世界その7:愚者と造花の愛言葉
「ん? 帰ってきてたのかー」
アスナロの施設内部。研究室の前で、着せ替え人形のトト・ノエルは淡々と言った。
彼と相対するように立っている青年、佐藤戒も、表情を変えることなく真顔で返す。
「ええ。……久しぶりですね」
カイは普段着である黒尽くしの服装だった。
ノエルは片手に絵の描かれたパネルをひとつ持って、物言いたげに目を細めた。
「変わんねーなー」
「そうでしょうか」
「だいぶ久々だろ。父さん、テメーの顔なんか忘れちゃってるかも」
茶化すように笑い、パネルの角でカイの頬をつつこうとする。
カイは「すぐ帰りますよ」とパネルを避けて、その拍子に、持っていたバッグから小さな花がこぼれ落ちた。
「なんだ、これ」
しゃがみ、ノエルは指先で花を摘まむ。花はかたく乾いていて、肌触りで作り物だとわかった。やけにリアルな造花だ。
「今日は千堂院家でお祝いがあったので、その飾りつけの余りです」
ノエルが「お祝い?」と疑問形で繰り返すと、一人娘の誕生日だったのだと詳細な答えが返ってくる。
精巧な花びらをもてあそび、しかしそれが本物の花のようには千切れないことを悟って、ノエルはつまらなさそうに唇を尖らせた。
「欲しいなら差し上げますよ」
「ゴミじゃん、いらねーよ」
カイの提案を即答で切り捨てて、彼はふとなにか思いついた顔で「……いや、やっぱこれだけもらおっかなー」と大ぶりな造花を手に取った。
花はノエルの手に少し余るくらいの大きさで、花びらが厚く重なったような、ボリュームのある形をしていた。オレンジ色の花弁と華やかなたたずまいは、どことなくノエル自身に似ている気がしないでもない。
ノエルは研究室の扉を見ながら言った。
「研究室っていっぱいあるくせ、扉は全部地味だからさー。ここに飾ってれば、父さんがオレの部屋だってすぐにわかるじゃん?」
「ふむ……まあ、そうですね」
正確にはあなただけの部屋でもないのですが。思いつつも口には出さず、カイは扉に造花を飾るのを手伝ってやった。
無機質な扉に似つかわしくない、鮮やかな存在感の造花を、二人がかりで取り付ける。ドアプレートの表記を邪魔しない位置に、そして遠目からでもすぐわかるように配置する。
「これでよしっと。父さんに教えとかねーと」
ノエルが満足げに呟いたのと同時に、廊下の角から二人の人間が現れた。
二人はどちらも白衣をまとった女性で、片方は勝ち気そうな顔つきをしている。もう片方は大人しそうな気弱そうな表情の、対照的な雰囲気を持つ二人だった。
並田みちると記されたネームプレートを胸元で揺らし、大人しそうな方がカイに声をかける。
「カイさん、珍しいですね。定期報告ですか?」
勘の良いみちるにカイが頷きを返すと、同じく原井笑理と書かれたネームプレートを首から下げている女性が、せせら笑うように口角を上げた。
「なんだ、任務の失敗でもしたかと思ったのに」
「……お二人も、お変わりないようでなによりです」
嫌味と皮肉の応酬をする二人。みちるは、話題を逸らすように研究室の扉へ目を留めた。冷たささえ感じさせるスチール製の扉を、大輪の花が彩っている。
「扉が可愛くなってますねぇ」
無邪気に笑うみちるへ、カイは先ほどのやり取りを説明する。
みちるは微笑みながらノエルに視線を向けた。
「綺麗なオレンジ色ですし、ノエルさんにぴったりです」
一方、笑理は花びらの質感を確かめるように飾り花へ触れて「作り物じゃない」と切って捨てる。それから彼女は意地悪な微笑を浮かべた。
「ああ、『人形』にはお似合いかもね」
ちらりと挑発の眼差しを送られ、ノエルは片足を笑理の眼前で壁に突き立てる。
「ちょっと腕の良い科学者だからって、チョーシに乗んなよ」
「埃が立つから暴れないでくれる?」
ぴりぴりした険悪な雰囲気に、不穏な空気が得意でないみちるは慌てて白衣のポケットから携帯端末を取り出した。端末には百科事典のようなデータも入っている。
「ええと、これはダリアの造花みたいですね。ダリアは色ごとに花言葉が違うようですが、オレンジ色のものには花言葉がないみたいです……」
