第三話「夢現に咲き誇る」
真っ暗な闇。墨汁の海に沈められたような、音も光もない世界。
五感の全てが断ち切られた夜の底で、誰かの気配がした。
振り向くと男がいた。俯き、だらりと首を落として胡坐で座り込んでいる。顔は全く見えなかった。
「……よしつねこう?」
静寂に、場違いなほど幼く明るい声が落ちる。
凪いだ水面に波紋を作る、一滴の水のような言葉。しかし男は何も反応しなかった。
けれどその姿には、身体を内側から暖めるような懐かしさと安心感があって、声の主は口が動くのを止められなかった。
「よしつねこう……っ!」
叫び、両腕を伸ばして彼に飛びつく。愛しさが胸にこみあげて、たまらなかった。
熱い涙が頬に流れ、あなたがだいすきだと全身で伝えたくなる。友のように、家族のように、誰よりも大切な人。愛しいという感情を教えてくれた人。
けれど、細く白い両腕を彼に回した瞬間。何故だか足元が急に冷たくなった。
熱すぎて逆に冷えているような不思議な感触で、ぬるりと液体のような何かが足首に垂れてくる。
視線を落とすと、彼の腹から、赤くて黒い血が流れ出ていた。
驚きと恐怖で思わず身を引く。男がゆっくりと仰向けになって地面に倒れた。見覚えのある短刀が、男の腹に深々と、まるで墓標のように突き刺さっている。
男は、大輪の花のようだった。影を落とす短刀が花柱、それを中心に広がる赤は花びらだ。
両手を見ると、汚くよどんだ液が付いていた。少しの粘り気と鉄の匂いがする、生温かい血液だった。こんな時だというのに、鉄の匂いには心が落ち着いてしまう。
脈打つ鼓動は冷静を通り越して冷え切ってしまい、ただ頬を伝う涙だけがとめどない。
男の顔に視線を移すと、真っ黒な髪と、奇妙に歪んだ口元だけが、やけにはっきり見える。
それは、笑っているようにも悲しんでいるようにも受け取れる、能面のような顔だった。
ただ生気が宿っていないことだけが明確で、弧を描く唇は、中天に浮く青白い月を思わせる。
もう一度自分の手元に目をやって、足元が赤く染まっていることに気付く。
爪先から頭のてっぺんまで、むせかえるような血の匂いがした。四肢も髪も肌も、鈍く澄んだ赤色だった。それを見つめた涙の溢れる瞳も、苦しいくらいに塗り込められた赤。
……ああ、そうだ。どうしてわすれていたんだろう。
あのひとのいのちをうばったのは、ほかのだれでもない。
よしつねこうをころしたのは、ぼくじしんだったのに。
(にげてください、よしつねこう。どこかとおくへ)
(かみさまがいるなら、よしつねこうをたすけて)(よしつねこうをころしたくない)
(――ああ)
(かみさまなんて、いないんだ)
叫び声を上げたような気がした。
目を覚ますと、薄暗闇の中だった。障子越しに差し込む月光が、ぼんやりと室内を照らしている。
肩と胸で激しい呼吸を繰り返すと、生温い空気が喉や舌を擦って、口の中が異様に渇いた。
涙と共に吐き気が込み上げてくる。
背中は汗びっしょりで、それが夢で浴びていた血のように思えた。
ぎこちなく首を横に動かすと、両隣にはいくつもの布団が並んで、数振りの刀剣男士たちが健やかな寝息を立てていた。誰も起きる気配がない様子から察するに、叫び声は上げなかったらしい。
頬の濡れている感覚で、自分が泣いていることに気が付いた。滂沱の涙は止まらず、次から次に溢れて布団を濡らす。
小刻みに震える身体を両腕で強く抱きしめ、彼――今剣は、小さく口を開いた。
「……よしつねこう……」
八月の朝は、早いうちから太陽が顔を出していた。
じわじわと大地を照らす陽の光は、蝉の声を連れて少しずつ東の空を昇っていく。
