天地を駆ける狐の尾


 深い藍色に染まった夜空を、一筋の白い光が山の向こうへ流れていく。
 夜の帳――濃紺の幕を切り裂く、真っ白な輝きを目にした一人の男は、その美しさに感嘆の声を漏らす。そして、ぽつりと一言だけ呟いた。
「……、……」
 幼い子どもが母親の袖を引くような、どこか寂しげで頼りない声は、男以外に人の姿がない闇夜に虚しく響く。
 やがて男は腰に差した短刀の柄に手を添え、夜風に揺れる樹々のざわめきに紛れて消えた。


 梅雨の日々も終わりを迎え、飾り始めから半分の薄さになった暦表をまた一枚とめくって、一週間が経った。本丸の空に長らく居座っていた雨雲も去り、眩しい蒼穹の季節がやってきた。
 よく晴れた小暑の昼間、その日の本丸はいつにも増して賑やかな空気で満ちていた。昼食を終えて片付けられた長机の上に、短刀の男士たちが色とりどりの折り紙や文房具を広げている。
 厨房で食器洗いの当番を済ませ広間に戻ってきた剣――白山吉光は、机に並べられた折り紙を見て涼やかな色の瞳を僅かに丸くした。
 視線に気づいた短刀の一振り、前田藤四郎が、端に寄って白山の座るスペースを作ってくれる。
「本日は好天ですが、皆は室内で折り紙遊びですか?」
 前田の隣に腰を下ろしながら不思議そうに尋ねた白山へ、前田は少し笑って「いえ、今日は七夕ですから。皆で飾り物の準備をしているのです」と首を横に振る。
 たなばた、と反芻する白山に、前田はテーブルの真ん中に集められた本を見せた。節句の折り紙、七夕飾りの作り方、季節を楽しむ工作……どの表紙も、可愛らしいイラストや綺麗な飾りの写真が載っている。
「昔は詩歌や芸事の上達を願うものでしたが、現代の七夕ではそれだけに限らず、どんなことでも短冊に書いて良いそうです。僕はもう願い事を書いたので飾りを作るのですが、白山兄さんも先に願い事を書いておきますか?」
 問われ、白山は机上の箱に入った短冊を手に取ってしげしげと眺めた。
 白い短冊を見つめたまま数十秒……数分ほど無言で固まって動かなくなってしまった白山に、見守っていた前田が慌てて助け舟を出す。
「今すぐに書かなければいけないわけではないですから。願い事が決まるまで、一緒に飾りの方を作りましょうか?」
 心なしか眉根を寄せていた白山は、普段通りの無表情ながら少し安堵した様子で短冊を箱に戻して飾り作りの本へ手を伸ばした。

 工作にまだ不慣れながらも、白山は本に記載されている中でも比較的に簡単な飾りを作っていく。折り紙を切ったり貼ったりするだけの単純な作業だが、それだけに集中して取り組むとあっという間に時間が過ぎていった。
 お供の狐を膝に乗せ、黙々と手を動かしていると、前田が麦茶を持ってきてくれた。お盆に乗っているガラスのコップは氷のおかげでよく冷えていて、側面と底の方に水滴が付いている。
 布巾で盆とコップを拭く前田に、白山も作業を中断して道具や本を長机の下にまとめて置く。
 共に作業をしていた短刀たちが、手から手へと麦茶のコップをリレー式に渡していく。誰かがテレビをつけたらしく、昼下がりのワイドショーが広間中に明るい声を響かせた。
 全員にコップが行き渡り、皆それぞれ麦茶のコップに口を付ける。白山は狐用に深皿へ水を入れてやり、自分も前田に渡された麦茶を口に含んだ。
 甘いようでいて渋さも感じられる、落ち着く香りと味に目を細め、一息つく。室内での座り仕事でそんなに疲労していないつもりだったが、身体は思いのほか乾いていたらしい。
 喉から全身に水分が染みわたる感覚に改めて水分補給の重要性を認識しつつ、ふとテレビ画面に目をやった。女性のキャスターと男性のキャスターが、夜空の写真を背景に爽やかな笑顔を見せている。
