世界その2:たとえば、こんな安息日
『――お父さん、いつもありがとう』
画面から流れる映像は、ひどく和やかだった。
梅雨の半ば、窓の外ではしとしと雨が降り続いている六月の午後。室内で洗濯物をたたむ青年――佐藤戒は、聞こえた声につられてテレビに目を留めた。
雇い主の意向で好きに見ていいと言われているテレビは、毎日決まった時間に料理番組を放送している。カイはそれを、洗濯物の整理をしながら見ることが午後の楽しみだった。
途中に挟まれたコマーシャルに、洗濯物をたたみながらも真面目な顔を向ける。
コマーシャルは、三十秒ほどの時間でさまざまな「父親」と「子ども」の関係性を見せた。パパと呼びかけて恥ずかしそうにハンカチやネクタイを贈る女性の姿もあれば、親父と呼んで酒を酌み交わす青年の姿もある。
家族の絆、父親への感謝と尊敬をあらわにした数十秒の映像が流れ、最後は企業の社名が表示される。
『孝行をしたい時分に会いに行こう』
柔らかい声がキャッチコピーらしき言葉で締めくくり、ほどなくして料理番組の続きが始まった。
番組のタレントは、梅雨の湿気を吹き飛ばすように楽しげな声を響かせている。
「ふむ……」
それを見ながらなにか考えこみ始めたカイに、脱衣所の乾燥機が二度目の乾燥を終えたとブザーを鳴らす。テレビから目を離して立ち上がり、カイは洗濯物の回収に向かった。
戻ると料理番組は終わっていて、『父の日特集』と銘打たれた特別番組が始まっていた。
カイは洗濯物の山を一旦脇に置き、愛用のメモ帳を開いてペンを取った。
「あれ。テメー、なにしてんの」
翌週の昼、天気は数日ぶりの晴れだった。
平日の午後ということもあって、商店街の人通りはそれほど多くない。その一角、大通りの外れにある雑貨屋で、カイは店先に並べられている商品を見ていた。
声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのは彼のよく知っている人物だった。人物というか、正確には人ではない『人形』だ。
「……おや。あなたこそ、外出とは珍しいですね」
「人を引きこもりみたいに言うなよなー」
人形――トト・ノエルは、形の良い眉を寄せて、カイの見ていたコーナーを覗き込んだ。
「そっちこそ買い物中? ……靴下三足五百円」
やっす、と笑うノエルに、「相場を知ってるんですか?」とカイは意外そうな声を漏らす。
ノエルは「オレもちょっと買うものがあってさー」と答えた。
カイの隣に立ち、目は売り場に向けたままで会話を続ける。
「今度の日曜は『父の日』ってやつらしいじゃん?」
「ああ、六月の第三日曜日ですね」
顎に手を当てて頷くカイに、ノエルはオレンジの瞳を細めてにっと笑う。
「なんか父親に贈り物をする日? だって聞いたから、オレも父さんにプレゼントあげようと思ってさ」
よく見ると、彼は普段持っていないバッグを肩にかけていた。靴下の相場を知っているのも、すでにあちこちで贈り物候補を見て回っていたからかもしれない。
「オメーは父さんになんか贈らねーの?」
無邪気に尋ねられて、しかしカイは困ったように眉を下げる。顔を曇らせ、彼は迷いの見える表情で口を開いた。
「旦那さんには贈るつもりですが、父には……私は父にとって、立派な息子ではないでしょうから」
「ふーん……」
影を落とすカイを物言いたげに見つめ、けれども結局そっけない相槌で済ませたノエルは、気を取り直してもうひとつ質問を重ねた。
「じゃあ、父さんの好きなものとか知らねー? 趣味とかさ」
「父の好きなもの、ですか」
問われ、カイは再び真剣な顔で考えこんだ。ノエルは期待した目で彼を見る。
数十秒が経って、数分が経過して、たっぷりと時間を置いた後――。
「……すみません、まったく思いつきませんね」
カイは潔く降参した。
長い黒髪を揺らし、首を横に振るカイに、ノエルは大きく顔をしかめた。
「なげーしおせーよ。オメー、一応父さんの実の息子だろ?」
実の息子、という言葉がぐさりとカイの胸を刺す。
無言でダメージを受けているカイに、ノエルは乱暴に舌打ちする。
「つっかえねーなぁ……」
「……あの人は、組織に尽くすことが生きがいのようなものですから。白衣や実験道具を贈れば喜ぶのではないでしょうか」
ダメージから立ち直り、さすがにイラッとしたらしいカイが無表情で言い返した。
「おこんなよ」
「怒ってません」
意味のない応酬をして、彼は「そういえば」と声を漏らした。
「嗜好とはまた違いますが、食事を残しているところは見たことがないですね」