身支度を整えて廊下に出ると、庭の向こう、正門近くの開けた場所に、五虎退と愛染国俊の姿があった。二人とも重そうな袋を抱えている。
縁側下の踏み石に揃えられた共用サンダルを履いて庭に下りると、二人よりも先に、二人の傍にいた仔虎たちがこちらに気付いて近寄ってきた。
「おはようさん。朝から精が出るな」
仔虎の頭を撫で、薬研藤四郎は二人に朝の挨拶をした。突然頭上から降ってきた声に、五虎退と愛染が驚いた顔で振り返る。
「おう、おはよー!」
「お、おはようございますっ」
朝から元気いっぱい、快活な笑顔の愛染と、少しだけ内気ながらも人懐っこい笑顔を見せる五虎退。二人の額には玉になった汗が光っている。
両手に白い軍手をはめた二人は、薬研の方に袋を見せて言った。
「畑の方に、肥料を集めてるんです」
「薬研と今剣が顕現して、六振りになったからな。内番も本格的に組むって、主さんが」
五虎退が柔らかい笑顔で言い、愛染は片手で袋を支えながら、もう片方の手の甲で額の汗を拭う。
「後で畑の周りに柵も立てるらしいぜ。五虎退の虎がいたずらしないようにってのもあるし、オレたちがうっかり踏んじまうかもしれないからな」
今日はやることがいっぱいだってよ、と嬉しそうに笑みを見せる愛染。
「そろそろ朝飯の時間だよな。オレと五虎退は手を洗ってくるから、薬研は厨の方に行っててくれ。あ、場所は分かるか?」
「ああ。こっちの部屋から曲がって真っ直ぐだろ?」
薬研の返答に大きく頷き、愛染と五虎退は仔虎を連れて玄関へ回って行った。
薬研は縁側の踏み石にサンダルを揃え、昨日も通った廊下の道筋を確認しながら、厨房へと向かった。
厨へ向かう廊下を歩いている途中から、良い匂いが漂ってきた。どこか温かい感じのする、優しい匂いだ。
そのまま厨にひょいと顔を出すと、二振りの刀剣男士がいた。
「お、起きた? おはよう薬研」
黒髪を一つに結い、赤い襟巻に桜飾りをつけた刀剣男士――加州清光は、お米を握りながら薬研に声をかけた。
「薬研兄さん、おはようございます!」
彼の隣で手伝いをしている短刀、秋田藤四郎も、にっこりと笑って挨拶する。手には食器を持っていて、配膳の用意をしているのだと見て取れた。
「おはよう加州。秋田もおはようさん。……おっと、こっちはこんのすけ、だったか」
加州の足元でちょこんと座っている管狐に目をやると、「おはようございます、薬研様」と丁寧に頭を下げられた。妖のように見えるが、審神者と共に本丸を支える立派な補佐官だ。
加州は握り飯を作りながら眉を下げ、視線をこんのすけの方に向ける。
「なあ、こんのすけ。やっぱり俺、料理とか向いてないよ。味の違いなんか全然分かんないし。味見は他の奴がやった方が良いんじゃない?」
助け舟を求められたこんのすけは「何事も、経験と慣れでございますよ」と流している。
穏やかな風景をじっと眺めていると、秋田に濡れた布巾を渡された。
「薬研兄さんは、居間の卓袱台を拭いてきてください。今剣くんも向こうに居ますから」
「分かった」
素直に受け取り、薬研は厨を後にした。
居間では、秋田が言っていた通り今剣が待っていた。しかし、彼は座布団に座ったまま卓袱台に顔を伏せて、目を閉じている。どうやら眠っているようだ。
薬研が軽く肩を叩いても、身動き一つしない。死んでるんじゃないだろうな、と思わず顔を寄せると、ひどく小さな寝息を立てているのが聞こえて、ほっと胸を撫で下ろす。
そして、自分たちは本当に人の身体、器を得たのだとつくづく実感した。
少し考えて、薬研は部屋の壁に寄せて積まれている座布団を二つ持ってきた。
