カイさん、主夫をお休みします(前編)


 いくつもの長机と椅子が揃えられた、広さはあるものの雑然とした空間――食堂に集まった少女たちは、緊迫した表情で息を呑んでいた。
 人数はざっと十数名ほど。まだ学生と見える子どもから、充分に自立しているであろう大人まで、男女ともに様々な年齢層の集団だ。
 密室だが不思議と息苦しさのない部屋の中、彼らの視線を集める青年は静かに場を支配していた。黒い長髪と赤いエプロン。温度のない眼差しを向ける彼は、年齢も性別も謎めいた立ち姿だ。
 青年のまっすぐな目は、しかし場にいる誰のことも見ていないようだった。
「……私はもう知りません。どうぞみなさん、各自でお好きに過ごしてください」
 彼は、唐突に口を開いてそれだけを言った。淡々とした口調には感情が見えず、場の空気は冷たくぴんと張り詰めている。
 立ちすくむ一同に困惑と狼狽が波のように広がり、しかし誰もが言葉を発することができないでいた。気まずい沈黙が落ちて、無感情な面持ちの青年は一方的に話を切り上げる。
「カイさんは、主夫をお休みします」
 短く宣言し、彼は食堂内の小さな扉の向こうへと姿を消す。
 残された十数人は、不安げな視線を交わし合うことしかできなかった。


 時間は半日と少し巻き戻って、それは昨日の夕食時のこと。
 清潔に保たれた食堂で、少女たちはいくつかのテーブルに着いていた。調理室から現れた黒髪の青年、佐藤戒が夕食を運び、あっというまに十数人分の夕食が並べられる。
「今日も美味そうだな。配膳、手伝おうか?」
 奇抜なメイクをした女性、八分雨澪子の申し出を、カイは「探索でお疲れでしょうから、座って待っていてください」とやんわり断った。
 今夜のメニューは大皿に盛られた唐揚げで、皿はテーブル上に一定の間隔で配置されていく。その他には全員が共通の白米と味噌汁を出され、それに加えて個人の嗜好に合わせたサラダや厚揚げなどの副菜も添えられていた。
 すべての料理を出し終えたカイが席に着き、全員が着席していることを確認して、レコが持ち回りの当番となった合掌の音頭をとる。いただきます、と全員で声を揃え、食堂には食器の音と会話の声が響いた。
「ここでの生活にも、なんだかんだで順応してきたよなー」
 唐揚げを一口で頬張り、茶髪の少年がみんなを見回して言った。ピアスにヘアピン、手首にもやたらと装飾品をつけている彼――田綱丈の言葉に、隣に座る女子高生も味噌汁をすすりながら同意する。
「そうだな。目を覚ましたときには、どうなることかと思ったが……たいして危険なことはなさそうなのが救いか」
 明るい茶髪を編み込んで高く結い上げた少女、千堂院沙良は、食事中でも凛々しい雰囲気を崩さずに頷いている。彼女の手にある味噌汁が、良い香りを漂わせていた。
 ジョーは唐揚げを飲み込んで続ける。
「知らねー場所に、知らねー人たちと閉じ込められるってけっこう不安だったけどさ。もう二週間ぐらいだっけか。これだけ一緒に過ごしてれば、家族みたいなもんだよな」
 彼らが閉鎖空間に閉じ込められてから、すでに半月が経とうとしていた。
 楽観的に笑うジョーとは対照的に、彼の正面に座る女子大生は気落ちした様子で目を伏せる。
「確かに、こうして過ごすのは楽しいですけど……大学の単位や課題が」
 鮮やかで毛量豊かな髪を揺らし、大きく溜息を吐いた彼女――絵心菜緒につられて、彼女の隣に座っている中学生も不安げな表情を見せた。
「家族や友達も、みんな心配していると思います……」
 食事中でもバケツを被ったままの少女、木津池神奈は、隣の姉に「ね、お姉ちゃん」と同意を求めて視線を移した。姉のクギエは「そうだね」と言うように首肯して、林檎の入ったコールスローサラダを口元に運んでいた。
「……」
「どうした、ギン。いっぱい食べないと大きくなれねーぞー」
 心なしか箸の進みが遅い、一同の中でも最年少の小学生――飯伏銀に、ジョーは冗談めかして笑いかけた。彼の隣で、サラはギンへ気遣いの声をかける。
「これだけ長く家族と離れるのは寂しいよな」
 ギンは膝の上に置いたニャーちゃんクッションに目を落とし、ややあって自身を鼓舞するように笑顔を浮かべた。どこか、ニャーちゃんの笑顔を真似しているようにも見える。
「……お母さんたちにも会いたいけど、ここにはみんながいるから、大家族みたいで楽しいニャン!」
 それは決して強がりではない本心に見えて、けれどやはり心細さは人一倍にあるだろう。サラは箸を置いてギンの頭を撫で、「ギンは強いな」と優しく目を細めた。
