世界その3:コール・リコール・ペトリコール
猫を迎えてから、あっというまに半月が経過した。
この二週間でノエルは一人でも猫の面倒をみられるようになり、カイが仕事に出ている間も、一人と一匹はそれなりに仲良く過ごしていた。
三毛猫の首に洒落たデザインの首輪をつけ、リードに繋いで、ノエルは猫を拾った場所でもある近所の公園へ散歩に出かけた。ときどきすれ違う人はリードに繋がれた猫を物珍しそうに見て、ノエルは少し得意な気持ちになった。
公園に到着すると、三毛猫はさっそくエノコログサの生えている辺りで草の匂いを嗅ぎ始めた。
カイの許可を得て散歩に出るようになってからまだ三日と経っていないが、三毛猫は必ずエノコログサを物色するのがお決まりだった。よっぽどこの草を気に入っているらしい。
「楽しいかー?」
猫の趣味は理解できないものの、コイツが楽しいならいいかとベンチに腰を下ろし、ノエルは三毛猫の後ろ姿を見た。
三色に染まった面白い色をしている丸い頭の下、新品の首輪には未だに名前が記されていない。一応、住所だけは書いているが、『なまえ』の欄が空白とは何とも寂しい感じだ。
「ん-、早く決めねーとなー」
ベンチの背もたれに寄りかかって空を見上げ、青空に向けてひとりごちる。
梅雨に入ってから久しぶりの晴天は、実に爽やかで気持ちの良い風が吹いていた。
「ソラ……クモ、チョウ……」
目に入ったものを片っ端から名前候補に挙げてみるが、どれもしっくりこないというか、どことなく腑に落ちない。
悩むノエルの足元で、三毛猫は自由気ままにエノコログサを堪能している。むしゃむしゃと口から穂先をはみ出させる姿に、ノエルは理不尽にも非難めいた視線を投げた。
「もう適当にクサとかでいっかな。なんか面倒くさくなってきた」
投げやりに呟いたノエルの脳裏に、しかしはっと一筋の光明が差す。
革新的なひらめき、というよりも単なる思いつきだったが、ノエルは「よっ」とベンチから立ち上がって、飽きずに草を咀嚼する三毛猫のリードを引いた。
公園から出た彼は、まるで幼い子どものように軽快な足取りで、自宅とは反対の方向へと歩を進めた。
ノエルが訪れたのは、彼の生家とも言うべき、とある組織の研究所だった。
特別に慕っている科学者は外出中のようだったが、所内ではノエルと顔馴染みの研究者たちが数人ほど、忙しそうに仕事に精を出していた。
正面玄関から猫同伴で踏み入ったノエルに、通りすがりの女性が驚いた声を上げる。
「の、ノエルさん。お久しぶりですね」
深い緑の長髪を持つ、気弱そうな顔立ちの彼女――並田みちるは、嬉しそうな笑顔でノエルを出迎える。
彼女はノエルが抱いている三毛猫に気付き、「それは……?」と恐る恐る身をかがめて顔を寄せた。
「これ、ちょっと前に公園で拾って、うちで飼ってんだよ。カイと一緒に世話してる」
「の、ノエルさんが、猫のお世話……ですか?」
驚愕と驚嘆が入り混じり、声を裏返したみちるに、ノエルが「なんか文句あんのかー?」と苛立った声音で返す。
みちるは「い、いえ、ただ……びっくりしました」と正直な感想を述べた。
「カイさんはともかくとして、人形であるあなたが他の生き物の面倒を見るというのは……。動物との触れ合いは、人工知能の情緒面の発達にどう関わるのでしょうか」
くぐもった声で思考を巡らせるみちる。相変わらず研究者としての気質が強いらしく、気を抜くとすぐ自分の世界に没頭してしまう。
話聞けよ、とノエルがどつこうとしたところに、もう一人の研究員が通りがかった。
みちると同じ白衣をまとい、しかし彼女とは対照的に勝ち気で食えない顔つきの女性――原井笑理は、ノエルの腕におさまっている猫を見て露骨に顔をしかめた。
「研究所に変なものをいれないでくれるかしら? あ、もしかして新しい実験体?」
嫌味っぽく口元を歪めて笑い、笑理はノエルの腕から三毛猫をつまみ上げる。
