アスナロたらればエージェント
鈍色の刃が宙を舞った。
風を切る音と同時に、柔らかな肉へ刃先が食い込んでいく。切ったところから赤い液体が噴き出して、少年はわずかに顔をしかめた。
最小限の力を込め、少年――カイはナイフを横へ引いた。目の前の人形がどさりと崩れ落ちる。狙った位置、頸動脈に当たる部位は綺麗に切り裂かれていた。
ただ深く差し込みすぎたらしく、血液を模した液体が大量に流れ出ている。作り物の血液は、本物と遜色ない匂いを放っていた。
汗を拭ったタイミングで、部屋のドアが開いた。
無機質な目をした男が、書類を片手に声をかける。
「タイムは縮んだが、返り血が付いている。出血も多量、血痕を残しかねない量だ」
前回の結果と見比べているのだろうか。男は書類をめくりながら淡々と言った。その言葉で、カイは自分の服に返り血が付着していると気づいた。
「血の匂いに鼻が慣れているな。そんなことで、任務を全うできるのか」
「……すみません」
冷たく叱責されて、カイは服の袖を手のひらで擦った。作り物の血はすでに乾いていた。
「前回の記録を越えるまで、今日は休めると思うなよ」
それだけを言い残し、男は再び部屋を退出した。真っ白い無菌室のような室内で、カイと人形だけが二人きりとなった。
『訓練を再開します』
若い女性のアナウンスが流れ、カイは改めてナイフを構えなおした。首を掻き切られて倒れた人形が、緩い動作で立ち上がる。奇妙で異様な光景だ。
「――」
カイは、先ほどよりも早く、確実に、そして周囲に痕跡を残さない方法での暗殺を考える。
訓練相手は人工知能を有した人形で、向こうもカイを殺す気でかかっていた。
鈍い銀色の刃が煌めいて、それは人形の持っているアーミーナイフが照明を反射している輝きだった。カイは黒い眼を眇め、相手との間合いを計りながら距離を詰める。
「……っ」
肺の空気を押し出すように呼吸し、呼吸のリズムに合わせて突進する。人形の反応が一瞬遅れて、その一瞬のうちにカイは懐へ飛び込んでいた。
肉を貫く手応えの後に、人形の動作がぴたりと止まる。念のために顎を掌底で打ち抜くと、人形はまたもその場にくずおれた。
ちらりと部屋の扉へ目を向ける。扉は開かず、天井に据えられたスピーカーから男の声がした。
『致命傷を二度も与えるな。一撃で仕留めろ』
そして、またしても人形が復活する。感情のない目が、標的であるカイを吸い込まんばかりに凝視している。
カイは人形の腹部に差し込んだナイフを引き抜き、反対側の脇腹へ容赦なく刺し通した。満身創痍となった人形の目から光が消える。絶命の合図だった。
『今度は時間のかかりすぎだ。次を出す』
男の声が響いて、扉が開いた。傷ひとつない、新品の人形が立っていた。右手にナイフを携えている。
カイは、深呼吸をして人形を見た。訓練は、まだ始まったばかりだと言い聞かせた。
訓練が終わったのは、時計の短針が十二を過ぎた時刻だった。真夜中の自室へ戻って、部屋の電気を点ける。
もそもそと服を着替えると、カイはベッドに腰かけた。風呂に入る気力は残っていなかった。
完全な就寝に入るわけではなく、ごろりと横になって天井を眺める。星のない夜空のような瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り貸す。
「……、……」
今日の反省点と明日の予定を考えているうちに、茫洋とした目は静かにまぶたをおろしていった。
寝入りばなに、カイは自身の状態を敏感に察知した。
すでに脳は完全な休息モードになったようで、夢とも現実ともつかない浮遊感に捕らわれている。リラックスしすぎている、とカイは思った。
厳しい訓練の一環として、カイは睡眠のとり方さえ意識して自分を律していた。
諜報員という役割を果たすには、場所を問わず寝られる体質と、短い時間で効率よく心身を回復する術が必須だった。
どんな体勢でも、どれだけ短い時間でも、より質の高い睡眠を確保する。眠りさえエージェントとしての体作りに徹していたカイだったが、今日は訓練が長引いたこともあって本格的に熟睡してしまったらしい。
闇の中、やけに冴えている思考で、自分は明晰夢を見ているのだろうかと考える。けれど夢らしい映像は流れず、ただ体だけが動かずにいた。
全身の筋肉が緩んでいる感覚に、そこはかとない違和感と恐怖を覚えた。自分の身が意思とは無関係に弛緩して、どれほど電気信号を送っても、ぴくりとも反応しない。あまりの無防備さに、カイは就寝前の自分を恨めしく思う。金縛りという現象は知っていたが、体感するのは初めてだった。
