甘々文字書きワードパレット
お題:ガトーショコラ 北谷菜切と肥前忠広
ワード『拭う』『目を伏せる』『溜め息』
真夜中の本丸は、大部分が照明を落とされて静まり返っている。薄暗い廊下を明かりもつけずに進み、肥前忠広は前方から賑やかな雰囲気を感じて歩を止めた。
複雑に入り組んだ廊下の先、本丸の玄関方面に向かって左に曲がったところには広間がある。夜な夜な酒盛りの会場に使われるそこからは、今宵も眩しいほどの明かりと楽しげな話し声が漏れていた。
一定の間隔で湧き起こる笑声は廊下にまで響き、昼間と遜色ない明るさで盛り上がっている。肥前は不機嫌な表情で広間の方を一瞥した。
「……ちっ」
空腹で夜食を求めて徘徊していた彼だったが、酒飲みたちの宴会に顔を出すのはどうも抵抗感がある。行けば小腹を満たす程度のつまみは提供してもらえるだろうが、代償として酔っ払いどもの話を延々と聞かされることになるだろう。
肥前自身も酒を飲んでほろ酔いになれば適当に受け流せるのだが、あいにく明日は出陣予定が入っている。もともとそれほど酒に強いわけでもなく、飲めば間違いなく体調に影響するだろう。
かといって素面で酔っ払いの話し相手をする気にもなれない。彼は、そっと方向転換して給湯室を目指した。
厨より奥にある給湯室には、本丸の経費を使ってさまざまな食品が備蓄されている。湯煎するだけですぐ食べられるレトルトのおかゆや、電子レンジで温めるだけで美味しくいただける冷凍の総菜。お湯を入れて数分で完成するインスタント麺。いつでも手間をかけずに食事がとれるとは、文明の利器は実に素晴らしくありがたい話である。
人類の進歩と科学の発展に思いを馳せつつ、肥前は廊下の軋む音だけを耳に目的の場所へ向かう。その途中、彼の瞳に思いがけない灯りが反射した。温かくて優しい、人の体温を思わせるような光だ。
「……?」
白っぽい清潔な明かりが漏れているのは、給湯室より手前にある厨房の出入り口だった。「雰囲気が出るから」という理由でつけられている珠暖簾 の向こう側、かすかにだがしっかりと人の気配が滲んでいる。意識的に耳を澄ませば、水の流れる音や硬いもののこすれる音も聞き取れた。
肥前は少し考えて、珠暖簾をくぐり気配の主に声をかけた。
「だれかいるのか?」
厨房は刀剣男士の個室四つ分はありそうなくらいに広い。
暖簾を掻き分けて顔を出すと、途端に甘い香りがふんわりと肥前の鼻孔を覆った。チョコレートの匂いだと鼻をひくつかせ、厨の中央に寄せられたテーブルの一つに目が吸い寄せられる。脚がついた網を台にし、型にはまった状態のミニホールケーキがテーブルを埋めていた。
綺麗に片付いているシンプルな調理場には、幼子の姿をした短刀の姿があった。
「あれー、肥前かー。夜更かしさんだねぇー」
鮮やかな桃色の髪をひとつに結び、短刀――北谷菜切はくすりと笑って振り返った。小さな手を泡だらけにして、小鍋や計量カップを洗っている最中らしい。
「こんな時間に菓子作りかよ」
訝しげな肥前の言葉に、北谷はのんびりと笑って頷いた。
「なんだか目が冴えちゃってねー。明日は非番だし、たまにはこんな時間に作ってみるのも楽しいかと思ってさ」
「……にしても、凄い量だな」
もう一度テーブルに目をやり、肥前は呆れと感嘆の入り混じった口調で呟いた。
「明日か明後日のおやつ用さー。出来立てだから粗熱を取って、冷やしてから食べるとでーじまーさんよー」
でーじまーさん。とっても美味しい、って意味だったか。心の内で北谷の言葉を翻訳して、肥前は「そりゃ楽しみだな」と仏頂面で返した。彼の出陣予定は午前中のみなので、早くも午後の楽しみが出来た。ちなみに明後日は非番だ。
洗い物の手は止めず、今度は北谷の方が質問する。
「肥前は夜食かー? 夕食、足りなかったかー?」
