そして刃は錆びついた


 よく研がれた刃物は、あらゆるものをあっさりと切り裂いて断ち切ることができる。
 まるで蜃気楼のように手応えもなく。肉だろうと骨だろうと、薄っぺらい紙切れさながらに一刀両断できてしまう。それは少年にとって非常に都合の良い武器だった。
 他人に傷を負わせる感触なんて、わざわざ味わいたいと思うものではない。自分の一挙手一投足が他者を害するときの罪悪感は、時の流れで薄まることはあっても、初めからなかったことには決してならないのだ。
 人を傷つけるという実感の軽い、鋭く研ぎ澄まされた刃。そんな使い勝手の良い武器を手にしても、少年にはどうしても殺せない相手がいる。技術的には殺せるのに、殺してはいけないと定められている人間。精神的にはきっと、他の誰を殺すより、後ろめたさなど抱かなくて済むであろう人間。
 少年が短い人生のうちでもっとも殺意を覚えているその人間に、しかし少年を取り巻く世界は「彼と仲良くしなさい」と囁くのだ。よりにもよって、いちばん嫌いで憎悪すらしている相手だというのに。
「……バカみてーだな。っていうかバカか」
 世の理不尽に溜息を吐いて、少年は自らの握る刃に視線を落とす。
 一点の曇りもなく磨かれたナイフは、人工的で無機質な光を帯びている。
 見つめる少年の瞳もまた、つまらなさそうな色をしていたが、彼の横顔を知る者は誰一人として存在しなかった。

「はぁ、はぁっ」
 呼吸を乱し、体勢を整えることに精一杯な黒髪の少年。
 相対するオレンジ頭の少年は、額に汗の玉を浮かべてはいるが、黒髪の彼に比べて幾分か余裕を保っていた。太陽が焦げたような橙色の瞳は、むしろ冷ややかに黒髪の少年を見据えてくすぶっている風にも見える。
 黒髪の少年は、対峙する少年をぎらついた瞳で睨んだ。闘志は衰えていない様子だが、その気迫とは裏腹に、彼の構えるナイフには少し曇りが見えた。何度も単調な刺突を繰り返したせいだ。
「くそ、……このっ!」
「ばーか。当たらねぇぜー」
 彼があらん限りの殺気を込めて刃を突き出すたび、オレンジ頭の少年は飄々と身をひるがえし攻撃すべてを見事にかわした。黒髪の少年が持つナイフは、攻撃対象の衣服だけをかすめて徐々に輝きを失っていった。
 オレンジ頭の少年が持つナイフは、新品同様にぴかぴかと光っていた。鏡の如く研磨された刃は、少年たちの対照的な横顔を鮮やかに映している。
「くっ……、動くなっ!!」
 無茶苦茶を言って、なおも追撃の刃を振るう黒髪の少年。
 オレンジ頭の少年は、鼻先すれすれをかすめた刃を寸でのところで避けきった。そして呆れた物言いで嘆息する。
「テメー、動作が大振りなくせ思い切りが足りないんだよ。下手な鉄砲、数撃ちゃ――とでも思ってんのか?」
「うるさいっ!」
 黒髪少年の怒号が部屋中に響き、強く握り込まれたナイフが音もなく眼前へ迫る。
 再び迫りきた凶刃を事もなげに回避して、オレンジ頭の少年は自分の握っているナイフから緩く手を離した。持ち手のグリップを半回転させ、手元に引き寄せながら深く握り直す。逆手に持ったナイフの柄を、あえて外側に向ける。
 彼はナイフの刃先が自分自身に当たらないよう注意しつつ、硬い柄の部分を黒髪少年の脇腹へ容赦なく叩き込んだ。
「ぐ、っ!」
 衝撃の瞬間、わずかながら攻撃の芯を外したらしい。黒髪の少年は息を呑んで地面に倒れ込み、けれども最初から見越していたかの如く柔らかにくずおれる。衝撃を受け流す型としてはケチのつけようもない美しさだ。
 受け身をとる術はやたらと上手い彼の技巧に、オレンジ頭の少年はしかめ面で舌打ちをする。的確に勢いを殺された刃は、相変わらず曇りのない状態でケースに納められた。
 彼は、正面の黒髪少年にすら聞こえないほど小さな声で鬱憤を漏らす。