『今夜は七夕ですね。七夕と言えば織姫と彦星の伝説が有名ですが、今日は一日中よく晴れた天気なので、もしかしたら流れ星も見られるかもしれません。七夕と流れ星の重なる日に願い事って、なんだか叶う確率も二倍になりそうですよね』
 冗談めかして笑う女性キャスターに、少し年のいった男性キャスターが『それは欲張りじゃないですか?』と同じく笑いながら茶々を入れる。
 和やかな雰囲気の光景をなんとなしに見ていると、不意に女性キャスターの後ろに流れ星のイラストが現れた。わざと手書きであることを強調しているカラフルな流れ星の上に、これまたシンプルながら生き生きとした表情の狐のイラストが重なるように表示される。
 きつね? と呟いた白山に、前田もつられてテレビに目を向けた。
『七夕伝説については、皆さんよくご存じだと思いますが、流れ星にも面白い話があることは知っていますか? 流れ星には『天つ狐(あまつきつね)』という異名があり、昔は霊力を得た狐が天を駆けているのが流れ星だと思われていたそうなんですよ』
『ほう……天の川に織姫、彦星、それから狐と! 今夜の空は大渋滞ですねぇ』
 大仰に驚いた顔をする男性キャスターが笑いを誘って、女性キャスターが『正確には火球と呼ばれる、流れ星の中でも雷のように激しい音を伴うものが狐の仕業と思われていたそうです。ついこの間、関東の方で火球が見られたと話題になりましたね』と補足する。
 テレビ画面の上部に流れ星と共に描かれた狐の絵を見て、白山は「狐、」と小さく繰り返した。
 水を飲んで膝の上に戻ってきたお供の白い狐は、自分が呼ばれたと思ったのか、青みを帯びた真っ白な尻尾をぱたりと一振りする。
 ワイドショーは七夕と流れ星の話題でひとしきり盛り上がり、しばらくするとまた別の話へ移っていった。

 のんびりした休憩の時間をとり、そろそろ作業を再開するかと誰からともなく声が上がって、広間に再び工作の音が広がる。
 時間が経つにつれてハサミや糊の扱いにも慣れてきた白山は、本は見ずに慎重な手つきで新しい飾りを作り始めた。
 一心不乱に、集中した様子で手を進める白山へ「何を作っているのですか?」と前田が声をかけようとしたところで、ほぼ同時に遠征や出陣に出ていた部隊の面々が帰還する気配がした。
 作った飾りを箱に収めて縁側へ出ると、戦帰りの湯浴みに向かう第一部隊の男士が通るところだった。気づけば、太陽は西へ随分と落ちかかっている。
「……これはまた、たくさん作ったな」
 第一部隊に組まれていた大典太光世が、庭先から前田の持つ箱を覗き込んだ。「笹も短冊もたくさんありますからね。皆さまの短冊に埋もれないよう、多めに作っておきました」と答える前田の声は、どこか誇らしげだ。
 そんな短刀を微笑ましい思いで見ていた大典太は、不意に飾りの一つに七夕としては異色の物を見つけて首を傾げた。
 指さした箱の中、前田に「どうぞ」と差し出されて手に取った折り紙の工作――大典太の手に少し余るくらいの、ほどほどに大きな七夕飾り。
「……流れ星と、狐?」
 飾りを壊さないよう恐る恐るつまんだ折り紙は、確かに水が流れるような色紙の付いた星の形と、流れの中を駆ける狐を模した紙が一つになっている。
「あ、先ほどの狐を作ったんですね」
 嬉しそうに言った前田が、ますますきょとんとしている大典太に流れ星と狐についての話をしようとしたとき、廊下の先から前田によく似た短刀の男士が歩いてきた。腕に、短い筒状の竹を抱えている。
「夕餉は庭で流しそうめんだそうです。笹の飾りつけと並行して準備するので、前田と白山兄さんも手伝いをお願いしますね」