声は心配の色が濃く、肥前は頬を掻きながら目を逸らす。ややあって、彼は決まりの悪い表情で首を振った。
「いや、足りなかったわけじゃねぇ。どんだけ食っても、一定の時間が経ったらまた腹が減っちまうんだ」
「それは難儀やさー……」
北谷は同情するように呟き、そして水道の蛇口をひねって水を止めた。洗い終えた調理器具を乾燥機にかけ、タオルで手を拭いて踏み台から身軽に飛び降りる。
夜更かしもほどほどに、と場を離れかけた肥前の背を、北谷はにこやかな誘いの台詞で引き止めた。
「良かったら、ちょっと食べていくかい?」
テーブル一面に並べられたケーキは、濃厚な香りを漂わせて物静かに鎮座している。
肥前と北谷は、網に載せられたホールケーキの群れにひとつひとつフードカバーをかけた。一つだけ、いちばん端にあるものをケーキ―クーラーごとべつのテーブルに移動して、北谷は肥前に小皿とフォークの準備をお願いする。
「熱いうちに食べるのも、充分に美味しいからねぇ」
にこにこと上機嫌で告げる北谷。肥前は言われた通りに食器を出し、北谷はケーキを型から外してフォークで大雑把に切り分けた。完全な二等分ではなく、明らかにわざと片方が大きめに切られている。それでもミニとはいえホールケーキを半分にしたのだから、小さい方でもけっこうな大きさだ。
「……こんなに食ったらもたれそうだな」
「ありゃ、そうかー。じゃあもうちょっと小さくしようねぇ」
北谷は再び切れ目を入れて、肥前の分をさらに小さくした。それを自分の皿に移すと、二人のケーキはそれでちょうど同量くらいの配分になった。具体的には肥前の握り拳より一回り大きいくらいか。食べきれるんだろうかと北谷へやや不躾な視線を投げる肥前だったが、当の北谷はさして気に留めていない様子で準備を進めた。
最後の仕上げに茶こしで粉砂糖をふりかけ、北谷は「特製ガトーショコラの完成さー」と満足げに口角を上げた。
パウダースノーの如く繊細な砂糖のきらめきは、いかにも「食べられる準備ができました」と言っている風に見えた。「さあどうぞ」とばかりに佇んでいるガトーショコラを見つめ、肥前は持ってきた椅子に腰を下ろして合掌する。
「……まさか、洋菓子を夜食にするなんてな」
両手を合わせて小さく頭を下げ、デザート用のフォークを取って不思議そうに言う。
「こんな時間に甘いものを食べるのは、ちょっと背徳感があるねぇ」
北谷も悪戯っぽく笑って、いそいそと切ったケーキを口に運び頬に手を当てた。
「ん~、やっぱり作り立ては格別さ~」
心から幸せそうな笑みを浮かべ、一口をじっくり味わって食べる。肥前も柔らかな生地にフォークを突き差して、大口を開けて頬張った。
焼き上がってからそれほど時間の経っていないらしいショコラは、一肌程度の温かみが甘さを口いっぱいに広げていく。甘みに隠れたほんのわずかなほろ苦さがアクセントになって、なめらかな食感が舌の上で心地良い。しつこくない上品でまろやかな風味は、弾力のある生地だというのにまるで飲み物のようだとさえ思えた。
「ん……うめぇな」
肥前の口から本音がこぼれ、北谷はうんうんと嬉しそうに頷いた。うなじの辺りで結ばれた髪が、馬や猫の尻尾みたいに揺れる。
しっとりした生地の舌触り、くどすぎない絶妙な味わいのチョコレートを堪能しながら、肥前は熱をとっている最中らしいケーキの群れに何気なく視線をやる。
「あれは、どれくらい放置しとくんだ?」
無言もどうかと思っての他愛ない問いかけだったが、返ってきたのは予想外の答えだった。
「んー。粗熱がとれるまで、あと二、三時間くらい常温で放置して……」
「そ、そんなにか?」
思った以上に気の長い話だ。思わずむせそうになりながら、口元を手で押さえて壁の時計に目を向ける。現在時刻は、あと十分ほどで日付が変わろうとするところだった。ケーキの粗熱が取れる頃には、もう丑三つ時だろう。
