とある美術部の話


 放課後の美術室は、穏やかな雰囲気に包まれている。
 部屋全体に染み込んだ油絵具の匂い。スケッチブックをめくる、紙の擦れる音。画材を準備するのは、慌ただしくも心躍る楽しい時間だ。
 換気のために窓を開けると、澄んだ空気が頬を撫でた。
「さむっ」
 身を震わせるの同時に、教室の外から賑やかな声が聞こえてくる。間を置かず、美術室の扉がガラリと開いた。
「お疲れさまー。今日も寒いねっ」
 白シャツ姿の三年生、レオ先輩が眩しい笑顔をこちらに向ける。男らしい低音だけど明朗快活で、彼の一言が響くだけで私の心臓は大きく跳ねる。
「お疲れさまです」
 高鳴る鼓動を抑えつつ、私も明るい笑みを返して、荷物を置いている自分の席へ戻った。
 作品を描き溜めているスケッチブックを開き、それに気を取られているふりをしながら、斜め前の席に腰を下ろした先輩をそっと盗み見る。
 明るい髪色と、やんちゃに目まぐるしく変わる表情。文化部より運動部の方が似合いそうなレオ先輩は、今日もやる気満々の様子で作業着へと着替えていた。
 私が美術部に入ったのは、去年の四月半ばの頃だ。昔から絵を描くことが好きだったので、私は小学校でも中学でも美術部に所属していた。高校生になってもそれは変わらず、入学式の翌日には誰よりも早く美術室の入部届を提出した。
 数多ある部活動の新入生大歓迎(大勧誘)の波をかきわけて美術室へ直行すると、そこには美術部顧問の先生ではなく、文化部にしては派手な容姿の先輩がいた。
「新入生? 部活、決めるの早くない?」
 開け放たれた窓を背に、春風を受けてきらきらと光る茶髪。
 爽やかな白シャツと、透き通るような、けれども存在感のある笑顔が印象的で、その一瞬はいまでも私の心に強く焼き付いている。
 とはいえそのあまりにも強烈なオーラに、(ここは不良のたまり場なのだろうか)と危惧してしまったのも、いまとなっては懐かしい笑い話だ。
 直後に現れた顧問の先生によって誤解は解かれたものの、当時の話をするたびにレオ先輩は「俺ってそんなにヤバい奴に見える?」ときまり悪そうな顔をする。その仕草が拗ねた子どものようで妙におかしくて、顧問の先生や部員たちは何度も笑ったものだ。
 私はというと、先輩をヤンキー扱いした張本人の身で笑うに笑えず、毎回「それだけ目立つ人ってことですよ」と微妙なフォローを入れている。
 最初のうちこそ「なんかチャラそうな先輩だなぁ……」と色眼鏡で見ていたが、レオ先輩は外見に反してとても真面目な人だった。
 絵を描いているときのレオ先輩はとても生き生きしている。デッサン用の鉛筆で手を真っ黒にしたり、作業着を油絵具でカラフルに染める姿は、純粋に美術を楽しむ充実感に満ちていた。
 気が付けば私は、そんなレオ先輩から目を離すことができなくなっていた。
 少しでも先輩に好かれようと、私はそれまで興味もなかった(毛嫌いしていた節さえある)化粧にも手を出して、着るものや所作にまで気を遣うようになった。それらを直接レオ先輩に褒められたことはないけれど、いつか、後輩ではなく一人の女の子として見てくれるかもしれない。そんな淡い気持ちだけが、いまの私にとって唯一の支えになっていた。
 私は、自分の指先を鮮やかに彩るネイルに目を留めた。使う道具や手順もすっかり覚えて、今では日替わりで爪先にさまざまな絵を描いている。
 美術部の一員となったあの日――先輩との出会いから、早くも半年以上が経っている。季節は春から冬に変わって、先輩を想う気持ちは日に日に強くなっていった。
 面白い落書きでもしているのだろうか。友人とスケッチブックを見せ合っては爆笑するレオ先輩。そんなに大声で笑って、先生が来たら怒られてしまわないだろうか。
 心配している私に気付かず笑い続ける先輩の後頭部を、いつのまにか来ていた美術部顧問が、丸めた用紙で軽く叩く。先輩はおどけた調子で舌を出し、苦笑いする先生を中心にまたひとつ大きな笑いの渦ができた。
「まったく、レオ君は元気が良くて大変よろしい」
 冗談めかしてたしなめた美術部顧問のおばあちゃん先生は、レオ先輩を叩いた用紙を広げて黒板に貼り出した。それは週替わりに出される課題で、今週のテーマは『私の好きなもの』と書かれている。
 私の好きなもの。改めて問われると、いろいろなものが頭に浮かぶ。絵を描くための画材に、最近買ったばかりのお洒落な化粧品。動画サイトで見るお笑い番組、繰り返し見ても飽きない名作映画。昔から大事にしている音楽のCD。
 ふとレオ先輩の後ろ姿が目に留まって、私はぽっと頬が熱くなるのを感じた。窓際の席で、ちょうど冷たい風が吹き込んでくる。先輩の頭が、くるりと回ってこっちを向く。
「窓際、寒くない? 席変わろうか?」
 気遣ってくれる優しさに、「だ、大丈夫ですっ!」と両手を振るので精一杯だった。
