君の名前

 俺がデビルズパレスに召喚(?)されて、早くも数日が経っていた。
 奇想天外な世界に呼ばれ、しかし悪くはない生活に順応しつつ。俺には心ひそかに悩んでいることがあった。

「……執事たちの名前、全然覚えられねぇ……!」
 夜中の自室で、俺は頭を抱えて嘆いた。
 広いベッドに腰を下ろし、眉間に深いしわを刻む。じつはこの屋敷にきてからというもの、だれにも言えずにいた悩みこそが「執事の名前問題」だった。
 この世界では、文化や言語がほとんど西洋風だった。日常会話に関しては、自動で翻訳されているのか、これといって困ったことはないのだが――人名や地名にはいまだに戸惑うことも多い。
「主様? おなかでも痛いんですか?」
 両手を組んでしかめ面をしていると、同じベッドで眠るのがお決まりの黒猫執事・ムーが心配そうに見上げてきた。もふもふの毛並みに丸く大きな瞳。特別の猫好きでなくても可愛いと思ってしまうような、庇護欲をかき立てられる見た目をしている。
「ムー。いや、ちょっとね」
 俺はムーを膝に乗せて、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。
「困りごとがあれば、なんでも言ってください! 僕は主様の執事ですから」
 誇らしげに胸を張る姿は、頼もしいよりも少しだけ可愛らしさの方が勝つ。
 それでも屈託ない笑顔で言われると、一人で考え込んでいた心が柔らかくほどけていく気がする。
 俺は正直に現在の悩みをムーへ打ち明けることとした。

「ふむふむ……なるほど、」
 執事たちの名前がどうしても覚えられない。
 聞きようによってはしょうもない話だが、ムーは神妙な面持ちで耳を傾けてくれた。
「主様は、執事の名前が覚えられなくて困ってるんですね」
 そうはっきりオウム返しにされると、なんだか胸にグサリとくる。
 一通り話を終えて、俺は気恥ずかしくなり頬を掻いて苦笑する。
「俺のきた世界からすると、執事たちの名前はみんな西洋風っていうか……外国人の名前みたいなんだよな」
 たとえば、外国の小説を読むときだってそうだ。
 自分とは違う言語圏で書かれた本を読むとき、たいていの人は登場人物の名前を把握・一致させることがとても難しいんじゃないだろうか。
 説明を加えると、ムーは先ほどよりも大きな声で頷いた。
「たしかに……違う国の人の名前を覚えるのは、とても大変そうです。主様は、国どころか世界も違うところからきてるんですもんね」
 まるで自分ごとのように受け止めてくれるムーは、猫と言えどもやっぱり心優しい性格をしている。
 俺はムーの三角耳の付け根を掻きながら、さらに情報を付け加えて言った。
「俺のいた世界だと、俺の国はこっちで言う東の国みたいな感じでさ。東の小さい島国で、大きな大陸に住んでいる人たちとは話し方も名前の付け方も全然違う。ベリ……アン? とか、中央のエスポワールなんて地名とかは、完全にそっち側の言語なんだよな」
「ふむふむ。使い慣れない言語だと、覚えるのも一苦労ですよね」
 無意識にか、尻尾を左右に振りながら答えるムー。ムーに関しては、呼びやすい名前だし名字もないしということであっさり覚えられたのだが、問題は他の執事たちだ。
「総勢十三人……アモンとかボスキは、ぎりぎり覚えられたんだけど」
「アモンさんとボスキさんですか」
 意外そうに声を上げるムーに、「日本……俺のいる世界でも、アモンっていう名前はあるのと。ボスキはボスっていう単語から連想してだな」と答える。それを聞いたムーは、ふわふわな体を揺らして可笑しそうに笑った。
「ボスキさん、たしかに二階のボスって感じですもんね」
「リーダーといったら、ハ、ハウ……えーっと……」
「ハウレスさんですね。ハウレス・クリフォードさんです」
「そう、ハウレス。執事のリーダーって感じで、鍛錬とかの指導役で頼りがいがあって……顔は、ぱっと出てくるのになぁ」
 不甲斐なさで顔を覆う俺に、ムーは小さな手で頭を撫でてくれる。柔い毛並みに、ちょっと硬めのグミみたいな肉球の感触がひやりとして気持ちいい。主の役得だ。
