世界その3:コール・リコール・ペトリコール
早朝から降り続く雨は、世界の解像度をほんの少しだけ下げながら、優しい音を響かせている。
ビニール傘を差した少年――トト・ノエルは、穏やかな雨の中で地面の一点を見ていた。塗装の剥げたベンチの下、なにやら鳴いて動くものがある。
しゃがんで覗くと、段ボール箱に入った「それ」は無気力で愛想のない目をノエルに向けた。
ビー玉みたいに丸く、雨粒を反射して輝く琥珀色の瞳。
頭のてっぺんから目の下まではオレンジがかった茶色に染まり、三角耳の先端と左目の周りには黒い模様が散っている。
体は白を基調としながらも、背中を中心に手足まで茶色の毛皮に包まれて、ところどころ黒い斑点で染め抜かれていた。
ノエルは、ポケットをまさぐって雑草を取り出した。散歩の途中に拾ったもので、雨粒をまとってきらきらと光っている。エノコログサという名前は、いつだったか同居人に教えてもらったものだ。
その草の別名も知らず、ノエルはエノコログサを生き物の鼻先に差し出してみた。生き物は鼻をひくつかせて匂いを嗅ぎ、草の真ん中に噛みついた。
「こら、食うな」
強引に引っ込めて、ノエルは改めて奇妙な「それ」を見下ろした。
やたらと毛艶の良い生き物の脇に手を入れ、ひょいと持ち上げてみる。「それ」は、ノエルの両手に少し余るくらいの大きさだった。
小汚いダンボール箱に収まっていた小さな生き物は、ノエルの手に支えられて軽々と宙に浮く。
「にゃーん!」
「……えーっと、なんだっけ」
四肢をばたつかせ抵抗する生き物に、しかしノエルは「それ」を持ち上げたまま首を捻る。肌触りの良い毛皮は、小雨のせいでわずかに湿っていた。
「にゃーん、にゃっ!」
茶色と黒の斑模様をした長い尻尾を振って、生き物は再び鳴いた。明らかに起こっている声で、尻尾の先をダンボール箱の縁に打ち付けている。
その様子を意にも介さず、ノエルは生き物をさまざまな角度から眺めた。一人と一匹を覆うビニール傘が、雨を受け止めて鈍い音を立てる。
しばし黙考していたノエルは、不意に「あっ」と弾けるような声を漏らした。持ち上げられている生き物は、細いひげをぴくりと震わせる。
「そーだ、思い出した」
……ねこだ、猫。
オレンジの瞳を輝かせて、ノエルは機嫌よく生き物を胸元に抱き寄せてみる。水滴をつけた体は、ほんのりと温かかった。
柔らかな毛並みを撫でると、生き物はノエルの手に頭をこすりつけてきた。頭突き、という風にもとれる動きだったが、ノエルは満足げに猫を撫でる。
ねこ、ねこと繰り返し呟くノエルに、リズムに合わせて撫でられる生き物――やたらと毛並みの良い三毛猫は、いいから早く下ろせと言わんばかりに、「にゃっ」と短く鳴いた。
「……どこで拾ってきたんですか」
帰宅するなり、ノエルの同居人――佐藤戒は何とも言えない表情で猫を見た。
休日の朝から家事に精を出していた彼は、はたきを持って、ノエルの持つダンボール箱の中の三毛猫に困惑の眼差しを向けている。猫の収まるダンボール箱には、黒く太い文字で「拾ってください」と書かれていた。
「そこの公園。ベンチの下に捨てられてた」
雨に濡れて薄汚れたダンボール箱を抱え、ノエルはあざとく小首を傾げた。
「なあ、これ飼いたい。飼っていい?」
「……にゃーん」
やや垂れ目がちな瞳でカイを見るノエル。三毛猫は、手持ち無沙汰に低い声で鳴いている。
カイは、大きく溜息を吐いた。
「……それは生き物ですよ。あなたに、きちんと面倒が見られるんですか?」
「面倒見るって、餌をやるとか?」
首を反対方向に傾げるノエルへ、カイは真面目な顔で答えた。
彼ははたきを持っていない方の手で、指折り『面倒』の数を数え上げていく。
「それだけではありません。しつけをする、トイレの始末をする、病院に連れていく……見たところ子猫ではなさそうですが、それでも長くて十数年は生きるでしょう。それほど長いあいだ、責任を持ってお世話できると誓えますか?」