端末を操作するうちに、みちるは興味深そうな表情になった。
彼女は場の空気も忘れて、調べた情報を素直に読み上げる。
「へえ、造花そのものには花言葉があるんですねぇ。ええと、『偽りの愛』……」
「……喧嘩売ってんのかテメー」
ノエルの声が一段と低くなり、笑理がわざとらしく「ぷっ」と噴き出す真似をする。
みちるは、笑理へ本当に足蹴りを食らわせようとするノエルを「か、『変わらぬ愛』という言葉もありますからぁ!」と必死に止めた。
「作り物ならではの言葉ですね」
「い、いいからカイさんも止めてくださいぃっ!」
妙に感心しているカイに泣きつき、研究室前は騒然と賑やかになる。
なんとか乱闘の事態は回避されて、その日からはノエルのいる研究室の扉にだけ、オレンジ色の造花が飾られることとなった。
カイは、施設内で物置部屋と化している自室へ久方ぶりに戻っていた。部屋はカイの机と椅子やベッドが残っていて、けれども滅多に掃除されないのか埃っぽくなっている。
手持無沙汰のノエルも、暇潰しにとカイのあとについてきていた。
「オメーさー、なんでそこまで尽くすわけ?」
余った造花を「また来年も使えるように」と丁寧にしまっておくカイに、ノエルは不思議そうに訊ねた。単なる世間話とは違う、心から「理解しがたい」といったような、多少の嘲りも含んだ問いだった。
「チドーインの娘は、オメーが家や自分を守ってるとか知らねーんだろ?」
ぜってーに相手から返ってこないってわかってて愛情を注ぐとか、むなしくなんねーの?
率直で遠慮のない質問に、しかしカイはさして気分を害した様子もなく答える。
「そうですね……。とはいえ、私がサラさんを見守っていることは、旦那さんや奥さんが知っていますし……」
そして彼は、ふっと柔らかく笑った。ノエルに向けてというより、自然とこぼれたといった風の笑顔だ。
「きっと、本当の愛というのは、見返りを求めずとも自然に心が満たされるものなのでしょうね」
「……そーかよ」
真摯で重みのある回答に、しかしノエルはとてつもなく不機嫌な顔になる。
カイの手元から、片付けている途中の造花がひとつ、床にこぼれ落ちた。
それを拾って、ノエルは改めて口を開く。その造花は手のひらに収まるほど小ぶりで、真っ赤な色をしていた。
「オレは、父さんのいちばんになりてーし。父さん以外はどうでもいいし。オメーのことも嫌いだし」
造花の根元を持ってくるくると回すノエル。
目線は花を見つめたまま、彼は少しだけ感情のこもった声で訊いた。なんとなく、いま訊かないと永遠に訊けなくなる気がしていた。
「見返りがなくても、愛情が返ってこなくても満足だなんて、到底信じらんねーな。本当の愛ってなんだよ」
花の回転を止め、丸く垂れた瞳でじっとカイを見る。機械的な純粋無垢と、人間らしい不審や恐れを内包して、オレンジ色の目は感情的に揺れていた。
カイは、困ったように眉を提げて苦笑する。
「……偽りの愛でも、愛は愛。ましてや劣化することも年を取ることもない、永遠の愛ですからね」
ノエルの手にある造花とノエル自身を見比べて、言葉を選びながら――自分でも答えを探るように言う。
「人の気持ちなんて、簡単に変わってしまうものですから。案外、人為的に作られた偽りの愛の方が、真実の愛より強いのかもしれません」
声には自嘲じみた響きがあったが、それよりもノエルは「偽りの愛」という単語に反応する。作り物はどこまでいっても作り物で、どうしたって本物の人間になることはできない。
それはノエルの嫉妬心や焦燥を強くして、けれども「作り物だからこそ本物より強いのかもしれない」という言葉には、震えるような優越感もあった。
実際にノエルは病気も怪我もしない、痛覚もほとんどない、生身の人間に比べれば無敵に近い体を持っている。それでも、脳天を撃ち抜かれて重要な部分を破壊されれば、さすがに死ぬのだろうが。
「愛は、きっと人の数だけ……他人との関わりの数だけ芽生えるものなのでしょう。そしてそれぞれに、形や在り方が違っているのだと思いますよ」
穏やかな口調で締めくくり、カイはノエルに手を伸ばした。荷物の整理は、ほとんど終わったらしい。
