はなのまち


 俺が目を覚ました時、兄者はまだ遠征から戻っていなかった。
 布団から身体を起こし、身支度を整えながら、一人では少し広く感じる部屋をゆっくりと見回す。昨晩、遅くに遠征へと出発した兄者の荷物はどこにも見当たらない。
 業務が長引いているのだろうか……いや、そんな話は今まで聞いたことがない。兄者は少しだけ自由な気質だから、隊の皆に迷惑をかけていなければ良いのだが。
 そんなことを考えながら内番用の服に着替えて部屋を後にする。
 今日は非番で、午前中のうちに畑仕事をするくらいの予定しか入っていない。源氏の連中が見たら悲鳴でも上げそうなものだが、そもそも刀が人の身を得ている時点で卒倒してしまうかもしれないな。
 懐かしい源氏の面々に思いを馳せつつ、俺は兄者の帰還を待つより先に朝食をとろうと自室を後にした。

 広間には、数えるほどの刀しかいなかった。早い時間から出陣のある刀が一番に、非番の刀は好きな時間に(と言っても九時までにという規定はあるが)朝食をとると決まっている我が本丸で、広間の時計は八時前を指している。俺にとってはいつもより遅い時間だ。
「お、膝丸。おはよ」
 長机で向かい合って食事をとっている、赤と青で色違いの内番着を着た二人組――加州清光と大和守安定が、こちらに気付いて朝の挨拶をした。
 早いなと言葉を返し、空席の目立つ中で距離を開けて座るのも何なので、やや間を空けて大和守の側に腰を下ろす。
「あれ。今日は髭切、一緒じゃないんだね」
 俺を見た大和守が不思議そうに首を傾げ、俺は「ああ、実はな」と手短に事情を説明した。
「昨晩、兄者は第二部隊に属して遠征へ行ったのだが、まだ帰っていないようでな」
「第二部隊って、確か比叡山の遠征だったよな? 六時間のやつ」
 加州が大和守に同意を求め、二人はうんうんと頷き合った。
「そんなに長いやつじゃないし、もう帰ってきてる頃合いだよなぁ」
 怪訝な表情のままで首を捻った加州は、ふと何かを思いついたように目を細めて口角を緩く上げた。
「もしかしてさぁ、寄り道してんじゃないの? 最近、町の方に新しい店がいくつか出来たらしいし」
「新しい店……と言うと?」
 兄者が興味を惹かれる店が出来たのだろうか。もしそうならば詳しく知っておくべきだと思い、俺は箸を止めて加州の言葉を促し先を期待する。
 しかし、続いた言葉は、俺の想像したものとは大きく違う意味合いのものだった。
「んー、いわゆる花街ってやつ? ほら、祇園とか吉原とか有名じゃん」
 加州の悪戯小僧じみた笑みに、危うく箸を取り落とすところだった。己の頬が紅潮していくのが自分でも分かり、慌てて咳払いをして取り繕う。
 予想外の単語に狼狽してしまったが、二人は特に気にしていないようだった。
「まあでも、最近は単なるお茶屋さん的なところも多いみたいだけどね。新しく出来る店、どんなところなんだろうなー」
「清光、花街とか興味あったんだ」
「新選組のみんな、よく行ってたじゃん。あの人はあんまりだったけどさ。どんなのかなって、ちょっと気になってたんだよね」
 加州と大和守が話し込む中、俺は箸を握り締めてしばし思考を整理する。
 万が一、兄者がそのような店を利用していたとして、俺に口を挟む権利などはない。俺も兄者も充分に成熟した人の身体を与えられているのだから、そういったことに興味を抱いたとしてもおかしくはない。
「……膝丸?」
 冷静になろうと努めているところで、加州に声を掛けられた。少し申し訳なさそうな顔をしている。
「あのさ、さっきのはあくまで噂だから。花街っていうのも、俺たちだってまだ実際に見たわけじゃないし」
「髭切が遠征帰りにそんな所寄り道するのも、なんか想像できないしねぇ」
 大和守も笑いながら言い、その言葉に僅かながら安堵してしまう。と、ちょうど開け放たれた襖の向こう、廊下の先から、玄関の戸が開く大きな音が聞こえた。
「あ、噂をすれば髭切じゃない?」
 加州が廊下の方に目をやり、俺は「そうかもしれんな。見てくるか」と空になった食器を片付けて足早に玄関へ向かった。

