異なる紅


 がさごそ。がさごそ。
 戸棚を漁る長い指。戦の最中でも丁寧に手入れされた白い肌。
「……あれ? 嘘でしょ」
 眠たげだった両目を見開いて、加州清光は焦りと嘆きの混ざった声で呟いた。
 彼は、箪笥の小物入れから小さな瓶を取り出して掲げた。目の高さまで持ちあげ、部屋の照明に透かして瓶底をじっと見つめる。赤い液体がわずかに溜まっている瓶の底は、けれども加州の両手の爪を覆うには到底足りない量だと一目でわかる。
「あ~……やらかした。最悪。ほんとありえない」
 小瓶を畳に置いて頭を抱え、大袈裟な悲鳴を漏らす加州。中身の減った瓶は、安定を保てずころりと転がった。
 泣きたい気持ちで畳に寝転がり、加州はここ数日の行動を振り返る。ちょうど数日前に爪を塗ったとき、もう紅がほとんどなくなっていることに一旦は気付いていた。
 だけどその日は出陣で、次の日は内番。その次は遠征。夜花奪還作戦。特別鍛刀期間。その次は……。忙しい日々で買い出しに行くのも忘れていたのは、紛れもなく自分の落ち度だ。
 買い出し当番の日についでに買えばいいと思っていたが、一歩間に合わず。明日の日付に『万屋』と書いてある暦表を見て、もう一度深く嘆息する。
 今日の予定は、昨晩に確認していた通り遠征の任務だった。時間は十二時間。九時過ぎに本丸を出立し、二十一時過ぎに戻ってくる予定だ。朝食を切り抜けて、夜ご飯とお風呂も手早く済ませれば、おそらく主に見られず済むだろう。
 それでも、普段行動を共にすることの多い大和守安定などにはバレてしまうだろうが。彼に「珍しいね」などとあれこれ口出しされることを思い、また今日の遠征メンバーにもなにか言われるだろうなと想像して、尽きることのない溜息を吐く。べつにだれもからかったりしない、悪意から来るものではないとわかってはいるが、いちいち話題にされるのは地味に面倒だ。決して気持ちいいものじゃない。
 まあでも、自分のせいだもんな。そう心の中で折り合いをつけて、加州は寝転んでいた体を起こし他の身支度を整え始めた。髪にくしを通し、着崩れかけていた着物の襟を正す。剥げかけでみっともない爪は、断腸の思いで除光液を塗って綺麗にした。薄いピンク色の爪のままでいるのはいつぶりだろう。
 自室の全身鏡で立ち姿を確認し、それでも彼は落ち着かない様子で前髪の分け目に触れる。
「うーん」
 伸ばした指の爪は、ぴかぴかに光るくらい磨いているけれど。いつもそこにある赤がないだけで、なんだか気分が締まらない。
 主に可愛いって思われるため、だけじゃないくらい大事なものだったんだなと我ながら感心する加州は、いつまでもこうしてはいられないと意を決して本丸の廊下に踏み出した。

 堂々としてれば、案外だれにも気付かれないかも。
 淡い期待を胸に歩き出した彼を、背後から凛と澄んだ声が呼び止めた。
「加州さん……だったかしら」
「京極正宗」
 加州は振り向いて相手の顔を見つめ、「おはよう」と笑みを向ける。
 ちょうど加州の後ろについていた京極正宗は、にこりと微笑をたたえて「おはようございます」と返した。物腰が柔らかで声量も控えめだが、声にも仕草にもどこか底知れない艶のある男士だ。
「早起きだね。いまから朝ご飯?」
 遠征任務のため早い時間に起床した加州は、自分と同じ時間帯に起きてきた京極に少しだけ不思議そうな顔をする。京極は小さく頷いて、「まだ、人の身で得る睡眠というものに慣れていなくて」と答えた。
 揺らぎの見えない静かな物言いは、本丸に来たばかりで緊張しているのか、それとも彼本来の気質なのだろうか。出会って日の浅い加州には判別がつかず、加州は頬を掻きながらも安心させるように口角を上げる。
「ああ、京極は顕現したばっかりだもんね。でも大丈夫。意外とすぐ慣れるもんだよ」
「そうだといいのですけれど」
 他愛ない雑談がてら、一緒に食堂へ行こうという流れを感じて加州は再び口を開きかけた。次の言葉を発するより先に、京極が形の良い唇から思いもよらない言葉を紡いだ。
「ところで、加州さん。今日の指先は地のままですのね」
「……えっ」
「塗ってらしたと思ったのですが……わたくしと同じ、深い紅を」
 虚を突かれて目を丸くする加州に、淡々と小首を傾げて問う京極。
 加州は思わず二、三度まばたきして、「よく見てんね」と素の口調になって言った。
「あなたは、この本丸でいちばんの刀と聞きましたから」
「いちばんっていうか、いちばん最初に顕現した刀っていうか。それはともかく、まさか来たばかりの京極にまでバレちゃうなんてな」
 言って、加州は苦笑して頬を掻いた。「恥ずかしいから、主にも他のやつにもバレたくなかったんだけど」
「……と、言いますと?」
 どうやら地爪を晒すのは彼の本意ではないらしいと察して、京極はさらに小首を傾げて訊く。加州は隠す必要もないので率直に説明した。
「いや、爪紅のストックが切れちゃってさ。なくなったのがわかった時点で買いに行けばよかったんだけど、あとであとでって思っているうちに剥げちゃって」
 失敗談は笑い飛ばすに限る、と必要以上に笑って語る。
 気にしないで、と片手を振る彼の手を見つめ、京極は赤い瞳をすっと細めて加州の手に触れた。短刀らしい小さな手で右手を取られ、加州の笑い声が止まる。
「加州さん。良ければ、わたくしの部屋に来てください。……お時間は取らせませんから」
 誘うが早いか、加州の返事も待たず。
 京極はくいくいと加州の手を引いて、きびすを返し自分の部屋へと彼を案内した。
 突然のことに戸惑う加州も、強く断ることはできず京極に導かれていくのだった。