「それまでなにしてんだよ」
肥前の呆れた物言いに、北谷は気にしたそぶりもなくからからと笑う。
「んー。新しい料理本を読んだり、庭を散歩したりかなー。この時間に活動するのも、気分転換になっていいもんさ」
「……変わりもんだな」
馬鹿にするでもなく、ただ素直な感想を述べる肥前。小皿のケーキは半分以下にまで減っている。
北谷はまだ半分以上残っているケーキをマイペースに食べ進め、しみじみと瞳を細めて微笑んだ。穏やかな瞳に、室内灯の光が波のように瞬いている。
「明るいうちに、みんなで一緒に料理するのも楽しいけどさー。夜中の厨で、一人で黙々と作るのも、いつもとは違う楽しさがあってなぁー」
「短刀は、夜中じゃ怪異を怖がるやつもいるのにな」
なんとなく本丸の中でも気弱な男士を想像して返す肥前。北谷は、「戦場じゃそういうのは平気なのになぁ」と他人事のように笑い、そして自分でも考えを整理する口ぶりで続けた。
「なんていうか……こんな静かな夜に、一人でいると落ち着く場所っていうか。肥前は、おれの逸話は知ってたっけか」
「……まあ、一応。うちに顕現してるやつらのことは、一通り頭に入れてある」
これでも政府の刀だったしなと告げて、口を閉ざす肥前。
先を促されているのだと察し、北谷は再び口を開いて目を伏せる。
「あの逸話があってなお、台所や厨が落ち着くのも変な話だよなぁ……」
独白に近い声は、まるで自分自身に訊いている風にも聞こえて、肥前はただ黙っていた。
少し間を置き、北谷の口角が緩く上がる。普段から猫のそれにも似た形の口元は、ゆっくりと悩みながらも言葉を紡いでいった。
「だけど、だからこそ、かな。ここでたくさんの仲間と一緒に立つのも楽しいけど、一人でいるのも自分を見つめ直せるみたいで」
意外と悪くないんさー。おもむろに顔を上げ、彼は朗らかな笑みを見せた。
ガトーショコラの苦みのように、ほんのわずかな憂いを帯びた笑顔。それでも微笑は花が開いたような眩しさで、肥前は溜め息交じりに苦笑してフォークを置く。いつのまにか小皿のケーキは綺麗にたいらげられていた。
「……戦のときより、よっぽど良い顔じゃねぇか」
皮肉を言うつもりはなかったが、言われた北谷は気まずげにフォークを持つ手を止める。
意地の悪い言い方になってしまったと慌てた肥前だったが、北谷は悲しみとはまた違う複雑な面持ちを見せた。彼はしばし言葉を探すように黙考して、やがて観念したというそぶりで唇の端を釣り上げた。それは、肥前が初めて見るタイプの笑い方だった。自嘲、という言葉がきっと正しい、悲しい笑顔。
「ほんとは、こっちの方が好きなんだ。血なまぐさいのも、命を奪うのも性に合わなくて。もとが菜切包丁だったって言われてるからかなー」
はは、とわざとらしく声に出された笑いには湿度が感じられず、北谷は「刀なんだけどねぇ」とままならない思いを吐露する。寂しさや苦しみがないまぜになった葛藤は、肥前にも覚えのある痛みだった。
自らが持つ逸話を拒絶するということは、自分の存在理由を否定することにも繋がりかねない、まさに身を切るような痛みを伴っている。否定したところで事実は変えられないし、それなのに人々の伝聞や噂だけで、本来の出来事とは違った形に歪められてしまうこともある。なんとも不条理な話だ。
北谷菜切の伝説が嘘か真かなんて、肥前には知るすべもない。それは、いつか北谷自身が向き合うべき彼の物語だろう。だから肥前は自分の言える範囲での言葉を返した。
「人の身を得て生きる限り、生殺与奪からは逃れられねぇ。食べることだって殺すことだろ」
彼らしい淡々とした物言いで、肥前は口元のチョコを指先で拭う。
