カイさん、主夫をお休みします(前編)
「カンナ、これ借りても良いか?」
突然にバケツを外されて、カンナは「だ、だめですっ!」と赤面して顔を覆った。色白なので少し赤くなっただけでもよく目立つ。
彼女は「それがないと、恥ずかしくて……っ」と言いながら目を瞑ったまま両腕を回した。
「わ、あぶねぇって!」
レコの切迫した声が響き、各自の個室がある三階ということもあって、なんだなんだと他の面々が集まってくる。
「カンナさん、危ないですよ!」
様子を見に来たミシマが、暴走するカンナをなだめるように立ちはだかった。カンナの手がミシマの顔をかすり、彼のかけている丸眼鏡を弾き飛ばしてしまう。眼鏡は軽やかに飛んで、落下と同時にぱりんと不吉な音が鳴った。
「っ! おや、眼鏡が」
「す、すみませんっ……ひゃっ!」
ミシマ本人はさして気にした風でもなかったが、その素顔を直視したカンナはびくっと背筋を震わせる。カンナの肩越しにレコまで顔を引きつらせているのを見て、ミシマは苦笑しつつスペアの眼鏡をかけた。落ち込むそぶりは見せないようにしているが、内心それなりにショックを受けているらしい。
「割れてしまったようですね。たしか、医務室にガムテープがあったはずです」
床に散乱したガラス片を見て、ミシマは「くれぐれも触らないように」と注意してその場を一時離脱する。入れ替わるようにしてカイが一歩進み出た。
いつのまにか着替えを済ませたカイは、どこからか持ってきたカゴに脱いだ服を入れた。ナオからアリスの服を受け取って、Qタロウやレコにもカゴを差し出す。
「とりあえず、洗い物はこのカゴに入れてください。あとで私が手洗いしておきますので」
「私たちが洗っておこうか?」
寝間着にしていたらしいTシャツを出しながらレコが提言する。だが、その声は騒がしい大声に掻き消された。
「これって、ミシマ先生の……? いてっ!」
「こら、素手で触ったら危ないだろう!」
ミシマと入れ違いでやってきた二人、ジョーは床に膝をついて人差し指の先を擦り、傍らに立つサラは叱責しながらも心配そうにしている。
ジョーの指先からは鮮血が流れ、カイはカゴを置いて医務室へ向かった。医務室ではガムテープを手にしたミシマが箒やちり取りを探していて、二人で手分けして掃除用具を捜索する。
五分もかからずに掃除用具と救急箱を見つけて戻ると、カイはジョーの指を消毒して絆創膏を巻いた。
「ってぇー! 切り傷ってすげー痛いし、消毒液も地味にしみるよなー……」
大袈裟に声を上げたジョーの嘆きを、サラが「後先考えずに触るからだ」と容赦のない一言で締める。
カイは周囲のガラス片を清掃し、手際よくゴミ袋に捨てて袋の口を縛った。掃除用具を片手でまとめて持ち、救急箱は洗濯物を入れたカゴの上に載せる。作業は五分もかからなかった。
大荷物を事もなげに抱えて「洗い物は出し終わりましたか? では、持っていきますね」と歩き去る後ろ姿を、ジョーは感嘆の声で見送る。
「……カイさんって、本当頼りになるよなー」
その一方、ナオやカンナは落ち込んだ表情を見せた。
「いろいろと助けられてしまいましたが……カイさんに頼りっぱなしじゃいけませんよね」
「私たちも、もっとお手伝いができたらいいんですけど」
女子たちの中で勇ましい部類に入るレコとサラも、このときばかりは自信なさげな顔をする。
「そもそも、あいつの家事力が高すぎるんだよな」
がしがしと頭を掻くレコに、サラも頷いて眉を下げた。
「カイさんって、あんまり私たちを頼らないっていうか……」
「……そのうち爆発しないと良いがな」
アリスが重々しい口調で言い、場の空気が早朝には似合わない深刻さを持つ。それを振り払うように、ミシマが明るく言った。
「我々もあまり彼に負担をかけすぎないよう、自分のことは自分でしなくてはいけませんね」