首輪に指をかけて首根っこを掴み、三毛猫の全身を見るや「なんだ、メスじゃない」と残念そうに呟く笑理。
「オスだったら高値で売れたのに」
「売らねーって。返せ馬鹿」
尻尾を逆立てる暇もなかった三毛猫は、真ん丸な瞳を大きく見開いて硬直している。ノエルは猫をひったくるように奪い返し、額に青筋を立てて笑理を威嚇した。
笑理は「あらまあ」とくすくす笑う。
「人工知能の人形が、随分と人間らしくなったものね」
無意味に挑発の言葉を重ねる彼女に、ノエルは反駁するように口を開く。生産性のない口喧嘩が交わされ、ノエルに抱かれた三毛猫は「……にゃあ」とみちるの方を見た。
この二人が憎まれ口を叩き合うのはいつものことで、せめて巻き込まれている三毛猫だけでも助け出そうと右往左往するみちるに、背後から突然の声がかけられる。
「……扉の鍵が開けっ放しですよ。不用心なことです」
「えっ、あっ、カイさん!」
みちるは肩を跳ねあがらせて振り向き、言い争っていたノエルと笑理も、カイの存在に一旦口論を中止する。
「いつ来ても騒々しいですね」
嘆息し、カイはさりげなく三毛猫の頭を撫でてノエルを見た。
「行先も言わずに出て……帰りが遅いので心配しました。どこで道草を食っているのかと」
「あー、こいつはマジで道端の草食ってたけど」
ノエルが三毛猫の口元をくすぐり、猫はひげを震わせて顔を逸らす。
「よく、ここに来ているとわかりましたね」
みちるの言葉に、カイは「他にあてがあるとも思えませんでしたから」と答えた。
「おおかた、名付けの相談にでも来ていたのでしょう」
「名付け?」
今度は笑理が不審な声で訊ね、ノエルが「あっそれそれ。忘れてた」と能天気に猫の首輪を見せた。首を傾けられた三毛猫が、「うにゃ」と居心地の悪そうな声で鳴く。
「コイツの名前、いいのが思いつかなくてさー」
「拾ってからだいぶ経ちますし、そろそろ病院へ連れていかなければいけませんからね」
カイの説明に、笑理はまたもや意地の悪い笑みで冗談を飛ばす。
「なんなら、ここで診てあげましょうか?」
「動物は専門外でしょう」
「生き物なんて中身はみんな変わらないわよ」
科学者としてあるまじき暴論だが、カイはそれを華麗にスルーして大仰な溜息をこぼす。
「なにか、良い案はないでしょうか?」
場の四人は、それぞれ違う方向に視線を投げて考え込んだ。
笑理は指の先端を擦り合わせて爪をいじり、みちるは眉を八の字に下げて必死に脳味噌を働かせている。ノエルは三毛猫とにらめっこするように顔を突き合わせ、カイは曲げた人差し指の関節を唇の下に当てていた。
各々が思い思いに猫の名前を考える中、当の三毛猫はひげをそよがせて呑気に欠伸をする。
やがて、みちるがおずおずと手を挙げた。
「あの……ロエルは、どうでしょう? ココ・ロエル」
その名を聞いて、真っ先にノエルがしかめ面で反応する。みちるは身振り手振りを使って言葉を付け加えた。
「み、皆さんも知っていると思いますが、ロエルとは、ノエルさんの完全体――人間としての名前です。負の感情だけでなく、セイの感情も持ち合わせた、今のあなたに相応しい名前……」
台詞の後半でノエルの目を見て、みちるは柔らかく口角を上げる。
「ノエルさんは、今の名前を気に入っているんですよね? それなら、ロエルの名前をこの猫に譲ってあげるのは……うぅ、だめ、ですかねぇ」
ノエルがどんどん無表情になっていく様に、気圧されたみちるの語気が弱まっていく。
けれど、ノエルは明るい色の瞳を何度か瞬かせて、「……いいじゃん」と小さく呟いた。
「うん、悪くねー……。テメーにしては良い案出すじゃん」
「ほ、本当ですかぁ?」
語感を確かめるように「ロエル、ロエル」と三毛猫を呼ぶノエルに、みちるもほっと胸を撫で下ろす。
「ま、父さんにもノエルって呼ばれる方が多いし。そっちの名前はこいつにあげてもいっかな」
「ふむ。……ノエルとロエルで、本当の兄弟のようですね」
