アドベントカレンダー
ワード「赤い鼻」「歌」
「……~♪」
伸びやかな声は、まるで歌い手の心根を表すかのように清廉だった。
どこまでも優しく穏やかなメゾ・ソプラノ。冬の空気の如く澄んでいるが、決して冷たさは感じさせない。子どもらしいあどけなさの残る歌声が、部屋中を柔らかな音色で満たしている。
安定感を保ったまま一息に歌い上げて、緑髪の少女は直立不動の姿勢で天井を仰いだ。
同時に、ぱちぱちと軽い拍手の音が鳴る。
「うん。始めたての頃よりだいぶ上達したな」
「えへへ、本当ですか?」
賞賛の言葉を贈る女性へ、ふにゃりと顔をほころばせる少女。
少女は頭に乗せているバケツへ触れて、「レコさんのおかげです」と口角を上げた。
「レコさんに言われた通り、毎日ちゃんと大きめのバケツを被って練習したんです。一度お姉ちゃんに見つかって、すごく心配されちゃいましたけど……」
苦笑いで報告する少女に、レコと呼ばれた女性が闊達に笑う。
「はは、でもれっきとしたトレーニングだからな。バケツを被って歌うと、中で自分の声が反響して音程のズレとかがわかりやすくなるだろ?」
言われた少女は素直に頷く。そして、内心で(レコさんもバケツを被って歌ったりするのかな)と、つい面白い想像をしてしまう。
そんな彼女の脳内などつゆ知らず、レコは少女の頭にあるバケツを指先で叩いて付け加えた。
「それと、カンナは普段から頭にバケツを乗せて生活してるから、知らないうちに体幹も鍛えられてるんだろうな。歌っていうのは正しい姿勢も大事だからな」
「思いがけないところで役に立って良かったです」
どこか誇らしげにバケツを撫でて、にっこり笑う少女・カンナ。
現役ボーカリストとしてお墨付きを与えたところで、レコはカンナに一休みの提案をする。二人は温かい紅茶を飲みながらしばし雑談を交わした。
「……にしても、人の部屋にいるのってなんか変な感じだな」
カンナが持ってきてくれた紅茶を一口すすり、レコは落ち着かない様子で周囲を見回した。
つられて自室を眺めたカンナが、「そうですか?」と小首を傾げる。
六畳一間ほどの彼女の部屋は、フローリングの床に一台のベッド、勉強机とクローゼット。それから本棚やコンパクトなオープンラックといった、普通の中学生らしい生活感に満ちている。カーテンや家具はナチュラルな色合いでまとめられて、じつに爽やかで健やかな雰囲気だ。
「ん、まあ他人の家だしな」
頬を掻くレコの姿は、なんだか『借りてきた猫』という言葉がよく似合う。
再び不躾な想像を繰り広げるカンナへ、そのことに気づいてもいないレコが「ところで」と紅茶のカップを置いた。
「合唱コンクール、今度の日曜だったよな。結局、親御さんは来られないんだったか」
その言葉に、カンナの顔がわずかに曇った。
温かな紅茶を両手で包むように持ちながら、彼女は一瞬だけ目を伏せた。直後、なんでもないと言うように無邪気な笑顔を浮かべる。
「やっぱり、どうしても都合がつかないみたいで……お姉ちゃんの学校で、大事な説明会があるらしくて。せっかく家族にも見てもらえるコンクールだったんですけど」
「え、お姉さんも来られないのか?」
それは初耳だと驚くレコ。カンナは、ルビー色の紅茶に少しだけ口をつけた。
「こっちは単なるクラスの合唱コンクールですし。お姉ちゃんの進路の方が大事なのは当たり前ですから」
言って、彼女は悪戯っぽく笑みを深めてみせる。
「それに、カンナの方にはレコさんが来てくれますから」
言うが早いか、彼女は勉強机に掛けてあるカバンから一枚のプリントを取ってきた。