「……本当、バカみてーなお遊びだよな」
 所詮は人殺しの道具でしかないこの刃で、ムカつくこいつを殺す許可さえもらえたら。
 物騒な考えを胸に、唇を歪めて苛立ちをあらわにする。地べたに座り込んだ黒髪の少年は、殴られた脇腹をさすりながら悔しげに顔をしかめていた。
 息も切らさず仁王立ちしている少年と、なんとか立ち上がり呼吸を整える少年。二人のもとに、審判役の男が歩み寄ってくる。
 彼は持っているストップウォッチを止め、二人を見下ろし試合結果を告げた。
「セイが三点、カイが二点。今日もセイの勝ち越しだな」
 二人とも実力がついてきてるぞ、と嬉しげに語る男。
 しかしセイと呼ばれたオレンジ頭の少年は、喜ぶどころか不満だらけの顔つきで文句をつけた。
「センセー、もうこいつじゃオレの相手になんないよ。ほとんどオレに勝ったことないし」
「な、なんだとっ」
 こいつ呼ばわりで侮辱された黒髪の少年、カイは眉を吊り上げてセイに怒鳴る。肩をいからせ憤るカイに、セイはそっぽを向いて面倒そうに呟いた。「ほんとのことだろー」
 思わず口元からぎりぎりと歯軋りの音まで立てるカイ。
 審判の男、二人に稽古をつける先生でもある彼は、二人ともをたしなめるようにして会話へ割って入った。
「試合は終わったんだ、無駄な喧嘩をするんじゃない」
「でも、セイが」「だって、こいつが」
 こういうときばかり声を揃えて互いを責め合う二人。
 先生と呼ばれる男は、どちらに肩入れすることもなく首を振った。
「セイは戦闘のセンスこそあるが、カイ相手だと慢心するところが良くない。今回も一応、二点は取られてリーチだっただろう?」
「だって、殺すのは駄目ってルールじゃん。手加減とか難しいんだって」
 ――カイが相手なら尚更だ。という本音は胸の内に留め置き、セイはじろりとカイを睨みつける。
 次に先生は、カイにも厳しい眼差しを向けた。
「カイも、積極性は評価できるようになったが、決め手に欠けるところは以前と変わっていない。体力勝負に持ち込めるほどフィジカルは強くないだろう」
「……はい」
 渋々と、だがセイに比べてずっと素直に頷くカイだったが、
「オレよりテメーの方が総合的に劣ってんだからなー? 体力だけじゃなくて敏捷性とか、ナイフの扱い方とか、とどめを刺すときの集中力とか、」
「し、しつこいぞ! 口を挟むな!」
 指折り数えるセイに横槍を入れられ、いとも簡単に激昂してしまう。
 またしても低レベルな口喧嘩を始めた二人。
 先生は額に手を当てる嘆きのポーズをとって、わざとらしく嘆息し。
「……お前たち、少しは仲良くできんのかっ!」
「いたっ!」「あいてっ!」
 二人より遥かに身の丈が大きく、筋肉量もある成人男性の、武骨でストレートな鉄拳制裁がカイとセイの頭蓋に直撃する。
 もろに拳骨を食らった二人はしばし悶絶し、その日の訓練は先生からの説教をもって締めくくられたのだった。

 数十分に渡る説教から解放され、片付けも終わった頃には、すでに夕食の時刻が差し迫っていた。アスナロの施設は人員が多いせいかスケジュールに厳しく、決められた時間から少しでも遅れると一切の温情なしに食事抜きが決定する。
 訓練室から退出した二人は、双方むっつりと押し黙って早歩きで食堂へと急いでいた。
 施設の通路周辺に、人の気配は感じられない。時間の感覚が鈍くなりがちな屋内でも、なんとなく一日の終わり特有の静けさがある。セイとカイは競うような早足で廊下を歩き、競歩でもしているかのようなスピードで歩を進めていた。
 食堂まであと少し。こいつより0.1秒でも先に着いてやるという意地の張り合いは、広間の方から歩いてきた人影によって中断される。
「カイ、セイ。いまから夕食か」
 低く落ち着いた、男性の声。
