世界その1:Upward compatible

 梅雨入り前の太陽は、穏やかな光で辺りを照らしていた。淡い水色の空に、半透明の薄雲がまだらに散っている。
 あてもなく近所をぶらついて、ノエルは自然と商店街近くの公園に辿り着いていた。商店街には何度も二人で出かけたことがあり、おかげでノエル一人でも買い物に行けたのだが、この公園に足を踏み入れるのは初めてだった。
 休日には家族連れで、夕方頃には学生や子どもたちで活気に満ち溢れている公園は、平日の昼下がりには誰の姿も見当たらない。
 ノエルは無人の園内を横切り、濃い青のペンキで塗装されたブランコに腰を下ろした。彼は成人に近い体躯をしているが、細身なおかげで、子供向けに作られている遊具にも無理なく体を収めることができた。
 座った瞬間ぎしっとなにかの軋む音がしたものの、ところどころ少しだけ錆びている鎖で吊るされた一枚の板は、存外しっかりとノエルの体重を受け止めた。
 爪先で地面を蹴る。ブランコは前後に揺れて、ノエルの目に映る景色もゆらゆらと揺れ動いた。
 揺れに合わせて遠く、近くなる風景をぼんやりと眺めながら、ノエルはアスナロの研究室にいた頃を思い出していた。

 偉大な科学者である『父さん』と、何人もの研究者たちの手で自身が形作られたのは、もう何年前のことだろうか。
 作り物でありながら感情や意思を持つ、高度な人工知能を搭載した人形。そんな自分が完成したとき、研究室の人間たちがひどく喜んでいたことを覚えている。
 それは父さんも例外ではなくて、生まれたばかりのノエルは、満足げな父の姿を見て初めて喜びの感情を実感したものだった。主に嫉妬や劣等感といった負の感情ばかりを組み込まれていたが、ノエルが父に抱く感情は紛れもなく好意だった。
 だけどある日、彼は研究室で眠る他の人形の存在を知ってしまった。
 幸福感や高い自己肯定感を持つ人形。慈愛や博愛といった優しさを強く持つ人形。暴力性に特化した人形もいれば、人間に奉仕するあまり自己犠牲さえ抱えている人形もあった。
 それぞれ多種多様な感情――役割をプログラムされた人形に驚くノエルへ、偉大な科学者である父は言った。もっとも人間に近く、人間らしさが凝縮されている感情とは何か。
 研究の結果、父はそれを劣等感や嫉妬心だと結論づけたらしい。人形たちはノエルを残して解体された。
 再利用できるパーツ以外、すべて廃棄処分に回った人形の残骸を見ながら、ノエルはひそかな優越感に浸った。
 人形たちはどれも同じような見た目をしていたが、中身はどれも違っていた。そして、中でも特別に素晴らしく、優れたものとして選ばれたのがノエルだ。
 着せ替え人形の肩書きを与えられたノエルは、自分が今までに生み出された人形たちの上位互換であると知った。
 高度な思考力、知性を備えているのは当然として、さらに「もっとも人間らしい感情」までプログラムされているのだ。
 廃棄された他の人形たちを憐れむ気持ちは毛頭なく、自分が最高傑作であることがひたすらに自尊心を満たしていった。
 だからこそ、自分よりも優れているものの存在が許せないのだろうか。
 千堂院の人間がカイに贈ったものを見て、ノエルは腹の底が沸騰する感覚に襲われた。不快感と焦りで熱くなった胸とは対照的に、脳内は瞬発的な虚しさでからっぽになっていた。
 ああ、なんだ。もう貰ってたのか。しかも、オレがあげたのより出来が良さそうなやつ。良かったじゃん。
 良かったじゃん。あのとき自分がそう言えなかったのは、やはり強い嫉妬心が作用しているからだろう。
 それに付随する劣等感で押し潰されそうになり、ノエルはブランコの鎖をぎゅっと握る。この体には、自己嫌悪の感情までプログラムされているのだろうか。
 これからどうしようか。地面に視線を落としていると、唐突に足音がした。足音は徐々に近づいて、ノエルは訝しげに顔を上げる。
「……ここにいましたか」
 目の前には、カイの姿があった。表情はいつも通りで、怒りや軽蔑といった負の感情はないように見える。
 カイはノエルの座るブランコの前に立ち、「ふむ」と口元に指を当てた。
「そういえば、お昼ご飯は食べましたか?」
「……まだ、だけど」
 目を逸らしたノエルに、「だと思いました」とカイは小さな紙袋を取り出した。
「あなたの好きなお店のサンドイッチです」
 受け取って、ノエルは膝の上に紙袋を置いた。中身のサンドイッチは出来立てらしく、膝がじんわりと温まっていく。
「……帰って、家で食べますか?」
 訊ねる声を無視して、ノエルは無表情でカイを見上げた。
「オメー、料理得意じゃん」
 強気な口調とは裏腹に、ノエルの瞳は不安定に揺れていた。渦は巻いていないものの、かすかに瞳孔が開いている。
 それをわかっていて、カイは大きく頷いた。
「そうですね。たいていのものは作れますし、味も悪くないと自負しています」
「……じゃあ、こうやってオレが、オメー以外のやつが作ったものを美味いっていうのは、むかついたりしないわけ?」
 ブランコの鎖を抱くように腕を回し、膝の紙袋を握るノエル。握られたところが、くしゃりと深くしわになった。
 カイはもう一度口元に指を当てて考え込み、「……そうですね。そればかり食べたいと言われたら複雑かもしれませんが、ときどきなら」と、たいして気にしていないそぶりを見せた。