「執事のまとめ役って言ったら、べリアンもだけど。いまだにべリアンだっけ、ベリアルだっけってなっちゃうんだよなぁ」
 失礼な話なので小声になって言うと、ムーは形の良い三角耳をぴくぴくっと震わせて腕組みした。
「とっさに間違えた名前で呼んだら……たとえばラムリさんとかは、けっこう落ち込んじゃうと思います」
「そうだよなぁ。うーん、一刻も早くみんなの名前を覚えないと……」
 溜息をこぼし、俺とムーはしばらくうんうんと唸り続ける。
 なにか良い案はないかと頭を悩ます俺の目に、ふと本棚のアルバム帳が映った。
 これは執事たちと暮らすにあたって記録をつけておくための、日記帳というか思い出帳みたいなものだ。執事ごとに一冊ずつ独立していて、表紙には彼らの写真と名前が刻まれている。中身は、彼らとの印象深い出来事が綴られている。
「そうだ、主様」
 俺がなにかひらめきかけたのと同時に、膝の上のムーが片手を上げて挙手の姿勢をとった。
「あのアルバム帳を使って、こっそり暗記トレーニングするのはどうですか?」
「暗記トレーニング?」
 素直に訊き返してみたが、ムーも俺と同様のことを思いついたのだとなんとなく察する。
 ムーは俺の膝から降りると、本棚から一冊のアルバム帳を取り出した。表紙の下側、ちょうど名前が記されている部分だけを手で隠して俺に見せてくる。
「はい、主様。この執事さんのお名前をどうぞ!」
「え、えーっと」
 部屋の明かりは蝋燭だけなので、全体的に薄暗くてムーの姿も見えにくい。
 俺は繰り返しまばたきして、アルバム帳の表紙を凝視した。
 隠された名前の上には、腰から上が写った執事の姿絵。きらきら輝く水色の髪に、透明度の高い肌と赤紫の瞳。全体的に小柄で、女顔も相まって可憐な雰囲気だが、本人はそれを気にしているらしいので話題に出すのはご法度だ。
「えーっと、フル、フルー……フルーレ、だったかな」
「正解ですっ」
 俺が自信なさげに答えると、ムーは満面の笑みでぱっと手を広げてフルーレの名前を見せてくれた。フルーレ・ガルシア。シンプルですっきりしたフルネームは、軽やかさと凛々しさを併せ持つ素敵な名前だと思う。ついでに言うと、向こうの世界で有名な手作りおやつのフルー○ェを思わせる語感だ。
「主様は、執事さんたちの性格や個性はだいたい掴まれていますよね?」
 フルーレとの思い出帳を机に置いて、ムーが二冊目を取り出しながら訊いてくる。
 俺は首を縦に振って素直に笑った。
「みんな個性的だからね。それに癖の強いのもいるけど、基本的に優しくて良いやつばかりだし」
「じゃあ、きっとすぐに慣れますね。意識して名前を呼べば、大丈夫です」
 そのために頑張りましょうね!
 心なしか俺以上に張り切った様子で、ムーが二冊目のアルバムの表紙を俺に向ける。名前部分は猫の手で覆われて見えないが、描かれているのは短い赤髪に黄色のメッシュが入った青年だ。穏和な笑みをたたえ、片眼鏡をかけている。
 俺は少し悩んで、べリアンとベリアルみたいな迷い方をしながら口を開いた。
「っと、フェネス……? フェレス……?」
 口に出してみると、どっちがどっちだったかわからなくなる。
 何度か言い直した末に、「フェネス!」とファイナルアンサーを出す。と、ムーは「大正解です!」とまたも名前欄を見せてくれた。フェネス・オズワルド。物腰が柔らかで礼儀正しく、補佐が得意な印象の執事だ。背が高いのに威圧感がまったくないところも覚えている。
「好調ですね、主様。まずは名前だけでも、確実に呼べるよう覚えていきましょう」
「おーっ」
 ムーに鼓舞される形で、俺は片腕を突き上げて自分に発破をかける。
 その後もムーは一冊ずつ執事のアルバム帳を使って確認してくれ、俺は真夜中の密かなトレーニングに励むのだった。

 ムーとの暗記トレーニングが始まって三日後。
 屋敷内を歩き朝食に向かっていると、我知らず大きな欠伸が漏れてしまった。
「ふぁあ……」
「主様。昨夜は、あまり眠れませんでしたか?」
 隣を歩いていたべリアンが、心配そうな眼差しで問いかけてくる。