カイも感心したように言って、笑理は「良いんじゃない? どうでも」と三毛猫から視線を外した。
「これで病院に連れていけますね。帰りがけに寄ってみましょう」
そう言ったカイに、「だってさ」とノエルが三毛猫の額をつつく。
すると猫は、病院という単語を理解したかのように耳を伏せて身をよじった。ノエルの肩に登ろうとし、スカーフに爪が引っかかりそうになる。
「あっ、ばか」
咄嗟にスカーフを庇うノエルに、カイが三毛猫を抱き上げて、逃げられないよう尻尾の先まで腕の中へ閉じ込めてしまった。
「では、診療時間が終わらないうちに行きましょうか」
低い声で鳴く三毛猫、あらためロエルをいさめながら玄関へ踵を返そうとするカイ。
ノエルは乱れたスカーフを整えて、みちるに声をかける。
「……ありがとう、ってやつ?」
「あら、どういたしまして」
みちるの隣に立つ笑理が胸を反らし、「オメーじゃねーっての」とノエルに舌打ちされる。
みちるは苦笑いで二人をなだめ、ノエルへ慈愛に満ちた笑顔を送った。
「……大切にしてあげてくださいね。命は有限ですから」
それを人形である自分に言うのかと複雑な心境になりつつ、ノエルは「おー」と片手を振る。
そしてノエルとカイは、ロエルを連れてアスナロの研究所を後にした。
研究所からの帰り道、二人は自宅の近所にある動物病院へ寄った。公園や研究所、千堂院家とは微妙に異なる方角にあったので、近くとはいえノエルもカイも初めて通る道だった。
診察券を発行してもらうついでに初診の予約まで入れるだけの予定だったが、数十分後の二人と一匹は、用事を済ませた全員が疲れ切った顔をしていた。
平日の午後で人通りの少ない道のりを、カイとノエルは我が家を目指して歩いている。
ノエルはロエルの名前が刻まれたカードを青空に透かし、それを唇に当てながらロエルを見やった。
ぶすっとした顔でカイに抱かれているロエルと、ロエルの爪で散々に引っ掻かれて傷だらけのカイを交互に見る。
両手に無数の傷を作ったカイは、眉を寄せて口を開いた。
「……まさか、ここまで反抗されるとは」
今日は診察券を作り、後日、健康診断をしてもらうための予約を入れるだけだったのだが、それにしてもロエルの嫌がり方は尋常ではなかった。病院の看板が見えた途端サイレンのように唸って暴れ出し、カイの腕で台風のように荒れ狂ったのだ。
ノエルが診察券を作るわけにはいかないので、一度カイはノエルにロエルを渡して、その際に二人とも手酷く引っ掻かれてしまった。カイの両手だけでなく、ノエルの頬にも大きな切り傷が出来ている。
ガラス越しに様子を見ていた病院のスタッフが出てきて、事情を話してカイだけが院内に入り受付を行った。診察券を発行してもらう傍ら、カイは簡単な手当てまで受けさせてもらった。厚意は純粋にありがたかったものの、カイとしてはノエルが血を流さないことに気付かれないかの方が心配だった。
ロエルは院内から出てきたスタッフが近づくだけで暴れたので、ノエルにはあまり近づかれずに済んだのが不幸中の幸いだったと言える。
健康診断の際は必ずキャリーケースに入れてきてくださいとスタッフに念を押され、二人は文字通りの満身創痍だったが、虐待かと思うほどに暴れていたロエルの方がひどく憔悴していた。
「ロエルは、ただの捨て猫ではなさそうですね」
「…………」
手を離せば脱兎の如く逃げ出してしまいそうなロエルを、絆創膏だらけの指で抱きすくめるカイ。ノエルも硬い表情で頬をさする。ぱっくりと深く裂けている頬は、カイとは違って一滴の血も滲んでいなかった。
「診察の日は、私もお休みをいただきますから。……ひとまず、普段はこの病院に近づかないようにしましょう」
「……ん。散歩のときも気をつけねーと」
診察券をしまい、ノエルの声はどこか空虚に響いた。
かける言葉を見つけられず、カイも顔を曇らせることしかできなかった。