赤を基調としたクリスマスカラーのプリントは、学校からのお便りにしては随分と気合が入っている。内容は合唱コンクールについての案内で、会には生徒の家族のみ参加できるとのことだった。本来のクリスマスという行事に従い、家族的な雰囲気が強い催しになるらしい。
「……本当に私で良いのか?」
渡されたプリントを手に、遠慮がちに訊ねるレコ。
カンナは元気よく首を縦に振る。
「もちろんです! カンナにとってお姉さんみたいな存在ですし、歌を教えてくれたのもレコさんですから!」
懐っこい小動物じみた笑顔のカンナに、レコはカンナの義理の姉に悪いなと思いながら「なら良いけどさ」と照れくさそうに微笑する。
彼女は不意に「そういえば」と口を開いた。
「ソウは誘わないのか? 実の兄貴だろ」
途端、カンナの顔がわかりやすく赤くなった。暖房が効いているとはいえ、冬の室内だというのに薄く汗をかいている。
「……ソウさんは、その。まだあんまり話したこともないですし、正直、緊張しちゃうというか」
本人がこの場にいるわけでもないのに、居たたまれない様子で視線をあちこちへと巡らせる。
レコは「あー……」と複雑そうにカンナを見つめた。
「ま、実の兄妹ってわかったのもわりと最近だもんな」
打ち解けるにも時間がいるよな、という台詞は紅茶ごと飲み干してしまう。
白い頬を朱色に染めて、カンナは顔全体を両手であおいだ。気恥ずかしさや気まずさを払うように、明るく声を上げる。
「そろそろ、練習再開しましょうか。もう一度、最初から通して歌ってみます!」
レコの返事も待たずに、すくっと立ち上がって背筋を伸ばすカンナ。
天まで届きそうな、まっすぐで清らかな歌声が部屋いっぱいに響く。聴き手まで童心に返ってしまいそうな、邪気のない天真爛漫な声だ。
けれどそれはどこか寂しさも伴っているように感じられて、レコは改めてカンナの歌に複雑な面持ちで聴き入るのだった。
『……もしもし?』
『おっ、起きてたか。今日は夜勤か?』
『仮眠とってたところを起こされたんだけど。今日は休みだよ』
『そうか、悪い悪い。ソウ、今度の日曜は空いてるよな?』
『なんで決めつけるのさ……なにか用事?』
『ちょっとな』
コンクール会場は、市民会館の小ホールだった。
収容人数は五百人弱。カンナの学年だけのコンサートとはいえ、席は生徒の家族でぎっちりと埋まっている。
「……あのさ。レコさんはカンナの家族じゃないよね」
「なんだ、一人で平気だったのか?」
今日も今日とて水玉マフラーを装備した緑髪の青年が、隣の席に座るレコをジト目で見る。しかし間髪入れずに淡々と返したレコの言葉で、彼は人の多いホール内を見渡してげんなりとニット帽を被りなおした。
「まったく。中学の発表会だって聞いたから、もっと小規模なものだと思ってたのに」
ぶつくさと文句を垂れて背もたれに寄りかかる青年。
「ソウって学校とか苦手そうだしな。かえってこういうところで良かっただろ」
「偏見だよ。まあ、得意じゃないけど」
失礼な台詞を放ったレコへ、ソウと呼ばれた青年が溜息を吐く。
寒さにめっぽう弱い彼は、暖房の入った室内で防寒具まで身に着けているにも関わらず、赤い鼻をこすって舞台に目をやった。
「帽子は取れよ。他の人に迷惑だ」
「ええ……」
嫌そうに、しぶしぶながらニット帽を外すソウ。
タイミング良く、マイクを持った男性が舞台上に現れる。中学の校長という男性は、保護者一同へ簡単な挨拶を述べて今日のプログラムを説明した。
レコも、事前にカンナからもらったパンフレットへ目を通す。カンナのクラスは一番手のようだ。
さほど長くない開会式が終わり、客席の照明が落ちる。舞台上を白い光が照らして、何列かにわかれた生徒たちが整然と舞台上に並ぶ。
「ほら、二列目の右端」
「み、見えてるよ」
こそこそ耳打ちするレコに、ソウが頬をかすかに赤くする。
