そして刃は錆びついた


 鍵を使って扉を開くと、そこは小ぢんまりとした倉庫といった空気感だった。普段は閉めきられているのか少々埃っぽい。よくわからない荷物が山積みになっていて、広さは訓練室の半分の半分といったところだ。
 壁際の机には、梳きバサミやクシの入った道具箱が置かれている。床には半畳より少し広めに新聞紙が敷かれていて、その上の椅子を引いたカイは、「……どっちが先にする?」とセイに訊ねた。
「んー、オレがオメーのを先に切る。トレーニングが終わったばっかりで、オメー体力戻ってないだろ? そんなんで刃物持たせるとか怖すぎだし」
「っ、そんなことない、ボクだって……」
「はいはい、いいから座れって」
 セイはカイを強引に椅子へ座らせて、それから道具箱をがちゃがちゃと漁った。やや大きめな梳きバサミを持ち、無意味に何度か切る真似をする。
「ナイフより切れ味悪そうだなー」
「……絶対に髪以外は切るなよ。刺すのも駄目だからな」
 警戒心を剥き出しにするカイは、それでもちょこんと椅子に座って、歯痒そうに身を硬くしていた。
「オメー、オレのことなんだと思ってんだよ。……まあ、じっとしてねーと手が滑っちまうかもしんねーけど」
 言いつつもセイはカイの首筋にそっと手を当て、とりあえずどう見ても長すぎる毛先に刃を入れる。しゃき、と小気味良い音が響き、カイはびくりと目を閉じかけた。
 セイは手探りで感覚を掴むようにハサミを動かして、一応は慎重に切ってくれているらしかった。ガシューからの命令とあっては無下にすることもできないのだろう。
「せっかくだし、坊主にしてやろうかー?」
「……普通でいい。切りすぎるなよ」
「生意気だなー」
 小競り合いのように言葉を交わしながら、カイの黒髪が床に敷かれた新聞紙へぱらぱらと落ちていく。少しするとセイは早くもコツを掴んだようで、あまり恐れのない手つきでリズミカルに髪を切り進めていった。
 やけくそで適当に切ってるんじゃないだろうな――思いつつも、カイはじっと息を潜めていた。この時間が一刻も早く終わるように、身じろぎもせず置き物のように身を強張らせている。しゃきん、しゃきんと刃の擦れる音がすぐそこで聞こえるのが落ち着かない。
 ましてや、ハサミを握っているのはセイなのだ。リラックスしろという方が無理だろう。
 膝の上で拳を握り、息を詰めるカイ。呼吸さえ止めているような彼の挙動に、セイが少々苛立った面持ちで声をかけた。
「……あのさぁ。そんなあからさまに硬直されると、こっちとしてもすげーやりづらいんだけど」
 言われて、カイも眉間に深くしわを刻みながら言い返す。
「そんなこと言われたって、刃物を持った他人に急所を見せてるんだから、緊張するのは当たり前だろ。これでも我慢してるんだから、文句言うなよ」
 普段よりは多少控えめだが、刺々しさの抜けきっていない物言い。
 セイは、むっとしてカイの髪を強く引っ張った。「痛い、引っ張るな」カイの抗議に、「こっち側の毛先揃えるから、ちょっとだけこっち向け」と冷たい声音で告げる。
 しぶしぶ体の向きを少し調整するカイ。
 カットを再開して、セイは不機嫌に訊いた。
「我慢してるってなんだよ」
「…………」
 セイの声は、カイを威圧するように責めていた。心なしか、彼が操るハサミの音までもが、より鋭く攻撃的になったような気さえする。
 カイは、少しの気まずさに目を伏せながら答えた。
「……殺気とか、出ないように。反射で抵抗しないようにしてるんだよ。わかるだろ?」
 今度はセイが黙る番だった。
「…………」
 セイは少しのあいだ口を閉ざして指先だけを動かし、そして唐突に、カイの耳すれすれに刃先を当てた。耳の皮膚に刃が触れそうな気配を感じて、カイは両の拳を爪が食い込むほど強く握り込んだ。
「――っ」
 体中の神経が張り詰め、心臓は鼓動が外に聞こえないか心配になるくらい暴れ回る。害意や殺意へ敏感に反応するよう仕立て上げられた心身は、常日頃から敵とみなしている存在に、壊れた非常ベルの如き警報を鳴らしている。
 それでも、嫌々ながらでも同じ「お父様の息子」として付き合っていかなくてはいけない。だからカイは必死の思いで耐えた。
 額に汗を滲ませているカイの姿を見て、セイはかえって心の余裕を取り戻したようだった。彼はカイの耳辺りに忍ばせたハサミを、すっと引いて横髪のカットへ切り替えながら口を開く。
「まあ、弱い奴は常に気を張ってねーとすぐやられちゃうもんな。弱者なりの『生き延びる術』ってやつだよなー」
 わざとらしく明るい口調で笑う彼に、カイが怒気を孕んだ声で応えた。