予約を入れたのは、ロエルを拾ってからちょうど三週間目になる日の午後だった。
その日も前日から雨が降っていて、窓の外に響く雨音が、懐かしい光景を呼び起こす。あの出会いから随分と長く一緒にいる気がしていた。
窓辺で体を横たえて眠るロエルに、ノエルも隣で寝転びながら頬杖をついていた。
「雨の日は暇だよなー。オメー用にレインコート? 買ってもらうか」
わざとらしく大きな声で呟くと、テーブルで作業しているカイが「……来月まで我慢してください」と返答する。ただでさえ今月は出費が多く、病院の初診料の額も、まだはっきりとはしていない。
ノエルは退屈そうに寝返りを打って、ロエルの鼻先にエノコログサを当てた。いつもならば嬉々として飛びついてくるというのに、ロエルはちらりとノエルを一瞥したきり、力なく尻尾を振るだけだった。
「……やっぱり、今日行くってわかってんのかな」
あえて「病院」という単語を伏せるノエルに、カイも心配そうな顔をする。
「大人しく入ってくれると良いのですが……あの場所を嫌う動物は、キャリーケースを出しただけで察して逃げることもあるそうです」
動物の病院嫌いについてパソコンで調べ、カイは購入したばかりのキャリーケースを出した。
ノエルは、寝ているロエルの脇に手を差し込んで持ち上げてみる。しかしロエルは、キャリーケースを見るなり尻尾の毛を逆立てて唸った。
カイは急いでキャリーケースを引っ込め、元あった部屋の隅に避難させる。予想していたことではあったが、事態は思った以上に深刻そうだ。
「……困りましたね」
これでは、予定の診察時間に間に合わないかもしれない。
時計を確認して、カイは固定電話から動物病院に連絡を取った。数回のコール音の後、電話に出た受付スタッフと思しき女性が病院の名前を告げる。
カイが手短にロエルの様子を説明すると、スタッフの方もすぐに、先日病院前でロエルが暴れた件を思い出したようだった。
そして彼女は、ロエルについて『もしかすると、なのですが……』と意味深に声を潜めた。
この二週間でノエルは一人でも猫の面倒をみられるようになり、カイが仕事に出ている間も、一人と一匹はそれなりに仲良く過ごしていた。
三毛猫の首に洒落たデザインの首輪をつけ、リードに繋いで、ノエルは猫を拾った場所でもある近所の公園へ散歩に出かけた。ときどきすれ違う人はリードに繋がれた猫を物珍しそうに見て、ノエルは少し得意な気持ちになった。
公園に到着すると、三毛猫はさっそくエノコログサの生えている辺りで草の匂いを嗅ぎ始めた。
カイの許可を得て散歩に出るようになってからまだ三日と経っていないが、三毛猫は必ずエノコログサを物色するのがお決まりだった。よっぽどこの草を気に入っているらしい。
「楽しいかー?」
猫の趣味は理解できないものの、コイツが楽しいならいいかとベンチに腰を下ろし、ノエルは三毛猫の後ろ姿を見た。
三色に染まった面白い色をしている丸い頭の下、新品の首輪には未だに名前が記されていない。一応、住所だけは書いているが、『なまえ』の欄が空白とは何とも寂しい感じだ。
「ん-、早く決めねーとなー」
ベンチの背もたれに寄りかかって空を見上げ、青空に向けてひとりごちる。
梅雨に入ってから久しぶりの晴天は、実に爽やかで気持ちの良い風が吹いていた。
「ソラ……クモ、チョウ……」
目に入ったものを片っ端から名前候補に挙げてみるが、どれもしっくりこないというか、どことなく腑に落ちない。
悩むノエルの足元で、三毛猫は自由気ままにエノコログサを堪能している。むしゃむしゃと口から穂先をはみ出させる姿に、ノエルは理不尽にも非難めいた視線を投げた。
「もう適当にクサとかでいっかな。なんか面倒くさくなってきた」
投げやりに呟いたノエルの脳裏に、しかしはっと一筋の光明が差す。
革新的なひらめき、というよりも単なる思いつきだったが、ノエルは「よっ」とベンチから立ち上がって、飽きずに草を咀嚼する三毛猫のリードを引いた。