今剣が座っている物にくっつけて、縦に並べる。今度は起こさないように気を付けながら、彼の身体を座布団の上でゆっくりと横に倒す。
布巾を適当な大きさに畳んで机の上を拭いていると、お盆を持った秋田がやって来た。盆には、湯気の立つ味噌汁と小皿に並んだおにぎり、卵焼きなどが載っている。
朝食を運ぶ秋田は、座布団に寝かされている今剣を見て少し不安そうに眉を下げた。
「昨日は、あまり眠れなかったんですかね。起きたときからずっと眠そうで」
てきぱきと机を拭き終えた薬研は、顎に手を添えて首を傾げる。
「寝る時は普通に見えたんだがなぁ……。なにせ人の身体になって初めての睡眠だ。寝つきが良くなかったのかもしれないな」
「薬研兄さんは、よく眠れましたか?」
桃色を帯びた淡い薄紫の瞳を向けられ、薬研は藤色の瞳で頷いた。
「ん、俺はあっさり眠れたな。人の身体を得て思うところも色々あったが、気付いたらすとんと落ちるみたいに寝てたぜ」
薬研と言葉を交わしながら、秋田が次々と椀を机に並べていく。
短刀の拳くらいの大きさに握られた炊き立てのご飯に、作りたての味噌汁が温かく香る。
匂いにつられるようにして、寝ていた今剣がもぞもぞと動き出した。
「うーん……」
まだ夢と現の狭間にいるのか、白い手の甲で繰り返し目蓋を擦る今剣に、秋田が声を掛ける。
「今剣くん、ご飯が出来ましたよー」
優しい声音で肩を叩くと、今剣はおもむろに上半身を起こして顔を上げた。
「ごはん、ですか……。ふぁぁ」
「昨日、眠れなかったんですか?」
心配そうな秋田の問いに、欠伸を漏らした今剣は口を閉じて小首を傾げた。
「ちゃんとねむったはずなんですけど……なんだか、まだねむいきがします」
欠伸のせいで若干涙目になっている彼は、秋田の後ろで自分を見ている薬研と目が合って、赤い目を僅かに丸くした。
眠気で浮かんだ涙が瞬時に引っ込み、瞳は相手を見定めるように少しだけ眇められる。
「あきたとうしろうに……そっちは、やげんどおしよしみつ、でしたね」
「ああ。薬研藤四郎と呼ばれることも多いが、どっちでも好きな方で呼んでくれ」
目を細めて笑った薬研に、今剣も目元を緩めて笑みを浮かべる。
「わかりました、やげんどおし。おはようございます、ですね」
「ん、おはようさん」
薬研と今剣が挨拶を交わしたところで、お盆を持った加州がこんのすけと一緒に居間へ顔を出した。
「あ、今剣、起きたの? 気分は悪くない?」
「はい、だいじょうぶですよ!」
体調を気遣う加州に、眠たげだった先ほどの雰囲気とは打って変わって元気よく返事する今剣。しかし、そんな彼の髪を見て加州は小さく悲鳴を上げた。
「ちょっと、髪の毛ぼさぼさになっちゃってるじゃん! あーもう、こっちおいで!」
お盆を机に置いて、加州は今剣の髪に軽く手櫛を通す。
起きてから一度結ったらしい長髪は、横になったせいで団子の部分が酷い逆毛になっていた。
「ごめん、秋田。みんなの配膳お願いして良いかな。今剣の髪整えてくる」
託された秋田は、お盆を胸に抱えて「はいっ」と大きく頷く。
「わかりました!」
「俺も手伝うぜ」
薬研が頼もしい表情で申し出て、加州は今剣の肩を優しく押し進めた。
「とりあえず、向こうの洗面所で整えるよ」
「はあい。えへへ、ありがとうございます」
食卓に背を向けて、二人は廊下の先、洗面所の方へ歩いて行った。
しっかり髪を結い直してもらった今剣と、一仕事終えて満足げな表情の加州が戻ってくると、居間では朝餉の用意が終わっていた。
庭から戻ってきた愛染と五虎退も席に着いていて、皆が揃ったところで朝食の号令がかかる。