「いやぁ、ちょっと遅くなってしまったかな」
 へらりと笑う兄者は、普段と変わらずに柔和な雰囲気を纏って佇んでいる。
 いつもと変わらない様子にほっとしながらも、敢えて俺は顔を引き締めた。
「心配したのだぞ、兄者」
「ごめんごめん、実は町の方に新しいお店が出来ててね。少し寄り道したんだ」
 先程も聞いた単語に、胸の奥がどきりとする。動揺を悟られぬよう、初めて聞いたと言わんばかりの口調で聞き返す。
「新しい店、とは?」
 兄者は玄関の上がり框に腰を下ろして、こちらに背を向け履き物を脱ぎながらのんびりと返答した。気のせいだろうか、その背からは甘い花のような香りがしていた。
「ええと、なんて言ったかな……はな、まちの……お店の名前は忘れちゃったけど、とても面白い所だったよ」
 花、街。兄者の口から色街を指す言葉が出たことに、衝撃と何とも言えない物悲しさがこみ上げた。やはり兄者は、加州たちの言っていた花街とやらに寄ったらしい。
「ああいうところ、興味もなかったんだけどねぇ。あんまり華やかで良い香りだったから、つい引き寄せられちゃって」
 先程も思ったことだが、元が刀とはいえ我らは既に人の身を得た存在。そして兄者も俺も男性として成熟した身体である以上、そういった欲を抱くのも自然だというのは分かっている。
 それでもどこか淋しさを覚えるのは、俺が兄者と兄弟の刀であるからなのだろうか。同じ源氏の重宝として在る俺と兄者の間に、埋まることのない差が出来てしまったような気がして、それが辛いのだろうか。
「……おーい? えーと……弟丸?」
 自問自答したところで答えは出ず、ただただ奇妙な喪失感だけが広がっていく。
 寂しい、というのは随分と子供じみた感傷だと我ながら情けなくなったが、胸に開いた穴はどうやってもすぐには埋まりそうになかった。
「……えーと、弟の……まあ何でも良いけど、お土産、要らないのかい?」
 兄者に脇腹を突かれて、はっと我に返る。
 何度か俺に呼びかけていたらしい兄者は、羽織っている上着の懐から小さな布袋を取り出した。
「土産?」
 まじまじと袋を見つめると、半ば押し付けるような形で手渡される。
 白い刺繍が施された薄い黄緑色の布袋からは、ほのかに白檀の香りが漂っている。懐かしい匂いだ。
「……花街とは、こういう物も売っているのだな」
 ぽつりと漏れた呟きに、兄者はきょとんとして「花街?」と俺の言葉を反芻した。
 まるでいま初めて知った言葉だというような言い方に、俺は片眉を上げる。
「その、新しく出来た花街に行ってきたのだろう? 色街が出来たと、俺も先ほど加州たちから聞いて……」
「僕、色街には行っていないよ?」
 頬を掻く兄者に、一瞬言葉を失った。
 頭の中が疑問符で埋め尽くされる俺に、兄者は自分が寄った店について詳しい一言を告げた。
「僕が寄り道したのは、花って名前の付く雑貨屋さんだよ。町の中に出来たばかりなんだって」
「花? それでは、さっき『はな、まちの……』って言っていたのは、」
 花街ではなく、町の「花」が付く店のことだったというのか。
 疲労感で脱力しかけ、目眩すら覚えながら目頭を指先で押さえる。
 兄者はにこにこと笑みながら、もう一つ同じ形の匂い袋を取り出した。そちらは淡い黄色の布地に白い刺繍がされて、金木犀の香りがしていた。
「ふふ、なんだか平安の頃を思い出してね。ちょうど僕たちに似ている物があったから買ってきたんだ」
 どこか自慢げに匂い袋を揺らして見せる兄者の手元からは、深みのある甘い匂いが立ち上っている。
 近づきすぎれば芳醇な香りにむせてしまいそうだが、遠く離れるあまりに匂いが分からなくなってしまうよりはずっと良い。
 己の勘違いによりすれ違ってしまった我らの距離を重ねて、俺は深いため息と共に、兄者から受け取った匂い袋を優しく握り締めるのだった。
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