公園から出た彼は、まるで幼い子どものように軽快な足取りで、自宅とは反対の方向へと歩を進めた。
ノエルが訪れたのは、彼の生家とも言うべき、とある組織の研究所だった。
特別に慕っている科学者は外出中のようだったが、所内ではノエルと顔馴染みの研究者たちが数人ほど、忙しそうに仕事に精を出していた。
正面玄関から猫同伴で踏み入ったノエルに、通りすがりの女性が驚いた声を上げる。
「の、ノエルさん。お久しぶりですね」
深い緑の長髪を持つ、気弱そうな顔立ちの彼女――並田みちるは、嬉しそうな笑顔でノエルを出迎える。
彼女はノエルが抱いている三毛猫に気付き、「それは……?」と恐る恐る身をかがめて顔を寄せた。
「これ、ちょっと前に公園で拾って、うちで飼ってんだよ。カイと一緒に世話してる」
「の、ノエルさんが、猫のお世話……ですか?」
驚愕と驚嘆が入り混じり、声を裏返したみちるに、ノエルが「なんか文句あんのかー?」と苛立った声音で返す。
みちるは「い、いえ、ただ……びっくりしました」と正直な感想を述べた。
「カイさんはともかくとして、人形であるあなたが他の生き物の面倒を見るというのは……。動物との触れ合いは、人工知能の情緒面の発達にどう関わるのでしょうか」
くぐもった声で思考を巡らせるみちる。相変わらず研究者としての気質が強いらしく、気を抜くとすぐ自分の世界に没頭してしまう。
話聞けよ、とノエルがどつこうとしたところに、もう一人の研究員が通りがかった。
みちると同じ白衣をまとい、しかし彼女とは対照的に勝ち気で食えない顔つきの女性――原井笑理は、ノエルの腕におさまっている猫を見て露骨に顔をしかめた。
「研究所に変なものをいれないでくれるかしら? あ、もしかして新しい実験体?」
嫌味っぽく口元を歪めて笑い、笑理はノエルの腕から三毛猫をつまみ上げる。
首輪に指をかけて首根っこを掴み、三毛猫の全身を見るや「なんだ、メスじゃない」と残念そうに呟く笑理。
「オスだったら高値で売れたのに」
「売らねーって。返せ馬鹿」
尻尾を逆立てる暇もなかった三毛猫は、真ん丸な瞳を大きく見開いて硬直している。ノエルは猫をひったくるように奪い返し、額に青筋を立てて笑理を威嚇した。
笑理は「あらまあ」とくすくす笑う。
「人工知能の人形が、随分と人間らしくなったものね」
無意味に挑発の言葉を重ねる彼女に、ノエルは反駁するように口を開く。生産性のない口喧嘩が交わされ、ノエルに抱かれた三毛猫は「……にゃあ」とみちるの方を見た。
この二人が憎まれ口を叩き合うのはいつものことで、せめて巻き込まれている三毛猫だけでも助け出そうと右往左往するみちるに、背後から突然の声がかけられる。
「……扉の鍵が開けっ放しですよ。不用心なことです」
「えっ、あっ、カイさん!」
みちるは肩を跳ねあがらせて振り向き、言い争っていたノエルと笑理も、カイの存在に一旦口論を中止する。
「いつ来ても騒々しいですね」
嘆息し、カイはさりげなく三毛猫の頭を撫でてノエルを見た。
「行先も言わずに出て……帰りが遅いので心配しました。どこで道草を食っているのかと」
「あー、こいつはマジで道端の草食ってたけど」
ノエルが三毛猫の口元をくすぐり、猫はひげを震わせて顔を逸らす。
「よく、ここに来ているとわかりましたね」
みちるの言葉に、カイは「他にあてがあるとも思えませんでしたから」と答えた。
「おおかた、名付けの相談にでも来ていたのでしょう」
「名付け?」
今度は笑理が不審な声で訊ね、ノエルが「あっそれそれ。忘れてた」と能天気に猫の首輪を見せた。首を傾けられた三毛猫が、「うにゃ」と居心地の悪そうな声で鳴く。
「コイツの名前、いいのが思いつかなくてさー」
「拾ってからだいぶ経ちますし、そろそろ病院へ連れていかなければいけませんからね」
カイの説明に、笑理はまたもや意地の悪い笑みで冗談を飛ばす。