「いただきます」
「いただきまーす」
声を揃えて手を合わせ、それぞれが朝ご飯を食べ始める。
味噌汁をすすりながら、加州がこんのすけの方を見た。卓袱台を囲んで全員が揃う居間に、いつも通り審神者の姿はない。
「こんのすけ、今日の予定は?」
五虎退の仔虎たちと同じ、動物用の小皿に顔を突っ込んで油揚げを齧っていたこんのすけは、お揚げを一息で飲み込んで答えた。
「せっかく六振り揃ったことですから、今日は演練に行ってみましょうか」
「演練、ですか?」
首を傾げた秋田へ、こんのすけは「はい」と首肯する。
「政府の管轄で、他所の本丸の男士と手合わせが出来る施設がありまして」
手合わせという言葉に、握り飯を頬張っていた愛染が目を輝かせた。
「演練の手合わせって、六人と六人でやるのか?」
こんのすけはもう一度頷いて、「相手方の人数は、その本丸の第一部隊によりますが」と付け加えた。
「今剣と薬研は、演練が初陣になるんだね。演練、俺たちも行くの初めてだから、勝手はよく分からないんだけど」
指先の米粒をぺろりと舐め取りながら呟いた加州へ、名を呼ばれた二人は嬉しそうに笑う。
「たのしみですね」
「ああ、気合が入るな」
微笑み合う今剣と薬研。男士より一足先に朝食を終えたこんのすけが、全員へ声を掛ける。
「朝食の片付けが終わりましたら、戦装束に着替えて、玄関前に集合してください」
はい、おう、はーい、と抑揚も調子もばらばらな声が上がり、やがて朝餉の時間は終わって、片付けと歯磨きの後は各自がそれぞれの準備に向かって散っていった。
薬研が戦装束に着替えて玄関前に行くと、皆すでに集まっていた。
朝は内番着だったので、改めて全員が戦装束で揃うと、なかなかに壮観だった。皆、どことなく顔付きが引き締まって見える。
「薬研、遅いぜ」
両腕を頭の後ろで組んだ愛染が笑って、薬研は「すまんな」と苦笑する。足元の仔虎たちが好き勝手に行動しないよういさめていた五虎退が顔を上げた。
「薬研兄さんと愛染くんって、なんだか声が似てますね」
言われた二人は互いに見つめ合い、どちらからともなく「……そうかぁ?」と首を傾げた。
「全員揃いましたね。それでは参りましょう」
先導するこんのすけに六振りの男士が連れ立って歩き、正門前で足を止める。出陣や外出で使用する、大切な門だ。扉の左側には『政府』、右側には『演練場』の文字が浮かび、門扉には本丸紋が輝いている。
こんのすけは、扉の前で前足を揃えて六振りの刀剣男士を見上げた。
「私は主様と共に仕事がありますので、演練には皆様だけで行っていただきます」
途端に不安げな表情を浮かべる五虎退へ、「政府の施設ですから、迷うことはありませんよ。何かあれば向こうの職員が対応してくれますし」と補足するこんのすけ。
「ま、出陣と似たようなもんでしょ」
加州が軽く言って、手甲に包まれた手で扉を押し開ける。
「十二時には戻ってくださいね」
こんのすけの言葉に頷き、加州は渡された端末の時間を確認する。画面は十時前を表示していた。
「じゃ、行ってきます」と告げ、加州は臆することなく扉をくぐる。短刀たちも、ぞろぞろと続いた。
様々な空間に繋がる不思議な扉の先、一行は白い光に包まれて、扉の向こうへ吸い込まれるように消えた。
扉の向こうは、どこかの屋内に繋がっていた。
今くぐり抜けたばかりの扉は、本丸側では重厚な木製の門だったはずなのに、こちら側では簡素なスチールドアになっていた。
加州がドアノブを捻って静かに閉めると、ドアには「各本丸用通行扉」の文字があった。
玄関どころか靴箱も見当たらないので、土足のままでリノリウムの床を歩く。