ノエルは、持っていた造花をカイに向かって無造作に投げる。赤い造花は二人のあいだで空気抵抗を受け、緩やかに墜落した。
愛情の示し方は、人と人との関係の数だけ違っているらしい。
親や兄弟、友人に恋人。関係性ひとつとっても、そこにあてはめられる個人の性質によってまた、さまざまな愛情表現があるのだろう。
ならば――カイにとっての愛情表現は、どこまでも隠密で、陰に隠れたものであるらしい。
一階の様子を監視するモニターを見ながら、ノエルは頬杖をついて無感情な目をしていた。モニターの映像には、さっそくカードを拾ったらしいカイの姿がある。デスゲームが始まってもう何時間が経っただろうか。
カイはカードを確認すると、冷静にそれをしまった。
と思いきや、手元から別のカードを取り出して、食堂の机に潜り込んでいく。どうやらすでにカードを拾っていたらしい。
ノエルの監視に気付いているのかいないのか、カイは粛々と行動を進めていた。千堂院の名字を持つ女子高生を呼び留めて、さりげなく食堂の照明スイッチを押す。女子高生――サラのいた場所からは見えなかったようだが、電源を落としたのは紛れもなくカイだった。
数十秒から数分の空白が生まれて、やがて電気が復旧する。音声が聞こえないのが残念だと、ノエルは冷めた眼差しでモニターを眺め続けた。
サラは、カイの置いたカードをさっとポケットに隠していた。カイはそれに気づかないふりをしながら、ほっと安堵している。
組織を裏切った時点でバカだとは思っていたが、どうやらノエルの想定を上回るほどの愚者だったらしい。彼は、本当に自分よりも彼女の命を優先しているようだった。
そして、ほどなくメインゲームの幕が上がった。ノエルは、舞台裏からこっそりとゲームを盗み見ていた。
互いに死をなすりつけ合う、凄惨で愉快な殺し合いのゲーム。
結論から言うと、犠牲者に選ばれたのは、カイと、ジョーという少年だった。不運にも身代のカードを手にしたジョーは、サラとは異性ながらも大の親友だったらしい。
呆然と泣き崩れるサラに、しかしカイは彼女を激しく叱咤する。
彼は自分の命が尽きる直前まで、サラに厳しくも優しい言葉をかけていた。
「私は……満足です」
最期にそう微笑んで倒れたカイは、言葉通り安らかな顔をしている。
生き残った人間たちの悲鳴と嗚咽が聞こえて、そして初めてのメインゲームは終わった。
ゲーム終了後、ノエルは会場の片付けに行った。生き残った人間たちが次のフロアに来るまで、少しだけ時間に余裕がある。すぐに次のゲーム開始というわけにもいかないだろう。そのあいだに新しい服を頂戴しておこうという魂胆だった。
死体として転がる二人からヘアピンとエプロンを奪い、ノエルはカイの死に顔を見下ろした。胸には、カイの引いた『賢者』のカードが落ちている。
とんだ皮肉だなと笑って、ノエルはスカートのポケットから大輪の造花を取り出した。
オレンジ色のダリア――かつて、カイからもらったものだ。
「ざまーねーなー」
酷薄な笑みと共に造花を投げ捨てる。もちろん手向けたわけではなく、不要になったから捨てただけのことだ。
父さんの息子であるカイは死んで、息子と言えるのはノエルだけになった。もう、こんな花で父さんの気を引く必要もない。
造花はカイの顔に当たり、ころりと首元に転がった。最期まで無償の愛を貫いた彼は、死してなお美しく満たされているようだった。
自分の信じる愛情を、最後の一瞬まで注ぐことのできたカイ。
それを少しだけ羨ましく思う自身に気付き、ノエルは複雑な表情でカイを見つめた。
「……やっぱり馬鹿だなー」
広い会場に落ちた声は、作り物らしく無機質に乾いていた。
愛は、一方的に与えるだけでは満たされない。
他者を愛すれば愛するほど、それと同じくらい自分を愛して――認めてほしくなる。
だからカイの最期なんてのは自分自身への欺瞞で、歪んだ自己満足にすぎない。愛されないでも幸せだなんて言ってたけど、でもやっぱり、愛される方がもっと幸せに決まっている。
三階フロアで生存者たちを出迎え、ノエルはフロアマスターとしての役割を遂行した。
