻ってきた。
「こいつ、これ好きだから」
「せっかく名前を付けたんだから、名前で呼んであげなさいよ」
笑理が横から口を挟み、ノエルは「なんか呼びづれーんだよ」と言い返しながらエノコログサをロエルの鼻先に垂らす。
ロエルは琥珀色の瞳を薄く開いて、小さく溜息を吐いた。
「……猫も溜息を吐くんですね」
「呆れているんじゃないでしょうか」
しげしげとロエルを観察するみちる。カイがストレートな言葉を放つ。
囲まれたロエルは、胴体を伸ばすように寝そべって顎を下げ、静かに目を閉じていた。もとから活発な性格ではないものの、元気を失っていることは誰の目にも明らかだった。
研究員はロエルの背後に回ると、栄養剤入りの水分を込めた注射器を構え、数秒のうちにロエルの背中へと注射する。ロエルは一瞬びくりと体を硬直させ、黒い耳先を震わせた。
「……暴れるかと思いましたが、大丈夫そうですね」
カイが意外そうに言い、笑理はカイの両手に注目する。早い段階で絆創膏を剥がした両手には、痛々しい傷跡が残っていた。
「それ、もしかしてあの猫にやられたわけ?」
せせら笑う笑理に、カイは、むっとするでもなく淡々と言った。
「あれから病院の方に話を聞いたのですが、どうもこの猫……ロエルは、以前の飼い主に大切にされていなかったらしく」
病院に近づいただけでも大変でした、と手をさすってみせるカイに、みちるが「もしかして、ノエルさんの傷も」と、ノエルの頬へ手を伸ばす。かさぶたにもなっていない裂傷は、皮膚がべろりとめくれているようだった。
「ロエルさんの経過観察のあいだに、こちらも修理しましょうか」
隣の研究室へと誘導するみちるに、ノエルは少しだけロエルを気にかけて振り向いた。
ロエルは前足に顔を乗せて、身じろぎもせずに眠っていた。
ロエルの治療とノエルの修理が終わり、研究所から出ると、雨はいっそう強くなっていた。篠突く雨、というのだろうか、降りしきる粒は地面を穿つような勢いだ。
コンクリートを濡らし一面を水浸しにする雨粒に、ノエルは鼻をひくつかせて空を見る。
「なんか、変な匂いがするな」
端整な顔を歪めるノエルに、カイも「ペトリコールでしょうか」と雨雲に目をやった。
カイに抱かれて、ロエルは顔を洗うようにひげを擦っていた。
傘をくるりと回し、瞳に雨を映しながら、ノエルは短く呟いた。
「そいつも、不良品だったりすんのかな」
「……ノエル」
咎めるような視線を送るカイに、ノエルは無機質に笑う。
そしてそれでも人らしい温もりを乗せた声で、彼はロエルの頭に手を置いた。
「オメーの病院嫌いが治んなくても、オメーがなにか病気持ってたとしても、捨てねーから」
……オメーは、悪くないからな。
雨を反射して光る目は、本当の人間のように優しい色を帯びている。
帰路に就きながら、ノエルは訥々と昔話を語った。
「オレができたばかりの頃には、周りにたくさんの科学者がいて、他の人形もいっぱいあったんだよな。いわゆる、兄弟? ってやつかも」
「……」
雨音の途切れない帰り道。世界から隔絶された傘の中、カイはノエルの声を遮らないように黙っていた。
「感情を持った人工知能の開発って、すげー難しいらしくてさ。ま、オレがいちばんの最高傑作って言われてるし、他のやつはほとんどみんな『失敗作』だったらしーんだよね」
他人事のように言いながら、ノエルは長い睫毛を瞬かせる。
「こないだ言ってた『リコール』と違って、研究所での失敗作は廃棄されるだけ……修理なんかされねーわけ。欠陥品にコストをかけるより、新しくもっと性能の良いやつ作った方が効率いいもんな」
無意識に撫でた頬の裂傷は、みちるの手によって綺麗に修復されていた。
引っ掻かれる前と何も変わらない、陶器のように滑らかな肌。どんな傷を負っても、決して血が流れることのない、作り物の白磁の肌だ。
「でもさー、他人に好き勝手作られた挙句、欠陥品だの失敗作だのって言われて廃棄処分とか、普通にムカつくよな。好きでそうできたわけじゃねーし」
笑ってロエルを覗き込むと、ロエルは大きく尻尾を振った。カイの差す傘から尻尾がはみ出て、大きな雨粒を弾いて揺れる。
「にゃっ」
カイは、ロエルの首根っこを掻きながら目を細めた。
「……ロエルを飼うとき、責任を持って世話できるのかと聞きましたね」
もう半月以上も前になる日を振り返り、ノエルの口から「懐かしーなー」と自然に声が漏れる。
カイはロエルを撫でながら言葉を重ねていった。
「生き物を飼うことの責任とは、その生き物が最期まで幸せであるよう全力を尽くすことだと、私は思います。……この猫は、あなたに拾われて良かったですね」
陽の差さない、薄暗い雨の中。耳をつんざくような土砂降りの音は、不思議と遠い世界のものに聞こえている。まるで、傘を中心に自分たちを守る膜が張られているような。
微笑みかけるカイの目は、どこまでも優しく、柔らかかった。
ノエルは気恥ずかしげに目を逸らして「……お互い様だろ」と呟き、その声もまた、雨に消されることなくカイとロエルへ聞こえていたのだった。