真剣な目で問うカイに、単なる興味と好奇心で猫を連れてきたノエルは思わず口を閉ざした。
視線をさまよわせて猫に目を落とすと、小さな生き物は不機嫌そうにノエルを見つめ返した。琥珀の瞳は、己の身柄がどうなろうと一向に構わないようだった。
「……じゃあ、とりあえず三日」
三毛猫の目からカイへと視線を戻し、ノエルはきっぱりと言った。
「三日くらい世話してみて、めんどくせーかどうか考えるから」
珍しく素直な反応に、カイはその真意を推し量るように目を細めた。
しばらく両者は無言で、カイの真っ黒な目がノエルの目をじっと見つめている。ノエルは一歩も引かない気迫をみなぎらせ、二人の間に挟まれている三毛猫は、所在なげに視線を逸らしていた。
数十秒か、数分か、それ以上に長く続いた膠着状態を破ったのはカイの方だった。
真一文字に引き結んだ唇をほどいて、カイは困り顔で口角を緩く上げる。
「……三日は短すぎるでしょう。せめて一か月ですね」
機械で作られたノエルの瞳に、内側から光が灯った。
彼はダンボール箱を揺らして「良かったなー」と猫に語りかける。
すると三毛猫は、箱の縁に前足をかけて身を乗り出し、カイの匂いを嗅ぎ始めた。
「おや」
目を丸くするカイに、猫はすりすりと頭をこすりつける。頭突きではなく、マーキングのような動きだった。
「ふふ、毛がついてしまいますね」
言いつつ満更でもなさそうに微笑むカイへ、猫は「にゃーん」と落ち着いた鳴き声を上げる。
距離を縮める一人と一匹に、三毛猫を連れてきた張本人のノエルは頬を膨らませて抗議する。
「ちょっと、コイツ連れてきたのはオレだろ? 勝手にイチャイチャしてんなよな」
「やきもちですか?」
三毛猫の頭を撫でて、カイは冗談とも本気ともつかない真顔で訊ねた。「……どっちにだよ」ノエルは唇を尖らせ、三毛猫の尻尾を軽く引いた。
「うにゃっ!」
途端に猫はひどく濁ったダミ声を上げ、鋭い猫パンチを放った。カイが慌てて仲裁に入る。
「動物は、基本的に尻尾を触られるのを嫌がりますよ」
「……はやく言えっつーの」
綺麗な肉球の跡を刻まれたノエルは、ジト目で頬をさすりながら三毛猫を睨みつける。
猫はツンとそっぽを向いて、尻尾を体の内側に寄せていた。
(……これは、先が思いやられますね)
本日二度目の溜息を吐き、カイは猫を抱いて濡れたノエルにお風呂へ入るよう促した。
さて、三毛猫は大人しく風呂に入ってくれるものか。
カイの懸念をよそに、猫は非常に不服そうな顔つきながらも、しぶしぶといった様子で体を洗わせた。拾ってきたノエルよりもカイの方が警戒されていないらしい。
猫を洗うカイを横目に、ノエルは自身の体を洗いながら唇をへの字に曲げる。別に畜生相手に好かれたいわけでもないが、恩人というべき自分よりもカイに懐いている様は、見ていて面白くない。
嫉妬か、とカイに問われた声を思い出し、ノエルは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
ノエルと三毛猫が風呂から上がって、カイは猫をタオルで包みこんだ。
「たいていの生き物は、大きな音や唐突な動作を嫌いますから。そっと、優しく接してあげるのがコツです」
カイの指導のもと、ノエルも小難しい顔をして「優しく……」と三毛猫をタオルドライする。しっかり水分を拭き取り、二人は共同でタオルとドライヤーを駆使して猫を乾かした。
目を瞑って耐える三毛猫は、やはりもとは人に飼われていたのだろうと思わせる、美しい毛並みをしていた。
ノエルが初めに提示した三日間は、それこそ一瞬のうちに過ぎていった。
基本的な世話の手順を覚えることでやっとの三日が経過し、エサ皿やトイレ用品に缶詰など、飼育に必要なものを一通り買い揃えていく。
リビングでカイは何度も電卓を叩き、家計簿を睨みながら計算を繰り返した。
「猫は、犬と違って散歩は必要ありませんよ」
