糸遊の夢


 蝉の鳴き声。中天で燦々と輝く陽射し。額から頬に流れ落ちる、一滴の汗。
 よく晴れた真夏の午後に、初鍛刀と共に庭へ出ていた時のことだ。
「今日は酷く暑いですね……」
 麦わら帽子を浅く被った好奇心旺盛な短刀は、庭先を見渡して大きな声を上げた。
「わ、主君! 見てください!」
 肩に掛けた水筒を前後に揺らし、彼――秋田藤四郎は、驚きつつも楽しそうに弾んだ声で、主である俺を呼ぶ。どうしたどうしたと傍に寄ってみれば、興奮の理由はすぐに分かった。
 生き生きとした青葉が、おぼろげな膜に包まれている。本丸を囲う形で設置された生垣が、そこだけ靄でもかかっているかのように不安定に揺れていた。
 秋田の足元から生垣の上まで、まるで、空間全体が熱に浮かされているようだ。
「ああ、陽炎だね。俺も久しぶりに見るなぁ」
「かげろう、ですか?」
 不思議そうに俺を見上げる秋田に、小さく頷いて説明する。
「こう、地面の上にある空気の層が熱されることで光の屈折が……駄目だ、俺じゃ上手く説明出来ないな」
 主として良いところを見せようと口を開いたものの、改めて他人にも分かりやすく教えるとなると思ったよりも難しく、俺は早々に音を上げて苦笑する。
「薬研とかなら上手に教えてくれるだろう。理屈は後で一緒に聞きに行こうか」
 一方的に博識な印象を抱いている短刀の名を言うと、秋田は「はい!」と嬉しそうな笑顔で返事をした。
 素直で真っ直ぐな心根をしている小さな短刀は、目の前の自然現象を興味深そうに見つめている。
「なんだか、夢を見ている時みたいですね」
 ゆらゆらと誘うように揺れる陽炎に手を伸ばし、捉えどころのないそれを掴もうとしながら呟かれた言葉に、俺も僅かに口角を上げて繰り返す。
「夢か。確かに、夢を見ている時に似ているかもな」
 先の景色はぼんやりとしか見えず、見ようとすればするほど、正確な姿を捉えられなくなる不可思議な感覚。それは、夢と現の狭間で覚醒する瞬間を思わせる。
 ふと、秋田はどんな夢を見るのだろうと彼の顔を覗き見たものの、夏の陽炎を映す淡い瞳はどこか切ない色に揺れていたから、結局それについて尋ねることは最後まで出来なかった。


 それから季節は一回りして、星のない夜空を見上げ、眩しいくらいだったあの日の午後を思い出す。
 真夜中だというのに、空は陽が差しているように明るかった。


 いつもと同じ夜のはずだった。けれど濃紺の夜空には、星屑ではなく火花が散っていた。
 本丸から火の手が上がっている。ぱちぱちと火の爆ぜる音。鼻腔を焼くものが焦げた臭い。頬をなめる熱の温度。肌は汗でじっとりと湿っているのに、口内はいやに渇いている。
 五感の全てが炎に支配され、身体の内側から灼熱の炎に包まれるようだった。
 本能寺や大坂城もこういう感覚だったんだろうかなどと現実逃避じみた思考で立ち尽くしていると、庭の向こうから秋田が走ってきた。桜色の髪は熱風に乱れ、淡い色の瞳は炎の影を映して激しく揺らめいている。
「主君っ!」
 飛びつかんばかりの勢いで俺を呼ぶ初鍛刀は、紺の衣装が黒く見えるほど血に濡れていて、頬にも赤褐色の模様が出来ている。返り血だと思いたかったけれど、彼の表情を見るにやはり無傷ではないらしい。
「……戦線崩壊、かな」
 言われるより先に言葉にすると、秋田は辛く苦しげな顔で目を伏せた。
 俺から見えている範囲だけでも、もう敷地のほとんどが焼けてしまっているのが分かる。手入れ部屋どころか、一歩でも足を踏み入れれば火傷では済まないだろう。
 時間遡行軍に本丸を直接襲撃される事例は、そう珍しいことではない。どれだけ対策をしていようと、奴らはあの手この手で奇襲を仕掛けてくる。戦争――殺し合いをしているのだから当然だ。
 それでも、いざ我が身に降りかかってみるとなんだか現実味がなかった。酷い悪夢を見ているようだ。
 炎が立ち昇る向こうには、未だ敵を探してうろつく遡行軍の姿があった。狙いは、やっぱり俺のようだ。
「……他の皆は」
 短く問うと、秋田は己の柄を握り締めて唇を噛み、首を横に振った。泣かないところが気丈な彼らしい。もっとも、この炎の中にあって涙を流す余裕すらないのかもしれないが。
「そうか」
「……主君は、どうされますか」
 凛とした声に目を合わせると、青と桃色の溶けあった眼差しは、力強く俺を見据えていた。精悍な面持ちは、これまでに見てきたどんな彼よりも凛々しく見える。
「主君がどの道を望もうと、僕は最期までお傍にいます。僕は主君の守り刀ですから」
 腰に差した刀に手を掛けたまま、頼もしく引き締まった表情で告げた秋田の声は、顔付きに反して優しく穏やかなものに聞こえた。
 気のせいだろうか、落ち着いた声音は何故か嬉しそうにも聞こえた。
 遡行軍と最期まで徹底抗戦する。もしくは、敵の手に落ちるくらいならば潔く自害する。
 どちらを選んで折れることになるとしても、彼は迷うことなく共に来てくれるのだろう。彼自身が言ったように、秋田は俺の初鍛刀であり、守り刀なのだから。
 燃え盛る炎を映して尚、揺らぐことのない決意を宿す秋田の瞳を見つめ返し、俺も心からの誠意を持って応えようと口を開く。
 本丸の主として、審神者として、不甲斐なかったかもしれないけれど。
「…………………………俺は」