「うぅ……朝から迷惑かけちまったな」
ジョーが悔しそうに唇を噛み、サラが元気づけるように笑う。
「まあ、今日はまだ始まったばかりだ。これからの行動で挽回すればいいさ」
一同は誰からともなく顔を見合わせ、できるだけカイの負担を減らせるように協力し合っていこうと密かに結束を固めるのだった。
洗濯場を離れたカイは、掃除用具と救急箱を医務室に戻すと、その足で二階の大浴場へ回った。とりあえずのりまみれになっているアリスと自分の服だけをつけおき洗いすることにして、桶に水を張り洗剤を溶かして衣類を沈める。放置している間にゴミ袋を所定の場所へ捨てに行き、途中、一階の食堂で休憩しているギンに目を留めた。
ケイジとは結局喧嘩別れしたらしい。今朝のことは完全にケイジに非があるのだが、心なしか落ち込んだ様子のギンに、カイは常備しているフライパン越しに声をかけた。
「オムライスは作れませんが、朝食に卵なしで作るパンケーキはどうですか? あれならニャーちゃんの顔も描けますし」
ギンは「卵なし? 美味しいのかニャン?」と疑わしげな顔をしたが、カイの料理の腕前はすっかり信用しているらしい。「……楽しみにしてるワン!」満足げな笑顔を確認して、カイもほっと息をつく。
カイは朝食がパンケーキだと不満が出る可能性も考え、食べ盛りの人たちにはベーコンやウィンナーでボリュームの出るメニューにしようと思案した。それでも足りなければエッグベネディクトを追加すれば……と思ったところで、卵は空にされたんだったとかぶりを振る。朝は一日の始まり、できればたくさん食べてもらいたいところだが、どうしたものか。
悩みながら大浴場へ戻り、つけおきの水を捨てて、新しく水を張り替える。カゴを浴槽のそばに置き、洗濯は朝食を作った後にしようと決めた。ギンと話したときに見た食堂の時計は、朝食の時間が迫っていることを示していた。
急ぎ足で調理室へ向かいながら、洗濯の後にでも洗濯機の調子を見に行かねばと予定を組み上げていく。完全に壊れたならホエミーに申告しなければいけない。また経費がかさむとホエミーが激怒する様を想像して、思わず溜息が漏れる。
愚痴を言っていても始まらない。調理室前の食堂には、すでに参加者たちが集まっていた。
「すみません、すぐに準備しますね」
「あっ、カイさん」
サラの声に会釈で返し、カイはぱたぱたと調理室に駆け込んだ。テーブルの上に置いておいたエプロンを再び身につける。宝物でもあるそれを着ると、朝からの騒動で感じた疲労も少しだけ薄まった気がした。
さっそく朝食のパンケーキ作りに取りかかろうと、カイは戸棚や冷蔵庫から材料を準備した。手間のかからない料理ではあるが、大食漢も含めた大人数分の枚数を焼くと考えるとのんびりしてはいられない。
フライパンをコンロに置いて油を敷く。肩が重い気がしたが、自分で肩叩きするほどの余裕もない。ちぎったキッチンペーパーで油をまんべんなく伸ばしていると、調理室の扉が開いた。
「カイさん、なにか手伝うこととかあったら……」
サラとジョーが気づかわしげに調理室を覗き込み、傍にはナオやカンナも控えている。
カイは目を丸くしてぴたりと手を止めたが、すぐに「いえ、大丈夫です」と首を振った。「ここは狭いですし、やることもそう多くはありませんし……」
「あ、じゃあ食堂のテーブル拭いてくるっス!」
ジョーが布巾を探して辺りを見回す。どうやら手伝いをする気満々のようだと察して、カイは布巾を二枚濡らし、サラとジョーに一枚ずつ渡した。調理室から半分だけ体を出してテーブルを指し示す。
「では、手前のテーブルとその後ろのテーブル、二台だけお願いします。いつも皆さんが食事で座っているところですね」
「おうっ! 任せてください!」