首輪はともかくリードまで要求するノエルに言うと、床に寝転がっている彼は、エノコログサ片手に猫の様子をうかがいながら返事をした。
「ずっと家の中とかつまんねーだろ。オレも、初めて外に出たときはいろいろと新鮮だったし」
「……」
そっけない物言いはかえって哀愁を感じさせ、カイは黙々と家計簿の記入を書き換えていく。
「……あなたは散歩が好きですしね。誰もいない家に、一匹だけ置いておくわけにもいきませんか」
「金ねーなら、リードなしでも連れてくけど?」
「いえ、外に出すときは必ずリードをつけてください。絶対に、です」
計算を終えて家計簿を閉じたところで、カイはパソコンにメールが届いていることに気付いた。勤め先の千堂院家からではなく、近くの動物保護団体に出していた問い合わせへの返信だった。
届いたメールをクリックして確認する。
団体によると、現在カイたちの住む地域では、迷い猫の情報は出ていないとのことだった。猫が入っていたダンボール箱の「拾ってください」の文字から、迷い猫である可能性は低いと考えていたが、公式団体のお墨付きに改めて安堵する。
カイは近所の動物病院のサイトを開き、受付時間と持っていくものリストをチェックし始めた。飼い主の口コミなどを見ると、動物は総じて病院を嫌うらしい。リードだけでは心もとないかもしれない。
……ペット用のキャリーケースも購入するべきかと新たな悩みの種が芽吹き、カイはふと、いちばん重要なことに気が付いた。
「病院に連れていくなら、名前をつけなければいけませんね」
「名前」
エノコログサを小刻みに揺らし、しかし肝心の三毛猫にはまったく相手にされていないノエルが、きょとんとした顔で反芻する。
「……急に言われてもなー。つーかこいつ、オレよりカイに懐いてる気がするんだけど」
「動物は、お世話してくれる人に懐くそうですよ」
「カイよりオレの方が遊んでやってんじゃん」
「遊びはお世話ではありません。それに、猫は気まぐれですから」
二人のやりとりもどこ吹く風と、猫は大きく欠伸をした。
「シンプルに『ネコ』でよくね?」
名案とばかりに挙手したノエルだったが、
「……あなた、父に『人形』とだけ呼ばれたらどう思いますか」
「……」
カイの冷静な言葉に撃沈する。
二人はその日、夜遅くまで猫の名付けの案を出し合ってから眠りに就いた。
二人の家に三毛猫がやってきてから、一週間が経った。
ノエルは猫に適量の餌を与え、トイレの始末をして、お風呂に入れることまでできるようになっていた。
物覚えの良さは人形故か。そんな思いは口に出さず、カイは先日見ていた動物病院のサイトを開いていた。
三毛猫は今のところいたって健康体に見えるが、それでも一度は医者に見せるべきだろう。そのためには、当然ながら名前が必要不可欠になってくる。
「名前、名前なー」
三毛猫とエノコログサ分の距離を取りながら、ノエルは空いた手で頬を掻いた。猫は床に座って片方の前足を伸ばし、眼前で揺れる草にちょっかいをかけている。
二人と一匹が過ごすリビングの窓越しに、ざあざあと強い雨が降っていた。朝食を終えたばかりのリビングでは、いつも見ている局のニュース番組が流されている。快活に各地の天気予報を告げるお天気キャスターいわく、今日は夜まで雨が降り続くらしい。
「その猫を拾ってきたのも、雨の日でしたね」
カイはテレビに視線を移し、「雨にまつわる名前はどうでしょう」と提案した。
しかしノエルは即座に反対する。
「えー、雨ってなんか陰気くさくないかー? じめじめして鬱陶しいし、濡れるし」
せっかく出した案を一瞬で却下され、カイはむっつりと押し黙る。
番組の内容は、天気予報から最新のニュース情報に変わった。三毛猫と戯れる片手間に、何となくテレビを見ていたノエルは、緊迫した雰囲気のニュースに目を留めた。
それは大手の自動車メーカーが、数年前に製造された車両に不具合が見つかったとして、数万台分のリコールを届け出たという話題だった。
「なあカイ、リコールって?」