それでも、夢を見ていないだけマシかもしれない。暗澹とした闇には何も映らず、それがかえってカイを安心させた。
夢を見るのは、カイにとって嬉しい出来事ではなかった。
たいていは日常の焼き増しのような、現実と地続きの悪夢だが――ときにはそれ以上に凄惨な光景を見ることもあり、またときには、現実とかけ離れた穏やかな景色を見ることもあるからだ。
悪夢を見たくない心理は当然だが、良い夢を見たところで、起きたときの虚しさで抜け殻のようになってしまう。それでカイは、夢という事象そのものに強い拒否感を抱いていた。
夢は夢。ただの幻覚であり、現実とは何ら関係のないものだ。
そう思ってみても、ごくまれに現実味のある夢を見ることもある。今いる現実から分岐したような世界の、言ってみれば『たられば話』の夢だった。
もしも、こんな巨悪の組織に関わりのない生まれだったら。
もしも、父が人の道を外れた研究に狂わされなかったら。
もしも、自分にエージェントを務めるほどの技量がなければ。
数えきれない『もしも』は、いつしか考えるだけ無駄だと諦めるようになった。夢想は子どものすることであり、いくら現在を呪ったところで変えられるものはひとつもない。
だからカイは『たられば話』がなによりも嫌いだった。
思考にふけるうち、いつしか金縛りが解けていた。両手足が無事に動くことを確認して、思わず息が漏れる。
カイは、今度こそ深い眠りに落ちることがないよう、わざと寝苦しい姿勢で改めて入眠した。
「ここって、寝るところとかは用意されてねーのかな」
酒場を探索していたジョーが、ふと思いついた表情で口にした。ギンがマスク越しに大きな欠伸をしたからだった。
「なんだ、意外と肝が太いヤツだな」
「こんなところに泊まりたくないニャン」
レコが呆れたように笑い、大あくびをした張本人まで憮然としている。
閉鎖空間に閉じ込められて、もう数時間ほど経っただろうか。マネキンと思しき人形の体探しの傍ら、首輪をつけられた面々は手分けして施設内を捜査していた。
黒板の飲酒可・不可リストを見ていたカイは、「ふむ」と呟いてお玉を口元に当てる。
「こんな場所では、気が休まらないでしょうが」
ミシマと共に戸棚を観察するナオは、わずかな希望を見出すように笑みを見せた。
「でも、立派な食堂や遊技場なんかもありましたし……ここって、実はホテルみたいな宿泊施設だったりしませんかね?」
「浴室と寝るところさえあれば、最低限の生活は送れそうですね」
教え子に同意するミシマ。カイは、形の良い眉を少しだけしかめた。
「たられば話は苦手です。常に最悪を想定して……」
ほとんど無意識に発言して、場の人間が不思議そうに自分を見ていることに気付き、カイは慌てて咳払いした。ケイジが、「珍しく感情的だねー」と探るような眼差しで笑っている。
「……すみません。しかし食堂があると言っても、調理室は鍵がかかっていましたし……」
気まずげに目を逸らしたカイへ、ジョーがとりなすように合の手を入れる。
「ああ、カイさん得意料理の話とかしてたし。やっぱ主夫ってだけあって、こんな生活感のないところは苦手そうっすよねー」
軽い口調で笑い飛ばされ、ほっと安堵する。チャラついた見た目に反し、ジョーは協調性に長けた場の空気が読める男だった。
和やかな空気が戻ってきたところで、サラも明るい声を響かせる。
「希望を持つのは悪いことじゃないですよ。少なくとも、私たちは一人じゃありませんから」
「!」
にこりと音の立ちそうなほど溌剌とした笑顔に、カイの心臓が大きく跳ねた。ひねた心の内を見透かされたかと思った。
「……そう、ですね」
たしかに、孤独だった幼少期とは違って、いまこの場には大勢の人間が集められている。他人を頼ることも不得手ではあるが、彼らの抱く希望をわざわざ潰すこともないだろう。
「ですが、あまり簡単に他者を信じすぎるのもダメですよ」
あえておどけた調子で目配せすると、サラは苦笑して頬を掻いた。「……善処します」
その言葉を受け、いざとなれば自分がこの娘を守るのだと決意を新たにする。
そして、自身が『たられば話』を嫌うようになった過去に思いを馳せるのだった。
こうだったらいいのに、とか。こうなればいいのに、とか。
現実に即さない空想は逃避に過ぎないと思っていたが、サラたちと共に過ごす中で、そんな夢物語も現実にできるのではなどと考えてしまう。
もしも――ひとりの犠牲も出さず、この組織から逃げられたら。