 言って、忙しない動きで庭の踏み石から外へ出た平野を見送り、前田は白山と大典太と顔を見合わせて「では、話は後でまたゆっくりしましょうか」と苦笑した。
 頷いて庭から簡易浴室の方に消えた大典太に、箱を持ったままの二人も、平野に言われた通り夕餉と飾りつけの準備へ取り掛かった。

 少しずつ本丸内が騒々しくなり、それと比例するように空が暗くなって、やがて濃紺の夜空に星が散らばっているのがはっきりと見え始めた。
 大太刀や太刀など身体の大きい者を中心に笹飾りや流しそうめんの設営が行われ、厨から食材が運び込まれてくる。
「お酒ないよ~。クーラーボックスまだあるよねぇ」
「氷足りる? ついでにお皿も持ってこようか?」
 わいわいがやがやと擬音が空中に浮いて見えるような喧騒の中、流しそうめんの竹の周りでは、短刀たちが無邪気に歓声を上げている。
「わぁ、お星さまです!」
 桃色の髪をした短刀が箸で拾った人参は、綺麗な星形に切られていた。オクラやキュウリに混じって、ミニトマトにトウモロコシといった彩り豊かな食材も流れてくる。
「七夕と言えば天の川だからね。ほらほら、避けずに食べてくれると嬉しいな」
「うっ……野菜じゃなくてお菓子を流してくれても良かったんだぞ」
「それはそれでまずそうだけどな……こんな日くらい、野菜抜きの晩飯でも良かったんじゃねぇか?」
 夕餉当番だった燭台切に微笑まれ、どうにかそうめんだけをすくおうとしていた包丁藤四郎と愛染国俊がぎくりと箸を持ち直した。
 庭に並べられた笹の飾りを見上げ、白山はそうめんの器を置いて懐から折り紙を取り出した。流れ星と狐を組み合わせた自作のそれを出来る限り高い位置に取り付けて、まだ白いままの短冊を見つめ顎に片手を添える。
 そこに前田と大典太が来て、「願い事ですか?」とおかっぱ頭が風に揺れた。
「二人は、何と書いたのですか」
 白山が尋ねると、前田はちょうど目線の高さにある緑の短冊に触れて見せた。
 前田藤四郎と署名された短冊には、几帳面で美しい筆跡で『皆が平和でありますように』と綴られている。漠然とした願いだと思わなくもないが、前田の日頃の言動を思い返せば誠実で彼らしいものだと言える気がした。
 大典太はちょうど短冊を下げるところだったようで、手にしている青い短冊を少し恥ずかしそうに見せてくれた。
「『健康第一』。大典太さんらしいですね」
「……まあ、俺は病魔を斬る刀だからな。出番がないのが一番なんだが」
 言葉を交わす二人を前に自分はどうしたものかと首を捻る白山。
 彼の足元で、厨当番から特別に作ってもらった野菜を食べているお供の白い狐を見て、前田が緩く口角を上げる。
「鳴狐さんや白山兄さんはお供の狐を連れていますから、願い事も二倍叶いそうですね」
 野菜を食べ終えた狐の頭を撫でてやる前田に、大典太が「そういえば、さっきも狐の話をしていたな」と思い出したように口を開く。
 お供の狐を肩の定位置に乗せて、白山は前田と共に、天つ狐と呼ばれる流れ星について説明した。

「……そういう話があるのか。風情があって、良い話だな」
 一通り話を聞いた大典太がふっと笑みをこぼし、白山は紺碧の空を見上げて息をつく。
 遠い過去を懐かしむような瞳が星々のきらめきを映し、そこに一筋の光が流れた。
 まるで涙のようにもみえたそれは、中天をまっすぐ横切った、一条の流れ星だった。天の川よりも更に上、川面を駆けるようにして、いくつもの流れ星が次々と降り注いでいる。
「うわぁ……」
 圧巻という他ない神秘的な光景に、皆の口から感嘆の声が漏れた。
 綺麗、凄い、夢みたい。興奮で色めき立つ刀剣男士の中、ふと白山は庭の中心に立ち尽くす短刀に目を留めた。