ノエルの質問に、カイはインターネットで新しいタブを開き、リコール制度について検索する。
「ええと……リコールとは、市場に出ている製品に欠陥が見つかった場合、回収・修理することを指すそうです。主に車関係でニュースになることが多いようですが、どんな製品でもリコールの対象になりえると……まあ、車は特に重大な事故に繋がりやすいですからね」
以前ストーブやヒーターなどの製品で、欠陥が判明したので商品の回収を行っているというコマーシャルを見たことがあったが、あれもリコールのひとつと言えるのだろう。
「あー、なるほど? 欠陥品をそのまま使うわけにはいかねーもんな」
納得して頷いたノエルは、いつのまにか手のひらが空っぽになっている感触を覚えて三毛猫の方へと振り向いた。
三毛猫は、二人が話しているあいだにノエルの手からエノコログサを奪って、草全体にかじりついていた。ぼろぼろになった穂先が床に散らばって、三毛猫の口元や体にも、かすかに緑色のカスが付いている。
……そんなにその草が好きか。閉口して、ノエルはリビングを出ていった。
カイはキーボードに指を走らせ、猫がエノコログサを食べてもいいものかと検索する。猫じゃらしという別名があるからには、猫にとって毒にはならないものだと思いたい。
幸いエノコログサに毒性はないらしく、中毒を起こす心配はなさそうだった。安心するのと同時に、ホウキとチリトリを持ったノエルが戻ってくる。
「そんなにボロボロにするんだったら、もう取ってきてやらねーからな」
大真面目に三毛猫へ言い聞かせるノエル。彼は、怒りながらも手際よく床を掃いていく。
叱られたことをわかっているのか、いないのか、「にゃーん」と鳴いた三毛猫を抱き上げて体の草を落とし、カイは「……ふむ」と感嘆の声を漏らした。
「? なんだよ」
「いえ……ふふ。この猫を迎えて良かったかもしれません」
ホウキを手に訝しげな表情のノエルへ、カイは微笑みながら三毛猫の背を撫でてやった。
ビニール傘を差した少年――トト・ノエルは、穏やかな雨の中で地面の一点を見ていた。塗装の剥げたベンチの下、なにやら鳴いて動くものがある。
しゃがんで覗くと、段ボール箱に入った「それ」は無気力で愛想のない目をノエルに向けた。
ビー玉みたいに丸く、雨粒を反射して輝く琥珀色の瞳。
頭のてっぺんから目の下まではオレンジがかった茶色に染まり、三角耳の先端と左目の周りには黒い模様が散っている。
体は白を基調としながらも、背中を中心に手足まで茶色の毛皮に包まれて、ところどころ黒い斑点で染め抜かれていた。
ノエルは、ポケットをまさぐって雑草を取り出した。散歩の途中に拾ったもので、雨粒をまとってきらきらと光っている。エノコログサという名前は、いつだったか同居人に教えてもらったものだ。
その草の別名も知らず、ノエルはエノコログサを生き物の鼻先に差し出してみた。生き物は鼻をひくつかせて匂いを嗅ぎ、草の真ん中に噛みついた。
「こら、食うな」
強引に引っ込めて、ノエルは改めて奇妙な「それ」を見下ろした。
やたらと毛艶の良い生き物の脇に手を入れ、ひょいと持ち上げてみる。「それ」は、ノエルの両手に少し余るくらいの大きさだった。
小汚いダンボール箱に収まっていた小さな生き物は、ノエルの手に支えられて軽々と宙に浮く。
「にゃーん!」
「……えーっと、なんだっけ」
四肢をばたつかせ抵抗する生き物に、しかしノエルは「それ」を持ち上げたまま首を捻る。肌触りの良い毛皮は、小雨のせいでわずかに湿っていた。
「にゃーん、にゃっ!」
茶色と黒の斑模様をした長い尻尾を振って、生き物は再び鳴いた。明らかに起こっている声で、尻尾の先をダンボール箱の縁に打ち付けている。
その様子を意にも介さず、ノエルは生き物をさまざまな角度から眺めた。一人と一匹を覆うビニール傘が、雨を受け止めて鈍い音を立てる。
しばし黙考していたノエルは、不意に「あっ」と弾けるような声を漏らした。持ち上げられている生き物は、細いひげをぴくりと震わせる。