みんなが無事に解放される終わりを迎えられれば、それはどれほど幸せな結末だろう。
そんな夢想を少しでも叶えるために、カイはひっそりと奔走する。
けれどやはり、彼ひとりの力で変えられる運命というのは、そう大きなものでもないのだった。
抱いた希望を嘲笑うかのように、最年長のミシマがあっさりと殺された。
人の焼ける匂いが満ちて、やがて霧が晴れるかのように正常な空気が戻ってきた。カイは、ハートの形をした通風孔から空気が入れ替えられているのだと察する。
「くそっ、やられた……!」
憎々しげに、もしくは悔しそうに歯噛みしたソウが、密室だった扉を睨みつけていた。
そこに貼られた紙――それは、後出しとも思えるルールの記載がされた貼り紙だった。
練習試合といいつつ犠牲となる者の存在を暗示し、引き分けなどというふざけたルールで人命を弄ぶ文章が連ねられている。
「私が、危険に備えて扉を解放しておこう、なんつったから……!」
レコも自責の念を口走り、部屋中に動揺の空気が広がっていく。
痛切な叫びを聞いて、カイの脳裏にも後悔の念がよぎった。
(もしも、全員が入室しきる前に、きちんと調べていたら……)
無駄な犠牲は出なかったのだろう。悔やんでも仕方がないと言えるほど、人の命は軽くない。
カイは、淡々と言葉を発した。
「……そうなるよう、誘導されていたのです。この部屋は入る前から異質な雰囲気でした」
言いながら、取り返しのつかない事態を粛々と受け止める。ああしていたら、こうしていればは通用しないとわかっていた。
沈黙の部屋から、ひとり、またひとりと、誰もが重い空気をまとって退室する。
ナオとギン、サラやケイジは部屋に残るようだったが、カイは他の参加者に紛れるようにしてピンクの部屋を出て行った。
部屋を出てすぐ、鍵のかかっている調理室前で立ち止まる。カイは、エプロンから一枚のカードを取り出した。
「……」
メインゲームで重要なカギとなるであろうそれを、だれかに見られないようテーブルの下へ忍ばせる。誰にも存在を知られるなと、やたら物々しい言い回しで書かれているが、それがダミールールであることをカイは知っていた。
カイの持っているカードは『鍵番』だった。このカードの持ち主は、メインゲームで特別な立ち位置となる……早い話、『鍵番』を持っている人物が死ぬときは、ゲームに参加する全員が死ぬときだった。つまり、このカードは所持者の生存率を大きく高めるものと言ってもいい。
何食わぬ顔でカードのセッティングを終え、調理室の前で待機する。ほどなくして、サラが通りかかった。心なしかカイに猜疑心を持っているようだった。
二言、三言の会話を交わし、唐突に照明が落ちる。カイは、事前に細工しておいた分電盤のもとへ移動した。そのあいだに、サラがテーブル下のカードを拾っていることを確認する。
「……無事ですか、サラさん」
電気を復旧させ、白々しくサラのもとへ戻ってくる。サラがさっとカードを隠したのを見て、カイは計画通りに事が運んだと胸を撫で下ろした。
他の部屋に異変が起きていないか見てくると言い残し、調理室前を後にする。エプロンから、サラに拾わせたのとは別のカードを取り出した。
『賢者』のカードは、『平民』に比べてややリスキーな役職だった。それでも『身代わり』のように、持っているだけで死が確定するものではない。
これが最善の策かはわからないが、もう『たられば話』の先で悔いるのも嫌だった。
あのとき、こうしていたら――呪いのような禍根を残さないためにも、いまは己の持つすべてを捧げてでも彼女を守り通す。彼女が生きる道を少しでも広げておく。
サラが生き残ってくれたら、という弱気な仮定ではなく、なにがなんでも生き延びさせるのだという思いを胸に、カイは目的のための行動を開始した。
「――というのが、これまでの経緯です」
なにか質問はありますか? と小首を傾げて見せるカイ。
目の前に座る少年、ジョーは、腕組みしたまま呆気に取られていた。
「質問ってか……衝撃的な話すぎて、上手く飲み込めないっつーか」
あぐらをかき、ジョーは眉間に深いしわを刻んでいた。対するカイは、正座してジョーの理解が追い付くのを待っている。
二人は、真っ白な空間の中にいた。カイは、どこか、かつての無菌室のような訓練部屋を思い出していた。
「でもまあ……そう説明されると、いろいろと辻褄も合うんだよな」
ジョーはしばらく難しい顔で唸っていたが、彼なりに納得した様子で頷いた。カイは、少しだけ目を丸くして呟いた。
「……根が素直なのでしょうが、変な人に騙されないか心配ですね」
