青は藍より出でたくて、


 ベランダから吹き込む風に揺れるのは、青海晴夏あおみせいかのスカートではなかった。
 日当たりの良い窓際の席で、漏れかけた欠伸を袖で抑えこむ。教卓を見ると、担任教師が伝達事項を告げている最中だった。
 まどろみの中で、青海は己のジャージの袖を見た。着慣れた柔らかい生地。男女共通の、性差を感じさせない紺色。シンプルな白線。
 青海が一日の締めくくりをジャージで過ごすようになって、もう半年が経つ。彼女は高校に入学して以来、ただの一度も制服で終礼を受けたことがない。
 同じ教室で終礼に臨むクラスメートの姿は、男女で造りの違うブレザーが半数以上を占めている。残りの半数未満は、放課後それぞれの部活動に励む者たちだ。
 すでにジャージや体操服へと着替えた彼らは、各々やる気に満ちあふれた顔で会の終わりを待ちわびていた。背中を教室後方から悠々と眺め、青海は胸の内だけで感心する。
(一日の終わりだってのに、元気なことで)
 そうして教師の声を聞いていると、やがて伝達事項の確認も終わり、日直の号令と共に数十人の生徒たちが一斉に立ち上がった。
 机や椅子の脚が床にこすれる騒音が響き、青海も慌てて起立する。
「――姿勢、礼。ありがとうございました!」
「ありがとうございましたー!」
 日直は淡々と帰りの挨拶を述べ、残りの生徒たちも彼にならって頭を下げる。
 重なった声に、担任教師は「気をつけて帰れよー」とだけ言い残して退室した。
 教員が去った途端。放課後の教室には、あっというまに緩んだ空気が漂った。
 青海は指定のエナメルバッグを肩にかけて、鞄部分をぐいっと前向きに寄せた。腰骨に当たるのが痛くて邪魔だが、できるだけ気にしないようにして立ち上がる。
 ちょうど青海のもとに、幼馴染の瀬名百花がやってきた。彼女は大きな鞄で歩きづらそうにしながら、青海を見上げる姿勢で声をかけた。
「セイちゃん、今日もまっすぐ帰るよね?」
 訊ねられ、青海は短く頷いて彼女を笑う。
「お前が指定バッグかけてると、余計ちっちゃく見えるな」
「もー、そういうこと言わないでよ。重いし大きいし、最悪だよ、これ」
 百花は大袈裟にうんざりした表情を見せ、それでも幼馴染特有の親密な距離感で青海の隣に並んだ。百花よりわずかに身長の高い青海は、彼女の鞄が丸いお尻に当たっているのを見て、それを見なかったことにして会話を続けた。
 雑談しつつ教室を出ようとする二人に、クラスメートの一人が声をかける。
「もう帰り? また明日なー」
 他愛ない別れの言葉に、青海も笑顔で「ん、明日なー」と返す。
 そのとき、すぐそばにいた別クラスの男子生徒が不思議そうに訊いた。
「運動部でもないのにジャージで帰んの?」
 物珍しそうな眼差しを向けられて、青海は反射的におどけた笑みを作る。「ああ、うん」
「女子の制服、せっかく可愛いのにさぁ。もったいなくねー?」
 面白半分、不可解半分といった物言いで言う相手へ、答えたのは百花の方だった。
「セイちゃん、昔から運動着の方が楽とか言ってさ。小学生のときからすでに、だもんね」
 同意を求めるように視線を合わされ、青海も「そうそう、楽だから」と大仰に首を縦に振る。
 訊いた側は雑に口角を上げて「ウケんね」と返し、早々に興味を失ったようだった。
 青海と百花はどちらもなんとなく口をつぐんで、騒々しい廊下を音もなく歩きだす。そのまま玄関ホールに歩を進め、二人は一言も交わすことなく校舎を後にした。

「百花、今日もバ先に来る予定?」
 商店街方面とは反対側の帰り道。青海は、腰に鞄の金具が当たる痛みを覚えつつ訊いた。
 百花は、お尻に沿った鞄が歩くたびに揺れるのを感じながら素直に首肯する。
「最近毎日来てるじゃん。知ってる奴が来てくれるのは嬉しいけど、あんまり頻繁に来られると、先輩たちにからかわれるんだよな」
「藍沢さんとか? あの人、声大きいよね」
 はぐらかす百花に、青海は気まずげに頬を掻いて続ける。
「本屋なら街の方が近いしさぁ。わざわざ自転車二十分もこいでうち来る必要ないじゃん」
 うだうだと言葉を並べるものの、百花は唇を尖らせて不服の意を示した。
「だって、セイちゃんがバイト先で上手くやれてるか心配なんだもん。あ、もちろん仕事の方は心配してないけどさ」
「……そりゃどーも」
 遠回しに人間関係を案じているのだと言われ、強い拒絶もできなくなる。
 そのうち青海の自宅が見えてきて、ほぼ同時に、真向かいに建つ百花の家も目に入った。
「じゃあ、また後でね。ちゃんと時間はずらしていくからさ」
 それは逆に意味深じゃないか?