しんとした廊下に人の気配はなく、どこからか差し込む陽の光と照明の明るさが、かえって不気味に感じられた。
廊下は二、三人が横に並べるほどの幅で、硬そうな素材の長椅子や、鈍い光を放つ機械が何台か鎮座している。
光の差す方に進んでいくと、建物の玄関部分と思われる開けた場所に辿り着いた。靴を履き替えるための広いたたきがあり、ガラス扉の向こうには人工的な道が延びている。
廊下の先は行き止まりではなく、二階へ続く階段があった。玄関から出るべきか階段を上るべきか悩みかけたが、よく見ると壁に白い紙が貼ってある。一階、各出入口。二階、演練場。三階、休憩広場。
「ああ、会場は二階なんだ。でも何かやけに静かだね」
加州が言って、五虎退も首を傾げた。
「誰もいないんでしょうか……?」
誰よりも演練を楽しみにしている愛染が、急かすように上を見た。
「行ってみりゃ分かるだろ、早く行こうぜ!」
今にも走り出しそうな様子に苦笑し、加州は「じゃ、とりあえず上ってみようか」と階段に足を掛けた。
短い階段を上りきると、いくつかの長椅子と一つの長机、手前の方に小さな扉、奥の方には大きな扉が見えた。
小さな扉と言っても加州たちは普段刀剣男士に合わせた大きな扉ばかり見慣れているだけであって、手前の扉は普通の体格の人間に合わせた扉だ。扉の横には、スイッチのようなものが付いている。
長椅子の並ぶ廊下の先を見ると、向こうにも階段があるようだった。先ほど一階で見た紙を思い出すに、三階の休憩広場へ繋がっているのだろう。
相変わらず人気のない空間を見回し、一階の時と同じように、小さな扉の横に紙が貼られているのを見つける。秋田が「演練場管理人室……」と文字を読み上げる。
「ここに人がいるんじゃないか?」
薬研が言って、愛染が扉を叩いた。扉は予想よりも大きい音を響かせ、静かな一帯に乱暴なノック音が鳴った。
「ちょっと、もう少し優しく叩きなよ。焦らされてる気持ちは分かるけど、めちゃくちゃ響いてるじゃん」
加州にたしなめられ、愛染は「こんなに響くとは思わなかったんだよ」と弁解する。やがて、扉が軋むような音を立てて開いた。
ぴたりと口を閉じて扉の方に目をやった加州は、しかし開いた扉の先に誰もいないことに不審な顔をする。加州たちの中で特に背の低い秋田と今剣が、同時に気が付いて足元を見た。
「あれ、くろいこんのすけです」
今剣がしゃがんで頭を撫でると、黒い体毛の管狐――色以外は加州たちの本丸にいるこんのすけとよく似ている――は、無表情なままで撫でられながら口を開いた。
「演練に初めて参加される本丸の刀剣男士ですね」
どこか無機質な喋り方は、丁寧な口調ではあるが、冷たさも感じさせる。敵意がないことは明確だが、友好的な雰囲気も持ち合わせていない。
淡々とした声音は、加州たちの本丸のこんのすけとは似ても似つかなかった。
「あ、うちのこんのすけとか主から連絡きてる? まだ本丸番号提示してないけど……」
加州が本丸の情報が記録されている端末を出そうとしたところ、黒いこんのすけは緩く首を振った。灰色の胸毛が揺れて、今剣に容赦なく撫で回される。
「そこの紙に管理人室とは書いてありますが、扉の横にあるスイッチが呼び鈴だとは、わざと表記していないのです。初回に教えて二回目からは呼び鈴で私たちを呼び出してもらうことで、呼び鈴ではなく扉をノックする刀剣男士の方々は、初めて演練に来たものと分かるのです」
説明されて、加州たちはそれぞれに納得する。今剣は黒いこんのすけと一方的に戯れるのに夢中であまり聞いていなかったが、触られている黒いこんのすけは、特に嫌がるそぶりを見せなかった。
