世界その1:Upward compatible

 書斎は、しんと静まり返っていた。
 明るすぎない室内に一人の青年が立っている。
 彼は大型な造りの本棚に手を伸ばし、収められている書籍や冊子を取り出しては隅々まで拭き掃除をしていた。
 ずらりと並んだ本棚の一段、一段。
 すでに磨かれている場所と、これから磨かれようとしている場所と、たいして違いはないようにも見える。それは日々の手入れの賜物であり、青年が日頃から清掃に手を抜いていない証拠でもあった。
 丁寧に、けれども手早くあっというまに掃除を終えた青年は、清掃に使った道具をまとめて室内を確認する。シンプルな家具は机も椅子も傷ひとつ見当たらず、大切に使われていることをうかがわせた。
 無機質だが居心地の良い空間に目を細め、彼は掃除道具を持ち書斎を退室した。

 使った道具を所定の位置にしまい、水道で手を洗う。
 あとは昼食の用意をして、出かけている雇い主の帰りを待ち、彼の書斎へ昼食を運ぶ。それで今日の仕事は終わりの予定だ。
 ハンカチで手を拭き、青年は台所へと回った。雇い主の妻と相談して決めた献立の内容を思い出し、調理道具と食材の準備に取りかかる。
 ふと、手に取ったフライパンを見つめて、青年はなにか考え込むような表情を見せた。しかしすぐにフライパンをコンロの上に置き、冷蔵庫から食材を取り出して、調理の準備を進めていく。
 何度も読みこんだレシピ本をテーブルに置いて、青年は粛々と料理を開始した。
 規則的に響く包丁の音と、ボウルの中身を菜箸でかき混ぜる音。フライパンに油を引いて火にかける音と、かちゃかちゃと食器の擦れる音。
 一人きりで忙しなく台所を立ち回る青年は、いくつもの調理音に囲まれ、無自覚の内に口元を緩めている。
 すっかり慣れた手つきの料理は、さほど時間をかけずに完成した。
 できあがりと同時に、人の帰ってくる気配がする。
 慌てて手を洗い、ぱたぱたと出迎えに走ると、雇い主の男がちょうど玄関の扉を開けたところだった。
 濡れていない傘を手にした男は、「ただいま。降るかと思ったが、結局使わなかったよ」と苦笑して傘を立てかけた。
「おかえりなさいませ。お疲れさまです」
 男の荷物を受け取り、青年は軽く頭を下げる。
 重要な仕事を済ませてくる、と言って朝早い時間に家を出た男は、無事に仕事が済んで一安心だと屈託なく笑った。
「それは何よりです」
 頷き、青年は渡された荷物に見慣れない袋が混ざっていることに気付いて、不思議そうに小首を傾げた。袋は、それなりの重量があるようだった。
 今日の仕事に関係するものだろうかと考えながらも、男の方から説明がないのであえて聞かずにおく。
「予定よりも少し早めに片付いてな。お、もう昼食の準備ができてるのか」
 台所を通りがかった際、嬉しげな笑みを見せる男。青年も「はい、すぐにお持ちします」と微笑を返す。
 男の書斎に到着して荷物を下ろすと、青年は台所へ戻り、完成した料理を皿に盛り付けた。食器を揃えてお盆に載せ、再び書斎へ向かって控えめに扉をノックする。
 すぐに入室の許可が下り、青年は片手でお盆を支えて扉を開けた。
「失礼します。お昼ご飯をお持ちしました」
 早々と作務衣に着替えている雇い主の男は、リラックスした様子で椅子に腰かけていた。荷物の整理をしているらしく、鞄から書類などを取り出して机の上に並べている。
「おお、ありがとう。書類の片付けは後だな」
 男は書類をまとめて引き出しにしまうと、「今日も美味そうだなあ」と、青年の運んだ昼食に目を細めた。青年はお盆を机に置いて、「ありがとうございます」と照れくさそうに礼を言う。
 男は、何気ない顔つきで青年の顔を見た。
「キミの作る料理は、なんでも美味そうに見えるもんでな。料理は好きか?」
 問われ、青年は正直に首肯する。
 癖のついた黒髪が揺れて、同じく黒檀のように黒い瞳が、まっすぐと雇い主の男を見つめ返した。
「はい。……家事はどれも嫌いではありませんが、料理を作るのは特に楽しいです」
「かかか! 楽しいか、そりゃあ良かったよ」
 素直に認めた青年を、まるで自分事のように喜んだ男は、鞄から大きな袋を取り出した。青年が荷物を預かったときに、見慣れないものとして気になった袋だ。