嫉妬と、嫌悪と、劣等感。大嫌いな人間どもに囲まれて、それでも敬愛する父さんに認めてもらうために、自分にできる精一杯をしたつもりだった。
だけど彼の愛する『父さん』は、なんの躊躇もなくノエルを廃棄した。失望の溜息のあとに、微塵のためらいもなく「それ」は行われた。
短い発砲音。衝撃から一拍遅れて、頭部への違和感が芽生える。触れると穴が開いていた。ぽっかりと空いた暗い穴は、いくら求めても埋められることのない、心の隙間に似ていた。
それからの展開は怒涛だった。
父さんに頭部を蹴り飛ばされて、けれどみちる――いまは涙人形のハンナキーとしてゲームに関わっている科学者が、一部を修理してくれることになる。それはノエルの頭部に埋まったチップのためでもあり、しかしそれだけではなかった。
ハンナキーはノエルの拒絶を押し切って、彼に正の感情を組み込んだ。途端に、ノエルの心にそれまでは存在しなかった感情が芽吹く。それは、彼が今まで傷つけてきた人間への罪悪感だった。
自分の犯した罪の重さを知るうちに、嫉妬心や劣等感は心の隅へと追いやられていく。必死なまでに焦がれていた愛情への執着も薄まっていき、ノエルは自分の心に起きた変化へ戸惑いと恐怖を覚えた。急速な意識の変化は、自分が自分ではなくなってしまうような恐ろしさだった。
不意に、カイと交わした言葉を思い出す。もう随分と遠い昔のことに思えたが、カイの声ははっきりと耳に残っていた。
「……人の気持ちなんて、簡単に変わってしまうものですから」
そう言って、だから作り物の方が本物より強いのかもしれないと語ったカイは、どんな顔をしていたか。思い出そうと記憶を辿っても、不鮮明にぼやけて消えてしまう。
人の気持ちが簡単に変わるものだとするならば、いま大きく変化したノエルの心は、少しでも人間に近づけたのだろうか。……作り物の心でも、より人間らしくなれたんだろうか。
それを救いのように感じてしまった自己嫌悪で、頬を引き攣らせて、ノエルは力なく笑った。
――ずっと目障りだった。簡単に惑い、悩み迷う人間たちが。
ずっと羨ましかった。まっすぐ信念を貫ける芯の強さが。
ずっと妬ましかった。見返りを求めない愛情の温もりが。
だからこそ、見ないふりをしていた。否定して、罵倒して、見下して。必死にかき集めた優越感に浸って、目を背けていた。
だけど、人間と同じ心を与えられた今なら、ようやく素直に認められる。
自分は……ずっと、愛されたかったんだと。自分の意思で、誰かを愛してみたかったんだと。
気付けば、涙で視界が濡れていた。
ノエルはいくつもの後悔と、完全には消え去らなかった父さんへの愛憎と、そして最期にこの感情を得る一因となった、家族でも他人でもないたった一人の存在を思いながら、静かにまぶたを下ろした。
どこからか機械音が聞こえ、やがて意識は暗く途切れていく。
その一瞬、ノエルはほんの小さな望みを抱いた。叶うなら、また父さんやカイに会いたいと。……そして、今度こそは自分自身の意思で彼らと話がしてみたい。口には出さず、心の内で願うだけなら許されるだろう。
――ひどく幸せな夢想にまどろみながら、彼の機能は緩やかに停止した。
ノエルは、ゲームの犠牲者と同じく研究室の奥に安置された。
機械なのだから安置の意味もないように思えるが、ハンナキーは優しくノエルを他の犠牲者の隣に寝かせて、そっと両手を合わせた。彼は最期の瞬間、確かに人間として死んだのだ。
合掌を終えて目を開けると、ノエルの頭部がわずかに横へずれていた。ノエルは、隣に眠る青年の体へ寄り添うように頭を預けている。青年の首元には、オレンジ色の造花が落ちていた。
逡巡して、ハンナキーは造花を二人のあいだに飾りなおした。目を瞑る二人は、外見的にはあまり似ていないのに、なぜだかしっくりと馴染んでいる。
兄弟、という関係に見えなくもないが、それにしてはやはり似ていない。けれども二人が並んで眠る姿は、まるで家族のように温かく見えた。
オレンジ色の造花は、枯れることのない美しさで二人を結び繋いでいるようだった。