「ということで、次からはその呼び鈴でお願い致します」
そして黒いこんのすけは、加州に一枚の書類を手渡した。
「こちらに本丸情報の記入を。登録後、演練システムについて説明します」
「……なんか、うちのこんのすけとは全然違うんだな」
「確かに、毛の色が全く違いますね」
「いや、それもだけどそうじゃなくてさ」
ぼそぼそと呟く愛染に秋田が少しずれた回答をして、愛染は鼻の頭を掻いた。
「まあオレたちのとこのこんのすけも、あんまり感情的じゃねぇけど、あのこんのすけよりは親しみやすいっつーか……」
「個体差というものですよ。私は特に堅物と言われます」
「うわっ!」
長椅子に腰かけていた愛染の足元から声が響き、黒い体毛が覗く。当然ながら陰口のつもりではなかったが、なんとなく気まずくなった愛染は辺りを見回して話題を変えた。
「つーか、ここは……えーと、こんのすけ一匹しかいないのか?」
なんと呼ぶべきか迷ってとりあえずこんのすけと呼ぶと、黒いこんのすけは「はい」と短く頷いた。
「午前と午後に分かれて、当番制で演練場の管理及び刀剣男士へ案内をしています。ときどき政府の職員が来ることもありますが、月に一度ほどですね」
「一人は寂しくないですか?」
秋田が顔を向けると、「仕事ですから」とあっさりした態度を見せる黒いこんのすけ。
やがて、長机で書類と向き合っていた加州がペンを置いて、「一応一通り書いたけど、これで合ってるか確認して」と黒いこんのすけを呼びつけた。黒いこんのすけが机上に乗り、一人と一匹で書類の確認作業に入る。
長椅子に寝転んでいる今剣は、五虎退の仔虎を抱きしめてうとうととまどろんでいた。
「今剣くん、眠いですか?」
五虎退に心配そうに見つめられて、今剣は今日何度目か分からない欠伸を漏らした。
「はい……ふわぁぁ。えんれんがはじまったら、おこしてください」
猫のように丸くなり目を閉じる今剣を、薬研も不思議そうに見ていた。
愛染と秋田が二人の傍に寄ってきて、眠っている今剣を見て首を傾げる。
「お、今剣はまた寝てんのか」
「本丸で眠れなかったんでしょうか。今朝も酷く眠そうでしたし」
かわるがわる寝顔を覗き込む二人に、薬研は顎に手を当てて考え込むそぶりを見せる。
「加州や秋田、愛染と五虎退は、顕現して初日の夜はすぐに眠れたのか?」
問われ、加州以外の三人は顔を見合わせながら全員が素直に頷いた。
「出陣で疲れてたのもあったと思うけど、オレなんか一発だったぜ。布団入ってからの記憶が全然ねぇくらい」
「そうですね……愛染くんほどではありませんが、僕も布団に入って少ししたら夢の中です」
「虎くんたちと一緒に目を瞑っていると、いつのまにか寝ちゃってるんですよね……」
愛染から順に次々と体験談が上がり、矛先は薬研に向いた。
「薬研兄さんも、よく眠れたんですよね?」
薬研は「ああ」と首肯して、ふと何かに思い当たったような表情で口を半端に開いた。そこから新しい言葉が零れ落ちる直前、登録を終えた加州が、五人のもとに戻ってきた。
「うちの登録終わったから、次は演練の説明だって。あれ、今剣また寝てんの?」
長椅子で横になっている姿に、加州は怪訝な表情で肩を優しく叩く。
「今剣、起きて。演練の説明するってよ」
「うーん……はぁい」
目を擦り身体を起こした今剣の顔は、今朝に比べれば少し溌剌としているように見えたが、まだどこか疲れている様子だった。
「大丈夫? 体調、悪い?」
腰を落として目線を合わせる加州へ、今剣は両腕を天井に伸ばし、伸びをしながら首を振る。