 昨夜どころか三日前から睡眠時間を削り気味だとは言えず、俺は曖昧に笑って首を振った。
「いや、いま読んでる本が面白くて。夜になってもついつい読み耽っちゃうんだよね」
 適当にでっち上げた言い訳を、べリアンは一かけらも疑わずに「そうでしたか」と信じた様子だった。
「主様は読書がお好きなんですね。フェネスくんと気が合うかもしれません」
「あー。フェネスもかなり読書家だもんな」
 他愛ない会話を交わすうちに、食堂に到着する。
 いつも通り用意してもらった紅茶や朝食メニューを前にして、俺は気を抜くと連発しそうになる欠伸を噛み殺した。夜更かしが原因で執事に心配をかけては本末転倒だ。
「目覚めに良いとされるアッサムティーです」
 べリアンが示した紅茶は、宝石みたいに艶やかな光沢を放っている。一口飲むと、重たかったまぶたに光の差し込むような爽やかさがあった。
 俺はティーカップを持ったまま「ありがとう、べリアン」と微笑み、今日も楽しい一日になったらいいなと頬を緩めた。

 その日の夜。
 べリアン・クライアンは一日の業務を終えて部屋に戻り、主の様子を思い出しては目つきを鋭くしていた。
「……」
 今日の主は朝からやけに眠そうで、明らかに適切な睡眠時間をとれていないようだった。カフェインが効いて眠気覚ましの効果がある紅茶を出すと、一時は嬉しげに覚醒した様子を見せていたが……日中には、本人も無自覚な仕草でしきりにまぶたをこすっていた。
 不眠に悩まれているのだろうか。読書に夢中になっていると言っていたが、「ちなみに、どんな本を読まれているんですか?」と訊いたときの主の挙動はどうもおかしかった。どうやら主は夜中、本を読むために夜更かしをしているわけではないらしい。
 隠し事をされているというのは少し寂しいところもあるが、それはそうとこのまま主を寝不足にしておくわけにもいかない。勝手に主の身辺を探るのは気が引けるものの、主にとってここは常識の異なる世界らしいから、万が一の危険な目に遭わないとも限らない。
 逡巡の後に、べリアンは意を決して主の寝室に向かった。今日の主担当はバスティンだ。おそらく、主が寝た後も翌朝まで廊下にて不寝番をしていることだろう。
 夜も深い屋敷内を、主の寝室に向かって静かに歩く。到着したべリアンの目は、すぐにバスティン・ケリーの姿を見つけた。
 バスティンは主の寝室の扉脇で片膝をつき、休息をとりつつも即座に行動できる姿勢をとっていた。闇に紛れそうな彼の瞳が、べリアンに気付いて不思議そうに揺れる。
「……べリアンさん? なにかあったのか?」
「お疲れさまです、バスティンくん」
 べリアンはまずねぎらいの言葉をかけて、バスティンのそばに寄り声を潜めて事の顛末を説明した。
「主様がどうも寝不足のようでして……原因を聞いてもはぐらかされてしまうので、気になって様子をうかがいにきたんです」
 話を聞いたバスティンは、「……なるほど」と頷いて寝室の扉を見やる。
「たしかに、今日も主様は遅くまで起きているようだ。蝋燭の火を消す気配がないし、ムーと喋るような声も聞こえる」
「ムーちゃんと? いったい、なんのお話をしているのでしょう……?」
 驚いた顔のべリアンは、咳払いして寝室の扉に視線を移した。かすかに、ほんの少しだけ漏れる蝋燭の火に照らされて、主とムーの影が浮かび上がっている。
 二人ともこちらの気配には気付いていないらしく、ムーはなにやら本のようなものを持って主と正面から相対していた。
「……それでは主様。こちらの執事さんのお名前をどうぞ」
 やたらと厳かにムーが言い、対する主は提示された本を見ながら眉根を寄せる。
「えっと、ルカス……ルカス・トンプシー!」
「正解ですっ! さすが主様!」
 主がびしっと答えを言うや否や、ムーは本を机に積んで小さく両手を打った。ふわふわの毛に包まれた手で、音の出ない拍手をする。
「……」
「……」
 二人がなにをしているのか理解できず、口を閉ざして見つめるべリアンとバスティン。
(あれは、私たちのアルバムでしょうか?)
