そして刃は錆びついた
そんなセイがボクに謝った? カイの頭にハテナマークがいくつも浮かんで、セイはイライラを隠そうともせずしきりに片足で床を踏み鳴らしていた。
切った髪を受け止める役割の新聞紙が、セイにリズム良く踏まれてがさっ、がさっと音を立てる。オレンジの髪が揺れて舞い、カイは控えめにセイを注意した。
「う、動くなってば。変な段差とかできても知らないぞ」
「……」
セイはぱたりと足の動きを止め、嫌味のように押し黙って唇をへの字に曲げている。
面倒を起こしたのは確かにカイの方だが、セイだって充分に大人げない。そこまで考えて、カイは、セイも自分と同じようにまだ子どもだということに思い当たった。
「……」
なんとも言えず黙してセイの髪を切り続け、室内にはハサミの擦れる細やかな音だけが反響する。不思議と、先ほどのような緊張や恐れは知らないうちに薄まっていた。
それから十数分ほどで、カイによるセイの散髪もどうにか無事に終わった。セイは肩に落ちた髪を鬱陶しそうに払い落とし、鏡がないので手触りだけでヘアスタイルの状態を確認する。随分と頭が軽くなった気もするが、癖がついて伸びているところは長めのままだった。
上着を脱いでばさばさと髪の毛を振り落とすセイに、新聞紙をまとめようとしていたカイが眉を寄せる。「ちゃんと箒で掃けよ」言われたセイは、シャツ姿で気だるげに首を傾げてしかめ面で返した。「オメーがチリトリな」言って、部屋の用具入れから掃除道具を出す。
髪の散らばった新聞紙をまとめて、カイがしゃがんでチリトリを持ち、セイが箒で無造作に辺りを掃いていく。
「あっ、そこ、そこにも落ちてる」
「うるせーなー……こまけーところはいいだろ、べつに」
「こら、ゴミを隅っこに寄せて隠すなっ」
カイは「ボクが箒をやる」と腰を浮かせたが、セイの「なんでオレがオメーにひざまずかなきゃいけねーんだよ」の声で押し切られる。
結局、気になる埃や髪の取り残しはカイが素手で拾ってチリトリに収めた。ゴミ箱は見当たらなかったので、廊下に出て共用のゴミ捨て場まで持っていく。
後片付けを済ませて時計を見ると、夕食の時間まであと少しといったところだった。
ガシューは、もう戻ってきているだろうか。考え、カイは隣のセイをちらりと見やる。オレンジ色の頭髪は、途中から刃こぼれしたハサミで切ったせいか、やはり少々がたついて見えた。
お父様には、自分から言いだそう。セイにおちょくられたからだと言い訳するのも、かえってみっともなさが増すだけだ。気が重く、足取りも重く感じられたが、彼はハサミやクシを収めた道具箱を手にセイを促した。
「お父様は、研究室かな」
「たぶんなー。怒られねーといいけど」
セイは衣服のしわを伸ばして襟元も正し、カイの後をついて廊下に出た。
鍵はセイが施錠して、二人はガシューがいることの多い研究室へと向かった。
研究室へ続く階段を上りきると、ちょうど別の廊下から歩いてきたガシューと鉢合わせた。ガシューはカイとセイを見つめ、研究室の鍵を開ける手を止めて二人に向き直った。
「終わったか」
カイが頷き、セイは必要以上に大きな声で答えた。
「ん、まだ鏡で見てねーんだけど、どう? カイのやつ、ちゃんと上手く切れてる?」
訊かれたガシューは、つかつかとセイに歩み寄って、彼の頭部を一周するように眺め回した。セイはガシューに文字通り目をかけられてご満悦だが、傍で見ているカイは内心、心臓が落ち着かなかった。
ガシューは「ふむ」と呟いて姿勢を直立に戻す。
「少し段差のついている部分はあるが、素人の仕事にしては綺麗なものだろう」
思いのほか悪くない評価に、カイの両肩から力が抜ける。
そして次にガシューが自分へと目を留めるより早く、おずおずと前に一歩出て道具箱を胸の前へと掲げた。
「あの……お父様。ボク、梳きバサミを落としてしまったんです。だから、それでセイの髪が少しがたついてしまって」
本当はもっと綺麗に整えられるはずでした。すみません、と頭を下げる。
カイの差し出した道具箱から梳きバサミを取り出し、ガシューはセイに、事の真偽を確かめるように視線をやる。セイは「あー」と頬を掻いて同意した。
「まー、そいつがハサミ落としやがったのは本当だけど。オレもそいつにちょっかいかけすぎたからさー……でも、ちゃんと謝ったよ」