 顕現したばかりで物の少ない部屋には、一輪の薔薇が花瓶に活けてあり甘い匂いがした。胸を吹き抜ける薫風のような優しい香りだ。
「石田のお兄さまと日向からいただいたの」
 先ほどよりも砕けた口調の京極に、促されて入室した加州が懐かしそうに笑う。
「主が『この日に京極を迎えられそうだ』って言ったら、その日に合わせて渡せるようにって準備してたやつね」
「あら、ご存じでしたの?」
 揃えられた調度品のひとつ、それなりに立派な鏡台のカバーを外して語尾を跳ね上げる京極。
 加州は、小ぶりだが芳醇な香りを漂わせる薔薇を愛しげに見つめて続けた。
「そうそう。二人とも、正宗の兄弟っていうので随分と嬉しそうだったからね。そしたら、顕現した京極がほんとにこの薔薇みたいな印象だったからさ。みんなびっくりしてたんだよ」
「そうだったんですか……」
 当時を思い出してくすくす笑う加州に、京極は声を潜めて呟いた。
 彼は鏡台の引き出しから赤い小瓶を取り出して、加州に両手を差し出すように言った。小瓶は満杯に近い潤沢な液体で満たされ、まだまだ新品同様の輝きを放っている。深みのある加州の爪紅と比べて、京極の紅はわずかに明るい色合いに見えた。
「わたくしも、それほど手慣れているわけではないので……不安でしたら、加州さんご自身でやっていただいても構いませんけれど」
 ちらりと上目遣いで訊ねる京極に、加州は「んー」と少し悩むそぶりを見せる。
「いや、人のを我が物顔で使うって気が引けるし。お願いしてもいい?」
 やや遠慮がちに言うと、京極は嫌がるでもなく爪紅の刷毛を小瓶の口でしごいた。
「わかりました」
 小瓶に刷毛を押し当てて余分な紅を落とし、加州の爪にそっと載せる。ひんやりと冷たい感触がして、とても丁寧な仕草に加州は内心で感嘆した。繊細な手つきは、もう何年もこの作業を繰り返してきたかのように洗練されている。
 顕現直後は箸を使うのも精一杯な者が多い本丸で、京極は随分と器用な手先を持って呼ばれたらしい。自分の顕現したころを思い出して遠い目をする加州に、京極は世間話をするでもなく黙々と爪紅を塗り進めていった。