「お前、本当そういうところだからな……」
 拳を握って激情を押し殺す彼は、これも感情をコントロールする訓練の一環だと思ってひたすら耐え忍ぶことに徹する。
 一方のセイはあっけらかんとして言葉を紡いだ。
「オレもお前のこと大嫌いだけどさ。オメーもオレのことが殺したいくらい嫌いで、そうやって嫌い合ってるオレたちがこうして一緒に作業させられてるんだから、そりゃ弱い方は緊張するに決まってるよな」
 清々しいほど淡白に述べたセイへ、カイがぎょっとした表情になる。
「こ、殺したいなんて、べつに……」
「そう? オレは、オメーのこと殺したいくらい大嫌いだけど」
 丁寧に繰り返して、セイは「父さんの実の息子ってだけで贔屓されてるし」と口にする。
 それにはカイも反論する気になれず、彼は黙ってうつむいた。贔屓されているとは思えないが、セイの怒りは「父さんの実の息子」という部分に向いているのだと、なんとなく感じ取っていた。
 後ろ髪のカットが終わったと言い、セイはカイの正面に回った。彼はカイの前髪に手を伸ばして、指先で髪の毛束を挟みながら少しずつ繊細にハサミを動かしていく。カイは、切られた髪が目に入らないよう大人しく目を瞑っていた。
 しばらくすると、セイは「終わったぞ」と言って梳きバサミを机の上に置いた。「あー疲れた、指いてー」大袈裟に指を揉む彼に促され、カイは恐る恐る自分のうなじへと触れてみる。若干短い気がしないでもないが、そこそこ良い塩梅で整えられたようだ。指通りの良い髪は全体的に量が減って、これなら訓練の際も邪魔にならないだろう。
 椅子の下に敷いてある新聞紙には、切り落とされた黒髪がわさわさと広がっていた。カイは立ち上がって肩や服についた毛を落とすと、こぼさないよう気をつけながら新聞紙を小さく折りたたむ。机の上にはもう一組の新聞が置いてあり、それを広げて新しく椅子の下に敷いた。
「じゃ、次はオレな。ミスすんなよー」
 言うが早いか、セイは横柄な態度で椅子に腰を下ろす。カイが刃物を持っていようが、何も気にならないといった風の振る舞いだ。そんなのたいした脅威にもならないと言われているようで、カイは少しだけ唇を噛んだ。
 セイと話していると、些細なことでも感情を逆撫でられがちだ。自らの攻撃性がセイに向かないよう気を張る必要がある。これも訓練、訓練と心の中で唱えるカイに、しかしセイはまた飄々とちょっかいをかけてくる。
「言っとくけど、変な動きしたら半殺しだからなー」
「……全殺しじゃないのか」
「……父さんに怒られたらやだし」
 セイの声がワントーン低くなり、彼は「さっさとやれよ」とそっぽを向いた。
 カイは(本当によくわからないやつだな……)と苛立ちながら梳きバサミを構える。刃物といえど片方がコームになっている梳きバサミは、思っていたよりも扱いやすそうで内心ほっとする。それでも、うっかり髪以外に刃が当たらないよう注意深くセイの毛先へと滑り込ませていく。
「変な切り方しやがったら、四分の一殺しだかんな」
「なんだよ、四分の一殺しって……」
「半分の半分だよ」
「それくらいわかる。っていうか喋りかけるな、黙ってろよ」
 しょうもない応酬をしつつ、ハサミは軽快な音を立ててセイの頭髪を切り揃えていく。彼の髪はカイよりも細めで、そのうえ元の髪形はだいぶさっぱりとした短髪のため、綺麗にカットするのは難しい仕事のように思えた。ついでに言うと見本となる写真があるわけでもないので、カイはセイと初めて会ったときの姿を思い出しながら一生懸命にハサミを動かした。
「…………」
 出会ったばかりの頃、セイはうなじに沿うような短髪をしていたはずだ。道具箱の中に、さすがにカミソリはなかった。ひとまずシルエットだけでも近づけていこうと、コーム部分も駆使して、オレンジ色の髪を着実に短くしていく。
 思えばセイは、初対面の時分から失礼で無遠慮な人間だった。「甘えてんのウケるなー」とカイを笑ったり、会って間もないガシューに「オレの方が優秀だって」と媚びを売ったり。カイが額に青筋を立てた回数は、手足の指を使っても到底足りないほどだ。
 つい余計なことまで思い出してしまい、カイは沸々と湧き上がる怒りをどうにか腹の底にとどめ置いた。当然と言えば当然だが、セイと初めて知り合った日から今日まで、セイの顔を見て悪感情を抱かなかったことはほとんどない。
「オメー、しっかり集中しろよなー」
 心の波を見透かしてか、セイが顔は正面を向いたままで声を投げてくる。
 カイは取り繕うように「うるさいって言ってるだろ」と返した。これ以上苛立つと手元に余計な力が入ってしまう。