だが彼は、沈んだ面持ちの北谷を慰めるような声音で言葉を付け加えた。
「……まあ、なんだ。おれも、斬るよりは飯を食う方が好きだからな。お前の腕はこっちにあってくれる方が助かる」
言いつつ、目線は合わせないように己の指を見る肥前。
彼の言葉を聞いて、北谷の瞳が嬉しげに揺れる。彼は「……ありがとうなー」と頬を緩めて自分の小皿に残っているケーキをフォークで持ちあげた。
「っ、これ以上は胃もたれするって……!」
「これくらいなら変わらんさー」
慌てて顔を背ける肥前は、やがて北谷の有無を言わせない笑顔に根負けした。
さすがに食べさせられるのは恥ずかしいとフォークを受け取って自分で口に入れる。くどくない甘さも、量が量だとそれなりに腹に溜まる。
「なんでも思い通りにいくもんじゃないけどさぁー」
北谷は頬杖を突いて両手に顎を載せ、機嫌の良い猫のように目を細くした。
「ま、肥前がいっぱい食べてくれるなら、どっちも頑張らないとだな」
「あんまり無理はすんなよ。……お前の飯が食えなくなるのは困る」
仏頂面で呟いた肥前の台詞は、北谷にとって最大級の賛辞であり気遣いだと感じられた。
「肥前こそ、無理するとせっかくのご飯が食べられなくなるからなー」
互いに言葉をかけ合い、どちらからともなく壁の時計に視線を移す。時刻は零時半に迫りかけていた。
使った食器をてきぱきと洗って片付け、北谷は珠暖簾の下で手を振った。
「じゃ、おやすみ、だなー。ちゃんと歯ぁ磨けよー」
送り出される肥前も、暖簾をくぐって雑に片手を振る。
「わかってるっつーの。……また明日」
言ってすぐ(ガラでもねぇ)と気恥ずかしさに捕らわれたが、彼は後頭部を掻き大きく息を吐いてやり過ごした。美味しかった甘味の礼とでも思えばいい。
そうして、北谷が一人の時間を大切にしていることの意外性と同時に、そんな彼と二人で話した時間も悪くなかったと思っている己に気付き――肥前はどうにも落ち着かない気持ちで歯を磨いて、洗面所の鏡に映る自分へ大きく顔をしかめたのだった。
ワード『拭う』『目を伏せる』『溜め息』
真夜中の本丸は、大部分が照明を落とされて静まり返っている。薄暗い廊下を明かりもつけずに進み、肥前忠広は前方から賑やかな雰囲気を感じて歩を止めた。
複雑に入り組んだ廊下の先、本丸の玄関方面に向かって左に曲がったところには広間がある。夜な夜な酒盛りの会場に使われるそこからは、今宵も眩しいほどの明かりと楽しげな話し声が漏れていた。
一定の間隔で湧き起こる笑声は廊下にまで響き、昼間と遜色ない明るさで盛り上がっている。肥前は不機嫌な表情で広間の方を一瞥した。
「……ちっ」
空腹で夜食を求めて徘徊していた彼だったが、酒飲みたちの宴会に顔を出すのはどうも抵抗感がある。行けば小腹を満たす程度のつまみは提供してもらえるだろうが、代償として酔っ払いどもの話を延々と聞かされることになるだろう。
肥前自身も酒を飲んでほろ酔いになれば適当に受け流せるのだが、あいにく明日は出陣予定が入っている。もともとそれほど酒に強いわけでもなく、飲めば間違いなく体調に影響するだろう。
かといって素面で酔っ払いの話し相手をする気にもなれない。彼は、そっと方向転換して給湯室を目指した。
厨より奥にある給湯室には、本丸の経費を使ってさまざまな食品が備蓄されている。湯煎するだけですぐ食べられるレトルトのおかゆや、電子レンジで温めるだけで美味しくいただける冷凍の総菜。お湯を入れて数分で完成するインスタント麺。いつでも手間をかけずに食事がとれるとは、文明の利器は実に素晴らしくありがたい話である。
人類の進歩と科学の発展に思いを馳せつつ、肥前は廊下の軋む音だけを耳に目的の場所へ向かう。その途中、彼の瞳に思いがけない灯りが反射した。温かくて優しい、人の体温を思わせるような光だ。