翌日。カイが仕事に出てから、ノエルは窓辺で眠るロエルを眺めていた。昨日より体調は悪くなさそうなものの、ロエルは変わらず排便する様子はなかった。
ノエルにはぴんとこないが、カイやみちるいわく、生き物は体内に毒素を溜め続けると死んでしまうこともあるらしい。
「……死ぬなよなー」
研究所で研究員がやっていたように、ロエルの腹部を柔く揉んでみる。真っ白な腹は、呼吸に合わせて規則的に上下していた。意識して触れると、硬くなにかが詰まっているような感覚もある。
ロエルは寝苦しそうに顔を背け、ゆっくりと起き上がった。前屈みになってえずき、周囲をぐるぐると歩き回る。また吐くのかもしれないと、ノエルは慌てて新聞紙を取りに走った。
床に新聞紙を広げ、なにかあればすぐ研究所に向かうつもりで準備をする。張り詰めた空気の中、ロエルは何かを吐き出したそうに何度もえずいた。
一人でいるのが急に心細くなり、もう研究所に行ってしまおうかとノエルが腰を浮かしかけた、そのときだった。
ロエルは自ら猫用トイレに入り、二、三度その場でくるくる回ると、ゆっくり腰を落ち着けた。
固唾を呑んで見守るノエルの目の前で、ロエルは実に数日ぶりに排便したのだった。
「……で、出てきたのがこれですか」
昼過ぎ、通常よりも早めに帰宅したカイは、報告のためにと取っておかれた猫用トイレの中身を覗いた。
猫砂をかけられた中に、糞便に混じって緑色の物体が見える。それは、細長い一本の植物だった。
カイは「ふむ」と指を唇に当てる。
「猫じゃらし、ですね」
「……こいつ、しょっちゅう食べてたもんな」
ロエルはすっかり回復したようで、ノエルに抱かれてけろりとした顔で喉を鳴らしている。
「毒性はないとありましたが、つい飲み込んでしまったのでしょうね」
それで便秘になっていた、と。
言葉にするとなんとも間抜けな顛末だが、清々しい面持ちで尻尾を揺らすノエルを見るうち、元気になっただけで一安心だと苦笑が漏れる。
「これからは、市販のオモチャで遊ばせるべきですね。散歩のときも気をつけないと」
「なんでもかんでも食うんじゃねーぞー」
二人にかわるがわる撫で回され、ロエルは「にゃん」と鳴き声を返す。
カイは、仕事帰りに買ってきたという大きな袋を開けた。
「ベッドにもなるキャリーバッグがあったので、これなら入ってくれるかと……」
紙袋から取り出されたのは、ドラム缶型のバッグだった。天井部分の蓋が開き、胴部分を伸縮させることで半ドーム型のベッドに変形する。蓋を開けて横倒しにすると、トンネルとしても使える仕様になっていた。
さっそく底面にクッションを敷き、ロエルの前に置いてみる。
ロエルは怪しそうにバッグ全体の匂いを嗅いで、前足でクッションを踏みしめ、その上にくるりと丸くなった。
カイがバッグを持ち上げて蓋を閉めてみると、ロエルはバッグの胴部分のメッシュ窓から外の様子をうかがい、数秒ほどで前足に顎を乗せてリラックスした体勢を取る。
バッグに付属している持ち手を持って室内を運んでみたが、暴れたり怯えたりする様子は見られなかった。
「すげーじゃん、全然びびってねーよ」
ノエルは瞳をきらきらさせて、メッシュの窓越しにロエルの鼻をつつく。
「これで、病院の方にも連れていけそうですね。……まあ、いざ院内に入れば、また暴れるとは思いますが」
バッグを下ろし蓋を開けてベッドタイプに変形させ、カイはロエルの頭を撫でておやつを与える。バッグに入ると良いものがもらえると思わせる手段だ。
「せっかくですし、今からこれを使ってお散歩にでも行きましょうか。途中でお昼ご飯を買って、公園に着いたらロエルをバッグから出してあげて……」
「そっか、これがあると一緒に出掛けられる場所も増えるのか」
午後からの計画に頬を緩め、ノエルはいそいそと外出の支度を始めた。
バッグごとロエルを連れて外に出ると、雨はいつのまにかやんでいた。長らく鬱々としていた梅雨の空は、爽やかな青に澄み渡っている。蒼穹には、半透明の虹が架かっていた。
「カイ、空になんかすげーものが……」
水溜まりに足を止めて見上げたノエルに、カイは「初めて見ますか」と微笑する。ノエルは嬉しげにバッグ内のロエルへと声をかけた。「見ろよロエル、綺麗なもんがあるぞー」
それを微笑ましい気持ちで見つめて、カイもまた、黒い瞳に鮮やかな七色を映した。
きっとこの先ノエルとロエルは、互いに様々な『初めて』を見つけ合っていくのだろう。それが彼らにとって良い影響を与え合うことができたらいいと思い、しかしその願いはもうほとんど叶っているのだと確信する。
猫のロエルと、人間のカイと、人形であるノエルと。
生きる時間の長さは違っても、できるだけ幸せな瞬間を共に過ごせるようにと願いながら、二人と一匹は青空に架かる虹の下を歩いていった。
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