 男は椅子から立ち上がって、袋を青年へと手渡した。荷物を預けたときとは違う、青年に譲るような渡し方だった。
「……ええと。旦那さん、これは……?」
 戸惑いを通り越して困惑の色を見せる青年。
 よく見ると、袋には彼の名前が敬称付きで刻まれている。端の方には、『佐藤戒様』の印字を囲うようにして、青い飾り花まで付いていた。青年は困り顔で男を見た。
「さて、今日は何の日だったか」
 意味ありげに壁掛けのカレンダーへ視線を移した男につられ、青年も今日の日付を確認する。皐月が終わり、雨の季節が始まったばかりだ。
 頭上に疑問符を浮かべて考え込んだ青年は、ひとつの可能性に思い当たって、はっと目を見開いた。
 男は苦笑いで頬を掻き、「キミは、自分のことに頓着しない節があるとは思っていたが、それにしても随分と時間がかかったな」と口角を上げた。彼は柔和な声で祝福を告げる。
「誕生日おめでとう、カイ」

 男に勧められてその場で開封した袋の中身は、コンパクトな調理器具だった。
 一目で質の良さがわかるフライパンに、お玉とフライ返しがセットになっている。柄の部分には、カイのイニシャルまで彫られていた。
 恐縮して何度もお礼を述べるカイに、男は「喜んでもらえたようで良かったよ」と笑っていた。贈り物の見立てには彼の妻も協力したらしく、カイの胸に、いっそうの申し訳なさとありがたさが募る。
 いつか、日を改めてお礼をしなければ……と密かに決意し、カイは繰り返し感謝を告げながら千堂院家を後にした。
 彼は包みなおした袋を大事に抱えて、自宅への帰路に就いた。今日は昼食を作るところまでの仕事だったので、普段よりも早い時間帯での帰宅だ。これも旦那さんが気を回してくれたのかもしれないと思い至り、また胸が温かくなる。
 家に着いたら真っ先にこのフライパンで料理を作りたいが、使うのがもったいなくも思えてしまう。
 つい先日、自宅で使っているフライパンの取っ手が折れてしまい非常に不便な思いをしていたので、まさに渡りに船といった絶妙なタイミングのプレゼントだ。
 自宅に着いて、カイは玄関の扉をノックした。半歩下がって待つと、がちゃがちゃとドアノブを回す音がして、すぐに扉が開いた。
「おっかえりー。……なにそれ?」
 オレンジの髪を跳ねさせ、スカーフをなびかせた少年が出迎える。
 彼は扉を開けた姿勢のまま、焦げ茶色の瞳でカイの抱く袋を見た。カイは、いつもと変わらぬ表情を装って答えた。
「ただいま帰りました。……これは、千堂院家の方々からいただいたものです」
「ふーん。なんか嬉しそーじゃん」
 少年は探るような眼差しで、袋とカイの顔を交互に見て、「ま、いーや。おつかれー」と廊下を走っていった。
「こら、走らないでください、ノエル」
 おそらく彼の耳に届いていないであろうことはわかりつつ、その背中に一応の声かけをして、カイは不意に自分の頬に軽く手を添えた。
 玄関先で立ち止まったカイに、不審に思ったノエルが「なにしてんの?」と部屋の先から顔を覗かせる。
「いえ……そんなにわかりやすいかと思いまして」
 靴も脱がずに己の頬を揉むカイ。ノエルは「キモいことしてないで、早くあがってこいよー」とじれったそうに眉を寄せた。カイは無言で頬から手を離し、靴を脱いですたすたと廊下を歩いた。
 ノエルはカイに「嬉しそー」と言ったが、どちらかと言えばノエルの方が、いつもとは違う気がした。
 台所に入り袋をテーブルへ置いたカイに、ノエルは落ち着かない様子で両手を体の後ろに回してカイの周りをうろついている。
「なにかありましたか?」
 旦那さんからいただいた調理器具で、さっそく料理をしようと予定を立てていたカイだったが、どうもノエルの挙動が気にかかる。
 とりあえず先に話を聞こうと、カイは体ごとノエルの方を向いた。
 テーブルを挟んで向かい合う形のノエルは、「別に……」と口ごもったものの、やがて意を決した表情をした。
 彼は、おもむろに片手をカイの前に突き出した。その手には大きめの紙袋がさがっていて、どうやらこれを後ろ手に隠していたらしい。淡い水色の紙袋には、近所の商店街にある雑貨店の名前が入っている。
「テメー、今日誕生日だって聞いたから」
 視線は逸らして、ぶっきらぼうに言うノエル。心なしか頬が赤くなっている。肌が白いので、ほのかに紅潮しただけでも目立って見える。