「……?」
白っぽい清潔な明かりが漏れているのは、給湯室より手前にある厨房の出入り口だった。「雰囲気が出るから」という理由でつけられている
肥前は少し考えて、珠暖簾をくぐり気配の主に声をかけた。
「だれかいるのか?」
厨房は刀剣男士の個室四つ分はありそうなくらいに広い。
暖簾を掻き分けて顔を出すと、途端に甘い香りがふんわりと肥前の鼻孔を覆った。チョコレートの匂いだと鼻をひくつかせ、厨の中央に寄せられたテーブルの一つに目が吸い寄せられる。脚がついた網を台にし、型にはまった状態のミニホールケーキがテーブルを埋めていた。
綺麗に片付いているシンプルな調理場には、幼子の姿をした短刀の姿があった。
「あれー、肥前かー。夜更かしさんだねぇー」
鮮やかな桃色の髪をひとつに結び、短刀――北谷菜切はくすりと笑って振り返った。小さな手を泡だらけにして、小鍋や計量カップを洗っている最中らしい。
「こんな時間に菓子作りかよ」
訝しげな肥前の言葉に、北谷はのんびりと笑って頷いた。
「なんだか目が冴えちゃってねー。明日は非番だし、たまにはこんな時間に作ってみるのも楽しいかと思ってさ」
「……にしても、凄い量だな」
もう一度テーブルに目をやり、肥前は呆れと感嘆の入り混じった口調で呟いた。
「明日か明後日のおやつ用さー。出来立てだから粗熱を取って、冷やしてから食べるとでーじまーさんよー」
でーじまーさん。とっても美味しい、って意味だったか。心の内で北谷の言葉を翻訳して、肥前は「そりゃ楽しみだな」と仏頂面で返した。彼の出陣予定は午前中のみなので、早くも午後の楽しみが出来た。ちなみに明後日は非番だ。
洗い物の手は止めず、今度は北谷の方が質問する。
「肥前は夜食かー? 夕食、足りなかったかー?」
声は心配の色が濃く、肥前は頬を掻きながら目を逸らす。ややあって、彼は決まりの悪い表情で首を振った。
「いや、足りなかったわけじゃねぇ。どんだけ食っても、一定の時間が経ったらまた腹が減っちまうんだ」
「それは難儀やさー……」
北谷は同情するように呟き、そして水道の蛇口をひねって水を止めた。洗い終えた調理器具を乾燥機にかけ、タオルで手を拭いて踏み台から身軽に飛び降りる。
夜更かしもほどほどに、と場を離れかけた肥前の背を、北谷はにこやかな誘いの台詞で引き止めた。
「良かったら、ちょっと食べていくかい?」
テーブル一面に並べられたケーキは、濃厚な香りを漂わせて物静かに鎮座している。
肥前と北谷は、網に載せられたホールケーキの群れにひとつひとつフードカバーをかけた。一つだけ、いちばん端にあるものをケーキ―クーラーごとべつのテーブルに移動して、北谷は肥前に小皿とフォークの準備をお願いする。
「熱いうちに食べるのも、充分に美味しいからねぇ」
にこにこと上機嫌で告げる北谷。肥前は言われた通りに食器を出し、北谷はケーキを型から外してフォークで大雑把に切り分けた。完全な二等分ではなく、明らかにわざと片方が大きめに切られている。それでもミニとはいえホールケーキを半分にしたのだから、小さい方でもけっこうな大きさだ。
「……こんなに食ったらもたれそうだな」
「ありゃ、そうかー。じゃあもうちょっと小さくしようねぇ」
北谷は再び切れ目を入れて、肥前の分をさらに小さくした。それを自分の皿に移すと、二人のケーキはそれでちょうど同量くらいの配分になった。具体的には肥前の握り拳より一回り大きいくらいか。食べきれるんだろうかと北谷へやや不躾な視線を投げる肥前だったが、当の北谷はさして気に留めていない様子で準備を進めた。
最後の仕上げに茶こしで粉砂糖をふりかけ、北谷は「特製ガトーショコラの完成さー」と満足げに口角を上げた。