 口に出せない呟きを呑みこみ、青海も自宅の玄関扉に手をかける。いつも鞄の前ポケットにしまっている鍵を取り出して開錠。無人の自宅で、「ただいまー」とひとりごとを言った。
 共働きの両親は不在で、彼女は靴を脱ぎ捨て階段をあがって自室へ直行する。
 部屋に入ると、エナメルバッグを無造作に放り投げた。ついでにジャージの袖から腕だけを抜ぎ、おもむろに上着をまくり上げる。
 彼女はジャージの下に、ブラジャーの代わりとして黒いタンクトップを着けていた。胸部に膨らみはなく、横から見ても女性のバストであるとは気付きにくいだろう。
 青海はタンクトップまで裾をつまんでまくり上げると、そのさらに下から現れた、上半身を締めつけている生地のホックを確認した。
 ホックといっても、女性のブラジャーとは違って体の側面についている。数は七つで、そこだけ薄く三層になっている生地のそれぞれに引っかける部分があった。
「んー……」
 彼女は一旦すべてのホックを外して、深く呼吸を整えた。
 それから、いちばん生地の伸びる部分でホックを留め、室内の全身鏡で自分の見た目を確認する。いちばん締め付けが強かったさっきより、胸がわずかに膨らんでいるのがわかる。男の胸筋と言い張るには少し無理がある程度の膨らみだ。
 青海は落ち込んだ顔でホックを外すと、次に真ん中の生地にホックを引っかけた。バストは多少押し潰されたが、やっぱりいちばん締め付けの強い部分ほどの平らには見えない。
 溜息を吐いたところでスマホのアラームが鳴る。時間は、出勤の三十分前だった。
「やっべ、」
 急いでホックをすべて留めなおし、勢いのままジャージのズボンも脱ぎ捨てる。
 衣装ケースから私服のパーカーとジーンズを出して手早く着替え、最低限の持ち物を詰めたリュックを背負い、彼女は感傷に耽る余裕もなく自宅を飛び出すのだった。

 彼女のバイト先である書店は、通っている高校から歩くと一時間かかる場所にある。高校の近くには商店街があり、そこには大型の本屋もあるため、ほとんどの高校生は用があれば街の本屋を利用するのが普通だ。
 少なくとも青海が働き始めてから三ヵ月の間に、クラスメートや教職員などの学校関係者が現れたことは一度もなかった。
「おはようございますっ!」
 専用の駐輪場に自転車を停め、息せき切って裏口から店内に入る。
 小さなバックヤードで、パソコンに向かう店長が振り向きもせずに「おはよー、お疲れ」と声をかけた。
「遅刻じゃないが遅かったな。事故にでも遭ったかと思ったぞ」
 言われる声を苦笑いでにごし、店から支給されているエプロンを着る。
 彼女――彼は、溌剌とした笑顔で店に出た。
「いらっしゃいませー」
 明るい声掛けは、しかし客のいない店内で他の店員の耳にしか届いていない。
 挨拶を聞いたバイトの一人が、本棚の整理を中断して青海を呼んだ。
「今日のシフトお前だったかー。授業が終わって即バイトとか、よくやるよな」
 からかいを多分に含み、けれど決して嫌味のない調子で笑う闊達な男性。青海よりも三つ年上の大学生バイトである藍沢拓真だった。
「藍沢先輩こそ、大学に行きながらバイトとか大変じゃないっすか?」
「学部とか講義の組み方にもよるけど、大学生は自由な時間が多いからなぁ」
 ま、俺は勤勉で真面目だから、こうした隙間時間にも汗水たらして働いてるけどよ。
 胸を張る藍沢に「それ、自分で言っちゃダメなやつっすよ!」とツッコミを入れる青海。文具コーナーにいるバイト仲間の女性が笑っていて、青海は気恥ずかしさで顔を赤くしつつも一緒になって笑った。