二人の席から見えるカンナは、程よく緊張感を持った顔つきで正面を見据えていた。見つからないようにと、椅子にもぐるような体勢で隠れるソウだったが、
「背筋伸ばせって」
レコに背中を叩かれて大人しく背もたれに背を預ける。
そのうち、ついに合唱本番が始まった。
「~♪ ~~♪♪」
クリスマスシーズンになると、テレビや街中でよく耳にする定番の楽曲。それを讃美歌風にアレンジした歌が、さして広さのないホールを揺らす。
カンナもレコとの練習通りに胸を張って、ホール中に堂々と歌声を響かせていた。色白な肌は紅潮し、その懸命さや真剣な表情から彼女の真摯な心持ちが伝わってくるようだ。
練習の成果が出ていると、レコは満足げに口角を緩めてカンナを見守る。
ふと隣を見やると、
「……」
ソウは、思いがけない贈り物をもらった子どものような目をしていた。瞳は夜空に瞬く星のように輝いて、静かに、だがたしかに熱を帯びた視線をカンナへ注いでいる。
実妹の歌声がよほど琴線に触れたらしい。思いのほか真面目に聴き入る彼へ、レコが思わず含み笑いを漏らす。それに気づいてか、彼は頬をさらに赤くしてマフラーを口元へ引き上げた。
「…………」
ソウはカンナの声だけでなく、表情や仕草全体を見つめて感慨深そうに目を細めている。眼差しは普段の彼からは想像できないほどに優しげで、彼らしからぬ柔和な空気をまとっていた。
一方、カンナの方は思っていたよりも楽しい気持ちでメゾ・ソプラノを響かせていた。
始まる前は緊張の方が上回ってしまいそうだったが、いざ舞台で眩しいライトを浴びて口を開くと、なんだか非現実的な場所に来たようで開放感の方が勝っていた。
姉や両親が来られなかったのは残念だが、それはそれとして良い思い出になりそうだ。きっと来てくれているだろうレコも、一体感ある歌声を褒めてくれるに違いない。
そんな予感で文字通り天にも昇る気持ちの彼女は、サビに向けて大きく深呼吸する。
サビ前の短いパートを歌うために唇を開き――彼女は、客席に座るレコと、そこにいるはずのない実兄の姿に気がついて息を呑んだ。
「~、っ」
幸いにも声が小さくなった程度で、音程がズレたり合唱の流れを乱しはしていない。
しかし予想だにしていなかった光景を認め、カンナは突如として沸き上がった羞恥心でスカートの端をぎゅっと握る。指先は小刻みに震えていた。
(なんで、ソウさんが、)
頭が真っ白になってしまい、目線の先にいるソウがブレて見える。横にいるレコの心配そうな顔の方が、なぜかやたらとはっきり見えた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。口を開くのが怖い。こんなに身構える必要がないことはわかっているのに、心臓がばくばくと暴れている。緊張してしまう。どう接していいか、わからないから。……どう思われているか、わからないから。
カンナにとって、ソウは突然に現れた兄だ。ソウにとっても、カンナは突然どこからか現れた妹にすぎないだろう。それなのに、わざわざ来てくれたのか。そう思うほど、申し訳なさで頭が満たされてしまう。
サビは、もう目前まで迫っていた。声が出ない――眉間に力のこもったカンナの目に、ソウの姿がくっきりと映る。口の周りを手で囲って、メガホンのようにした両手のあいだから、唇が動いているのが見える。開いて、閉じて、開いて、横に広がって。
(が、ん、ば、れ)
意味を理解した瞬間、カンナの胸が一段と大きく鼓動した。強張っていた全身が鼓舞されて、プレッシャーも気まずさも弾け飛んでしまう。
サビのメロディーが耳にすっと入ってきて、カンナは大きく口を開けた。震えは止まっていた。
「♪~♪、~♪♪♪」