 それでもセイは黙らなかった。彼は、ふと意地の悪い笑みを浮かべてカイに問いかけた。
「もしかしてさ、オレのこと、マジでそのハサミで傷つけてやろうとか思ってる?」
 違う。むしろ逆だ。どんなにムカつくやつでもむやみやたらと傷つけちゃいけないし、万が一怪我をさせたらお父様にきつく叱責されるだろうし。叱られるだけならまだしも、落胆されたらと思うと身の置き場がなくなるような心細さに襲われる。
 カイが弁解する隙もなく、セイはけらけらと嘲りの声を立てる。牽制ではなく、侮りの嘲笑だった。
「だったら杞憂だぜー。オメーが武器を持っててオレが素手だろうが、急所さらした状態でオメーに不意打ちされようが、オレの方が『優秀』な『おにいちゃん』なんだからな」
 二つの単語を強調して言うセイは、「ハンデにもなんねーって」と付け足して少しだけカイの方を振り返った。その瞳は挑発的な色を帯びていて、カイは自分の喉がぐっと詰まる感覚に奥歯を噛みしめた。
 梳きバサミを持つ手が、冷たく固く持ち手を握り込む。
 ほんのわずかな一瞬。セイの瞳からおふざけの色が消え、それでカイは自分が殺気を放っていることを自覚した。そもそも他者へ明確な殺意を覚えたことすら初めてで、自分が強烈な憎悪に憑りつかれたようになっていると気付いた瞬間。彼は自分自身への恐怖で息を呑んだ。
 この手に握っている刃物の先を、無防備なうなじの中心に突き刺して。
 皮膚を破り、肉を抉り、悪意の塊となった刃が喉まで貫通する。そんな凄惨なシーンを想像して、物言わぬ骸となったセイが地面に倒れる姿までもが一瞬で脳内を駆け巡る。
 妄想でしかないはずの光景は、生々しくも一枚の写真の如く脳裏に焼き付いた。
「っ、」
 呼吸を乱して、カイは眩暈と同時に梳きバサミを取り落とした。金属質な音がけたたましく響く。やけに耳障りだが、なぜだか視界は遠くぼやけていくようだった。
 ふらついた足でたたらを踏み、頭を振ってもやを晴らそうとするカイ。
 セイは、足元に落ちたハサミを拾い「あーあ」と軽い声音で言った。
「刃こぼれしてら。父さんに怒られるぜー」
「……、……」
 カイは、顔面蒼白になって何も答えられなかった。
 さしものセイも、いつものノリを抑えて多少心配してやるそぶりでカイの顔を覗き込む。
「なんだよ、貧血かー? これだからひょろひょろは……」
 言いながら、二つの意味でカイの顔色をうかがうセイに、カイも少しだけ正気を取り戻してかぶりを振る。彼は浅く息を吐き、深く息を吸って、再び深く息を吐いた。
「…………ごめん。手が滑った」
 微妙に声を震わせて謝ったカイに、セイは意外そうな顔つきでハサミを渡してやる。
「へー。オメー、謝罪とかできたんだな。二度目はねーぞ」
「……」
 軽薄かつむかっ腹の立つ言い草は相変わらずだが、カイは手汗を服の裾で拭いて梳きバサミを受け取った。刃は、セイの言った通り数ミリ程度欠けて少しへこみができていた。
 セイの髪を指先で押さえ、けれどカイの手は強張っていた。指から血の気が失せてしまったようで、上手に力を込めることができない。かといって力めばセイの髪ががたつくどころか、無意識にも本当に怪我をさせてしまうかもしれない。
 戸惑い、無駄に時間を消費するだけのカイに、セイは目を細めて閉口する。
 ややあって、彼は「あーもう、めんどくせー『おとうと』だなー」と盛大に嘆息した。
「……さっきのは、オレも悪かったかも。…………悪かったな」
 静かな室内にぽつり。棒読みに近い発音で、言葉尻は消えかけだったが、セイの声は確かにカイの耳に届いた。
 セイの素直な謝罪に、カイはハサミを持ったまま「…………えっ?」と呆けた声を出した。
 あのセイが謝った? 自分の非を認めて?
 ごめんなさいとは言わないまでも、よりによってカイ相手に「自分も悪かった」と。幻聴だろうか?
 目を白黒させて狼狽するカイ。セイが、あまりにもわかりやすい反応に頬へ怒りのマークを貼り付ける。
「オメーがいつまでもびくびくしてっからだっつーの! ぼーっとしてねーで、早く終わらせねーと父さんが帰ってきちまうぞ」
 怒号を飛ばすとカイはびくりと肩をすくめ、セイは足の爪先で床を叩いてカイを急かす。
 カイは、驚きつつも気を取り直して梳きバサミを再度滑らせた。
 セイに謝られるなんて、まさに驚天動地、青天の霹靂に等しい異常事態だ。理不尽にカイを虐げることが趣味としか思えない彼の傍若無人さは、これまでに嫌というほど味わわされている。
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