 先輩が「そう?」と前に向き直って友人たちとのお喋りを再開する。それを見届けて、私はラフを描くためのクロッキー帳を開いた。作品テーマ、好きなものと書いて、流行りのタレントや音楽プレイヤーの絵を簡単に描き出していく。
 先生へ提出する作品とは別に、レオ先輩の絵も描こう。心の中だけで決めて、私はさっそく作品制作に取りかかった。

「うーん……どれも、決して悪くはないんだけどねぇ」
 翌日の美術準備室。美術部員の活動場所である美術室の隣、少し埃っぽくて画材で溢れている部屋で、私は先生と二人きりで話していた。
 クロッキー帳のラフを見せると、おばあちゃん先生は渋い顔つきで首を傾げた。
「ぱっと目を惹くものもないというか」
 歯に衣を着せない物言いがぐさりと胸に突き刺さる。思わず深い溜息が漏れてしまった。
「まあ、もうちょっと構図を見直して色を塗ってみたら、また印象も変わるかもしれないから」
 おばあちゃん先生は慰めるように柔和に笑い、ぺらぺらとクロッキー帳をめくっていく。数ページにわたって描き溜めた『私の好きなもの』は、指摘された通り、どれも決定的な魅力に欠けているような気がした。
 不意に、ページをめくる先生の手がぴたりと止まった。
「あら? これも……好きなもの?」
「あっ、それは」
 先生が見ているのは、こっそり描き留めておいたレオ先輩のラフだった。
 仮題テーマの「好きなもの」といったメモ書きの下に、部活中の先輩が熱心に絵を描いている様子をデッサンしたものがある。これでは「私の好きなもの」がレオ先輩だと丸わかりだ。
 羞恥と動揺で顔を真っ赤にする私には目もくれず、おばあちゃん先生はなんだか難しい顔でレオ先輩のデッサンを見つめていた。クロッキー帳に描かれている先輩の姿に検分でもするかのような眼差しを送っている。
「ふむ……」
 おばあちゃん先生は複雑そうな表情でクロッキー帳に目を通すと、それを私に返しながら、言葉を選ぶようにして言った。
「そうね……あなたは、レオ君のことが好きなのね」
 先輩への好意を口にしたことはなかったが、美術部顧問のおばあちゃん先生には、私の恋心などとっくにお見通しだったらしい。
 改めて「好き」という事実を他人から告げられ、「は、はぁ……まぁ」と曖昧な返事しか出来なくなってしまう。
 あくまでも先輩として「好き」なんですと付け加えようかとも思ったけど、やっぱりレオ先輩に対する恋愛感情を否定することはできなくて、私は赤くなった顔を伏せて床に視線を落とした。おばあちゃん先生はそんな私を困ったように微笑みながら眺めている。
 やっぱり、私にとって特別に好きなのはレオ先輩なのだから、素直に彼を描くべきだろうか。
 決意しかけた私へ、おばあちゃん先生は和やかな微笑を絶やさずにそっと呟いた。
「……でも、あなたはきっと――」
 一拍の間を置いて、先生の口から予想外の言葉が告げられた。
 二人きりの準備室に沈黙が落ちて、私は言葉の意味を掴みきれず口を半開きにする。
「え……?」
 おばあちゃん先生は、にこにこと笑顔を浮かべている。
「それって、」
 どういう意味ですか、と尋ねかけるのと同時に、準備室の扉が開いた。美術室と繋がっている扉の向こうから、手を絵具まみれにしたレオ先輩が覗き込んでくる。私は素早くクロッキー帳を閉じて後ろ手に隠した。
「せんせー、ちょっといいですかー?」
「はいはい、なんですか?」
 先生とレオ先輩が、話しながら美術室の方へ消えていく。
 追いすがることもできず、準備室にひとり取り残された私は、止まっていた呼吸を取り戻すように重く息を吐いた。

 翌週、課題が出てから一週間が経った放課後。
 美術室へ行くと、今日はレオ先輩の方が先に来ていた。課題の提出中のようで、キャンバスを見せて、先生から詳しいアドバイスをもらっているらしい。
「あら、モネさん」
 先生が私を呼ぶと、レオ先輩も「お疲れー」とこちらを向いた。その笑顔はいつも通りだけど、私は一方的なうしろめたさを覚えて、つい顔を逸らしてしまう。
「お疲れさまです」
 すると先輩は「なんか元気なくね?」と近づいてきて、私の頭をぽんと撫でた。唐突な行動に心臓が高く跳ねて、だけどそれと同じくらい複雑な心境にもなる。
「モネさんのも見ましょうか」
 先生に手招きされて、私は荷物を手近な席におろすと、観念した気持ちでスケッチブックを出した。キャンバスを引っ張り出し、作品を提出する。レオ先輩が興味津々といった様子で覗き込んできたが、恥ずかしいなどと思う余裕もなかった。
 両腕で支えられる大きさのキャンバスを教卓に置く。それは、私自身の自画像だった。
 キャンバスの上部には、作品テーマでもある「私の好きなもの」というタイトルも付けてある。レオ先輩はわずかに怪訝な顔をした。