顔が熱い。その熱ごとエネルギーにして、力強く歌う。
レコからの指導中に「力み過ぎるなよ」と言われたことを思い出し、できるだけ肩の力を抜く。頭の先から吊られているイメージで。体に一本の芯が通っているように。
そうしてサビのメロディーを歌い終わった瞬間。ホールは、大音量の拍手で沸き立った。
赤い顔で肩を上下させるカンナに、レコとソウが並んで拍手している姿が見える。
レコは歌の師匠らしく満ち足りた顔で。ソウは、少し困ったように眉を下げて、それでもカンナの歌声に感じるもののあった表情で。
二人の笑顔に見つめられて、カンナも目尻に薄く涙を浮かべた笑顔で深々と頭を下げるのだった。
「ソウさんが来るなんて、聞いてなかったです!」
プログラムが終わり、閉会式も終了したホールの外。
生徒はそのまま家族と帰宅する流れになっていて、頬を膨らませたカンナがレコに詰め寄っている。屋外に吹く風は冬らしい冷たさだが、彼女の頬が熱いのは寒さのせいばかりでもなかった。
赤面して怒るカンナに、レコが悪びれない物言いで開き直った。
「事前に言ったら、本番まで何日も悩んじまうと思ってさ」
「それは、そうですけど……」
言いつつ、カンナはちらりとソウに視線を飛ばす。
カンナから少々、目線を外しているソウは、マフラーから覗く目元を赤くしていた。本当は今すぐにでもここを立ち去りたいらしいが、レコの圧がそれを許さずにいる。
カンナの視線を受けて、ソウが一言だけ感想を告げる。
「……まあ、良かったんじゃない?」
ぱあっと花開くように笑うカンナ。
レコは物足りないようにソウを見たが、カンナ本人があまりに喜色満面の様子なのでやれやれと苦笑する。そして、姉御肌な気質のにじむ顔でカンナに微笑んだ。
「人前で歌うのは緊張するだろうけど、たった一人でも『こいつのために歌う』って決めた相手がいれば、まっすぐ歌えるだろ」
言葉通りのまっすぐな笑顔に、カンナも素直に「はいっ」と頷きを返す。
それから、カンナは無垢な声音でレコに言った。
「レコさんにも、きっとそういう人がいるんですよね」
日頃、シンガーとして活躍しているレコの姿を思い出しつつ純粋な眼差しを向ける。
言われたレコは虚をつかれたように目を丸くし、少しの間を置いてからふっと口の端を緩める。
「……さぁな」
その様子になにか言いたげな視線を送るソウだったが、口を挟むこともない彼の眼前でレコのスマホが着信のメロディを流した。彼女の所属するバンドが先日リリースした楽曲だ。
振動するスマホをタップして、「ちょっとごめん」と電話に出るレコ。かけてきたのは気心の知れた相手らしく、ラフな口調で短く相槌を打っている。
いつのまにか近い距離で並んでレコを待つカンナとソウに、彼女は一旦スマホから耳を離して問いかけた。
「アリスから今度のクリスマスライブについて連絡なんだけどさ……二人とも、イブは暇か? 良い歌声を聴かせてもらった礼に、二人分チケット用意するぜ」
「えっ、いいんですか?」
申し出に、カンナが恐縮とそれ以上の高揚で声を弾ませる。
「ライブ……? 今日以上に人が多くて、音が大きいところじゃん」
ソウは非常に嫌そうな顔で唇を歪めたが、
「……」
カンナが両手を組んで上目遣いで熱視線を送ると、
「…………ああもう、わかったよ。行けばいいんでしょ」
ニット帽を押さえながら、半ば投げやりに降伏の意を示した。
話はまとまったと、レコは通話口のアリスへチケットの手配を頼む。そうして通話を切った彼女の腕に抱きつき、カンナは心から幸せそうに頬を緩めた。
「ふふ、とっても楽しいクリスマスになりそうですっ」
彼女の声に呼応して、レコとソウも冬風のように澄んだ笑みでカンナを見つめていた。