「そーだ、思い出した」
……ねこだ、猫。
オレンジの瞳を輝かせて、ノエルは機嫌よく生き物を胸元に抱き寄せてみる。水滴をつけた体は、ほんのりと温かかった。
柔らかな毛並みを撫でると、生き物はノエルの手に頭をこすりつけてきた。頭突き、という風にもとれる動きだったが、ノエルは満足げに猫を撫でる。
ねこ、ねこと繰り返し呟くノエルに、リズムに合わせて撫でられる生き物――やたらと毛並みの良い三毛猫は、いいから早く下ろせと言わんばかりに、「にゃっ」と短く鳴いた。
「……どこで拾ってきたんですか」
帰宅するなり、ノエルの同居人――佐藤戒は何とも言えない表情で猫を見た。
休日の朝から家事に精を出していた彼は、はたきを持って、ノエルの持つダンボール箱の中の三毛猫に困惑の眼差しを向けている。猫の収まるダンボール箱には、黒く太い文字で「拾ってください」と書かれていた。
「そこの公園。ベンチの下に捨てられてた」
雨に濡れて薄汚れたダンボール箱を抱え、ノエルはあざとく小首を傾げた。
「なあ、これ飼いたい。飼っていい?」
「……にゃーん」
やや垂れ目がちな瞳でカイを見るノエル。三毛猫は、手持ち無沙汰に低い声で鳴いている。
カイは、大きく溜息を吐いた。
「……それは生き物ですよ。あなたに、きちんと面倒が見られるんですか?」
「面倒見るって、餌をやるとか?」
首を反対方向に傾げるノエルへ、カイは真面目な顔で答えた。
彼ははたきを持っていない方の手で、指折り『面倒』の数を数え上げていく。
「それだけではありません。しつけをする、トイレの始末をする、病院に連れていく……見たところ子猫ではなさそうですが、それでも長くて十数年は生きるでしょう。それほど長いあいだ、責任を持ってお世話できると誓えますか?」
真剣な目で問うカイに、単なる興味と好奇心で猫を連れてきたノエルは思わず口を閉ざした。
視線をさまよわせて猫に目を落とすと、小さな生き物は不機嫌そうにノエルを見つめ返した。琥珀の瞳は、己の身柄がどうなろうと一向に構わないようだった。
「……じゃあ、とりあえず三日」
三毛猫の目からカイへと視線を戻し、ノエルはきっぱりと言った。
「三日くらい世話してみて、めんどくせーかどうか考えるから」
珍しく素直な反応に、カイはその真意を推し量るように目を細めた。
しばらく両者は無言で、カイの真っ黒な目がノエルの目をじっと見つめている。ノエルは一歩も引かない気迫をみなぎらせ、二人の間に挟まれている三毛猫は、所在なげに視線を逸らしていた。
数十秒か、数分か、それ以上に長く続いた膠着状態を破ったのはカイの方だった。
真一文字に引き結んだ唇をほどいて、カイは困り顔で口角を緩く上げる。
「……三日は短すぎるでしょう。せめて一か月ですね」
機械で作られたノエルの瞳に、内側から光が灯った。
彼はダンボール箱を揺らして「良かったなー」と猫に語りかける。
すると三毛猫は、箱の縁に前足をかけて身を乗り出し、カイの匂いを嗅ぎ始めた。
「おや」
目を丸くするカイに、猫はすりすりと頭をこすりつける。頭突きではなく、マーキングのような動きだった。
「ふふ、毛がついてしまいますね」
言いつつ満更でもなさそうに微笑むカイへ、猫は「にゃーん」と落ち着いた鳴き声を上げる。
距離を縮める一人と一匹に、三毛猫を連れてきた張本人のノエルは頬を膨らませて抗議する。
「ちょっと、コイツ連れてきたのはオレだろ? 勝手にイチャイチャしてんなよな」
「やきもちですか?」
三毛猫の頭を撫でて、カイは冗談とも本気ともつかない真顔で訊ねた。「……どっちにだよ」ノエルは唇を尖らせ、三毛猫の尻尾を軽く引いた。
「うにゃっ!」
途端に猫はひどく濁ったダミ声を上げ、鋭い猫パンチを放った。カイが慌てて仲裁に入る。
「動物は、基本的に尻尾を触られるのを嫌がりますよ」
「……はやく言えっつーの」