「オレなんか、早く家に帰りたくてしょうがねーぜ」
「ジョーが会いたいのは、どっちかって言うとリョーコの方じゃないのか?」
 大袈裟に息を吐いたジョーへ、揶揄するように口角を上げるサラ。「リョーコさん、と言うと?」ナオが不思議そうに小首を傾げた。
 ジョーがごまかすより先に、サラはどこか得意げな笑みを見せる。
「私の親友で、ジョーの彼女だ」
「彼女! ジョーさん、彼女がいるんですね」
 途端にカンナが食いついて、彼女は年相応の好奇心に瞳をきらきらと輝かせている。
「いいなぁ。高校生って、やっぱり大人なんですねー」
「……」
「……」
 なにやら憧憬で心をときめかせているらしいカンナに、彼女と言っても手を繋いだ程度の関係にしか進展していないとは言い出せず、ジョーは曖昧に笑って視線を逸らす。サラはノーコメントでペースト状のポテトサラダを黙々と食していた。
 食事は和気藹々とした雰囲気で進む。
 活気あふれる学生組のテーブルから少し離れた席で、酒の飲める大人たちは多少落ち着いた空気で食事をとっていた。飲酒化の年齢とはいえ、実際に酒を飲んでいる者は一人もいない。
「大家族みたい、ですか。若い方々は環境の変化にも強いようで」
 良いことですと満足げに笑う、少々怪しげな風貌の男性――三島和己の台詞に、彼に負けず劣らず不審な見た目の青年、八分雨ありすが苦々しい顔をする。
「呑気なものだな。オレたちをここに閉じ込めた人間の目的すら、明らかになっていないというのに」
 言いつつ、それはそれとして容赦なく大皿の唐揚げを食べ進めていくアリス。バーガーバーグQ太郎もアリスの意見に同調する。
「誘拐犯がなにを考えてるのか、一向にわからんちゅうのが不気味ぜよ。早いところ脱出して、ついでにこんなところに閉じ込めた連中を一発ガツンとじゃな」
 山盛りの唐揚げを瞬く間に空にして、血気盛んに鼻息を荒くするQタロウ。覇気の薄い目をした男性――篠木敬二も「おまわりさんの仕事が増えちゃうねー」と言ってもぐもぐと唐揚げを咀嚼している。
「……どうでもいいけどさ。ケイジさんたち、本当よく食べるよね」
 ケイジの向かいでコールスローサラダをちびちびと食べ進める、ニット帽の青年もとい日和颯に、レコが「お前はもうちょっと肉食えよ」と小さく舌打ちした。
「こいつらの食欲もたいがいだけどよ。食わねーからそんなにひょろひょろなんだろ」
 彼女は呆れた顔でケイジやアリスたちを見つつ、ソウにも「情けねーな」と目線を送っている。矛先を向けられて、ソウは「はは、なんかみんなの食べっぷりを見てるだけでおなかいっぱいになっちゃって」と頬を掻いた。
「カイさんのご飯は美味しいんだけどさ。目の前でこうばくばく食べてる人がいると、それだけでお腹いっぱいにならない?」
 取り繕うように笑うソウへ、しかしアリス・Qタロウ・ケイジの三人はテンポ良く否定の言葉を口にする。
「ならないだろ」
「ならねーぜよ」
「ならないねぇ」
 料理の腕を褒められたカイが「ありがとうございます」と軽く会釈して、ちらりと三人を一瞥した。「あなたたちは、肉より先に白米やサラダを……もう食べていましたか」
 三人の皿は茶碗に一粒の米も残っておらず、味噌汁やサラダ、小鉢の厚揚げにいたるまで綺麗にたいらげられていた。加えて、みんなで分けて食べる用の大皿を、ほとんど一人一皿の配分で食べつくしている。
「……まだ足りないですかね」
 むむ、と眉間にしわを寄せるカイの向かいで、ミシマは「皆さん食べ盛りですねぇ」と引き気味に苦笑した。
「皆さんは、足りていますか?」
 カイがレコやミシマ、ソウの方に視線を投げると、さほど大食漢でもない三人は「ああ」や「ええ」、「うん」と肯定を返した。ソウに至っては、成人男性として食が細すぎるくらいだ。
「しかし……まだ、食材の調整をしなければいけませんね。ここには育ち盛りの方も多いですから」
 物憂げな顔つきで、カイは学生組の方を見やる。彼らもちょうど食事を終えたようで、再びレコが合掌の合図をする。
 一同はすっかり慣れた様子で「ごちそうさま(でした)」と声を合わせた。一拍遅れて、「お粗末さまでした」とカイの柔らかな挨拶が残った。

 夕食が済むと、集団は各自で入浴の準備を始めた。サラやミシマが片付けを手伝おうとしたが、カイはてきぱきと食器をまとめて「心遣いだけいただきます」と調理室へ戻ってしまった。何枚もの大皿や茶碗をひとまとめにトレーへ載せ、危なげなく余裕のある笑顔さえ浮かべた立ち振る舞いは曲芸師のようでもあった。