「これは」
「プレゼントってやつ。言わなきゃわかんねーわけ?」
 思わず目を瞬くカイに、ノエルは逆ギレの様相を呈して半ば強引に紙袋を押しつけた。
 意外に重さのある紙袋を、カイは咄嗟に両腕で受け止める。ノエルはなおも睨むようにして言った。
「いらねーの?」
「い、いえ、急なことで驚いただけですから。……ありがとうございます」
 ふわりと顔をほころばせ、カイは「いま、見てもいいですか?」と紙袋に手をかける。
 ノエルは「オメーにやったんだから好きにしろよ」と呆れ、「では、遠慮なく」とカイは紙袋の口を開いた。
 中身を取り出すより先に、プレゼントの形が目に映る。丸い器に長方形の持ち手がついているようだ。なんとなく察しがついて、もしや……とカイは嫌な予感に体を硬くする。
 ゆっくりと紙袋の中に手を入れると、それは。
 入っていたのは、持ち手がついた、底の浅い片手鍋。もといフライパンだった。
 雑貨屋の品ということもあり、全体的に素朴な雰囲気の見た目をしている。持ち手の部分は木製で、簡単に取り外すことができる造りをしていた。
「使ってたやつ、こないだ壊しちゃっただろ?」
「そう、ですね」
 以前使っていたフライパンの持ち手が折れたのは、二人の喧嘩が原因だったので、それを気にしていたのだろうか。
 ノエルは上目でカイを見ながら、「もう喧嘩のときには使うなよなー」と頬を膨らませた。カイは、フライパンを片手にちらりとノエルを見やる。
「あなたが度の過ぎたイタズラをしなければ……いえ、今はやめておきましょうか」
 ふっと笑い、「ありがとうございます。大事に使いますね」とノエルの頭を撫でるカイ。
 ノエルはしかめっ面を作って、照れ隠しのように、テーブルに置かれたままの袋を手に取った。青い飾り花の付いた袋を、持ち主に断りもなくがさがさと漁る。
「もしかして、これも誕生日プレゼントで貰ったわけ?」
「あ、それは」
 止めるべきか迷ったが、ノエルが中身を見る方が早かった。
 カイが旦那さんから貰った調理器具を見て、中でも圧倒的な存在感を放つフライパンを見て、ノエルの顔からすっと温度が消える。
 一瞬、時の止まったような静寂が落ちた。
「……一緒かー」
 呟き、ノエルはフライパンを持ち上げた。柄の部分に英語が彫られていることに気付き、少し考えてそれがカイのイニシャルであると悟る。眉間にわずかなしわが寄り、焦げ茶色の目はぐるぐると渦を巻き始めた。
「……ノエル」
 冷静に呼びかけ、カイは落ち着き払った口調でノエルに近づいた。ノエルは勢いよく振り返り、焦点の定まらない目をカイに向ける。焦げ茶の瞳は暗く濁り、複雑な感情を処理しきれていないようだった。
「どちらも大切に使いますし、困ることはありません。二つあれば、私とあなたで一緒に料理することもできますよ」
 なだめるように言ったカイに、ノエルは黙ったままフライパンを見つめていた。
 しかし、唐突に興味を失ったような目つきでそれをテーブルに置く。瞳の渦が少しずつ縮小して、やがて普段通りのハイライトが戻ってくる。
 それでもどこかつまらなそうに、彼は感情のこもっていない声を漏らした。
「……どうせ、オメーがチドウインを守ってくれるから、ご機嫌取りで渡したんじゃねぇの」
 影のヒーローとか言って、調子よく使ってるだけのくせに。
 吐き捨てられた台詞に、カイの体がぴくりと反応する。
 ノエルは目だけを動かしてカイの顔を見たが、カイは浅く溜息を吐いて、なにも言い返そうとはしなかった。ただ、どんな言葉を返すべきか迷っている風にもとれた。
 互いに気まずい空気が流れて、ノエルは逃げるようにカイへ背を向ける。台所から出て、とたたた、とわざと音を立てて廊下を走ったが、叱責の声は飛んでこない。
 廊下の終わりで、玄関の扉が重く立ちふさがっている。靴を履き替えて、乱暴な手つきでドアノブを回す。
 いつまで経ってもカイが追ってくる気配は感じられない。台所で立ちすくむカイを想像して、舌打ちがこぼれた。
 靴の爪先を地面に打ち付けてならし、一拍の間を置いて、ノエルは静かに二人の家を出て行った。
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