嬉しそうに腕まくりして張り切るジョーは、ちょうど現れた参加者の一人――ソウを目にして、「遅いっスよー」とからかうように笑った。
まだ眠たげな顔をしているソウは、不服そうに唇をへの字に曲げる。
「脱出の糸口を探すために、遅くまで作業してたんだよ……あれ、まだご飯できてないの?」
小さく欠伸して、空っぽのテーブルを物珍しそうに眺めるソウ。布巾を持つジョーとサラの手元を見て、彼は笑いながら軽口を叩く。
「ご飯のことはカイさんに一任してるんだからさ。皆が探索担当で、ボクはパソコンの解析担当、カイさんは家事担当って感じでしょ?」
せめてボクが起きてくるまでに作っててもらわないと、などと話している本人は他愛ない冗談のつもりなのだろうが、カイは料理を作る手をぴたりと止める。
朝の騒動を知っているサラたちは「か、カイさんは食事の他にもいろいろと家事をやってくれていますし」「ってかソウさんも遅寝遅起きなんスから、たまにはご飯前にゆっくりするのも悪くないっスよ」とフォローや援護に回るが、ソウに続いて食堂に入ってきたもう一人の男が追撃の言葉を放った。
「あれ、朝食はまだかな。おまわりさん、運動してきたからおなかすいちゃった」
悪気のない一言だったが、ケイジの発言を聞いたカイの表情はもはや能面じみていた。
「……そうですね。私の不手際で、朝食の時間が少し遅れてしまいそうです」
「か、カイさん」
サラの声も届いていない様子で、カイは抑揚のない声で告げる。
「殺し合いもデスゲームもない平和な場所で、こんなにも穏やかに過ごせているのですから、皆さんはもっと自由に伸び伸びと過ごされるべきなのかもしれません。少なくとも私は、それを万全にサポートしたいと思っています」
なにやら物騒な単語を連ねて、それでも彼らの生活に助力したいと述べるカイ。
一拍の間を置き、彼は「……しかし、それにも限度があります」と言った。黒い瞳は無機質に澱み、瞳の中にはぐるぐると渦が巻き始めている。まるで機械がショートしているようだ。
カイの瞳に浮かんだ渦は、収縮しながらも完全に消えることはなかった。
「私はもう知りません。どうぞみなさん、各自でお好きに過ごしてください」
誰も聞いたことのない硬い声で言い放ち、カイはきびすを返して調理室に戻っていく。
「……カイさんは、主夫をお休みします」
ぱたりと音を立てて閉まった調理室の扉を前に、動ける者は一人もいなかった。
「……どうしましょう」
最初に口を開いたのはサラだった。日頃の冷静沈着な態度から一転、紫の瞳は戸惑いで不安定に揺れている。
カイの行動に衝撃を受けているのは、場の誰もが同じだった。
「カイさんのあんな顔、初めて見ました……」
「めちゃくちゃキレてたな」
カンナとレコが口々に言い、ミシマも腕組みしてうなだれる。
「頼りになるとはいえ、彼も人間ですからね。自身でも気づかないうちに疲労が溜まっていたのかもしれません」
「……まあ、こんなにアクの強い集団を十何人もお世話するとか、普通に疲れるよね」
ソウが辺りを窺うように視線を向けて、「お前が言うなニャン」とギンに軽く睨みつけられる。
「今日は朝っぱらから、すげー迷惑かけちまったもんな」
布巾を握ったままのジョーは不甲斐なさげに視線を落とし、アリスは「今朝に限らず、普段から細々とした迷惑をかけているやつもいそうだがな」とケイジを一瞥する。
「……私も、ときどき調理室のジャムを盗み食いしてたし……うぅ、バレてるとは思ってたけど、内心カイさんも困ってたんだろうな」
「ジャムそのまま? ジャムパンとかじゃなくて? ……最近の女子高生は変わってるねー」
「生卵を吸うケイジさんには言われたくないです」
頭を抱えるサラと目を丸くするケイジ。サラは鋭く切り返し、「……どっちもどっちぜよ」とQタロウに引かれていた。