「青海くんと藍沢くんが話してると、五分に一回は笑いが起きるよね」
「ときどき、しょうもない笑いも混ざるけどね。てか私たちがまったく笑えないやつ」
 青海たちに好意的な反応を見せる女性の横で、漫画本などに透明なビニール袋をかけている女性が冷ややかな視線を送る。
 それに対して弁解しようとした矢先に、タイミング悪くお客が入店した。
「らっしゃいませー」
 本屋という性質上、はっきりとしつつも出来るだけ落ち着いた声で挨拶しなければならない。
 それでも「男」であることを隠さずに済む環境である嬉しさから、青海はついつい大きめの声で話してしまう癖があった。
 お客が来た以上私語を続けるわけにもいかず、挨拶を終えて決まりの悪い気持ちで持ち場につく。気持ちを察してか、藍沢がこっそりと背を叩いてくれた。
「あんま気にすんなよ。原井ちゃんは潔癖症だから」
 茶目っ気たっぷりに言われると、もやもやの霧がすっと晴れていく感じがした。
「原井先輩、お嬢さまって感じっすもんね」
「まあ、男のノリは女子にはわかんねーだろうし? しょうがないよなー」
 ししし、と忍び笑いで肩を揺らす藍沢。
 青海は「男のノリ」という響きにぱっと目を輝かせた。
「そうっすよね、しょうがないっすよね!」
 同調して笑みを返したところで、レジ前に立ったお客が「すいませーん」と投げかけてくる。
「あ、すいません、ありがとうございまーす」
 藍沢は即座にカウンターへ入って対応する。
 店内でも際立って頼もしく見える立ち姿に、青海は心の中で満足げに息を吐くのだった。

 女性として振る舞わなければいけない学校や私生活より、男として扱われるバイトの方が、普段の何倍も「生きている」と実感できる。青海にとって、身体の性別である「女」として生きることは、自分ではない他人の皮を被る息苦しさに覆われるのと同義だった。
 もちろん雇い主である店長だけは、青海の本当の性別を知っている。
 幼馴染かつ親友の百花も、青海が通常時は女性、バイトのときだけは男性として過ごしていると知る貴重な理解者の一人だ。
 見た目を変え、普段は一人称の使用を避けて話す。バイトでのみ許される「俺」の一言は、初めて発したときには驚くほど青海の心身に馴染んだものだった。
 他のどこよりも自分に正直に生きられていることを自覚し、彼は充足感に浸りながら今日も仕事に精を出していた。
 仕事を頑張ることは、「男として働かせてほしい」という要望を聞き入れてくれた店長への恩返しでもある。それをしっかり脳裏で反芻し、青海は空いている棚に在庫を詰める作業に取りかかった。
 作業開始から数十分が経ち、基本的に閑散としている店に再びお客が訪れる。
「いらっしゃいま……あっ」
 反射で挨拶した青海は、お客の姿を見て言葉を止めた。
 小柄な背丈に二つ結びの茶髪。見慣れた女子の制服。一緒に下校したばかりの幼馴染だ。
「……お前、ほんとに来たのかよ。チャリで来るの疲れるだろ――」
 軽口を叩いて歩み寄り、改めて顔を見る。
「えっ、」
 うつむき気味だった少女は、百花とはまったくの別人だった。
 彼女は馴れ馴れしく話しかけてきた青海に、困惑と警戒をあらわにした面持ちで首を傾げている。どこか怯えている風にも見える挙動に、青海は狼狽して頭を下げた。
「うわっ、すいませんっ! 俺、知り合いの女子と勘違いして、」
 顔から火が出るとはこのことか。