(そのようだな。表紙には、俺たちの名前と姿絵が描いてあったと思うが……)
 困惑してひそひそ声で言葉を交わす二人に気付かず、ムーと主は楽しげな表情で会話を続けている。
「それにしても本当に順調ですね、主様っ。特訓から三日で、名字まで覚えてしまうなんて」
 さすが主様です、無邪気に褒めちぎるムー。
 べリアンたちが疑問を抱くより早く、主が照れくさそうに言う。
「まだまだ自信ないよ。担当執事として一緒に過ごしてるときは意識できるけど、偶然、顔を合わせたときなんかは、詰まっちゃうことも多くて」
「むむ……とっさに、ってなると、なかなかすぐには出てきませんよね」
 ムーは主を慰めるように言い、本棚から新たに本を取り出した。
「自然と執事さんたちの名前を呼べるまで、いつまでもトレーニングのお手伝いをしますからっ」
「うん。ありがとうね、ムー」
 二人は互いに微笑み合って、そしてまたアルバムを見ながら執事ひとりひとりの名前を確認していく。
 一部始終を目にしたべリアンとバスティンは、無言でゆっくりと寝室の扉を閉めていった。
「……どうやら、俺たちの名前を覚えるトレーニングをしているようだな」
 沈黙を破ってバスティンが呟き、べリアンは頬を赤くして唇で弧を描いている。
「十三人の執事……まさか、全員分を覚えようとしてくださっているなんて」
 短い言葉には隠し切れない喜びが滲んでいて、彼は感極まった風に破顔しながら胸に手を当てる。「主様が主様で、本当に幸せです」
 バスティンも無言ながら小さく首肯して、眠そうに欠伸をした。
「この調子だと、主様も明日はまた寝不足だろうな……」
 それを聞いたべリアンは、はっと我に返って握り拳を作った。
「それはいけませんね。私たちのことを考えてくださっているのは、とても嬉しいですが……」
 どうしたものかと腕を組んで考え込むべリアン。バスティンも断続的に欠伸を漏らしつつ、一応は一緒になって案を出そうと瞑目している。
「……バスティンくん。寝ちゃ駄目ですよ」
「…………大丈夫だ、起きている」
 そんなやりとりを数度、反復していると、やがて二人の前にロノが現れた。
「バスティン、お前なぁ……あれ、べリアンさん?」
 怒り口調でバスティンのもとに歩を進めたロノ・フォンティーヌは、かたわらにべリアンがいることに気付いて驚いた顔をする。
「今日の主様の担当はこいつっすよね?」
 訊かれて、べリアンは「ちょっと主様の様子を見にきたんです」と短く笑った。
「ところで、ロノくんこそどうしたんですか?」
 訊き返したべリアンに、ロノは両肩をいからせてバスティンを指差した。
「お前な。余った食材とか使った道具は元の場所に戻せって、いつも言ってるだろうが!」
「ロノくん、主様の寝室の前ですよ」
 しーっと人差し指を口元に当てていさめるべリアン。
 ロノは「す、すいません」と後頭部を掻き、バスティンを睨みつけて視線だけで威嚇する。当のバスティンは、悪びれない顔つきでふいとそっぽを向いた。
「食材も道具も種類が多すぎるんだ。間違われたくなければ、全部に名札でも付けてくれ」
「お前、調理補佐に入ってけっこう経つだろ。いつまでも甘えてんじゃねぇよ、このつまみ食い常習犯が」
 仁王立ちして怒るロノに、「善処する」と言いつつもまったく反省の色が見えないバスティン。
 二人の会話を聞いていたべリアンが、光明を得たと言わんばかりに瞳をきらめかせた。
「それです、ロノくん。バスティンくん」
「え?」
「ん? なんですか、べリアンさん?」
 突然の台詞に首を傾げる二人へ、べリアンは彼らの耳元に口を寄せる。
 とある『お願いごと』を告げたべリアンに、話を聞いたバスティンとロノは一も二もなくその願いを快諾した。
「なるほど……了解した。担当が終わり次第、すぐに作る」
「他の執事たちにも言っときますね」
 ロノは笑顔でその場を後にしようとして、足を止めてバスティンに人差し指を突き付けた。
「お前は、ちゃんとキッチンを自力で把握しろよな」
 それだけ言い捨てて去っていくロノを見送り、バスティンは浅い溜息を吐く。
「夜中だというのに、騒がしいやつだ」
 やはりまったく反省していない様子の彼だったが、べリアンは上機嫌で笑みを作ってバスティンに会釈した。
「それでは、私はさっそく準備をしてきますね。バスティンくんも、引き続き主様の不寝番をよろしくお願いします」
「ああ。また後でな」
 淡白だがしっかりと応えたバスティンに背を向け、自分の部屋へ戻る。
 自室に帰った彼は、筆記用具と小さな紙を取り出してさっそく真夜中の工作に取りかかった。

 デビルズパレスにきてから、一週間と少しが経った朝。
 べリアンに「おはようございます、主様」と起こされて、俺は眠い目をこすりながら体を起こした。