アスナロの施設内部。研究室の前で、着せ替え人形のトト・ノエルは淡々と言った。
彼と相対するように立っている青年、佐藤戒も、表情を変えることなく真顔で返す。
「ええ。……久しぶりですね」
カイは普段着である黒尽くしの服装だった。
ノエルは片手に絵の描かれたパネルをひとつ持って、物言いたげに目を細めた。
「変わんねーなー」
「そうでしょうか」
「だいぶ久々だろ。父さん、テメーの顔なんか忘れちゃってるかも」
茶化すように笑い、パネルの角でカイの頬をつつこうとする。
カイは「すぐ帰りますよ」とパネルを避けて、その拍子に、持っていたバッグから小さな花がこぼれ落ちた。
「なんだ、これ」
しゃがみ、ノエルは指先で花を摘まむ。花はかたく乾いていて、肌触りで作り物だとわかった。やけにリアルな造花だ。
「今日は千堂院家でお祝いがあったので、その飾りつけの余りです」
ノエルが「お祝い?」と疑問形で繰り返すと、一人娘の誕生日だったのだと詳細な答えが返ってくる。
精巧な花びらをもてあそび、しかしそれが本物の花のようには千切れないことを悟って、ノエルはつまらなさそうに唇を尖らせた。
「欲しいなら差し上げますよ」
「ゴミじゃん、いらねーよ」
カイの提案を即答で切り捨てて、彼はふとなにか思いついた顔で「……いや、やっぱこれだけもらおっかなー」と大ぶりな造花を手に取った。
花はノエルの手に少し余るくらいの大きさで、花びらが厚く重なったような、ボリュームのある形をしていた。オレンジ色の花弁と華やかなたたずまいは、どことなくノエル自身に似ている気がしないでもない。
ノエルは研究室の扉を見ながら言った。
「研究室っていっぱいあるくせ、扉は全部地味だからさー。ここに飾ってれば、父さんがオレの部屋だってすぐにわかるじゃん?」
「ふむ……まあ、そうですね」
正確にはあなただけの部屋でもないのですが。思いつつも口には出さず、カイは扉に造花を飾るのを手伝ってやった。
無機質な扉に似つかわしくない、鮮やかな存在感の造花を、二人がかりで取り付ける。ドアプレートの表記を邪魔しない位置に、そして遠目からでもすぐわかるように配置する。
「これでよしっと。父さんに教えとかねーと」
ノエルが満足げに呟いたのと同時に、廊下の角から二人の人間が現れた。
二人はどちらも白衣をまとった女性で、片方は勝ち気そうな顔つきをしている。もう片方は大人しそうな気弱そうな表情の、対照的な雰囲気を持つ二人だった。
並田みちると記されたネームプレートを胸元で揺らし、大人しそうな方がカイに声をかける。
「カイさん、珍しいですね。定期報告ですか?」
勘の良いみちるにカイが頷きを返すと、同じく原井笑理と書かれたネームプレートを首から下げている女性が、せせら笑うように口角を上げた。
「なんだ、任務の失敗でもしたかと思ったのに」
「……お二人も、お変わりないようでなによりです」
嫌味と皮肉の応酬をする二人。みちるは、話題を逸らすように研究室の扉へ目を留めた。冷たささえ感じさせるスチール製の扉を、大輪の花が彩っている。
「扉が可愛くなってますねぇ」
無邪気に笑うみちるへ、カイは先ほどのやり取りを説明する。
みちるは微笑みながらノエルに視線を向けた。
「綺麗なオレンジ色ですし、ノエルさんにぴったりです」
一方、笑理は花びらの質感を確かめるように飾り花へ触れて「作り物じゃない」と切って捨てる。それから彼女は意地悪な微笑を浮かべた。
「ああ、『人形』にはお似合いかもね」
ちらりと挑発の眼差しを送られ、ノエルは片足を笑理の眼前で壁に突き立てる。
「ちょっと腕の良い科学者だからって、チョーシに乗んなよ」
「埃が立つから暴れないでくれる?」
ぴりぴりした険悪な雰囲気に、不穏な空気が得意でないみちるは慌てて白衣のポケットから携帯端末を取り出した。端末には百科事典のようなデータも入っている。
「ええと、これはダリアの造花みたいですね。ダリアは色ごとに花言葉が違うようですが、オレンジ色のものには花言葉がないみたいです……」
端末を操作するうちに、みちるは興味深そうな表情になった。
彼女は場の空気も忘れて、調べた情報を素直に読み上げる。