「わかりました。最期の瞬間も、主君と共に」







 焼け落ちた本丸の跡地に、乾いた血がこびりついている。
 地面の色が見えないほど飛び散った赤褐色は、飛び石や建物のいたるところを凄惨に染め上げている。彼の夜に繰り広げられたであろう死闘が眼前に浮かぶようだ。
 時間遡行軍によって破壊された本丸の後処理に訪れた政府の役人は、甚大な被害に顔を歪めながら屋敷内を見て回った。
「酷い有様ですね。どこもかしこも血だらけだ」
「それだけ刀剣男士も必死に戦ったんだろうな。……良い本丸、だったんだろう」
 二人組の役人は折れている刀剣を回収し、被害の状況を確認、整理しつつ、特に炎上の激しい庭先へと降り立った。
 生垣で囲われている部分は、草木のせいで炎がよく回ったのだろう。血の跡すら見えないほど地面が黒く焦げている。
「審神者の遺体は、まだ埋葬されていないんですよね」
 折れた刀たちを回収する担当の若い役人が言って、もう片方の年配の役人が「ああ、まずは残された刀剣たちの本体を全て回収してからだな。火葬の手続きなんかは、片付けが全て終わってからだ」と答える。
「まあ、片付けが終わってないのに火葬とかされても、故人も浮かばれないでしょうしね。刀剣たちのこと、心配するでしょうし」
 若い役人はしんみりとした口調で言い、生垣の残骸近くに落ちている、折れた短刀を見つけて拾い上げた。
 焼けて拵の状態もあまり分からなくなってしまっているが、主君への忠義を果たした名刀だということは、触れた感覚でしっかりと伝わってくる。
「審神者はこの場所で倒れていたらしい。腹から血を流してはいたが、遺体が激しく損傷していたこともあって、死因は不明だそうだ」
「……自害したんでしょうか。それとも、最期まで遡行軍と戦ったんでしょうか」
 短刀を見つめて呟く若者。年配の役人は、深い溜息を吐いた。
「わからんさ。ただ俺たちに分かるのは、その短刀が最期まで主を守り抜こうとしていた意志だけだ」
 短刀の柄を握り、腕で目元を乱暴に拭った若者は、短刀の柄に何やら糸が付いていることに気が付いた。この誇り高い刀を少しでも綺麗にしようと優しく払ってやると、銀糸は陽の光を受けてきらきらと煌めきながら消えていく。
「ああ、蜘蛛の糸が付いていたのか」
 年配の役人が庭へと視線を投げる。
「空中に漂う蜘蛛の糸は糸遊(いとゆう)とも言ってな。夏に空気の熱で出来る陽炎のことも糸遊と言うんだが……流石に、今日は出ないか。そんなに暑くないしなぁ」
「陽炎って、景色がゆらゆら揺れる、あれのことですよね。夢の中みたいに不安定な……糸遊って綺麗な響きですね」
「そうそう。それで、あるかないか分からないもののたとえとされることもある。ちょうど、夢で見るものみたいにな」
 その言葉を胸に改めて本丸の敷地を見回し、焼けた本丸のかつての姿を思い浮かべる。
 遡行軍と戦った日々も、きっと全てが戦だけに費やされていたわけではないだろう。人の身を得た刀剣たちと、審神者との間にあったであろう平和な日常――それらも泡沫の夢であったのかと、その儚さが身に染みる。
 不意に、年配の役人が折れた短刀に目を留めた。
「この刀剣は……」と僅かに目を見張り、ややあって、眼光を柔らかく細める。
「……それは、きっと秋田藤四郎という刀だな。吉光に打たれた名刀で、忠義に厚い短刀だ」
「吉光っていうと、粟田口の」
 刀についてはまだまだ勉強中の若手が反芻し、役人は深く頷きを返す。
「この刀は、元々とある武将の守り刀だったんだが……様々な事情で屋敷に幽閉された武将は、死ぬまで戦に出ることはおろか、屋敷から出ることすら叶わなかった。この刀は、戦場で主君を守ることも、ただ屋敷の中で生きるだけの主君の腹を切ることも出来なかったんだ。その頃は、刀としては無念だったかもしれないな」
「……ならば、この場所で今の主を最期まで守れたこの刀は……少しでも、救われたでしょうか」
 刀を見つめ問う若者に、年配の役人は苦笑して否定する。
「それこそ、その刀以外には分からんことだ。俺たちに出来るのは、ただそうであれば良いと願うくらいだな」
 そもそも、先の武将に仕えていた時の『秋田藤四郎』が不幸だったとは限らないしな。
 そう付け加えて、役人は真夏の空を仰ぐ。群青をゆったりと流れる白雲に、太陽の光が透けて見えている。
 同じように空を仰いだ若者の役人は、雲の切れ間から差す光の煌めきに、周りの風景が揺らぐのを確かに感じた。音も色もない、輪郭のぼやけた不安定な世界。
 刹那の揺らぎは瞬く間に消えて、はっと我に返った若者は再び現実の景色に引き戻される。しかしその一瞬に感じた夢のような浮遊感は、若者の胸にいつまでも残り続けていた。


 小さな短刀が紡いだ意志は、青空の向こうで今でもきらきらと輝いているような気がした。
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