「おはよう、べリアン」
 ベッド上で眠るムーは、「もう食べきれませぇん……」とベタな寝言を呟いている。今日も幸せな夢を見ているようでなによりだ。
 ムーが起きるのを待つ間に着替えようとして、俺は衣装を用意してくれたべリアンの胸元に見慣れないものを見つけた。昨日まではそこになかったはずの、硬い紙製の札だ。とても達筆な筆記体が、べリアンの胸元を飾っている。
 俺の目が留まっていることに気付いてか、べリアンは面映ゆそうに頬を赤くして札に触れた。
「主様が私たちの名前を呼びやすいように、ネームプレートを付けてみたんです。屋敷には十三人もの執事が居ますから、主様も名前を覚えるのが大変かと思いまして」
 もっと早くに気付けたら良かったのですが、と申し訳なさそうに頭を下げるべリアン。白黒にピンクのメッシュが入った髪が揺れて、長い睫毛が影を落としている。
「俺のためにつけてくれたの? ありがとう、べリアン」
 先日からの特訓の件もあって素直にお礼を言うと、べリアンはふにゃりとした笑顔で目尻を緩めた。
「いえ。これで主様のご負担が少なくなれば幸いです」
 ほっと胸を撫で下ろし、べリアンは物憂げに目を伏せて言葉を重ねる。
「まあ、屋敷の外へ出る際には……さすがに外さなければいけないのですが」
「ん、それはそうだよね。俺もすぐに、みんなの名前をちゃんと呼べるようになるから」
 彼の厚意が純粋に嬉しくて言うと、べリアンはさらに笑みを深めて頷いた。
「他の執事たちにも、同じように名札を作るよう言っておきましたから」
 言われて、俺は改めてべリアンの胸元のネームプレートを見る。
 真面目で実直な性格が現れた、非の打ちどころもない美しい筆記体。それ自体は見た目にも綺麗で、いかにも格式高い感じがするのだが……非常に言いにくいなと思いつつ、彼の思いを無下にしないためにもあえて本音を言わせてもらう。
 俺は、こほんと咳払いして恐る恐る口を開いた。
「……べリアン、ごめん。じつは俺……筆記体、すらすら読めないんだ」
 言った途端、にこにこ笑顔だったべリアンの顔がぴしりと石のように固まってしまう。
 白い肌は徐々に耳から赤みが差していき、彼の顔はすぐさま恥ずかしげな赤に染まってしまった。
「言語が違うということは……冷静に考えれば、それはそうですよね……」
 申し訳ありません、と平身低頭するべリアンに、かえって俺の方が恐縮してしまう。学生時代から苦手な英語を避けてきた己を、ここまで恨めしく思う日が来るとは。
「それでは、主様の慣れ親しんでいる言語での表記に変えなければいけませんね」
 べリアンは名札をとって顎に手を当て、難しい顔で言った。
 俺は机からペンを持ってきて、べリアンから札を受け取り裏面にカタカナで彼の名前を書き記した。
「えっと、べリアン・クライアン……この名前で合ってるよな?」
「! は、はい……主様にフルネームで呼んでいただけると、ちょっとくすぐったいですね」
 ふふっ、と子猫のように笑うべリアンは、再度名札を胸元に付け直そうとして一点に気が付いたようだった。
「おや……これは、」
 名札の下側。べリアン・クライアンと書いた脇に、俺はおまけでティーカップの絵も添えておいた。ペンでの一発書きで凝ったものは描けなかったが、べリアンがとくに気に入っているらしい模様の入ったカップのイラストだ。
「べリアンといえば、紅茶が好きっていうイメージがあるから」
 そう説明すると、べリアンは一際幸福そうにはにかんで名札にそっと触れた。
「……主様に名前を覚えていただいた後は、大切な宝物として飾らせていただきます」
「大袈裟だなぁ」
 目を瞑り、感じ入った表情のべリアンに、なんだかこっちまでくすぐったい気持ちになる。
 やがてムーが目を覚まし、べリアンの名札を見た彼にも同様の札を作ってやる。
「ムーちゃんは、もう覚えてもらっているのでは?」
「僕だって、主様との宝物が欲しいんですっ」
 悪戯っぽく微笑むべリアンに、ふんふんと鼻を鳴らして主張するムー。俺はムーの名札に魚の絵を描いて、べリアンに手伝われながら身支度を整えた。
 結局、その日は他の執事たちと同じやり取りをして過ごし、屋敷にきてからかつてないスピードで一日は終わった。寝る時間になってベッドへ倒れ込むと、心地良い疲労感に襲われて自然とまぶたが閉じていく。
「今日からは、トレーニングをする必要もありませんね」
 本棚をちらりと見たムーが言い、彼は早々に枕元で丸くなっていた。
 少しだけ寂しい気持ちになりつつ、俺は昨日よりもいくらか穏やかな心持ちで睡魔に身を委ねていった。
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