パウダースノーの如く繊細な砂糖のきらめきは、いかにも「食べられる準備ができました」と言っている風に見えた。「さあどうぞ」とばかりに佇んでいるガトーショコラを見つめ、肥前は持ってきた椅子に腰を下ろして合掌する。
「……まさか、洋菓子を夜食にするなんてな」
両手を合わせて小さく頭を下げ、デザート用のフォークを取って不思議そうに言う。
「こんな時間に甘いものを食べるのは、ちょっと背徳感があるねぇ」
北谷も悪戯っぽく笑って、いそいそと切ったケーキを口に運び頬に手を当てた。
「ん~、やっぱり作り立ては格別さ~」
心から幸せそうな笑みを浮かべ、一口をじっくり味わって食べる。肥前も柔らかな生地にフォークを突き差して、大口を開けて頬張った。
焼き上がってからそれほど時間の経っていないらしいショコラは、一肌程度の温かみが甘さを口いっぱいに広げていく。甘みに隠れたほんのわずかなほろ苦さがアクセントになって、なめらかな食感が舌の上で心地良い。しつこくない上品でまろやかな風味は、弾力のある生地だというのにまるで飲み物のようだとさえ思えた。
「ん……うめぇな」
肥前の口から本音がこぼれ、北谷はうんうんと嬉しそうに頷いた。うなじの辺りで結ばれた髪が、馬や猫の尻尾みたいに揺れる。
しっとりした生地の舌触り、くどすぎない絶妙な味わいのチョコレートを堪能しながら、肥前は熱をとっている最中らしいケーキの群れに何気なく視線をやる。
「あれは、どれくらい放置しとくんだ?」
無言もどうかと思っての他愛ない問いかけだったが、返ってきたのは予想外の答えだった。
「んー。粗熱がとれるまで、あと二、三時間くらい常温で放置して……」
「そ、そんなにか?」
思った以上に気の長い話だ。思わずむせそうになりながら、口元を手で押さえて壁の時計に目を向ける。現在時刻は、あと十分ほどで日付が変わろうとするところだった。ケーキの粗熱が取れる頃には、もう丑三つ時だろう。
「それまでなにしてんだよ」
肥前の呆れた物言いに、北谷は気にしたそぶりもなくからからと笑う。
「んー。新しい料理本を読んだり、庭を散歩したりかなー。この時間に活動するのも、気分転換になっていいもんさ」
「……変わりもんだな」
馬鹿にするでもなく、ただ素直な感想を述べる肥前。小皿のケーキは半分以下にまで減っている。
北谷はまだ半分以上残っているケーキをマイペースに食べ進め、しみじみと瞳を細めて微笑んだ。穏やかな瞳に、室内灯の光が波のように瞬いている。
「明るいうちに、みんなで一緒に料理するのも楽しいけどさー。夜中の厨で、一人で黙々と作るのも、いつもとは違う楽しさがあってなぁー」
「短刀は、夜中じゃ怪異を怖がるやつもいるのにな」
なんとなく本丸の中でも気弱な男士を想像して返す肥前。北谷は、「戦場じゃそういうのは平気なのになぁ」と他人事のように笑い、そして自分でも考えを整理する口ぶりで続けた。
「なんていうか……こんな静かな夜に、一人でいると落ち着く場所っていうか。肥前は、おれの逸話は知ってたっけか」
「……まあ、一応。うちに顕現してるやつらのことは、一通り頭に入れてある」
これでも政府の刀だったしなと告げて、口を閉ざす肥前。
先を促されているのだと察し、北谷は再び口を開いて目を伏せる。
「あの逸話があってなお、台所や厨が落ち着くのも変な話だよなぁ……」
独白に近い声は、まるで自分自身に訊いている風にも聞こえて、肥前はただ黙っていた。
少し間を置き、北谷の口角が緩く上がる。普段から猫のそれにも似た形の口元は、ゆっくりと悩みながらも言葉を紡いでいった。
「だけど、だからこそ、かな。ここでたくさんの仲間と一緒に立つのも楽しいけど、一人でいるのも自分を見つめ直せるみたいで」
意外と悪くないんさー。おもむろに顔を上げ、彼は朗らかな笑みを見せた。