「ちょっ、カイさんが話したんじゃないっすか! 何もわからないまま死んじまったから、せめて自分の知ってる範囲の話だけでも、って」
唇を尖らせ抗議するジョーに、「そうですね、すみません」と潔く頭を下げる。
それから、「まさか、これほどすんなりと信じてくださるとは思っていなかったので」と付け加えた。
「まぁ、にわかには信じがたい話っすけど……カイさんが悪い人だとも思えないし」
言って、ジョーは「あ、でも」と不可解そうに口を開く。
「カイさんが一度『鍵番』のカードを手にしていたなら、なんであのとき、カードの絵柄を答えられなかったんすか?」
説明を疑っているわけではなく、純粋な疑問として訊ねるジョー。カイは事もなげに解説する。
「私は、一度も『鍵番』のカードを見ていないという体で議論に参加していましたから。メインゲームが始まる前に、最後の晩餐ルームとかいう部屋に通されましたよね?」
質問で返され、ジョーは記憶をさかのぼって首肯した。
「あの部屋に、『鍵番』の持ち主はサラさんだと書き置きがあったのです。カードの絵柄自体は伏せられたまま、持ち主が誰であるかだけが明示されている――『賢者』の透視能力は、そういう形で発揮されていました」
それに、もしもあの場で私がカードの絵柄を答えていたら、嘘をついていたソウさんやジョーくんと同じ立場になり、本当に誰が真実の賢者であるか分からなくなってしまいますから。
そう補足したカイに、ジョーは「それもそうか……」と今度こそ完全に納得した。
「なんか、衝撃の連続って感じだけど……オレたちって、本当に死んだんっすかね」
きょろきょろと辺りを見回し、ジョーは実感が湧かないといった風に手のひらを握ったり開いたりした。
その仕草は生きている人間とまるで変わらないが、彼の全身には赤黒い痣のような穴が空いている。
「死んだのでしょう。こうして話をしている意識が、魂というものなのかはわかりませんが」
返すカイの両手首も真っ赤に染まり、ぱっくりと割れた傷口から、生々しい皮膚の中身が覗いていた。
「下界とか見れるといいんだけど」
冗談交じりに笑って、ジョーは遠くを見るような目で視線を落とす。
「……もしも、オレが身代わりを引いてなければ……ああでも、そうすると他の人が犠牲になってたんだよな」
どこにも落としどころを見つけられず、やけっぱちな声で「そもそも、デスゲームとか考えたやつさえいなければなー」と仰向けに寝転がる。
「……『たられば話』をしても、しょうがないですよ」
カイも、苦笑いで目を伏せた。
もし、こんな組織に誰も関わることなどなかったら。
もし、『鍵番』のカードを拾ったのが、自分ではなく『彼女』だったら。
前者は変えようのない運命だったが、後者はカイ自身が望んで変えた結末だった。『鍵番』をサラに託したことでカイの生存率は大幅に下がってしまったが、それを悔いる気持ちは少しもなかった。
あれほど忌み嫌っていた『たられば話』を、しかしひとつだけでも現実に変えたことによる満足感で、カイは口元を緩めていた。
不意に、ジョーはなにか思いついた顔で「あっ」と声を漏らす。
がばりと跳ね起きて、忙しなく周囲を見回す彼に、カイは「どうしました?」と緩く首を捻った。
「ここがもしあの世ってところなら、ミシマ先生もいるんじゃねーかなって」
「そういえばそうですね。私とジョーくんは、死んだ場所と時間がほぼ一緒でしたから、こうして近くで出会えたのかもしれません」
おもむろに立ち上がって、「探しに行きましょうか」と服の裾をはらう。
「ミシマ先生を見つけたら、今度はどうすりゃいいんだろうな……もう、他に誰も来てほしくはねーんだけど」
複雑そうに渋面を作るジョーに、カイは「そうですね」と同意しながら歩きだす。
「私たちにできることは……みなさんの無事を祈ることだけでしょうか」
それはあまりにも受動的で、こちらから手助けすることができないといったもどかしさはあるものの、あまり過剰な心配はしていなかった。『たられば話』に込めた悔しさも、希望も、すべてあの場で託してきたつもりだ。
ミシマを探しに歩を進めるカイの口から、抑えきれない欠伸がこぼれた。
「……ミシマさんを見つけたら、久しぶりにゆっくりと眠りたいものです」
ぽつりとこぼされた一言に、ジョーも「そうっすね。一旦休憩しないと」と同調する。
どこまでも白い無垢な空間で、カイはようやく永い眠りに就けそうな気がしていた。
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