 さっきまで夕餉の野菜に対して文句を言っていた子どものような短刀は、今は赤い髪をなびかせ金の瞳を見開いて、眼前の景色にすっかり魅入られている。
「……愛染国俊。口が半開きです」
 白山が近づいて声をかけると、愛染は大袈裟なほどに肩を跳ね上げて「うわっ!」と叫び声をあげた。普段から表情が薄いだの何を考えているか分かりづらいだのと言われる白山だが、愛染の目に光るものを見て珍しく狼狽の色を瞳に宿した。
「目が濡れていますが、怪我でもしましたか?」
 焦った声音で問われ、そこで初めて自分の目が潤んでいたことに気づいた愛染は「あ、いや違くて」と羞恥に頬を赤くして腕で乱暴に目尻を拭う。
「……昔、綱紀さまとこういう光を見たことがあってさ。流れ星って言うんだったっけか……大姫さまが亡くなってからけっこう経った頃だけど、昔は今よりもずっと夜が暗かっただろ? それで、誰かが人は死んだら星になるって言ってたのもあって、綱紀さまもいろいろ思うところがあったんだろうな……」
 懐かしい人の名前に、白山の瞳がすっと細められる。
「こういう星の綺麗な夜は、ときどき光る星を見つけては『母上も、今はあの星の近くにいるのだろうか』って、一人きりで寂しそうに呟かれていたのを思い出してさ」
 ぐすっと鼻を鳴らし、鼻の下を擦りながら空を見上げる愛染に、白山の肩に乗っていた白い狐がふわりと尻尾を揺らす。白山も、流れる星に目を凝らした。
 無数の星の瞬きの中、尾を引いて一瞬で消える流星は、儚くも美しい人間の一生を思わせる。
 夜空に輝く流星に人々は狐の姿を見て、綱紀さまは亡き母の姿を想った。そして綱紀さまが亡き母の冥福を祈り神社に奉納した白山吉光が、今は白い狐を連れて愛染国俊と共に同じ時代で人の身を得て顕現している。
 運命……というのは、流石に考えすぎだろうか。
「……わたくしには、大姫さまの心はわかりません。付喪神にあの世はありませんから、本当の意味でずっと傍に在り続けることは叶いませんでした」
 ぽつりと呟いた白山の言葉に、愛染も寂しそうに目を伏せる。瞳に映る流れ星が陰ったが、白山はその陰りを払うように続けた。
「それでも、大姫さまはずっと犬千代丸……綱紀公のことを、大切に想っていたと思います。流星は狐の化身とも呼ばれているそうですから、わたくしがこの狐を通信機としているように、あの流星も大姫さまと犬千代丸を結ぶ役割を果たしていたのではないでしょうか」
「狐? 流れ星が?」
 思わず間の抜けた声を出す愛染に、白山のお供が尻尾を振って前足を揃え、白山の肩の上でじっと空を向いた。白山もつられて空を見上げ、自身も気づかないほどほんのわずかに口角を上げる。
「……天つ狐と言うそうです。天と地を繋ぐ、天を駆ける狐の話です」
 神社に母の冥福を祈った息子は、星にも面影を探し想っていた。
 愛染から聞いた光景が目の前に浮かぶようで、白山は、願わくば彼の親子が今は天上の星空で再会できていればと夜空を見つめる。
 天つ狐と呼ばれる流星の話を愛染に語りかけながら、白山は手持ちの白い短冊にそっと筆を走らせた。叶うことならば――狐の加護を持つ流星に願うとするなら、それは。
『加護のえにしが、末永く続きますように』
 孫を想い愛染を贈った家光公。母を想い神社に祈った綱紀公。
 白山と愛染の関わってきた人々は、誰かを想う慈愛の心に満ちている。
 縁の力が天と地を繋ぎ、愛染の口にする「加護」の力が恒久のものであるようにと、白山は優しく柔らかな瞳で静かに祈る。
 夜空を駆ける流星は、狐の尾のような線を残して、いつまでも静謐に光り続けていた。
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