アドベントカレンダー
ワード「満月」「コーヒー」
深夜。室内灯の明かりに満たされた部屋の中。
壁側に立てたイーゼル、そこに立てかけたF20号のキャンバスを見つめて、少女は深い溜息を吐く。
「……明日の講評、本当にやだなぁ……」
悲痛なまでに深刻な言葉。少女のかたわらに置かれた、スピーカー状態で通話中のスマホから楽観的な声が響く。
『出た出た。ナオの発作』
毎回じゃん、と笑う声の主。
ナオと呼ばれた少女は、体育座りで揃えた膝頭に顔を埋める。やたらと毛量の多い長髪が、まるでモミの木のようにもさもさと揺れる。
「だって、いつも予想してなかったこととか聞かれて焦っちゃうし。構図の理由とか、配色の意味とか」
『あー、ナオって意外にフィーリングで描いてるとこあるもんね』
「まるっきり直感だけで描いてるわけでもないけど……あんまり理論的に考えすぎると、自分が何を描きたかったのかわからなくならない?」
すがるように訊ねるナオへ、通話相手は気のない声で返す。
『結局、知識ってのは表現のための道具でしかないんだからさ。いま自分が使いこなせる範囲のやり方でやるしかないと思うよ』
言って、『というか明日じゃなくて、もう今日だし』と告げる通話相手。
はっとスマホの画面に目を向けたナオは、陰鬱な顔をさらに青白くした。長時間おしゃべりしているうちに、いつのまにか時刻は講評当日になってしまっていた。
通話の相手、もといナオと同じ美術大学に通う友人は、さばさばした物言いで会話の締めに入る。
『あたしも朝から用事あるし、ナオもさっさと寝なよー? 寝不足だと余計にダメージ食らうよ?』
「……う、うん。頑張るね」
本心ではもう少し不安や悩みを聞いてほしかったが、それで問題の根本的解決に繋がるわけでもなく。ナオは大人しく頷いて、「じゃあ、おやすみ」と就寝の挨拶を口にした。
相手からも『おやすみ、またね』の声が届き、一拍の間を置いて通話の終了音が鳴る。途端に一段と寂しさが増したようになって、ナオはまたも嘆息した。
目の前に置いてある油画、自分なりに情熱をもって全力で描き上げた一枚の絵を見やる。描いている最中の試行錯誤は楽しかったが、完成してから改めて確認すると、それまで見落としていた粗が次々に浮かび上がってきた。
とはいえ、これから手直ししてもかえって中途半端な出来になるだけだ。
「…………」
体中の酸素と二酸化炭素が入れ替わりそうな勢いで息を吐き、彼女はスマホを手に力なく立ち上がった。壁に掛けてあるコートを羽織り、財布をポケットにしまって家の鍵を持つ。
悶々とした憂いで、今夜はすんなり眠れそうにない。
経験則からそう判断して、彼女は真夜中の屋外へと気分転換の散歩に出かけた。
日付が変わって三十分程度が経った夜道。
夜半の真っ暗な道路には、白い明かりを放つ街灯が規則的に並んでいる。明かりの群れに沿って歩き、ナオは自宅から徒歩3分の公園前に来た。
近くの自動販売機で、小さなミルクティー缶を買う。コートの袖を伸ばして両手で包み、人のいない公園にこっそりと入っていく。
真冬の空気は気持ちいいほど澄んで、満月が神秘的に輝いていた。まだ雪が降るほどの寒さではないが、吸い込まれそうなくらいの存在感を見せる月からは、いまにも繊細な結晶が零れ落ちてきそうだ。
公園の柵付近に設置されているブランコは、昼間とはまったく違う佇まいでそこにあった。音も聞こえない無風の中、彫刻の如く微動だにせず月光を浴びている。
二席あるブランコの片方に腰を下ろすと、見るからに年季入りの鎖がデリカシーなく軋む。ナオはポケットからスマホを取り出した。
真っ黒な画面に自分の情けない表情が映っている。講評のことをミシマやレコに相談したいと強く思ってはいたが、一年最後の課題は自分の力で乗り切りたいと、スマホは起動させないままでポケットに戻す。
ミルクティー缶は少しずつ温度が下がったらしく、彼女はカコンと音を立ててプルタブを開ける。素手で持つと両手の内がじんわり温まった。
一口、二口、火傷しないよう注意してミルクティーを飲むナオ。口いっぱいに優しい甘さが広がり、甘い香りが鼻を抜けるのと同時にお腹の底も温かくなる。