「へえ、造花そのものには花言葉があるんですねぇ。ええと、『偽りの愛』……」
「……喧嘩売ってんのかテメー」
ノエルの声が一段と低くなり、笑理がわざとらしく「ぷっ」と噴き出す真似をする。
みちるは、笑理へ本当に足蹴りを食らわせようとするノエルを「か、『変わらぬ愛』という言葉もありますからぁ!」と必死に止めた。
「作り物ならではの言葉ですね」
「い、いいからカイさんも止めてくださいぃっ!」
妙に感心しているカイに泣きつき、研究室前は騒然と賑やかになる。
なんとか乱闘の事態は回避されて、その日からはノエルのいる研究室の扉にだけ、オレンジ色の造花が飾られることとなった。
カイは、施設内で物置部屋と化している自室へ久方ぶりに戻っていた。部屋はカイの机と椅子やベッドが残っていて、けれども滅多に掃除されないのか埃っぽくなっている。
手持無沙汰のノエルも、暇潰しにとカイのあとについてきていた。
「オメーさー、なんでそこまで尽くすわけ?」
余った造花を「また来年も使えるように」と丁寧にしまっておくカイに、ノエルは不思議そうに訊ねた。単なる世間話とは違う、心から「理解しがたい」といったような、多少の嘲りも含んだ問いだった。
「チドーインの娘は、オメーが家や自分を守ってるとか知らねーんだろ?」
ぜってーに相手から返ってこないってわかってて愛情を注ぐとか、むなしくなんねーの?
率直で遠慮のない質問に、しかしカイはさして気分を害した様子もなく答える。
「そうですね……。とはいえ、私がサラさんを見守っていることは、旦那さんや奥さんが知っていますし……」
そして彼は、ふっと柔らかく笑った。ノエルに向けてというより、自然とこぼれたといった風の笑顔だ。
「きっと、本当の愛というのは、見返りを求めずとも自然に心が満たされるものなのでしょうね」
「……そーかよ」
真摯で重みのある回答に、しかしノエルはとてつもなく不機嫌な顔になる。
カイの手元から、片付けている途中の造花がひとつ、床にこぼれ落ちた。
それを拾って、ノエルは改めて口を開く。その造花は手のひらに収まるほど小ぶりで、真っ赤な色をしていた。
「オレは、父さんのいちばんになりてーし。父さん以外はどうでもいいし。オメーのことも嫌いだし」
造花の根元を持ってくるくると回すノエル。
目線は花を見つめたまま、彼は少しだけ感情のこもった声で訊いた。なんとなく、いま訊かないと永遠に訊けなくなる気がしていた。
「見返りがなくても、愛情が返ってこなくても満足だなんて、到底信じらんねーな。本当の愛ってなんだよ」
花の回転を止め、丸く垂れた瞳でじっとカイを見る。機械的な純粋無垢と、人間らしい不審や恐れを内包して、オレンジ色の目は感情的に揺れていた。
カイは、困ったように眉を提げて苦笑する。
「……偽りの愛でも、愛は愛。ましてや劣化することも年を取ることもない、永遠の愛ですからね」
ノエルの手にある造花とノエル自身を見比べて、言葉を選びながら――自分でも答えを探るように言う。
「人の気持ちなんて、簡単に変わってしまうものですから。案外、人為的に作られた偽りの愛の方が、真実の愛より強いのかもしれません」
声には自嘲じみた響きがあったが、それよりもノエルは「偽りの愛」という単語に反応する。作り物はどこまでいっても作り物で、どうしたって本物の人間になることはできない。
それはノエルの嫉妬心や焦燥を強くして、けれども「作り物だからこそ本物より強いのかもしれない」という言葉には、震えるような優越感もあった。
実際にノエルは病気も怪我もしない、痛覚もほとんどない、生身の人間に比べれば無敵に近い体を持っている。それでも、脳天を撃ち抜かれて重要な部分を破壊されれば、さすがに死ぬのだろうが。
「愛は、きっと人の数だけ……他人との関わりの数だけ芽生えるものなのでしょう。そしてそれぞれに、形や在り方が違っているのだと思いますよ」
穏やかな口調で締めくくり、カイはノエルに手を伸ばした。荷物の整理は、ほとんど終わったらしい。