「だいじょうぶです、ちょっとねたらげんきになりました」
その口調は、気のせいかいつもより幼く頼りなさげに聞こえたが、とりあえず加州は今剣の頭を撫でて黒いこんのすけの方へ全員で向き直った。
黒いこんのすけは、加州たち六振りを見据えると大きな扉の前で説明を始めた。長机の上に、用紙を纏めたファイルが用意されていた。
「それでは、演練システムの説明を始めます。加州清光、ファイルを取ってください」
名指しで呼ばれ、加州は紙の束が入ったファイルを手に取った。紙は十数枚ほど入っていて、ちらりと覗き見た感じは、先ほど加州が記入した本丸情報の登録用紙によく似ている。
「どれでも良いので、その中から紙を一枚取り出してください」
事務的に指示され、言われた通り適当に一枚取り出すと、やはり加州の記入した用紙とほぼ同じことが書いてあった。
どこの本丸のものだろうか、本丸番号と本丸紋、審神者の練度と姿写真、第一部隊の編成に各刀剣男士の練度。修行を終えた極の状態であるか否かも、一振りずつ表記されている。
束ねられている全ての紙が同じ内容らしく、また、下の欄にはその本丸の審神者が記入するものと思しき備考の欄も付いていた。
「その用紙に記入されているのは、各本丸の本丸情報です。演練を挑みたい本丸の用紙を選び、自分の本丸の番号と共に管理人室に提出すると、演練を開始することが出来ます」
黒いこんのすけが言うのを聞きながら、加州はファイルに収められている他の本丸の用紙もぱらぱらと捲った。
どうやら演練相手は審神者の練度が近い本丸が選ばれるらしく、加州たちの審神者の練度と足し引きして五から十の範囲で、みんな同じくらいの実力のようだ。
「演練を申し込めるのは午前三時から午後三時までの間に五回、午後三時から午前三時までの間に五回です。三時になると、演練相手の情報が更新されます」
「ふんふん……あれ」
書類を捲っていた加州の手が、最後の一枚を見て唐突に止まった。ファイルの一番底に挟まれていた用紙を抜き出し、加州は黒いこんのすけへと用紙を差し出す。
「この本丸だけ、審神者の練度がずば抜けてやばいんだけど……」
書類に記されている審神者練度は、三百。加州たちの本丸より何十倍も高い、まさに格上の本丸だ。
「あ、すみません。最後の方にある書類は、挑戦枠と言って高練度の本丸が入れられているのですが、この用紙は間違いですね。さっき来た本丸の書類が混ざってしまったようです」
黒いこんのすけは頭を下げて書類を受け取り、管理人室に戻って、すぐにまた新しい書類を携えて現れた。加州が受け取ったその書類は、確かに他の本丸と比べると審神者の練度が高めだったが先ほどの本丸ほどではない。加州たちの審神者の練度に二十足したくらいの強さだ。
「ちなみに、主たち審神者の練度って最高でどれくらいまで上がるの?」
何となく興味が湧いた加州の質問に、黒いこんのすけは「今のところ三百が上限ですね」と答える。
つまりさっきの書類は上限まで鍛え上げられた本丸のものということで、そんな本丸なら刀剣男士たちの情報も見ておけば良かったと、加州は内心残念に思った。
「それでは、演練の説明を続けますね」
こほんと咳払いして、黒いこんのすけは話を続けた。
「演練は、大きい扉の先で行われます。扉をくぐると特殊な空間に繋がり、戦場は晴れた野外戦で固定されています」
「へえ、建物の中なのに外なんだな」
てっきり室内戦だと思っていた愛染が意外そうに言って、「特殊な空間ですから」と真面目な顔で繰り返された。