「はぁ……」
吐息と表情は、幾分か柔らかいものになっていた。
一人しんみりと夜の公園を眺めるナオの背後に、ふと怪しげな影が差す。わざとか無意識か、じゃりじゃりと小石を散らす不穏な足音。煌々ときらめく月の光で、横顔に黒い影が落ちた男。
気配にナオが振り返った瞬間――金髪の男は、胡乱な微笑をたたえてナオを見下ろした。覇気の薄い眼差しは、神聖な月光を拒むかのように物憂げな影を宿している。
「こんな時間に一人かい?」
「ケイジさん」
驚いた声を漏らすナオに、ケイジがおどけた口調で応じる。「どうも、おまわりさんでーす。オレは深夜帯の見回りってところかな」冗談混じりの口調と、シンプルなコートとトレーナーにジーパンといった服装からして、職務中ではないようだ。
「家、近所なんです。ちょっと大学の課題でもやもやしちゃって……すぐ帰るつもりだったんですけど」
ブランコに座ったまま苦笑するナオ。ケイジは、ナオのそばに立ち止まった。
「冬は気が滅入りやすいからね。でも、冷たい空気を吸うとちょっとだけ気分が落ち着くよねぇ」
「ふふ、わかります。冷えた空気の中で、温かいものを飲むのも冬ならではの幸せですよね」
笑みを返し、ナオはまだ半分は残っているミルクティーの缶を掲げて見せる。ケイジが「奇遇だね」と口角を上げた。よく見ると、彼は片手にコーヒー缶を携えていた。
ケイジは、缶のタブを引いてコーヒーに口をつける。たった一口ほどですぐに口を離すのを見ながら、ナオは浮かない面持ちに戻っていた。
「……ケイジさんは、警察官さんなんですよね。たしか、子どもの頃から憧れていたって」
白い息を吐いて、ケイジは少しばかり気恥ずかしげに頷いた。
「よく覚えてるねー。まあ、子どもによくある『ヒーローへの憧れ』って感じだったかな」
照れた様子で月を見上げる彼に、思わずナオは自然と口を開いていた。
「その……将来の夢を追うとき、不安になったり、怖かったりしたことってありませんでしたか? 本当に自分にできるのか、この道で合っているのかって」
弱さを垣間見せつつもまっすぐな問い。ケイジは、「うーん」と過去を振り返る目つきを見せる。
コーヒーを片手で弄んで悩む姿に、慌ててナオが「失礼な質問だったらすみません」と首を垂れる。ケイジは、マイペースに首を傾げて答えた。
「どっちかと言うと、なるまでよりも『なってから』の方が大変だったかな。理想と現実の違いや、変わってしまった人との関係だったりね」
軽い口調で、けれども瞳の奥に重みのある過去をほのめかせた返答。
ナオは、詳しい内容には触れず「……なるほど」と首肯する。ケイジの方から、もう一段ほど踏み込んだ回答が重ねられる。
「自分が信じていたものが、ある日、びっくりするくらい突然に引っくり返ってしまったりさ。もともと頼りにしていた道標や指針が狂ったとき……まあ、どんな夢や仕事にも、やって初めてぶつかる壁っていうのはあるんじゃないかな」
話し過ぎたと思ったのか、唐突に話題の進路を変えて綺麗にまとめるケイジ。
一通りの答えを聞き終えて、ナオはますます不安げに肩を落とした。
「せっかく夢を叶えても、その先で新しい困難にぶつかることもあるんですね」
「夢を叶えるっていうことは、ある意味、新しいステージに立つってことだからね。そりゃ、挑戦し続けていれば壁は付き物だよ」
なんでもないことだと言いたげに薄く笑うケイジへ、ナオは困り顔で夜空の満月へと視線を移した。気付かないうちに大きな雲が現れて、満月の半分以上を隠してしまっている。
月に叢雲。心の内で呟いた瞬間、厳しい冬の風がさぁっと吹きつけた。長髪が風にあおられ、彼女はとっさに目を瞑った。
風がやむのを待って目を開けると、月の周りには先ほどよりも多くの雲が群れていた。
「……自分の感性を信じていいのか不安で、つい他人の意見を聞きたくなってしまうんです。私の作品は変じゃないか、ちゃんと伝えたいことを間違いなく伝えられているかって」
独白のように呟くナオ。ケイジは、再びコーヒーに口をつけて静かに聞いている。