ノエルは、持っていた造花をカイに向かって無造作に投げる。赤い造花は二人のあいだで空気抵抗を受け、緩やかに墜落した。
愛情の示し方は、人と人との関係の数だけ違っているらしい。
親や兄弟、友人に恋人。関係性ひとつとっても、そこにあてはめられる個人の性質によってまた、さまざまな愛情表現があるのだろう。
ならば――カイにとっての愛情表現は、どこまでも隠密で、陰に隠れたものであるらしい。
一階の様子を監視するモニターを見ながら、ノエルは頬杖をついて無感情な目をしていた。モニターの映像には、さっそくカードを拾ったらしいカイの姿がある。デスゲームが始まってもう何時間が経っただろうか。
カイはカードを確認すると、冷静にそれをしまった。
と思いきや、手元から別のカードを取り出して、食堂の机に潜り込んでいく。どうやらすでにカードを拾っていたらしい。
ノエルの監視に気付いているのかいないのか、カイは粛々と行動を進めていた。千堂院の名字を持つ女子高生を呼び留めて、さりげなく食堂の照明スイッチを押す。女子高生――サラのいた場所からは見えなかったようだが、電源を落としたのは紛れもなくカイだった。
数十秒から数分の空白が生まれて、やがて電気が復旧する。音声が聞こえないのが残念だと、ノエルは冷めた眼差しでモニターを眺め続けた。
サラは、カイの置いたカードをさっとポケットに隠していた。カイはそれに気づかないふりをしながら、ほっと安堵している。
組織を裏切った時点でバカだとは思っていたが、どうやらノエルの想定を上回るほどの愚者だったらしい。彼は、本当に自分よりも彼女の命を優先しているようだった。
そして、ほどなくメインゲームの幕が上がった。ノエルは、舞台裏からこっそりとゲームを盗み見ていた。
互いに死をなすりつけ合う、凄惨で愉快な殺し合いのゲーム。
結論から言うと、犠牲者に選ばれたのは、カイと、ジョーという少年だった。不運にも身代のカードを手にしたジョーは、サラとは異性ながらも大の親友だったらしい。
呆然と泣き崩れるサラに、しかしカイは彼女を激しく叱咤する。
彼は自分の命が尽きる直前まで、サラに厳しくも優しい言葉をかけていた。
「私は……満足です」
最期にそう微笑んで倒れたカイは、言葉通り安らかな顔をしている。
生き残った人間たちの悲鳴と嗚咽が聞こえて、そして初めてのメインゲームは終わった。
ゲーム終了後、ノエルは会場の片付けに行った。生き残った人間たちが次のフロアに来るまで、少しだけ時間に余裕がある。すぐに次のゲーム開始というわけにもいかないだろう。そのあいだに新しい服を頂戴しておこうという魂胆だった。
死体として転がる二人からヘアピンとエプロンを奪い、ノエルはカイの死に顔を見下ろした。胸には、カイの引いた『賢者』のカードが落ちている。
とんだ皮肉だなと笑って、ノエルはスカートのポケットから大輪の造花を取り出した。
オレンジ色のダリア――かつて、カイからもらったものだ。
「ざまーねーなー」
酷薄な笑みと共に造花を投げ捨てる。もちろん手向けたわけではなく、不要になったから捨てただけのことだ。
父さんの息子であるカイは死んで、息子と言えるのはノエルだけになった。もう、こんな花で父さんの気を引く必要もない。
造花はカイの顔に当たり、ころりと首元に転がった。最期まで無償の愛を貫いた彼は、死してなお美しく満たされているようだった。
自分の信じる愛情を、最後の一瞬まで注ぐことのできたカイ。
それを少しだけ羨ましく思う自身に気付き、ノエルは複雑な表情でカイを見つめた。
「……やっぱり馬鹿だなー」
広い会場に落ちた声は、作り物らしく無機質に乾いていた。
愛は、一方的に与えるだけでは満たされない。
他者を愛すれば愛するほど、それと同じくらい自分を愛して――認めてほしくなる。
だからカイの最期なんてのは自分自身への欺瞞で、歪んだ自己満足にすぎない。愛されないでも幸せだなんて言ってたけど、でもやっぱり、愛される方がもっと幸せに決まっている。
三階フロアで生存者たちを出迎え、ノエルはフロアマスターとしての役割を遂行した。