 一本一本を手際良く塗って、京極は「……終わりました」と可憐な声音でささやいた。
 あっというまに塗られていく爪をじっと見ていた加州は、「ありがと、ほんと助かった」と素直に礼の言葉を述べる。
「お礼に今度なにか奢るから。街の甘味処でもいいし、雑貨屋を見に行くでもいいし」
「あら、そう気になさらないでください。本丸の一員として、当然のことをしたまでです」
 申し出たものの、京極は柔らかく首を振り、小瓶の蓋を閉めて鏡台の引き出しに戻した。
 加州は、ぱたぱたと両手で空中を仰いで爪紅を乾かした。急いで食堂に行かないと……爪に息を吹きかけ、少しでも早く乾くようもどかしげに爪を見る。
 と、京極が横髪を耳にかけて加州の手元に顔を寄せた。
「ふー……」
 ゆっくりと吐息を爪にかけて、加州の紅が乾くのを手伝ってくれているらしい。
 言葉遣いや立ち振る舞いは独特だが、決して悪い刀ではない。初めからわかっていたことを再認識して、加州はおずおずと言葉を発した。
「京極ってさ。本当に可愛いよね」
 そう言うと、京極はぱちくりと瞳を瞬き「え?」っとこぼす。
 自分とよく似た赤い瞳を見返して、加州は頬をかすかに赤らめながら胸中を吐露した。
「じつは俺、京極とどう接したらいいか迷ってたんだ」
 加州は面映ゆそうに、でも紅を塗りたての爪では頬がかけず気まずそうに苦笑する。
 彼は京極の瞳から目を逸らし、自分の爪を見つめて言葉を選びながら吐き出していった。
「黒髪の赤目で、俺と雰囲気は似てるのに、俺よりよっぽど気品があるっていうか。深窓の令嬢? みたいな……あ、嫌だったらごめん」
「いえ、構いません。続けてください」
 加州の台詞を聞き、京極は顔色ひとつ変えずに聞き役に徹した。
 先を促され、加州は咳払いして決まり悪そうに言葉を連ね続けた。
「俺って、川の下の子っていう……平たく言うと、道端の屋台で売られてたような刀だからさ。この爪とか見た目も、主に可愛いって言われるためにやってきてたし」
 独白に近い形で告げる加州に、京極は口を挟むことなく黙って傾聴する。
 その顔が不快な色に染まっていないかを気にしつつ、加州は思っていることを正直に声に出した。
「修行に行ってからは、けっこう自分に自信が持ててると思ってたんだけど。あんたみたいに可愛くて上品な刀が来たから、どう対応したらいいのかって焦っちゃって」
 だけど、京極は戦場に出れば凛として強い刀だった。正宗の誇りを護らんとして戦う、文句なしの名刀。短刀と言えども気高い戦いぶりは、鮮烈にして熾烈、まさに咲き誇る薔薇の如しと思うくらいだった。
「それに、俺の前でも可愛いところ見せてくれたから……なんか一方的に焦ってたのがしょうもなく思えちゃって。京極、見た目はお嬢さまって感じだけど、思ったよりずっと優しい良い刀だし」
 言ううちに爪紅が乾き、加州は発色の良い赤を見て満足げに微笑する。
「改めて、これからよろしくね」
 微笑みながら髪を揺らしはにかむ加州に、京極も「ええ、こちらこそ」と薔薇のように甘く優しい声色で笑みを返す。メッシュの入った髪がなびき、弧を描く口元はほんのりと淡い朱に染まっている。怜悧な瞳に、温かみのある光が宿っていた。
「っと、そろそろ行かないと」
 加州が立ち上がって、京極も彼に続き部屋を出る。
 二人は揃いの赤を指先にまとい、色合いのよく似た後ろ姿で食堂へと向かった。

 食堂には、すでに遠征部隊や早起きの面々が集まっていた。
「遅かったじゃん、清光」
「あれ、安定」
 大和守はお盆に朝食を載せ、ちょうど席に着くところだったらしい。
「珍しく寝坊したのかと思った。ご飯食べても来なかったら、部屋を見に行ってみようと思ってたんだよ」
「寝坊なんかするわけないじゃん。安定こそ、今日は非番でしょ?」
「んー。なんか早くに目が覚めちゃって」
 なんでもないやりとりをして、加州の隣の京極に目を向ける。
「なんか今日の二人、いつにもまして雰囲気が似てるね」
 その台詞には京極の方が反応した。
「そうですか?」
「うん、なんだろう……同じ匂いがするっていうか」
「犬かよ。匂いって何さ」
 加州は笑いながら京極と連れ立ってお盆を取りに行き、朝食の品を載せて大和守の隣の席に腰を下ろした。
「いただきまーす」
 両手を合わせて箸を持つ加州に、大和守が「あれ?」と素っ頓狂な声を出す。
「清光の爪、いつもと色が違くない? なんか、いつもより鮮やかっていうか」
 ご飯で頬を膨らませながら言う大和守に、加州は危うく箸を取り落としそうになる。
「……お前、色の些細な違いとかわかるんだ?」
「なんだよ、その言い草」
 ご飯を飲み込み、唇を尖らせる大和守。加州はジト目になって、「だってお前、そういう繊細な感性とか持ってなさそうじゃん」と重ねた。
「失礼だな。お前の赤は見慣れてるから、なんとなく目につくんだよ」
 わいわいと賑やかに言い合って食事する二人に、京極がくすりと笑みを浮かべる。
「お二人とも、とても仲良しですのね」
「仲良しっていうか……」
 加州は釈然としない顔つきで言ったが、大和守はぱっと笑顔になって京極の手元に視線を移す。
「ああ、どこかで見た色だと思ったら、京極正宗の爪の色だったんだね」
「……あら。もうわたくしの爪を覚えてくださってたんですか?」
 自分の爪を凝視されて、京極は訝しげに首を捻って大和守を見る。
 大和守はあっさりとそれを否定して、「でも、同じ本丸に来た仲間でしょ? きっとすぐに覚えるよ」と白い歯を見せた。
「……」
 屈託のない笑顔に、京極はなんと返したものか考え込んで口を閉じてしまう。
 隣の加州が、そんな京極に「大丈夫大丈夫。こいつらのこういうところにも、すぐ慣れるから」と困り眉ながらまんざらでもなさそうに笑う。
「……わたくしの赤色を、覚えてくれるのですね」
 京極はしみじみと感慨深そうに呟き、すでにご飯を口に運んでいた加州が「どうかした?」と声をかける。
 京極は「なんでもありません」と上品な微笑で応えて、「いただきます」と赤い爪の両手を合わせ朝食に箸をつけるのだった。
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