 ばくばくと鼓動する心臓の隅で、さっと「俺」の一人称が出たことに安堵する。うっかり「私」とでも言っていたら、余計に場の混乱を招いたことだろう。
 そんな現実逃避に近い思考の中、近くにいた藍沢が助け舟を出してくれた。
「お前、お客さんに向かってうわっとか言うなよ。すいませんねー、うちのバイトが」
 苦笑いして軽く頭を下げる藍沢に、少女の方も「いえ、こっちこそすいません」となぜか恐縮の姿勢を連鎖させている。
 青海は彼女を注意深く観察したが、幸い、学校は同じでも見たことのない生徒だった。
 何度も謝罪を連ねて場を離れると、いつのまにか店に出ていた店長がにやにやと笑っていた。「仕事に慣れて油断したな?」咎めるのではなく、完全に面白がっているらしい。
 面目ない、としょげる青海に、優しい女性バイトが話題を切り替えてくれた。
「勘違いしたのって、いつもうちに来てくれてるあの子……ええと、百花ちゃんだったよね? 二人は付き合ってるんだっけ?」
 こちらはよく見ると、助け舟と純粋な好奇心が半々といった雰囲気で、問われた青海は「えっ」と声を上ずらせた。
「まさか、そんなんじゃないっすよ。あれはただの幼馴染っていうか、腐れ縁ってやつっす」
「そうなの? あの子、青海くんのこと大好きって感じするから、そういう関係なのかなって」
 意外そうに言われて、否定の台詞より先に笑ってしまう。
 藍沢も青海をバシバシと叩き、「ぜってーねーよ」と青海本人よりも力強く断定した。
「だってこいつ、わっかりやっすいぐらいの巨乳好きだし。このあいだなんか、成人コーナーのグラビアの表紙がありえねーぐらい爆乳で、掃除の手ぇ止めてガン見してたしさ」
「ちょっ、藍沢先輩?」
 援護かと思いきや爆弾をぶん投げられ、青海は動揺のままに赤面する。
 それを聞いたバイトの女性は可笑しそうに笑い、慈悲深いフォローを入れてくれた。
「あはは、まあ青海くんも男の子だもんね。男子高校生なら当たり前だよね」
「!」
 まるで女神のような微笑で許されて、青海はだらしなく頬を緩めてしまう。
「俺だったら、あんな可愛い子が幼馴染なら巨乳じゃなくても付き合いてーけどなー」
「いやいや、あんなお節介焼きの貧乳、藍沢先輩にはもったいないっすよ!」
 わざとらしく大袈裟に茶化すと、つられて藍沢もさらに笑う。
 男同士のノリ、という特別な連帯感で高揚する青海に、まだそばにいた店長が、手持ちの書類でトントンと頭を小突いた。
(やべっ、まだ勤務中だった)
 我に返って謝りかけた青海だったが、店長の目配せに促されて店の入り口を見た瞬間。彼は、店長に怒られるより恐ろしい光景を目にして硬直する。
 自動扉の前に立ち尽くす百花が、眉を吊り上げ般若の如き形相で青海を睨みつけていた。
 真っ赤な顔の彼女は、青海と目が合うなり射抜くような視線をふいと外した。私服に包まれた肩は依然として怒りをあらわにしているが、彼女はあえて青海など目に入っていないと言いたげに漫画のコーナーに消える。
「……あー。やっちゃったな、青海」
 先ほどまで共にふざけていたはずの藍沢が、無駄に真面目くさった面持ちで告げた。まるで他人事だ。
 いつもならば優に三十分は店内に滞在する百花は、一冊の文庫本を手に取って忙しなくレジカウンターに進んだ。メインでレジを担当しているのは藍沢だったが、青海が出勤してからの雑談中に「潔癖症の原井ちゃん」と笑われた女性が率先してレジに立った。