 納得のいかない顔で「……ふーん」と呟いたノエルに、カイは補足するように言葉を重ねる。
「私が作る料理は、食べてくださる方のことを考えて作るものですし、お店の方が作る料理は、やはり食べてくださるお客さんのことを考えて作られているものでしょう。そこに優劣はありませんから」
 優劣という単語に、ノエルの指に力が入る。紙袋はしわだらけになって、雑貨店のロゴが歪む。
 カイは、独り言のように続けた。
「千堂院家の方々の真意も、ノエルの思っていることも、私には想像することしかできません。しょせんは他人ですから、相手の考えていることを完全に理解するのは不可能でしょう」
 言って、カイの目がノエルを正面からとらえた。目まぐるしく変化するノエルの目とは反対に、柔らかく澄んだ瞳だった。
「けれど、好きなものや大切なものは、いくつあっても困らないものですよ。そして、どれがより優れているかなどと価値を決めるのは、あまり意味のないことです」
 一呼吸挟み、カイは困ったように苦笑する。
「どれだけ似たものであっても、まったく同じというものはありませんから……比較するだけ無駄でしょう」
 心の内を見透かすような言葉をかけられて、しかしノエルはなおも食い下がった。ここまでくると半ば意地になっていた。
「でも、オレがあげたやつより千堂院から貰ったやつの方が、高そうだった」
 唇を尖らせるノエルに、カイが「贈り物は値段じゃありません。旦那さんとあなたでは、資本力が違いすぎますし」と身もふたもない返答をする。
 しばらく反論の材料を探していたノエルだったが、なんだかそれも馬鹿らしくなってきた。
「…………悪かったよ」
 うつむき、聞こえるか聞こえないかの声量で呟いたノエルを、「謝られるようなことは、なにも」と、カイの優しい声が包む。
 ノエルは膝の紙袋を手に持って立ち上がった。鎖の擦れる音が鳴り、ブランコは反動で大きく揺れる。
「なんか疲れたし、帰って飯でも食うか。オメーは昼飯どうすんの?」
「私は、いただいた調理器具でさっそくなにか作ろうと思います」
 すかさず「オレがあげたやつ先に使えよ」と牽制するノエル。「しょうがないですね」笑みを漏らしながら、カイも質問を投げる。
「あなたも、料理を作ってみますか?」
「はー? 料理?」
 ノエルは嫌そうに顔をしかめて、「人形が飯なんか作れるかよ」とだけ返した。カイが「おや」と露骨に目を丸くする。
「味覚や嗅覚も私たちと同程度にあるようですし、不可能ではないと思いますよ」
「……じゃあ、まあ、考えとく」
「ふふ、楽しみにしています」
「考えるだけだっつーの」
 怒るノエルにカイが「わかっていますよ」と返して、騒々しく歩くうち、二人は自宅へと戻ってきた。
 手を洗い、台所のテーブルに着いて、ノエルは紙袋の中からサンドイッチを取り出した。熱は冷めてしまっているが、焼けたパンの香ばしい匂いが鼻孔を刺激する。
 ノエルは両手でぎゅっと潰したサンドイッチに大口を開けてかぶりつき、口いっぱいに詰め込んで咀嚼した。美味しいと素直に思うことは、カイの手料理を否定することではないのだと、今ならはっきりと理解できる。
 ノエルがはみ出たレタスやハムを落とさないように格闘している中、カイは調理台の棚に立てているレシピ本を開いて、なにを作るか悩んでいた。
「せっかくですし、私もホットサンドを作りましょうかね」
 ノエルの食べているサンドイッチを見て、ぱらぱらと本をめくる。
 ノエルは「オレの分もよろしくー」と要求し、「あなたはそれがあるでしょう」とカイにたしなめられる。
「いいじゃん。好きなものは、いくつあってもいいもんなんだろ?」
 いたずらっぽく笑った彼に、カイはやれやれとレシピ本を開いた状態でテーブルに置いて、戸棚から食パンのストックを出した。冷蔵庫からは卵やバターを出し、ノエルに贈られたフライパンをコンロに乗せる。
 ふとカイは、「あなたにも、今度お礼をしなくてはいけませんね」とノエルの方を振り向いた。
「お、なんかくれんの?」
 見つめ返すと、カイは至極真面目な顔で答えた。
「エプロンなんてどうでしょう。油が跳ねても平気なように」
「……オメー、オレに料理させたいだけだろ」
 渋るノエルに、カイはフライパンにバターを滑らせながら言う。
「あなたと料理をするのも、楽しそうだと思っただけです」
 ちらりと横目で様子をうかがえば、ノエルは椅子から降りてカイの隣に立ち、手元のフライパンを覗き込んでいた。熱されたバターは、ふつふつと泡立って溶け始めている。
 ノエルは両手を後ろで組んでカイを見た。
(自分で料理ができるようになっても、オレに飯、作ってくれるよな)
 そんな問いかけは口にするのも恥ずかしい気がして、黙って流しで手を洗う。カイがにこりと微笑んで、ノエルに野菜を出してほしいと指示をした。
 時間をかけて一から手順を教えられながら、ノエルは淡々と調理の説明をするカイの横顔を盗み見る。傍目には無表情だが、声のトーンや目つきから上機嫌なことがわかる。
 カイは比べることに意味はないと言っていたが、自分の作る料理がカイの『特別』になったらいいなと、そう思うノエルの心は不思議なほどに凪いでいた。
 それが他者との比較から解放された、唯一無二だからこその感情であると気付くのは、当分先のことになりそうだった。
2/2ページ