綺麗な肉球の跡を刻まれたノエルは、ジト目で頬をさすりながら三毛猫を睨みつける。
猫はツンとそっぽを向いて、尻尾を体の内側に寄せていた。
(……これは、先が思いやられますね)
本日二度目の溜息を吐き、カイは猫を抱いて濡れたノエルにお風呂へ入るよう促した。
さて、三毛猫は大人しく風呂に入ってくれるものか。
カイの懸念をよそに、猫は非常に不服そうな顔つきながらも、しぶしぶといった様子で体を洗わせた。拾ってきたノエルよりもカイの方が警戒されていないらしい。
猫を洗うカイを横目に、ノエルは自身の体を洗いながら唇をへの字に曲げる。別に畜生相手に好かれたいわけでもないが、恩人というべき自分よりもカイに懐いている様は、見ていて面白くない。
嫉妬か、とカイに問われた声を思い出し、ノエルは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
ノエルと三毛猫が風呂から上がって、カイは猫をタオルで包みこんだ。
「たいていの生き物は、大きな音や唐突な動作を嫌いますから。そっと、優しく接してあげるのがコツです」
カイの指導のもと、ノエルも小難しい顔をして「優しく……」と三毛猫をタオルドライする。しっかり水分を拭き取り、二人は共同でタオルとドライヤーを駆使して猫を乾かした。
目を瞑って耐える三毛猫は、やはりもとは人に飼われていたのだろうと思わせる、美しい毛並みをしていた。
ノエルが初めに提示した三日間は、それこそ一瞬のうちに過ぎていった。
基本的な世話の手順を覚えることでやっとの三日が経過し、エサ皿やトイレ用品に缶詰など、飼育に必要なものを一通り買い揃えていく。
リビングでカイは何度も電卓を叩き、家計簿を睨みながら計算を繰り返した。
「猫は、犬と違って散歩は必要ありませんよ」
首輪はともかくリードまで要求するノエルに言うと、床に寝転がっている彼は、エノコログサ片手に猫の様子をうかがいながら返事をした。
「ずっと家の中とかつまんねーだろ。オレも、初めて外に出たときはいろいろと新鮮だったし」
「……」
そっけない物言いはかえって哀愁を感じさせ、カイは黙々と家計簿の記入を書き換えていく。
「……あなたは散歩が好きですしね。誰もいない家に、一匹だけ置いておくわけにもいきませんか」
「金ねーなら、リードなしでも連れてくけど?」
「いえ、外に出すときは必ずリードをつけてください。絶対に、です」
計算を終えて家計簿を閉じたところで、カイはパソコンにメールが届いていることに気付いた。勤め先の千堂院家からではなく、近くの動物保護団体に出していた問い合わせへの返信だった。
届いたメールをクリックして確認する。
団体によると、現在カイたちの住む地域では、迷い猫の情報は出ていないとのことだった。猫が入っていたダンボール箱の「拾ってください」の文字から、迷い猫である可能性は低いと考えていたが、公式団体のお墨付きに改めて安堵する。
カイは近所の動物病院のサイトを開き、受付時間と持っていくものリストをチェックし始めた。飼い主の口コミなどを見ると、動物は総じて病院を嫌うらしい。リードだけでは心もとないかもしれない。
……ペット用のキャリーケースも購入するべきかと新たな悩みの種が芽吹き、カイはふと、いちばん重要なことに気が付いた。
「病院に連れていくなら、名前をつけなければいけませんね」
「名前」
エノコログサを小刻みに揺らし、しかし肝心の三毛猫にはまったく相手にされていないノエルが、きょとんとした顔で反芻する。
「……急に言われてもなー。つーかこいつ、オレよりカイに懐いてる気がするんだけど」
「動物は、お世話してくれる人に懐くそうですよ」
「カイよりオレの方が遊んでやってんじゃん」
「遊びはお世話ではありません。それに、猫は気まぐれですから」
二人のやりとりもどこ吹く風と、猫は大きく欠伸をした。
「シンプルに『ネコ』でよくね?」
名案とばかりに挙手したノエルだったが、