 粛々と会計を済ませ、百花は場の誰に視線をやることもなく退店する。
「ありがとうございましたー」
 後ろ姿を呆然と見送っていた青海は、店長の声で我に返った。
 蚊の鳴くような声で「……ありがとうございましたー」と口ごもるように言う彼に、優しいはずの女性バイトが心配そうな顔で追い打ちをかける。
「百花ちゃん、ちょっと泣いてたみたい」
 邪気のない言葉にぐさぐさと心を刺され、冷や汗を垂らす青海へ、レジから出た原井が「バーカ」と無情に言い放つ。ざまあみろと言わないだけ、よっぽど優しく寛大な処置だろう。
 藍沢も多少は責任の一端を感じているらしく、やや気まずげに青海に提案した。
「ええと、あの子、少女漫画とか好きだったよな? ……後、追っとく?」
 それはあまりにベタ過ぎる。というか、誠意の欠片も伝わらないだろう。
 青海が首を振るよりも先に、一連の出来事を傍観していた店長が淡々と口を挟んだ。
「仕事中でーす。おら、持ち場に戻れー」
 一同は微妙な緊張と後味の悪さが残しつつ、指示通り各自の仕事に戻っていくのだった。

 勤務時間が終了してバックヤードに引っ込むと、先にあがった女性陣二人が帰り支度をしているところだった。
 お疲れさまですと会釈して、青海はまだ落ち込みの激しい心持ちでスマホをタップする。新規のメッセージは入っておらず、どこかで連絡を期待していた自分に罪悪感が湧いた。
「それにしても、今日はちょっとした修羅場だったね」
 優しい女性は、『高橋』と刻まれたネームプレートを外してエプロンごとロッカーにしまう。語調も柔らかく、青海を責めているのではなく慰めているような声音だった。
 一方、原井は感情の薄い口ぶりで青海に訊いた。
「あの子が声かけてこなかったのって、今日が初めてじゃない?」
 青海が答える間もなく、バックヤードの扉を開けた店長が横槍を入れる。
「いや、いままでもちょくちょくあったよ。青海と藍沢が馬鹿騒ぎしてるときとか」
 言われて、青海は「うっ」と言葉に詰まってしまう。たしかに、青海と藍沢がくだらない話で盛り上がるのは今日が初めてのことではない。
 しかし全然気づいていなかったらしい青海の挙動に、原井が改めて軽蔑と呆れの混ざった目を向けた。
「そういえば青海くん、百花ちゃんと同じクラスなんだっけ?」
「うわ、地獄。……まあ自業自得だけど」
 情報を追加する高橋に、原井が遠慮のないストレートな感想を漏らす。店長は「土下座でもして謝るしかないな」と、冗談とも本気ともつかないことを言った。
 帰る準備を終えた女性たちは、雑談を切り上げて先にあがっていった。
 店長と二人きりで残された青海は、なんとも居たたまれない心境でリュックを背負う。そのとき、彼のポケットでスマホが震えた。
 見ると百花からのメッセージだった。
『私がなんで怒ってるかわかんないでしょ』
 短い、それゆえに沸々とした怒りがこれ以上ないほど伝わってくる一言だ。
 少し悩んで、青海はロッカーに背を預けてしゃがみこんだ。指をすいすいと動かして、眉を寄せたり口をへの字に曲げたりと百面相をしながら返信の言葉を作成する。
『胸のサイズとか、からかったりしてごめん』
『そういうことじゃない』
 決死の思いで送ったメッセージは、一瞬で既読が付いたかと思うと光速で否定された。
 そのあとには沈黙が残り、とくに追撃がくる様子も見られない。青海は見当違いの苛立ちで眉間にしわを作った。
『女子って、そういうとこ面倒くさいよな』