 二人はちょうどのタイミングで足を止めて、声の主へと顔を向ける。
「父さん」「お父様」
 口を開くタイミングまで一致して、互いに横目でじろりと睨み合う。
 二人の父親である科学者――ガシューは、手だけを組んだ直立不動の姿勢で立っていた。白衣を身につけていないところを見ると、研究や実験ではない仕事をしてきたらしい。
 一分の隙なく厳格な雰囲気をまとうガシューへ、セイは即座にカイを指差して言い放つ。
「こいつのせいで稽古が長引いたんだよ」
 一方的に悪評を広められ、カイも感情のままセイに噛みついた。
「なっ、セイだって先生に怒られただろ!」
「オメーの方が怒られてたしー。オレには愛の鞭ってやつだし?」
「なにが愛だ、バカバカしい!」
 騒々しく罵り合う二人を見つめて、ガシューはしばし無言で彼らを観察する。日頃から自由気ままに振る舞っている様子のセイはともかく、大人しい性格のカイがここまで声を荒らげることは滅多にない。というより、カイはセイに対してだけ激情を抱くことが多いように見受けられた。
「……ふむ」
 何事かを一人で納得したかのように頷いて、ガシューは二人の姿越しに食堂へと視線をやった。
「二人とも、夕食を食べ損ねるぞ」
 すたすたと食堂へ向かうガシューに、言い争っていた二人は我に返って喧嘩をやめる。彼らは慌ててガシューを追いかけ、相手を押しのけるようにして食堂に入っていった。
 食堂のテーブルは、ほぼ空席で、やはり職員の大半はすでに夕食を終えているらしい。セイとカイが入り口側の席に座り、ガシューは二人の正面に腰を下ろすことができた。
 さして時間を要さず受け取ったトレーを手に、三人は珍しくも親子全員が揃った夕食の席に着く。合掌の後、カイが控えめながらどこか弾んだ声で笑みを見せた。
「お父様も遅い夕食ですね。お仕事お疲れさまです」
「研究員の補充が間に合っていないようでな。計画の進捗によっては、他所から新たな人材を引き抜くしかなさそうだ」
「ああ、前にいた研究員さんは辞めてしまったんでしたか」
 短い食事時の隙間を縫うように、食べながらでも近況報告の会話を交わす二人。つい最近ここへ来たばかりのセイは、二人の話についていけず不機嫌に目を逸らしていた。
 不意に、ガシューは話題を切り替えてセイとカイの両方に言った。
「お前たち、明日の午後についてだが」
 言われて二人は食事の手を止める。明日の午後は、今日と同じく先生に稽古をつけてもらう予定だ。基礎トレーニングの後で、時間が余れば先ほどと同様の手合わせをする。
 そういや先生の説教中、これ以上喧嘩をするなら、当分手合わせは禁止だとかなんとか言われたっけ。セイはぼんやりとしか覚えていない叱責の言葉を思い出し、カイも微妙に気まずげな面持ちで口をつぐんでいた。
 ガシューは二人の表情の機微にも気付いていない様子で、淡々と話を続けた。
「今度、お前たちが組織の上層部と顔を合わせる機会が用意されるかもしれなくてな。そうなったら、お前たちにも相応の身繕いをしてもらう必要がある」
 身繕い。セイが反芻するように呟き、カイは思わず自分の身だしなみを確認した。訓練終わりで髪はぼさぼさに乱れ、衣服もそこそこ汚れている。お偉方に会うのならば、もう少し身だしなみに気を遣うべきだろう。上層部の人間に会うなんて初めてのことだが、父の印象を悪くするわけにはいかない。
 そしてセイも、佐藤家に加わってからさほど時間は経っていないが、当初より少し髪が伸びてきている。もとがすっきりした短髪だったこともあり、それに比べれば随分と手入れがされていない風体に見えた。
「……」
 気付けばうなじを隠すほどになっているオレンジの頭髪を見て、カイは密かに(明日の訓練で、髪を引っ張ってやろうかな)などと策略を立てた。ついでに自分の髪もすっかり長くなっていることに気付き、明日の訓練では久しぶりに髪を縛ろうかと思い至る。