ふと、食堂内に小さな音が鳴り響いた。
――ぐー、きゅるる……。
音の出どころはナオのお腹だったらしく、彼女は真っ赤になった顔を両手で覆って「す、すみません。夜中まで作業してて……」と恥ずかしそうに弁明する。
ジョーは腰に手を当てて場を見回した。
「とりあえず、朝飯をどうにかしないとだよな。家事とかも、普段カイさんがやってくれてたのをオレたちでやらねーとだし」
いつまでも呆然としているわけにはいかない。ジョーの前向きな姿勢に触発されて、サラも「……そうだな」と普段通りの凛々しさを取り戻した。
「と言っても、家事についてはほとんどカイに任せっぱなしだったからねー。なにから手をつけたらいいのかな……」
ケイジが億劫そうながらも調理室の方を見る。さきほどカイが消えていった扉を注視して、「今日やらなきゃいけないことだけでも、教えてくれるとありがたいんだけど」と呟いた。
何人も受け入れないとばかりにかたく閉ざされている扉の向こうは、人の気配が感じられない。「……カイさん、入りますね?」声をかけ、サラは思い切って調理室のドアノブを回した。
扉は拍子抜けするほどあっさり開き、しかし中を覗き込んだ一同は「えっ?」と当惑の声を漏らす。
先ほど、彼らの前でたしかに調理室の中へと引っ込んでしまったカイの姿はどこにも見当たらない。室内に人の姿はなく、主を失った調理器具だけがぽつんと残されている。
「カイさん? どこですか?」
サラが声を張って呼びかけてみるも、返事どころか物音のひとつもしない。特徴的な長髪やエプロンさえ影も形も見えず、まるで神隠しにでもあったかのようだった。
再び動揺の波が広がり、誰かが「まさか誘拐犯に捕まったんじゃ」と口にする。
「……そんな」
サラの頬に汗が伝ったそのとき、食堂の方で複数人の人間の足音がした。
――後編へ続く
突然にバケツを外されて、カンナは「だ、だめですっ!」と赤面して顔を覆った。色白なので少し赤くなっただけでもよく目立つ。
彼女は「それがないと、恥ずかしくて……っ」と言いながら目を瞑ったまま両腕を回した。
「わ、あぶねぇって!」
レコの切迫した声が響き、各自の個室がある三階ということもあって、なんだなんだと他の面々が集まってくる。
「カンナさん、危ないですよ!」
様子を見に来たミシマが、暴走するカンナをなだめるように立ちはだかった。カンナの手がミシマの顔をかすり、彼のかけている丸眼鏡を弾き飛ばしてしまう。眼鏡は軽やかに飛んで、落下と同時にぱりんと不吉な音が鳴った。
「っ! おや、眼鏡が」
「す、すみませんっ……ひゃっ!」
ミシマ本人はさして気にした風でもなかったが、その素顔を直視したカンナはびくっと背筋を震わせる。カンナの肩越しにレコまで顔を引きつらせているのを見て、ミシマは苦笑しつつスペアの眼鏡をかけた。落ち込むそぶりは見せないようにしているが、内心それなりにショックを受けているらしい。
「割れてしまったようですね。たしか、医務室にガムテープがあったはずです」
床に散乱したガラス片を見て、ミシマは「くれぐれも触らないように」と注意してその場を一時離脱する。入れ替わるようにしてカイが一歩進み出た。
いつのまにか着替えを済ませたカイは、どこからか持ってきたカゴに脱いだ服を入れた。ナオからアリスの服を受け取って、Qタロウやレコにもカゴを差し出す。
「とりあえず、洗い物はこのカゴに入れてください。あとで私が手洗いしておきますので」
「私たちが洗っておこうか?」
寝間着にしていたらしいTシャツを出しながらレコが提言する。だが、その声は騒がしい大声に掻き消された。
「これって、ミシマ先生の……? いてっ!」
「こら、素手で触ったら危ないだろう!」