アスナロで共に食事をとっていたときのことを思い出して言うと、ノエルは「子どもかよ」と呆れ顔をする。
カイは淡々と続けた。
「食の好みが薄いようなので、手料理でも作ったらどうでしょうかという話です」
提案に、ノエルは意外にも乗り気な様子を見せた。
「あー、なるほど? でもオレ、料理とかしたことねーしなー。料理って実験室でやってもいいやつ?」
「…………」
料理経験どころか家事の一切、細かい作業のひとつもしたことがないであろうノエルは、わくわくと楽しそうに笑みを浮かべている。彼はガスや炎を扱う以前に配膳さえもしたことがあるか疑わしいレベルで、けれども父への贈り物を早々に決めてしまったようだ。
やっぱり無難に服でも贈りませんか、と意見するのをぐっとこらえて、カイは深く溜息を吐くのだった。
次の日曜日、カイは久方ぶりにアスナロの施設を訪れた。
意識的に距離を取っていた施設は、拍子抜けするほどに変化がなかった。
随分と長く戻っていなかったはずだが、離れていた期間が一気に短く縮められた気がして、心なしか肩が重くなる。
「おせーぞ」
まっすぐ調理室に向かうと、白衣を身に着けているノエルに出迎えられる。
カイは、両手に提げている買い物袋を調理台に乗せた。
卵のパックとケチャップと、玉ねぎに米と鶏もも肉と油などなど。調味料は施設の備品を拝借する予定だが、それでもけっこうな荷物だった。
「……どうして白衣なのですか?」
首を傾げると、ノエルは事もなげに返した。
「他人のエプロンとか気持ちわりーじゃん。だからこれ、並田みちるの予備の新品」
(無許可で盗ってきたのではないでしょうね……)
内心で手癖の悪さを心配しつつ、カイも持参したエプロンを身に纏う。赤い生地に黄色い模様が散った、宝物のエプロンだ。
……まさかこれを着て父への手料理を作ることになるとは。カイは複雑な心境でエプロンの紐を結ぶ。
「で、なにから始めんの?」
落ち着かない様子のノエルに、「これから作るのはオムライスです」と前置きして、カイは「まずは手を洗ってください」と指示を出す。
二人きりの調理室は、にわかに騒がしくなった。
広い流しの蛇口をひねり、石鹸で指の間まで丁寧に洗う。
高度な科学技術力で作られているとはいえ、人形のノエルはいわゆる精密機器である。それを水に濡らし、あまつさえ石鹸まで擦りこんで大丈夫かと心配したが、当のノエルは鼻歌混じりに手を洗い終えた。
清潔なタオルで水分を拭きとり、ノエルは手のひらから漂う石鹸の匂いを嗅いで微妙な顔をした。
料理の「り」の字も知らない彼だが、とりあえずカイの指示に従って白米を炊くことになった。
炊飯釜に米を計り入れ、片手で水をかき混ぜるように洗って、とぎ汁を捨てる。その際に米まで流れてしまわないよう注意しながら、米を洗う感触を楽しむノエル。
かき混ぜるときには勢い余って水が飛び散りそうで、カイは見守りに徹すると決めたものの、内心はらはらしていた。
米を研ぎ終わり、カイが炊飯器に釜をセットする。
そして彼はノエルを調理台の前に呼んだ。
「下準備で、先にチキンライスを作ります」
「チキンライス」
オウム返しに呟いたノエルへ、カイは小ぶりな玉ねぎを一つ渡した。殺菌消毒されているまな板を出して、その上で四等分するようにと包丁も添える。
玉ねぎを切るときは涙が出るという弊害があるが、人形の彼ならば催涙物質の影響を受けはしないだろう。
カイの思惑通りノエルはまったく平気な顔で玉ねぎを切り始め――否、荒っぽい手つきで叩き割っていた。
まな板を鈍器で殴打するような音が響き、地震かと思うほどの振動で台が揺れる。カイは慌ててノエルの手を掴んだ。額に脂汗が滲んでいる。
「……危ないです。もっと丁寧に、手は猫の手で」
「オメー、包丁使ってるときに手出してくんなよ。あぶねーだろ」
初めて握ったばかりの包丁で、人差し指の爪にかすりそうな勢いで玉ねぎを滅多打ちにしていたノエルは、不服そうに刃先を光らせた。
「……包丁を持っているときは、刃先にも気を付けてください」
言って、カイは小さく嘆息する。
これまで一度も家事をしたことのないノエルには、そもそも基本的な道具の使い方や心構えを教える必要がありそうだ。カイは根気よく指導を続けた。
刃物を人に向けない(渡すときは刃先を自分の方に向けて、相手に柄を差し出す)、火をつけているときはその場を離れない(なにかあったときは必ず火を消す癖をつける)等、カイにとっては当たり前のことだからこそ、認識の違いに神経を使う。
「生肉は食中毒の危険もありますから、特に気を付けてください」