 ガシューは、二人の顔を見ながらあくまでも事務的な口調で先を続けた。
「着替えはこちらで用意するとして……お前たち、だいぶ髪が伸びただろう。散髪は私が行おうと思っていたのだが、あいにく暇がなくなってしまった」
 一旦言葉を打ち切り、何度か咳払いをするガシュー。仰々しい仕草は、なにやら非常に言いづらい台詞の切り出し方に迷っている風でもある。
 訝しげな顔のセイとカイに見つめられ、彼は結局、端的な言葉を言い放った。
「明日は日課の訓練後、空いた時間でお互いの散髪を済ませておくように。出来栄えの報告は、私の帰宅後に受け付ける」
「「……へっ?」」
 セイとカイの声が、綺麗にユニゾンして一本の声になる。二人は人形じみて大きな瞳でぱちくりと瞬きした。
 いつのまにか二人より先に食事を終えていたガシューは、それ以上なにを言うでもなく立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、父さん」「意味がわかりません」
 すがるように言い募る二人を置いて、「準備だけはしておこう」と言い残し、さっさと食堂から出ていってしまう。
「……」「……」
 置き去りにされた格好の二人は、呆然と口を半開きにして顔を見合わせた。
 どちらかが言葉を発するより先に、あと五分で食堂を閉鎖する合図のチャイムが鳴る。
「……意味わかんねー、冗談だろ」
 セイは忌々しげに吐き捨てて夕食の残りをかきこみ、カイも「こっちの台詞だ」と眉間にしわを寄せたまま慌ただしく食事を終える。
 この件に関しては口喧嘩も不毛なだけだと悟り、あえて二人は一言も口をきかずに目も合わせなかった。
 夕食を終えた二人は、明日に備えた休息の時間へ移行する。短い風呂の時間も、予定の確認も落ち着かない気持ちで過ぎていき、ベッドに入ってからもしばらく目が冴えていた。
 苛立ちと戸惑いの渦巻く夜は、あっというまに更けていった。

 翌日。ガシューは朝から姿を見せなかった。
「準備だけはしておこう」
 昨日の言葉を思い起こし、けれどセイもカイもあえて触れずにいた。触れようにも切り口が見つからないというのが本当のところだ。
 午後の訓練はいつも通りに始まって、基礎トレーニングを一通りつつがなくやり終える。
 いつもならば充分に手合わせができるくらいの時間は余っていたが、稽古の先生は二人に「散髪するんだろう?」とにこやかな笑顔を向けた。なぜだか、髪を切る当人たちよりもよっぽど楽しそうな表情だ。
 セイは不満を微塵も隠さずに言った。
「先生が切ってよ。オレたちじゃ上手く切れないかも」
「なぁに、普段から刃物は存分に扱ってるだろう? それに先生はこれから外出だ」
 髪を切るためにナイフを持ってるわけじゃないんだけど……思いつつ、カイは大きく溜息を吐いて観念した。
「セイ、あまり先生を困らせるなよ」
「はぁ? オレはオメーに髪ガタガタにされたくねーから言ってるんだけど」
 ものの数秒で険悪な雰囲気になる二人。
 先生は「お前たちは、またそうやって……ほら、早いところ散髪を済ませてこい」と呆れ気味に言って、訓練室から少し離れた空き部屋の鍵をカイに渡した。
「道具は揃えてくれているらしいから、終わったらちゃんと掃除して、鍵はガシューさんに返すように」
 伝えて、「早く行け」と二人を追い払う先生。
 先生に呆れられたじゃないかと、カイは恨めしげな目付きでセイを見る。それでも口には出さず、彼は言われた通り空き部屋に向かった。セイも、カイを追い抜かすでもなく粛々と後に続く。
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