ミシマと入れ違いでやってきた二人、ジョーは床に膝をついて人差し指の先を擦り、傍らに立つサラは叱責しながらも心配そうにしている。
ジョーの指先からは鮮血が流れ、カイはカゴを置いて医務室へ向かった。医務室ではガムテープを手にしたミシマが箒やちり取りを探していて、二人で手分けして掃除用具を捜索する。
五分もかからずに掃除用具と救急箱を見つけて戻ると、カイはジョーの指を消毒して絆創膏を巻いた。
「ってぇー! 切り傷ってすげー痛いし、消毒液も地味にしみるよなー……」
大袈裟に声を上げたジョーの嘆きを、サラが「後先考えずに触るからだ」と容赦のない一言で締める。
カイは周囲のガラス片を清掃し、手際よくゴミ袋に捨てて袋の口を縛った。掃除用具を片手でまとめて持ち、救急箱は洗濯物を入れたカゴの上に載せる。作業は五分もかからなかった。
大荷物を事もなげに抱えて「洗い物は出し終わりましたか? では、持っていきますね」と歩き去る後ろ姿を、ジョーは感嘆の声で見送る。
「……カイさんって、本当頼りになるよなー」
その一方、ナオやカンナは落ち込んだ表情を見せた。
「いろいろと助けられてしまいましたが……カイさんに頼りっぱなしじゃいけませんよね」
「私たちも、もっとお手伝いができたらいいんですけど」
女子たちの中で勇ましい部類に入るレコとサラも、このときばかりは自信なさげな顔をする。
「そもそも、あいつの家事力が高すぎるんだよな」
がしがしと頭を掻くレコに、サラも頷いて眉を下げた。
「カイさんって、あんまり私たちを頼らないっていうか……」
「……そのうち爆発しないと良いがな」
アリスが重々しい口調で言い、場の空気が早朝には似合わない深刻さを持つ。それを振り払うように、ミシマが明るく言った。
「我々もあまり彼に負担をかけすぎないよう、自分のことは自分でしなくてはいけませんね」
「うぅ……朝から迷惑かけちまったな」
ジョーが悔しそうに唇を噛み、サラが元気づけるように笑う。
「まあ、今日はまだ始まったばかりだ。これからの行動で挽回すればいいさ」
一同は誰からともなく顔を見合わせ、できるだけカイの負担を減らせるように協力し合っていこうと密かに結束を固めるのだった。
洗濯場を離れたカイは、掃除用具と救急箱を医務室に戻すと、その足で二階の大浴場へ回った。とりあえずのりまみれになっているアリスと自分の服だけをつけおき洗いすることにして、桶に水を張り洗剤を溶かして衣類を沈める。放置している間にゴミ袋を所定の場所へ捨てに行き、途中、一階の食堂で休憩しているギンに目を留めた。
ケイジとは結局喧嘩別れしたらしい。今朝のことは完全にケイジに非があるのだが、心なしか落ち込んだ様子のギンに、カイは常備しているフライパン越しに声をかけた。
「オムライスは作れませんが、朝食に卵なしで作るパンケーキはどうですか? あれならニャーちゃんの顔も描けますし」
ギンは「卵なし? 美味しいのかニャン?」と疑わしげな顔をしたが、カイの料理の腕前はすっかり信用しているらしい。「……楽しみにしてるワン!」満足げな笑顔を確認して、カイもほっと息をつく。
カイは朝食がパンケーキだと不満が出る可能性も考え、食べ盛りの人たちにはベーコンやウィンナーでボリュームの出るメニューにしようと思案した。それでも足りなければエッグベネディクトを追加すれば……と思ったところで、卵は空にされたんだったとかぶりを振る。朝は一日の始まり、できればたくさん食べてもらいたいところだが、どうしたものか。
悩みながら大浴場へ戻り、つけおきの水を捨てて、新しく水を張り替える。カゴを浴槽のそばに置き、洗濯は朝食を作った後にしようと決めた。ギンと話したときに見た食堂の時計は、朝食の時間が迫っていることを示していた。