ナオは、コートのポケットから小さなクロッキー帳を出した。大きめサイズのポケットにちょうど良く収まる、手のひらより一回り大きいくらいのアイデア帳だ。その表紙に指を滑らせ、しかし中は開かずに苦笑する。
「受け取り方なんて千差万別ですから、私の伝えたいことと観た人の感じた印象が違うことなんて当たり前なんですけどね」
頭では理解しているけれど、ともどかしげに眉を下げる。
ややあって、ケイジは相変わらず力の抜けた声で気だるげに言った。
「オレには、芸術のことなんて正直さっぱりわからないけどさー。結局、キミの絵はキミにしか描けないって、なにかで聞いたことあるし。そう思いつめなくてもいいんじゃないかな」
それから「それで大学に受かってるわけだし、堂々と胸を張っていればいいと思うよ」などと調子良く笑う。投げやりだがどこまでも前向きな考えに、ナオが思わずといった表情で噴きだした。その笑い声に紛れて、ケイジがぼそりと意味深に呟く。
「……あまり他人の意見を頼りにし過ぎると、失敗したときにその人のせいにしてしまうかもしれないからね」
そして、彼はナオのクロッキー帳を見てみたいと口にした。
「オレなんかの感想、あてにならないとは思うけど」
美術や芸術に関して門外漢である手前、卑屈にならない程度の言葉を添える。
ナオは恐縮した顔で「いえ、見てもらえるのは嬉しいです。ちょっと恥ずかしいですけど」とクロッキー帳を差し出した。
ちょうどのタイミングで雲が風に流れ、遮られていた月光が改めて二人を淡く照らす。
ページが風でめくられそうになるのを押さえて、ケイジはゆっくりとクロッキー帳をめくった。同級生や教授を描いたのだろうか、ラフな線で描写された人物の数々。動物の剥製に植物から人工的な小物、野外風景など、モノクロでも充分に見ごたえのある美術スケッチがいくつも描かれている。
丸やバツ、三角といったシンプルな図形をもとに構図を考えていると思しきページもあり、小さな帳面にはナオの熱意が溢れんばかりにほとばしっていた。
途中からは季節を感じさせる「雪の結晶」や「クリスマスツリー」といった絵が増えて、課題に関するメモだろう、ケイジには聞き慣れない用語で苦悩の跡が刻まれている。
焦らずとも、ナオはきちんと自分なりに歩を進めている。だからこそ自分の行く先を悩みもするのだろうが、彼女が足を止めることはなさそうなので、きっと大丈夫だろう。
まるでナオの保護者にでもなったような気分で目を細めるケイジに、ナオがブランコから立ち上がって一緒に帳面を覗き込んだ。
「いちばん最後に描いてあるのが、明日……今日の授業で提出する油画のエスキース、ええと下書きみたいなものです」
言われて、ケイジは最後に描き込まれているページをめくる。
どのページよりも緻密に描かれた一枚。おそらく鉛筆のみで描かれただろう白と黒のスケッチは、ナオの並々ならぬ執念と気迫がこもったものだった。一見して崇高なる宗教画にも見えるが、どこか人間らしい激情と哀切の念も感じられる。
……というか、芸術にうといケイジには「アヴァンギャルド」という単語が浮かぶ類の作品だ。前衛的かつ革新的。平たく言ってしまえば、「芸術的すぎて芸術であることはわかる」という感想が抽出されてしまう。なんとも独創的で挑戦的、抽象的だが妙なリアリティがある。
圧倒され、少なくとも自分の心が強烈に揺さぶられたことを自覚して微笑むケイジ。ナオはブランコに座ったまま、少々緊張した面持ちで彼を見上げている。
「……やっぱり、下手に他人の意見を取り入れるより、このままナオの感性を熟成させてほしいね」
茶化すでもなく、面白がるように言ったケイジにナオの顔が薄赤く染まる。
「本当ですか? 私、自分の気持ちに正直に描いていいんでしょうか?」
「うん。これからが楽しみだよ」
勢いよく立ち上がり、ナオが「ありがとうございますっ」と満面の笑みを見せる。
彼女にクロッキー帳を返し、ケイジはナオを自宅まで送ると歩き出した。
雲が去った夜空に浮かぶ満月は、二人の歩く道を美しく照らし続けていた。
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