ガトーショコラの苦みのように、ほんのわずかな憂いを帯びた笑顔。それでも微笑は花が開いたような眩しさで、肥前は溜め息交じりに苦笑してフォークを置く。いつのまにか小皿のケーキは綺麗にたいらげられていた。
「……戦のときより、よっぽど良い顔じゃねぇか」
皮肉を言うつもりはなかったが、言われた北谷は気まずげにフォークを持つ手を止める。
意地の悪い言い方になってしまったと慌てた肥前だったが、北谷は悲しみとはまた違う複雑な面持ちを見せた。彼はしばし言葉を探すように黙考して、やがて観念したというそぶりで唇の端を釣り上げた。それは、肥前が初めて見るタイプの笑い方だった。自嘲、という言葉がきっと正しい、悲しい笑顔。
「ほんとは、こっちの方が好きなんだ。血なまぐさいのも、命を奪うのも性に合わなくて。もとが菜切包丁だったって言われてるからかなー」
はは、とわざとらしく声に出された笑いには湿度が感じられず、北谷は「刀なんだけどねぇ」とままならない思いを吐露する。寂しさや苦しみがないまぜになった葛藤は、肥前にも覚えのある痛みだった。
自らが持つ逸話を拒絶するということは、自分の存在理由を否定することにも繋がりかねない、まさに身を切るような痛みを伴っている。否定したところで事実は変えられないし、それなのに人々の伝聞や噂だけで、本来の出来事とは違った形に歪められてしまうこともある。なんとも不条理な話だ。
北谷菜切の伝説が嘘か真かなんて、肥前には知るすべもない。それは、いつか北谷自身が向き合うべき彼の物語だろう。だから肥前は自分の言える範囲での言葉を返した。
「人の身を得て生きる限り、生殺与奪からは逃れられねぇ。食べることだって殺すことだろ」
彼らしい淡々とした物言いで、肥前は口元のチョコを指先で拭う。
だが彼は、沈んだ面持ちの北谷を慰めるような声音で言葉を付け加えた。
「……まあ、なんだ。おれも、斬るよりは飯を食う方が好きだからな。お前の腕はこっちにあってくれる方が助かる」
言いつつ、目線は合わせないように己の指を見る肥前。
彼の言葉を聞いて、北谷の瞳が嬉しげに揺れる。彼は「……ありがとうなー」と頬を緩めて自分の小皿に残っているケーキをフォークで持ちあげた。
「っ、これ以上は胃もたれするって……!」
「これくらいなら変わらんさー」
慌てて顔を背ける肥前は、やがて北谷の有無を言わせない笑顔に根負けした。
さすがに食べさせられるのは恥ずかしいとフォークを受け取って自分で口に入れる。くどくない甘さも、量が量だとそれなりに腹に溜まる。
「なんでも思い通りにいくもんじゃないけどさぁー」
北谷は頬杖を突いて両手に顎を載せ、機嫌の良い猫のように目を細くした。
「ま、肥前がいっぱい食べてくれるなら、どっちも頑張らないとだな」
「あんまり無理はすんなよ。……お前の飯が食えなくなるのは困る」
仏頂面で呟いた肥前の台詞は、北谷にとって最大級の賛辞であり気遣いだと感じられた。
「肥前こそ、無理するとせっかくのご飯が食べられなくなるからなー」
互いに言葉をかけ合い、どちらからともなく壁の時計に視線を移す。時刻は零時半に迫りかけていた。
使った食器をてきぱきと洗って片付け、北谷は珠暖簾の下で手を振った。
「じゃ、おやすみ、だなー。ちゃんと歯ぁ磨けよー」
送り出される肥前も、暖簾をくぐって雑に片手を振る。
「わかってるっつーの。……また明日」
言ってすぐ(ガラでもねぇ)と気恥ずかしさに捕らわれたが、彼は後頭部を掻き大きく息を吐いてやり過ごした。美味しかった甘味の礼とでも思えばいい。
そうして、北谷が一人の時間を大切にしていることの意外性と同時に、そんな彼と二人で話した時間も悪くなかったと思っている己に気付き――肥前はどうにも落ち着かない気持ちで歯を磨いて、洗面所の鏡に映る自分へ大きく顔をしかめたのだった。