急ぎ足で調理室へ向かいながら、洗濯の後にでも洗濯機の調子を見に行かねばと予定を組み上げていく。完全に壊れたならホエミーに申告しなければいけない。また経費がかさむとホエミーが激怒する様を想像して、思わず溜息が漏れる。
愚痴を言っていても始まらない。調理室前の食堂には、すでに参加者たちが集まっていた。
「すみません、すぐに準備しますね」
「あっ、カイさん」
サラの声に会釈で返し、カイはぱたぱたと調理室に駆け込んだ。テーブルの上に置いておいたエプロンを再び身につける。宝物でもあるそれを着ると、朝からの騒動で感じた疲労も少しだけ薄まった気がした。
さっそく朝食のパンケーキ作りに取りかかろうと、カイは戸棚や冷蔵庫から材料を準備した。手間のかからない料理ではあるが、大食漢も含めた大人数分の枚数を焼くと考えるとのんびりしてはいられない。
フライパンをコンロに置いて油を敷く。肩が重い気がしたが、自分で肩叩きするほどの余裕もない。ちぎったキッチンペーパーで油をまんべんなく伸ばしていると、調理室の扉が開いた。
「カイさん、なにか手伝うこととかあったら……」
サラとジョーが気づかわしげに調理室を覗き込み、傍にはナオやカンナも控えている。
カイは目を丸くしてぴたりと手を止めたが、すぐに「いえ、大丈夫です」と首を振った。「ここは狭いですし、やることもそう多くはありませんし……」
「あ、じゃあ食堂のテーブル拭いてくるっス!」
ジョーが布巾を探して辺りを見回す。どうやら手伝いをする気満々のようだと察して、カイは布巾を二枚濡らし、サラとジョーに一枚ずつ渡した。調理室から半分だけ体を出してテーブルを指し示す。
「では、手前のテーブルとその後ろのテーブル、二台だけお願いします。いつも皆さんが食事で座っているところですね」
「おうっ! 任せてください!」
嬉しそうに腕まくりして張り切るジョーは、ちょうど現れた参加者の一人――ソウを目にして、「遅いっスよー」とからかうように笑った。
まだ眠たげな顔をしているソウは、不服そうに唇をへの字に曲げる。
「脱出の糸口を探すために、遅くまで作業してたんだよ……あれ、まだご飯できてないの?」
小さく欠伸して、空っぽのテーブルを物珍しそうに眺めるソウ。布巾を持つジョーとサラの手元を見て、彼は笑いながら軽口を叩く。
「ご飯のことはカイさんに一任してるんだからさ。皆が探索担当で、ボクはパソコンの解析担当、カイさんは家事担当って感じでしょ?」
せめてボクが起きてくるまでに作っててもらわないと、などと話している本人は他愛ない冗談のつもりなのだろうが、カイは料理を作る手をぴたりと止める。
朝の騒動を知っているサラたちは「か、カイさんは食事の他にもいろいろと家事をやってくれていますし」「ってかソウさんも遅寝遅起きなんスから、たまにはご飯前にゆっくりするのも悪くないっスよ」とフォローや援護に回るが、ソウに続いて食堂に入ってきたもう一人の男が追撃の言葉を放った。
「あれ、朝食はまだかな。おまわりさん、運動してきたからおなかすいちゃった」
悪気のない一言だったが、ケイジの発言を聞いたカイの表情はもはや能面じみていた。
「……そうですね。私の不手際で、朝食の時間が少し遅れてしまいそうです」
「か、カイさん」
サラの声も届いていない様子で、カイは抑揚のない声で告げる。
「殺し合いもデスゲームもない平和な場所で、こんなにも穏やかに過ごせているのですから、皆さんはもっと自由に伸び伸びと過ごされるべきなのかもしれません。少なくとも私は、それを万全にサポートしたいと思っています」
なにやら物騒な単語を連ねて、それでも彼らの生活に助力したいと述べるカイ。
一拍の間を置き、彼は「……しかし、それにも限度があります」と言った。黒い瞳は無機質に澱み、瞳の中にはぐるぐると渦が巻き始めている。まるで機械がショートしているようだ。