「なんなら、ここで診てあげましょうか?」
「動物は専門外でしょう」
「生き物なんて中身はみんな変わらないわよ」
科学者としてあるまじき暴論だが、カイはそれを華麗にスルーして大仰な溜息をこぼす。
「なにか、良い案はないでしょうか?」
場の四人は、それぞれ違う方向に視線を投げて考え込んだ。
笑理は指の先端を擦り合わせて爪をいじり、みちるは眉を八の字に下げて必死に脳味噌を働かせている。ノエルは三毛猫とにらめっこするように顔を突き合わせ、カイは曲げた人差し指の関節を唇の下に当てていた。
各々が思い思いに猫の名前を考える中、当の三毛猫はひげをそよがせて呑気に欠伸をする。
やがて、みちるがおずおずと手を挙げた。
「あの……ロエルは、どうでしょう? ココ・ロエル」
その名を聞いて、真っ先にノエルがしかめ面で反応する。みちるは身振り手振りを使って言葉を付け加えた。
「み、皆さんも知っていると思いますが、ロエルとは、ノエルさんの完全体――人間としての名前です。負の感情だけでなく、セイの感情も持ち合わせた、今のあなたに相応しい名前……」
台詞の後半でノエルの目を見て、みちるは柔らかく口角を上げる。
「ノエルさんは、今の名前を気に入っているんですよね? それなら、ロエルの名前をこの猫に譲ってあげるのは……うぅ、だめ、ですかねぇ」
ノエルがどんどん無表情になっていく様に、気圧されたみちるの語気が弱まっていく。
けれど、ノエルは明るい色の瞳を何度か瞬かせて、「……いいじゃん」と小さく呟いた。
「うん、悪くねー……。テメーにしては良い案出すじゃん」
「ほ、本当ですかぁ?」
語感を確かめるように「ロエル、ロエル」と三毛猫を呼ぶノエルに、みちるもほっと胸を撫で下ろす。
「ま、父さんにもノエルって呼ばれる方が多いし。そっちの名前はこいつにあげてもいっかな」
「ふむ。……ノエルとロエルで、本当の兄弟のようですね」
カイも感心したように言って、笑理は「良いんじゃない? どうでも」と三毛猫から視線を外した。
「これで病院に連れていけますね。帰りがけに寄ってみましょう」
そう言ったカイに、「だってさ」とノエルが三毛猫の額をつつく。
すると猫は、病院という単語を理解したかのように耳を伏せて身をよじった。ノエルの肩に登ろうとし、スカーフに爪が引っかかりそうになる。
「あっ、ばか」
咄嗟にスカーフを庇うノエルに、カイが三毛猫を抱き上げて、逃げられないよう尻尾の先まで腕の中へ閉じ込めてしまった。
「では、診療時間が終わらないうちに行きましょうか」
低い声で鳴く三毛猫、あらためロエルをいさめながら玄関へ踵を返そうとするカイ。
ノエルは乱れたスカーフを整えて、みちるに声をかける。
「……ありがとう、ってやつ?」
「あら、どういたしまして」
みちるの隣に立つ笑理が胸を反らし、「オメーじゃねーっての」とノエルに舌打ちされる。
みちるは苦笑いで二人をなだめ、ノエルへ慈愛に満ちた笑顔を送った。
「……大切にしてあげてくださいね。命は有限ですから」
それを人形である自分に言うのかと複雑な心境になりつつ、ノエルは「おー」と片手を振る。
そしてノエルとカイは、ロエルを連れてアスナロの研究所を後にした。
研究所からの帰り道、二人は自宅の近所にある動物病院へ寄った。公園や研究所、千堂院家とは微妙に異なる方角にあったので、近くとはいえノエルもカイも初めて通る道だった。
診察券を発行してもらうついでに初診の予約まで入れるだけの予定だったが、数十分後の二人と一匹は、用事を済ませた全員が疲れ切った顔をしていた。
平日の午後で人通りの少ない道のりを、カイとノエルは我が家を目指して歩いている。
ノエルはロエルの名前が刻まれたカードを青空に透かし、それを唇に当てながらロエルを見やった。
ぶすっとした顔でカイに抱かれているロエルと、ロエルの爪で散々に引っ掻かれて傷だらけのカイを交互に見る。