ガシューの目がカイの方へ振り向くと、カイはこくこくと首肯した。黒目がちの瞳には、「本当です、信じられないですけどセイが謝ってくれました。本当に信じられないですけれど」という心情が書いてあるようだった。
「……そうか」
いったい二人のあいだにどんなやりとりがあったのか。
想像することさえ困難で理解の難しいことではあるが、おおむねそう悪い状況にはならなかったらしい。ガシューは「ならば良い」と言って、カイの頭髪もきちんとチェックした。こちらも、以前より短くはなっているが、むしろこざっぱりとしてお偉方からの印象も悪くはないだろう。
ガシューは、昨日よりもそれなりに身綺麗になった二人へ平坦な声で告げる。
「二人とも、今日の仕事は充分に果たしたようだな」
セイは「慣れないことさせられて肩が凝っちゃった」と冗談めかした顔つきで言ったが、カイの方はまだ自分に不満が残っている様子で、前髪の下の顔を曇らせていた。
ガシューはカイへ「ハサミのことは気にしなくていい。安物の備品だ」と声をかけ、改めて研究室の鍵を開けながら二人に入室するよう促した。
カイはハサミそのものではなく、自分の仕事の不完全さにうなだれていたのだが、
「入んねーなら閉めるぞー」
容赦なく扉を閉めようとするセイに、慌てて顔を上げ室内へと体を滑り込ませた。
ガシューはカイから受け取った道具箱と鍵をテーブルの上に置いて、部屋の奥に設置されている冷蔵庫から小さな箱を取り出した。カイとセイはもう見ただけでわかる。馴染みのケーキ屋の箱だ。
「わ……いいんですか? 今日は訓練も半分しかやっていないのに」
遠慮がちなカイに、「慣れない作業の報酬だ」と無機質に返すガシュー。
「またティラミスかな……」
ガシューに聞こえない声量でぼやいたセイを、カイが肘で軽くどつく。
「文句があるなら、お前の分もボクが食べるからな」
脇腹に肘を当てられて、セイは無感情にカイを見つめ返した。
「お前じゃねーだろ、『おとうと』」
「……」
カイは、嫌悪感を隠そうともせずに顔を歪めて言い直す。
「……『おにいちゃん』なら、なおさら好き嫌いは良くないだろ」
今度はセイも露骨に不機嫌な表情を作り、二人はケーキの箱を開ける前から、またしてもつまらない小競り合いを繰り広げようとする。それは仲良しなどとは決して呼べない、互いに相手を毛嫌いしているのが見え見えの喧嘩だ。
しかしガシューには、二人のあいだに前よりもよほど遠慮の壁がなくなったように思えてならなかった。子どもは打ち解けるのが早いと、斜めの方向に感心しながら二人の喧嘩を眼差しだけで仲裁する。
「ケーキは夕食の後だ。奪い合いせずとも、二人分用意してある」
冷蔵庫の扉を閉めて言うガシューに、神妙に口をつぐんだ二人が目線だけで意思の疎通を図る。(取り合いしてたわけじゃないんだけどな……)珍しく意見が一致したが言葉にはせず、二人はガシューと連れ立って研究室を一旦、後にした。
その日は夕食後にケーキを食べ、基本的に代わり映えしない施設での「一瞬の非日常」としてカイとセイの記憶に刻まれた。
結局、予定にあったお偉方との顔合わせは実現せずに日々は過ぎていった。
数日、数週間、数カ月が経ち、日常が流れるのに合わせて二人は何度も互いに互いの髪を切り合った。二度目の散髪では口喧嘩の加減を覚えると、三度目にはやかましく軽口を叩きながらも自身の感情をコントロールするのが非常に上手くなっていた。
気付けば二人ともカットの技術と同じくして、相手の怒りを買ったり買わなかったり、買ったところで刃物を手にしていても殺気を収められるだけの度量が自然と身についていた。
そうして季節が一巡りする頃には、涙ながらに本心をぶつけ合う「本音での喧嘩」も済ませていて、セイは無邪気に笑いかけてくるようになったカイを見ながら、懐かしい過去へと思いを馳せる。
いつだったか、ガシューは当時の「お偉方との顔合わせ」も「用事」も、二人の距離がもっと縮まればとの思いで画策してのことだったと種明かししてくれた。
なんだよそれ、と拍子抜けしたものの、セイもカイも妙な可笑しさでしばらく笑っていた。
それでいて、セイはあの日カイに謝ったときの心境を、ずっとカイ本人に説明できずにいた。不承不承ながら律儀に自分を「おにいちゃん」と呼び続けるカイへ、我ながら大概、大人げない態度をとっていたものだ。