カイの瞳に浮かんだ渦は、収縮しながらも完全に消えることはなかった。
「私はもう知りません。どうぞみなさん、各自でお好きに過ごしてください」
誰も聞いたことのない硬い声で言い放ち、カイはきびすを返して調理室に戻っていく。
「……カイさんは、主夫をお休みします」
ぱたりと音を立てて閉まった調理室の扉を前に、動ける者は一人もいなかった。
「……どうしましょう」
最初に口を開いたのはサラだった。日頃の冷静沈着な態度から一転、紫の瞳は戸惑いで不安定に揺れている。
カイの行動に衝撃を受けているのは、場の誰もが同じだった。
「カイさんのあんな顔、初めて見ました……」
「めちゃくちゃキレてたな」
カンナとレコが口々に言い、ミシマも腕組みしてうなだれる。
「頼りになるとはいえ、彼も人間ですからね。自身でも気づかないうちに疲労が溜まっていたのかもしれません」
「……まあ、こんなにアクの強い集団を十何人もお世話するとか、普通に疲れるよね」
ソウが辺りを窺うように視線を向けて、「お前が言うなニャン」とギンに軽く睨みつけられる。
「今日は朝っぱらから、すげー迷惑かけちまったもんな」
布巾を握ったままのジョーは不甲斐なさげに視線を落とし、アリスは「今朝に限らず、普段から細々とした迷惑をかけているやつもいそうだがな」とケイジを一瞥する。
「……私も、ときどき調理室のジャムを盗み食いしてたし……うぅ、バレてるとは思ってたけど、内心カイさんも困ってたんだろうな」
「ジャムそのまま? ジャムパンとかじゃなくて? ……最近の女子高生は変わってるねー」
「生卵を吸うケイジさんには言われたくないです」
頭を抱えるサラと目を丸くするケイジ。サラは鋭く切り返し、「……どっちもどっちぜよ」とQタロウに引かれていた。
ふと、食堂内に小さな音が鳴り響いた。
――ぐー、きゅるる……。
音の出どころはナオのお腹だったらしく、彼女は真っ赤になった顔を両手で覆って「す、すみません。夜中まで作業してて……」と恥ずかしそうに弁明する。
ジョーは腰に手を当てて場を見回した。
「とりあえず、朝飯をどうにかしないとだよな。家事とかも、普段カイさんがやってくれてたのをオレたちでやらねーとだし」
いつまでも呆然としているわけにはいかない。ジョーの前向きな姿勢に触発されて、サラも「……そうだな」と普段通りの凛々しさを取り戻した。
「と言っても、家事についてはほとんどカイに任せっぱなしだったからねー。なにから手をつけたらいいのかな……」
ケイジが億劫そうながらも調理室の方を見る。さきほどカイが消えていった扉を注視して、「今日やらなきゃいけないことだけでも、教えてくれるとありがたいんだけど」と呟いた。
何人も受け入れないとばかりにかたく閉ざされている扉の向こうは、人の気配が感じられない。「……カイさん、入りますね?」声をかけ、サラは思い切って調理室のドアノブを回した。
扉は拍子抜けするほどあっさり開き、しかし中を覗き込んだ一同は「えっ?」と当惑の声を漏らす。
先ほど、彼らの前でたしかに調理室の中へと引っ込んでしまったカイの姿はどこにも見当たらない。室内に人の姿はなく、主を失った調理器具だけがぽつんと残されている。
「カイさん? どこですか?」
サラが声を張って呼びかけてみるも、返事どころか物音のひとつもしない。特徴的な長髪やエプロンさえ影も形も見えず、まるで神隠しにでもあったかのようだった。
再び動揺の波が広がり、誰かが「まさか誘拐犯に捕まったんじゃ」と口にする。
「……そんな」
サラの頬に汗が伝ったそのとき、食堂の方で複数人の人間の足音がした。
――後編へ続く
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