嫉妬と、嫌悪と、劣等感。大嫌いな人間どもに囲まれて、それでも敬愛する父さんに認めてもらうために、自分にできる精一杯をしたつもりだった。
だけど彼の愛する『父さん』は、なんの躊躇もなくノエルを廃棄した。失望の溜息のあとに、微塵のためらいもなく「それ」は行われた。
短い発砲音。衝撃から一拍遅れて、頭部への違和感が芽生える。触れると穴が開いていた。ぽっかりと空いた暗い穴は、いくら求めても埋められることのない、心の隙間に似ていた。
それからの展開は怒涛だった。
父さんに頭部を蹴り飛ばされて、けれどみちる――いまは涙人形のハンナキーとしてゲームに関わっている科学者が、一部を修理してくれることになる。それはノエルの頭部に埋まったチップのためでもあり、しかしそれだけではなかった。
ハンナキーはノエルの拒絶を押し切って、彼に正の感情を組み込んだ。途端に、ノエルの心にそれまでは存在しなかった感情が芽吹く。それは、彼が今まで傷つけてきた人間への罪悪感だった。
自分の犯した罪の重さを知るうちに、嫉妬心や劣等感は心の隅へと追いやられていく。必死なまでに焦がれていた愛情への執着も薄まっていき、ノエルは自分の心に起きた変化へ戸惑いと恐怖を覚えた。急速な意識の変化は、自分が自分ではなくなってしまうような恐ろしさだった。
不意に、カイと交わした言葉を思い出す。もう随分と遠い昔のことに思えたが、カイの声ははっきりと耳に残っていた。
「……人の気持ちなんて、簡単に変わってしまうものですから」
そう言って、だから作り物の方が本物より強いのかもしれないと語ったカイは、どんな顔をしていたか。思い出そうと記憶を辿っても、不鮮明にぼやけて消えてしまう。
人の気持ちが簡単に変わるものだとするならば、いま大きく変化したノエルの心は、少しでも人間に近づけたのだろうか。……作り物の心でも、より人間らしくなれたんだろうか。
それを救いのように感じてしまった自己嫌悪で、頬を引き攣らせて、ノエルは力なく笑った。
――ずっと目障りだった。簡単に惑い、悩み迷う人間たちが。
ずっと羨ましかった。まっすぐ信念を貫ける芯の強さが。
ずっと妬ましかった。見返りを求めない愛情の温もりが。
だからこそ、見ないふりをしていた。否定して、罵倒して、見下して。必死にかき集めた優越感に浸って、目を背けていた。
だけど、人間と同じ心を与えられた今なら、ようやく素直に認められる。
自分は……ずっと、愛されたかったんだと。自分の意思で、誰かを愛してみたかったんだと。
気付けば、涙で視界が濡れていた。
ノエルはいくつもの後悔と、完全には消え去らなかった父さんへの愛憎と、そして最期にこの感情を得る一因となった、家族でも他人でもないたった一人の存在を思いながら、静かにまぶたを下ろした。
どこからか機械音が聞こえ、やがて意識は暗く途切れていく。
その一瞬、ノエルはほんの小さな望みを抱いた。叶うなら、また父さんやカイに会いたいと。……そして、今度こそは自分自身の意思で彼らと話がしてみたい。口には出さず、心の内で願うだけなら許されるだろう。
――ひどく幸せな夢想にまどろみながら、彼の機能は緩やかに停止した。
ノエルは、ゲームの犠牲者と同じく研究室の奥に安置された。
機械なのだから安置の意味もないように思えるが、ハンナキーは優しくノエルを他の犠牲者の隣に寝かせて、そっと両手を合わせた。彼は最期の瞬間、確かに人間として死んだのだ。
合掌を終えて目を開けると、ノエルの頭部がわずかに横へずれていた。ノエルは、隣に眠る青年の体へ寄り添うように頭を預けている。青年の首元には、オレンジ色の造花が落ちていた。
逡巡して、ハンナキーは造花を二人のあいだに飾りなおした。目を瞑る二人は、外見的にはあまり似ていないのに、なぜだかしっくりと馴染んでいる。
兄弟、という関係に見えなくもないが、それにしてはやはり似ていない。けれども二人が並んで眠る姿は、まるで家族のように温かく見えた。
オレンジ色の造花は、枯れることのない美しさで二人を結び繋いでいるようだった。
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