 顔をしかめ、画面を見ずに溜息を吐く。拍子にスマホがぽろりと落ちて、薄汚れた床で硬質な音を立てた。
「そんなに動揺するぐらいなら、きちんと大事にしてやれよな」
 青海の方を見もせずに、店長は資料に目を走らせながら呟いた。
 反駁したかったが、そうすると自分がますますどうしようもない人間になる気がして押し黙る青海。手元で再度スマホが小刻みに震える。返事は、いつになく長文だった。
『セイちゃん、バイトを始めてから変わったよね。バイト中は気が大きくなって、言葉遣いも悪くなって』
『無理やり男らしくしてるみたいで、正直、ちょっと格好悪いよ。男らしいっていうか、ただガサツになっただけだし。一緒にいる藍沢さんの真似してるみたいだけど、セイちゃんがなりたいのってそういう男なの?』
『それなら、私もう一緒にいたくない』
 一方的にまくしたてられたメッセージは、不思議と百花の表情まで映し出すようだった。耳の先まで赤くして、必死に涙をこらえながら怒っている。そんな彼女を想像すると、胸に巣食っていた怒りが取るに足らないものに思えてきた。藍沢先輩を悪く言われたことさえ、何度か読み返してようやく気がついた。
 ごめん、と返すのは簡単だが、その先をどう繋げればいいのかわからず、彼はやり場のない感情に瞑目する。
「……俺以外にはわかんないっすよ」
 吐き捨てるように言うと、店長は相変わらず書類から顔を上げないままで失笑した。
「そりゃ、誰だってそうだろ。仮に同じ立場の人間がいくらいたとしても、まったく同じ意見の人間になんか出会えるもんじゃない」
 書類をデスクに置き、彼女はようやく青海の方に顔を向ける。
「ましてや、自分のことだって三十を過ぎてもよくわかんないもんだ。だからこそ自分の行いは常に反省しないといけないし、他人から指摘されたことには聞く耳を持つべきだ。……自分を理解しようとしてくれる他人がいるのは、すごく幸せなことだからな」
 そこで言葉を区切り、「痛いところを突かれてイラッとくるのは普通だよ」と笑う店長。
 普通という言葉がすっと耳に入ってきて、青海は自分がいま、人生でいちばん情けない顔をしていると痛感しながら独白した。
「小学生のとき、スカート履きたくないっていうのを唯一、笑わないでいてくれたんすよ」
「いい子じゃんか。一緒に悩んでくれたんだろ?」
「先生に授業を体操服で受けたいって言って、追い返されてからも二人で食い下がって。結局、登下校と帰りの会は運動部に混じってジャージを着ててもいいって許可が出て」
「まああれ、絶対に制服じゃないといけないって意味もわかんないしな」
「それからも、保健とかで習わない、大人に聞いても誰も知らないことを一緒に勉強して。いつも着てるナベシャツなんかも、俺、あいつがいなかったらいまだに買えてなかったかもしんないっす」
「……お前のこと、本気で大事に思ってくれてたわけだ」
 店長と二人とは言え、まだ店先に藍沢が残っている状況で踏み入った話をするのは少しだけ怖かった。それでもこらえきれない心情の吐露を続けて、青海はふっと肩の力が抜けたように微笑する。
「……たぶん、いまも大事に思ってくれてるんすよ。だから俺、もっと男らしくなって、百花に誰よりも格好いい男として見られたくて……あー、こうして言うとマジでくそダサいっすね」
 途中で照れてしまい顔面を覆う。
 店長は豪快に笑い、「それを言うなら、あたしじゃなくてあの子に言ってきな」と当然のことを言う。彼女は、自分のスマホを出すと待ち受け画面を青海に見せた。