「……私は、私自身の絵を描きました」
 淡々と作品の説明をしながら、あのとき先生に言われたことを思い出す。あのとき先生は、私がレオ先輩へ抱く好意を微笑ましげに見つめて言った。
『あなたは、レオ君のことが好きなのね』
 そして、まったく声色を変えずにこうも言ったのだ。
『でも、あなたはきっと――レオ君以上に、彼のことを好きな自分のことが好きなのね』
 そのとき、頭から氷水を浴びせられたような気がした。
 私のレオ先輩を想う気持ちは、「レオ先輩を好きな自分」が好きなだけにすぎないのだと。
 思い返せば、自分でも納得できる部分はいくつもあった。最初こそ先輩に見てもらうために始めた化粧も、気が付けばいつの間にか「恋する自分」に酔っていたところはある。私は油絵具で汚れているネイルを隠すように爪をこすり合わせた。
「ずっと大好きだと思っていたものが……大好きだと想っていた人がいるんですけど、それは結局『その人のことを好きな自分自身』が好きなんだと、気付かされることがあって」
 声に感情が乗らないよう努めながら解説を続ける。レオ先輩もおばあちゃん先生も、私の作品を穴が開くほどに凝視していた。
 自意識過剰なやつか、相当なナルシストだとでも思われているんだろうか。いや、そもそもこういう思考回路に陥っている時点で自分のことばかり考えているのは確かだ。
「純粋に好きだと思っていたものを、本当はそれを好きな自分が好きだと気づかされるのは、凄く怖いなって思いました。……よく考えてみたら、私は好きな人についてなにも知らなかったのに」
 言いながら、自分の言葉でさらに気持ちが落ち込んでしまう。実際、私はレオ先輩が提出している課題の絵を見ようともしなかったのだ。絵に対する情熱さえ、私の気持ちは偽物なのかもしれない。
 作品の説明を終えて、キャンバスをそっと先生に差し出した。鈍く光る指先のネイルが目に入る。油絵具に塗れて、汚れてしまった残念な指先。帰ったら真っ先に落としてしまおう。
 絵を描く気分にもなれず、今日は作品の提出だけして帰ろうと思っていた私は、荷物を取りにきびすを返す。次の瞬間、私の背を呼び止める声がかかった。
「え、めっちゃいいじゃん、これ」
 私の作品を見たレオ先輩が、子どものように目をキラキラさせている。きょとんとする私に、先輩はキャンバスをじっと見つめながら言葉を重ねた。
「好きなものを見てるときの自分が好きって最強じゃん。たいして相手のこと知らなくても、知らないのにこんだけ良い顔で相手のことを好きだって思えるの、すげー幸せじゃね?」
 レオ先輩の声につられるように、私も再び自分のキャンバスを見つめ返す。絵の中の私は、盲目的なまでにただ一点を見つめて瞳をきらめかせている。
「モネちゃんって、人とか物を見る目は確かだからさ。もっと自信持ってもいいんじゃないかな」
 唐突に名前を呼ばれてどきりとする私に、レオ先輩は「そのネイルもさ」と、私の爪先を指差した。
「油絵具がついても綺麗に見えるような色、選んでるでしょ? いつも綺麗だなーと思ってて」
 初めて聞く言葉に呆然とする私へ、おばあちゃん先生がくすりと笑った。
「自分の好きなものって、案外、伝えなければ分かってもらえないものなんですよね」
 でも、それを否定したり恥ずかしがる必要はないんですよ。
 続けた先生の隣、なぜかレオ先輩は赤面して頭を掻いていた。
「そういえば、レオ先輩は何を描いたんですか?」
 手元を覗くと、そこには見覚えのある小さな模様が散っていた。どこで見たんだっけと記憶の糸を手繰り、それが、日によって変えている私のネイルの模様だと気づく。
「……せんせーが、好きなものは好きって認めた方がいいって言うから」
 耳まで真っ赤になった先輩の言葉に、私はおばあちゃん先生の顔を見る。先生は悪びれた様子もなく、「自分の好きに気付かない人も、自分の好きを見て見ぬふりする人も、傍から見ているとじれったいんですよねぇ」などと笑っていた。……もしかすると、先生は最初からすべて仕組んでいたのかもしれない。私はレオ先輩の作品から先輩自身に視線を移す。
「先輩の好きなもの、もっと教えてください。……そしたら、私も自分のこと、もっと好きになれる気がするので」
「! それって、どういう……」
 顔を上げたレオ先輩に笑みを返し、私は自分の自画像を手に取った。指先のネイルが油絵具をまとって鮮明に光る。
 私は確かに誰よりも自分のことが好きで、だけどいまは、それ以上に私自身を認めてあげてもいいかなという気になっていた。キャンバスに描かれた私の顔は、描き上げたときよりもずっと誇らしげに見える気がした。
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