包丁とまな板を清潔なものに取り換えつつ、ノエルの一挙手一投足に口を挟むカイ。
玉ねぎを雑に切り終え、肉の脂肪を取り除きながら、ノエルは「オメー、オカンかよ」とげんなりした顔を見せた。
「誰が母ですか。……というか、どこでそんな言葉を覚えたんですか」
カイの突っ込みを無視して、鶏肉も玉ねぎと同じくらいの大きさに切っていく。
「次は?」
不遜な態度で聞くと、カイは「……火を使うので、こちらは私がやります」とフライパンを持ち出した。調理室にあったものではなく、私物をわざわざ持ってきたらしい。
「手に馴染んだものの方が楽ですから」
カイはフライパンでバターを熱し、鶏肉と玉ねぎを炒めていく。肉の焼ける音に、ノエルはほんのわずかに身を引いた。
やがて鶏肉に焼き色がつき、玉ねぎは白く透き通っていった。
フライパンに塩と胡椒を少し振り、火を中火に切り替えて、カイはすでに炊き上がっている炊飯器の蓋を開けた。
煙のような湯気があがり、ノエルが顔を近づけて「あつっ」と小さく悲鳴を漏らす。
「危ないですよ」
カイは呆れながら言って、茶碗に白米を盛ってフライパンへと移した。木べらで全体をほぐすようにかき混ぜて、頃合いを見計らい大さじで量ったトマトケチャップを混ぜる。
手首のスナップをきかせて上下を返すように混ぜると、フライパンの中身はあっというまに赤く染まった。調理室中にケチャップの香りが充満する。
ケチャップが全体に馴染んだところでパセリを加え、さっと混ぜてコンロの火を止める。
カイはノエルに大きめのお皿がないか尋ねた。ノエルが食器棚の中から、シンプルだが上品な楕円の皿を持ってくる。
カイは、出来立てのチキンライスを丁寧に山の形に盛った。
「これで、チキンライスは完成です」
満足げに言って、「次にオムレツを作ります」とノエルを見る。
「……少し不安ではありますが……やってみますか?」
問うと、ノエルは目を丸くして長い睫毛を瞬かせた。
「え、いいわけ?」
明るい黄色に縁取られた瞳は、驚きと戸惑いにかすかな高揚をにじませている。
「まあ、オムレツくらいならば重くもありませんし」
独り言のように呟いて、カイは新しいボウルを準備して卵のパックを開けた。真っ白な卵をノエルに二つ渡して、殻が入らないよう注意しながらボウルに割り入れさせる。
さらにそこへ牛乳と塩を追加し、ノエルへ菜箸を持たせる。
「間隔を少し広めに開けて、ボウルの底を擦るように……そうです。白身と黄身がしっかりと混ざるように溶いてください。ああ、あまり激しく混ぜるとこぼれてしまいますよ」
口は出しつつ手は出さず、カイはノエルの奮闘を見守るだけに留まっていた。
ノエルは執拗なまでに念入りに卵を溶き、そのあいだにカイはチキンライスを作ったフライパンを軽く洗った。ペーパータオルで水気を拭い、サラダ油を流し込んで中火にかける。
そのまま一分ほど熱して、ノエルに視線を向けた。
「卵は溶けましたか?」
「ん……たぶん、大丈夫」
彼にしては珍しく控えめな声が返ってきて、カイはノエルの持っているボウルを覗き込む。
ボウルの中はオレンジがかった黄色一色で、蛍光灯の光を反射して輝いている。混ぜすぎて少し泡ができていたが、カイは「上出来です」と頷いた。
「では、その卵をフライパンにまんべんなく流し込んで、中心だけを箸で手早く混ぜてください。真ん中は火が通りにくいので」
ノエルは、卵をこぼさないよう注意してフライパンに卵液をこぼした。油の弾ける音がして、卵液を加えた途端に、卵の熱される派手な音が鳴る。
「人形は、火傷はしないのですよね」
真顔で放たれた言葉に「……しねーけど」と返すと、カイは「少し危なっかしいですが……余裕があれば、フライパンを揺すりながら混ぜてください」と助言する。
ノエルは言われた通りフライパンを揺さぶりながら中身をかき混ぜた。力任せではなくノエルなりに加減しているらしく、なかなか様になっている。
卵が半熟になると、カイは卵の縁を菜箸でなぞるようにフライパンから剥がしていった。ここからは少しコツがいるということで、ノエルはフライパンをカイにバトンタッチする。
カイはフライパンの柄を持ち、ヘラを使って卵を巻き上げていく。フライパンを傾け、楕円に成形しながら全体を整えると、最後に大きくひっくり返してコンロの火を止める。
ノエルが、チキンライスの盛られた皿をカイに差し出した。機械で作られた人工的な瞳が、得意げな色を帯びている。
「最後にここに載せるんだろ?」
(台に置いてもらった方が、やりやすいのですが……)
1/2ページ