両手に無数の傷を作ったカイは、眉を寄せて口を開いた。
「……まさか、ここまで反抗されるとは」
今日は診察券を作り、後日、健康診断をしてもらうための予約を入れるだけだったのだが、それにしてもロエルの嫌がり方は尋常ではなかった。病院の看板が見えた途端サイレンのように唸って暴れ出し、カイの腕で台風のように荒れ狂ったのだ。
ノエルが診察券を作るわけにはいかないので、一度カイはノエルにロエルを渡して、その際に二人とも手酷く引っ掻かれてしまった。カイの両手だけでなく、ノエルの頬にも大きな切り傷が出来ている。
ガラス越しに様子を見ていた病院のスタッフが出てきて、事情を話してカイだけが院内に入り受付を行った。診察券を発行してもらう傍ら、カイは簡単な手当てまで受けさせてもらった。厚意は純粋にありがたかったものの、カイとしてはノエルが血を流さないことに気付かれないかの方が心配だった。
ロエルは院内から出てきたスタッフが近づくだけで暴れたので、ノエルにはあまり近づかれずに済んだのが不幸中の幸いだったと言える。
健康診断の際は必ずキャリーケースに入れてきてくださいとスタッフに念を押され、二人は文字通りの満身創痍だったが、虐待かと思うほどに暴れていたロエルの方がひどく憔悴していた。
「ロエルは、ただの捨て猫ではなさそうですね」
「…………」
手を離せば脱兎の如く逃げ出してしまいそうなロエルを、絆創膏だらけの指で抱きすくめるカイ。ノエルも硬い表情で頬をさする。ぱっくりと深く裂けている頬は、カイとは違って一滴の血も滲んでいなかった。
「診察の日は、私もお休みをいただきますから。……ひとまず、普段はこの病院に近づかないようにしましょう」
「……ん。散歩のときも気をつけねーと」
診察券をしまい、ノエルの声はどこか空虚に響いた。
かける言葉を見つけられず、カイも顔を曇らせることしかできなかった。
予約を入れたのは、ロエルを拾ってからちょうど三週間目になる日の午後だった。
その日も前日から雨が降っていて、窓の外に響く雨音が、懐かしい光景を呼び起こす。あの出会いから随分と長く一緒にいる気がしていた。
窓辺で体を横たえて眠るロエルに、ノエルも隣で寝転びながら頬杖をついていた。
「雨の日は暇だよなー。オメー用にレインコート? 買ってもらうか」
わざとらしく大きな声で呟くと、テーブルで作業しているカイが「……来月まで我慢してください」と返答する。ただでさえ今月は出費が多く、病院の初診料の額も、まだはっきりとはしていない。
ノエルは退屈そうに寝返りを打って、ロエルの鼻先にエノコログサを当てた。いつもならば嬉々として飛びついてくるというのに、ロエルはちらりとノエルを一瞥したきり、力なく尻尾を振るだけだった。
「……やっぱり、今日行くってわかってんのかな」
あえて「病院」という単語を伏せるノエルに、カイも心配そうな顔をする。
「大人しく入ってくれると良いのですが……あの場所を嫌う動物は、キャリーケースを出しただけで察して逃げることもあるそうです」
動物の病院嫌いについてパソコンで調べ、カイは購入したばかりのキャリーケースを出した。
ノエルは、寝ているロエルの脇に手を差し込んで持ち上げてみる。しかしロエルは、キャリーケースを見るなり尻尾の毛を逆立てて唸った。
カイは急いでキャリーケースを引っ込め、元あった部屋の隅に避難させる。予想していたことではあったが、事態は思った以上に深刻そうだ。
「……困りましたね」
これでは、予定の診察時間に間に合わないかもしれない。
時計を確認して、カイは固定電話から動物病院に連絡を取った。数回のコール音の後、電話に出た受付スタッフと思しき女性が病院の名前を告げる。
カイが手短にロエルの様子を説明すると、スタッフの方もすぐに、先日病院前でロエルが暴れた件を思い出したようだった。
そして彼女は、ロエルについて『もしかすると、なのですが……』と意味深に声を潜めた。