思い、セイは自らの握る刃物を見下ろして、その刃に映る自分の顔を見据えた。あの頃から外見的にはさして変わっていないが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなったと自覚する。
彼は美しく研がれたハサミを手に、自分へと背を向けるカイの黒髪へハサミの刃先を差し込んでいった。
年に数回ある午後の散髪。
穏やかに微笑むカイの長髪を、セイの持つハサミがすっと通っていく。
「……もう、だいぶ手慣れてきたね」
言いながら少々くすぐったげに目を細めるカイへ、「これだけ定期的にやってればなー」と返して刃先を動かすセイ。
「最初、あんなに殺気立ってたのが嘘みたいだ」
カイは遠く見る眼差しで言って、セイが不服げな声で異議を申し立てる。
「殺気立ってたのはお前だけだっつーの」
「セイだって、ずっと喧嘩腰だっただろ」
言い合いのテンポは変わらないが、二人のあいだに流れる空気は仲睦まじい兄弟間のそれだ。たいして尾を引かない口喧嘩をやめ、セイがわざと大人ぶった口調で笑う。
「ま、あの頃はガキだったからなー」
カイは、思わず吹き出して破顔した。
「そんなに昔じゃないし、それに今も子どもだろ」
言葉を交わすうち、カイの髪のカットが終わり、彼はセイと場所を交代して梳きバサミを持つ側になる。研ぎに出すとまた問題なく使えるようになった例のハサミは、もはや二人の時間に欠かせない愛用品となっていた。
刃を何度か開いたり閉じたりして、カイは目の前にあるセイの丸い後頭部を眺めた。頭部、耳、うなじ、首筋。どれも刃物で傷つけられれば致命的な大怪我を負う人体の弱点だ。
「他人に急所をさらすなんて、今でも考えるだけでぞっとするけど」
ささやくように呟いたカイ。セイはもぞもぞと首周りの髪を整えて、カイが切りやすいように流してくれる。
「オメー髪の量が多いから、伸ばしっぱなしにしたらすげーもじゃもじゃになりそう」
うねる長髪を伸ばしすぎて、毛玉のようになったカイを想像し笑うセイ。
そして彼は、少しだけ振り向いてカイへ懐っこい笑顔を向ける。
「ま、カイの髪はこれからもオレが切ってやればいいだけの話だろ」
「……セイの散髪の腕も、まだまだ発展途上だからなー。これからも頑張ってもらわないと」
生意気を言って笑い返したカイに、セイが「オメー、いつかぜってー丸刈りにしてやるからな」と小突く真似をする。
「ほら、動かないで」「わーってるよ」
カイはセイの髪を指で梳き、伸びた毛先を少しずつ丁寧に切り落としていく。
刃の音がこんなに心地良く思えるなんて、と、セイは奇妙な気持ちで目を閉じた。
ナイフだろうとハサミだろうと、刃物は人を傷つける道具に過ぎない。その切っ先は痛いくらいに鋭利で、冷たくて、そこに映る自分もまた無機質に光を反射するだけの存在だったはずだ。
それがこんなに優しいひとときの象徴になるとは、きっとこの世界の誰も想像し得なかったことだろう。
感慨深く気を緩めているセイに、カイがハサミを動かしながら言う。
「そういえば、お父様が言ってた今度の外出。どこに行くかはまだわからないけど、その前に散髪の時間をとれて良かったね」
最近は朝から夜までずっと訓練漬けだったから、と続けるカイに、セイも「そうだなー」と軽い調子で同意した。
「父さんと一緒に歩くんだ、みっともない格好じゃまずいだろ」
「あ、セイにもみっともないとかそういう意識はあったんだ? あんまり見た目に頓着しないかと思ってた」
「……喧嘩なら買うぜ? 上から下まで墨を塗ったくったような見た目してるくせによー」
「支給されてる制服だからしょうがないだろ。あ、外で新しい服とか買えないかな……」
尽きることのないお喋りの声は、朗々と響いて彼らを明るく包み込んでいる。
こんな時間も悪くはないと――冷たいだけではない刃のきらめきを目に、セイもカイも子どもらしく屈託のない表情を見せていた。
刃の擦れる音はどこまでも爽やかに小気味良く。
……二人の縁が切れる日までの日常を、丁寧に繊細に切り取っていった。
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