 一番風呂は若者たちに譲り、大人の面々は食後もしばらく食堂に残っていた。彼らに茶を出して、カイは洗い物を前に腕まくりをする。十数人分の食器を、迷いのない手さばきで洗っていく。
 両手を水と泡だらけにしながら、カイは今日も食べ残しが出なかったことに無意識で頬を緩めていた。茶碗に米粒が残っていないので、洗いやすいことこの上ない。
(とはいえ……この量だと、少し骨が折れますね)
 食洗器の導入を検討したいが、先日この施設の管理者――黒幕の一味とも言える存在に経費削減を要求されたばかりであると思い出し、カイは人知れず嘆息した。吐息で泡が軽く飛び、シャボン玉のように虹色の光が反射する。
(……まあ、今は平穏に過ごせているだけ良しとしましょう)
 そう折り合いをつけ、水道の蛇口をひねる。食器の泡を一気に流して、洗い上げた食器を次々と水切りラックへ立てていく。この生活が始まった当初は乾いた布巾で拭いていたが、労力と時間がもったいないと方針を切り替えたのは二回目の食事の後だった。試行錯誤で家事の効率化を図るのは、彼にとっては楽しい作業でもある。
 食器を洗い終え、自分の手まで洗って、カイはとんとんと自分の肩を叩いた。閉鎖空間での共同生活が始まり、まだ二週間か、もう半月と言うべきか。自覚するよりも疲労が溜まっているらしいと、他人事のように思いながら首を回す。
 十数人分の衣食住のサポートをするのは、それなりに疲れる作業でもあった。本音を言えば人の手を借りたい状況だが、彼にはそうできない理由、事情があった。
 とりあえず明日の朝食を確認しようと立ち回るカイ。ふと調理室の扉がノックされ、間髪を入れずに扉が開いた。
「カイさん、これ」
 見ると、そこにはお盆にコップや湯呑を載せたサラがいた。もう風呂に入ってきたらしく、濡れた髪をタオルで緩く巻いている。後ろにはジョーとギンも一緒だった。
「ああ、ケイジさんたちのですね。ありがとうございます」
 お盆ごと受け取り礼を言うカイに、サラと同じくタオルを被ったギンが忠告するように告げる。ニャーちゃんクッションはタオルで丁寧に包まれていた。
「ロン毛エプロンも、早く行かないと筋肉ゴリラが湯船のお湯ぜんぶ溢れさせちゃうニャン」
 真剣な眼差しで告げるギン。
 巨体のQタロウが湯船に浸かり、風呂の水を一気に溢れさせる光景を想像して、カイは思わずくすりと微笑する。きっとギンは、その光景をじかに見たことがあるのだろう。
「では、お風呂のお湯が減らないうちに行かなければいけませんね。サラさんたちも、湯冷めしないようしっかり髪を乾かしてください」
 にこりと笑みをたたえて言ったカイに、サラは少し可笑しそうに笑った。「? ……私の顔に、なにか?」怪訝な顔へと変わったカイへ、サラが「あ、すみません」と謝罪してギンに目配せする。
「夕食のとき、『ここにいるみんなは大家族のようなもの』だって話をしたんですけど……カイさん、本当に私たちのお母さんみたいだなって」
 彼女は申し訳なさそうに、しかし信頼や甘えを寄せた顔で笑う。ジョーも、「カイさんの手料理めちゃくちゃ美味いし、掃除とか洗濯も頼っちゃってるし」と悪びれない笑顔で頷いている。
「母親……ですか」
 思いがけない言葉に目を丸くしたカイへ、サラは慌てて口元へ手を当てた。
「すみません。カイさんは男性なのに」
「そんなに長い髪してたら、ほとんど女の人と変わんないニャン」
 ギンはマスク越しに鼻を鳴らし、カイは満更でもなさそうに「……それだけ頼られているというのは、私としても嬉しいものです」とにこやかな笑みを向けた。
 サラたちとおやすみの挨拶を交わし、カイは調理室から三人を見送った。改めて明日の献立を確かめながら、その顔には自然な笑みが浮かんでいる。母とたとえられたことはともかく、大家族のような関係に自分も含まれていることが無性に嬉しかった。
 一人きりの調理室で作業を終えて、しかし彼の仕事は多岐に渡る。家計簿の管理など細々とした雑務に追われ、結局風呂に入ろうと時計を見たときには深夜をまわっていた。湯船は溢れる以前に冷めてしまっていて、再び温める手間を惜しみシャワーだけにとどめることにする。
 一日の疲労はシャワーだけで流しきれるものでもなかったが、サラやジョーたちとのやりとりを思い出して、カイの胸はほのかに温まっていた。

 そして翌日。
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