「ほら、頑張ればこうしたご褒美が手に入るかもしれんぞ?」
 長方形の枠に表示されているのは、店長と、店長に近い年齢の女性のツーショットだった。それも単なるツーショットではなく、店長の方が女性の頬に口付けている熱烈な一枚だ。
 青海は、複雑な気持ちで本心を告げた。
「……普通に羨ましいっすけど、キスシーンを待ち受けにするのはどうかと思うっす」
「これロック画面を解除した方の待ち受けだし。キスって言ってもほっぺただろ」
 店長はしれっとした顔で応え、ふと、単純な疑問を青海に投げかける。
「お前、もしあたしに女性の恋人がいるって知らなかったら、うちでバイトするつもりはなかったのか? バイトするにしても、性別のことは伏せておいたとか」
 訊ねられて、青海は考え込むように顎に手を添える。そして彼は軽くかぶりを振った。
「まあ、さすがにそうだったと思います。いくら百花が背中を押してくれてるとは言っても、やっぱりけっこう怖いっすから」
「ふうん……他の連中にカミングアウトするつもりも、いまのところないんだよな」
 確認する店長へ肯定を返し、青海は覚悟を決めてスマホに百花への返事を打ち込んでいく。
 悩みに悩んだ末に『ダサくてごめん』とだけ送って一息つくと、彼はすっかりずり下がったリュックを背負いなおして立ち上がった。
 ズボンのすそを払い、先ほどよりも幾分か引き締まった面差しで顔を上げる。
「……いろいろ、聞いてくれてありがとございました。俺、もっと本当に格好いい男になれるように頑張ります」
 店には聞こえないよう小さな声で、しかし精一杯の力をこめて宣言すると、店長は満足げに頷いて口角を上げた。
「せいぜい頑張りたまえ」
 おどけた声で言った店長に、もう一度会釈してバックヤードから出ようとする青海。
 すると、扉を開ける寸前で向こうの方からノックの音がした。
 目を丸くする青海の後ろから、店長が「どうぞー」と声をかける。扉はすぐに開き、少し興奮している様子の藍沢が顔を出した。
「っと、藍沢先輩。どうしたんですか?」
「おっ、青海、帰ってなかったんだな!」
 驚く青海に声を弾ませる藍沢。
 彼は立ち尽くす後輩へ朗報だと言わんばかりの笑みを見せた。
「さっきの百花ちゃん、『セイちゃん、もう帰っちゃいましたか?』って聞きに来たぞ。たぶんまだバックヤードにいるって答えたら、じゃあ店の裏で待ってるって」
「!」
 思いもよらない知らせを受けて、青海は一気に頬を紅潮させた。
「行ってこいよ。びしっと男らしく謝ってこい」
 場の誰よりも男前に笑う店長に、「はいっ!」と大きな声で返事をしてバックヤードを飛び出していく。
 急転直下の展開だと野次馬根性を隠しきれない藍沢の尻を叩き、店長も店先に戻っていった。
「ほれほれ、お前は仕事の途中だろ。うら若き高校生の青春を邪魔するんじゃないよ」
「いてっ。店長、ケツさわんのはセクハラっすよ!」
「どの口が言うか」
 本気でわかっていないらしく怪訝そうな顔つきの藍沢に、やれやれと仕方のない思いで苦笑いする。彼女はレジカウンターに入って仰々しく嘆息した。
「……こうして見ると、青海の方がとっくに藍沢より男らしい気もするな」
「?」
 さらに疑問符を浮かべる藍沢だったが、彼女はとくに解説することなく業務に取りかかっていく。
 ポケットにしまっているスマホへ『無事に仲直りできました!』と吉報が入るのにも、それほど時間は要さなかった。
1/1ページ