「……あなた、父に『人形』とだけ呼ばれたらどう思いますか」
「……」
カイの冷静な言葉に撃沈する。
二人はその日、夜遅くまで猫の名付けの案を出し合ってから眠りに就いた。
二人の家に三毛猫がやってきてから、一週間が経った。
ノエルは猫に適量の餌を与え、トイレの始末をして、お風呂に入れることまでできるようになっていた。
物覚えの良さは人形故か。そんな思いは口に出さず、カイは先日見ていた動物病院のサイトを開いていた。
三毛猫は今のところいたって健康体に見えるが、それでも一度は医者に見せるべきだろう。そのためには、当然ながら名前が必要不可欠になってくる。
「名前、名前なー」
三毛猫とエノコログサ分の距離を取りながら、ノエルは空いた手で頬を掻いた。猫は床に座って片方の前足を伸ばし、眼前で揺れる草にちょっかいをかけている。
二人と一匹が過ごすリビングの窓越しに、ざあざあと強い雨が降っていた。朝食を終えたばかりのリビングでは、いつも見ている局のニュース番組が流されている。快活に各地の天気予報を告げるお天気キャスターいわく、今日は夜まで雨が降り続くらしい。
「その猫を拾ってきたのも、雨の日でしたね」
カイはテレビに視線を移し、「雨にまつわる名前はどうでしょう」と提案した。
しかしノエルは即座に反対する。
「えー、雨ってなんか陰気くさくないかー? じめじめして鬱陶しいし、濡れるし」
せっかく出した案を一瞬で却下され、カイはむっつりと押し黙る。
番組の内容は、天気予報から最新のニュース情報に変わった。三毛猫と戯れる片手間に、何となくテレビを見ていたノエルは、緊迫した雰囲気のニュースに目を留めた。
それは大手の自動車メーカーが、数年前に製造された車両に不具合が見つかったとして、数万台分のリコールを届け出たという話題だった。
「なあカイ、リコールって?」
ノエルの質問に、カイはインターネットで新しいタブを開き、リコール制度について検索する。
「ええと……リコールとは、市場に出ている製品に欠陥が見つかった場合、回収・修理することを指すそうです。主に車関係でニュースになることが多いようですが、どんな製品でもリコールの対象になりえると……まあ、車は特に重大な事故に繋がりやすいですからね」
以前ストーブやヒーターなどの製品で、欠陥が判明したので商品の回収を行っているというコマーシャルを見たことがあったが、あれもリコールのひとつと言えるのだろう。
「あー、なるほど? 欠陥品をそのまま使うわけにはいかねーもんな」
納得して頷いたノエルは、いつのまにか手のひらが空っぽになっている感触を覚えて三毛猫の方へと振り向いた。
三毛猫は、二人が話しているあいだにノエルの手からエノコログサを奪って、草全体にかじりついていた。ぼろぼろになった穂先が床に散らばって、三毛猫の口元や体にも、かすかに緑色のカスが付いている。
……そんなにその草が好きか。閉口して、ノエルはリビングを出ていった。
カイはキーボードに指を走らせ、猫がエノコログサを食べてもいいものかと検索する。猫じゃらしという別名があるからには、猫にとって毒にはならないものだと思いたい。
幸いエノコログサに毒性はないらしく、中毒を起こす心配はなさそうだった。安心するのと同時に、ホウキとチリトリを持ったノエルが戻ってくる。
「そんなにボロボロにするんだったら、もう取ってきてやらねーからな」
大真面目に三毛猫へ言い聞かせるノエル。彼は、怒りながらも手際よく床を掃いていく。
叱られたことをわかっているのか、いないのか、「にゃーん」と鳴いた三毛猫を抱き上げて体の草を落とし、カイは「……ふむ」と感嘆の声を漏らした。
「? なんだよ」
「いえ……ふふ。この猫を迎えて良かったかもしれません」
ホウキを手に訝しげな表情のノエルへ、カイは微笑みながら三毛猫の背を撫でてやった。
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