「バーチャルリアリティ……現代の技術で作られた仮想空間なので、演練で怪我をしたり傷を負っても、戦闘終了して扉を抜けると演練前の状態に戻ります。当然ですが破壊されることもありません」
手入れ要らずの説明に、今度は薬研が反応する。
「そいつは便利だな。仕組みはいまいち分からんが」
「対戦相手となる刀剣男士は、こちらで登録されている情報を元に形成されたプログラム……要するに仮想の姿です。姿形は生身と変わりませんが、会話など意思の疎通は図れませんのでご了承ください」
仮想、プログラム、バーチャルリアリティ。
馴染みのなさすぎる言葉の羅列に閉口した六人へ、黒いこんのすけは慣れた風に説明を締めくくった。
「演練場で起こることの全ては幻のようなものだと思っていただければ、だいたい間違いではありません。百聞は一見に如かずと言いますし、実戦に入った方が早いでしょう」
「実戦……やっと暴れられるぜ!」
嬉しそうな愛染へ、加州も口の端を緩めて好戦的な笑みを浮かべる。
「まずは演練の相手を書類から選び、私に提出してください。確認後、私が扉を開けますので」
紙の束を手に加州は腰をかがめ、全員に用紙の内容が見えるようにして、一枚ずつ捲っていった。
「この本丸は審神者練度が一緒だ。でも初期刀の練度が高いな」
「あ、こっちには打刀が三振りもいます。やはり短刀ばかりでは厳しいでしょうか……」
「刀装にもよるんじゃないか?」
わいわいと意見を出し合う六振りを、黒いこんのすけはじっと待っている。
やがて加州が五枚の書類を選んで自本丸の番号を書きつけ、黒いこんのすけに残りの用紙が入ったファイルと共に渡した。
「それでは手続きが終わりましたらお知らせしますので、今しばらくお待ちください」
黒いこんのすけは管理人室に消え、加州たちは少しの緊張に包まれながら長椅子に腰掛けて待機する。
手続きは一分もかからずに終わり、再び現れた黒いこんのすけに促されて、加州は大きな扉の前に立った。
扉の先は、好天の大地が広がっていた。
清々しく鮮やかな青空も、ゆったりと流れる白雲も、何もかもが本物の世界と何一つ変わらないように見える。
雰囲気は函館の戦場に似ているなと思いながら、加州は興味深く周囲を観察した。
「仮想空間って言ってたけど、これ全部幻……作り物ってことなのかな」
「不思議ですねぇ」
加州と秋田が揃って空を見上げ、五虎退は仔虎たちが迷子にならないよう必死で気を配っている。
薬研がちらりと今剣に視線をやると、目はすっかり覚めているようで、やる気に満ちた赤い瞳が爛々と輝いていた。
「で、お相手はー……っと、あれかな」
加州が目を留めた場所に、加州たちと同じ様々な戦装束に身を包んだ刀剣男士の姿があった。
面子は被っていないため全員が初めて見る顔だったが、刀剣より生まれた身として同じ匂いを感じ、気分が高揚する。
「んじゃ、始めますかねー」
薄く笑った加州の言葉を皮切りに、初めての演練が始まった。
先に動いたのは相手方の男士だった。茶髪の短いおかっぱ頭をした少年姿の短刀が、迷いのない刃を加州に向ける。彼に続き、彼よりも少し淡い髪色の、姿のよく似ている短刀が秋田の元へ走る。
刀を打ち合う音が鳴って、互いに一歩引いては体勢を立て直して斬りかかる。
広い荒野に激しい剣戟の音が響き、六振りと六振りがぶつかり合っては火花を散らした。
五虎退は愛染と連携して、仔虎を上手に操りながら相手を翻弄している。布を被った綺麗な金髪を持つ打刀は苦々しげな表情をしていたが、横から緑の長髪を結った青年に加勢されて、一気に調子を取り戻した。
打刀がもう一人いたかと愛染は小さく歯噛みしたが、よく見ると彼は打刀ではなく、脇差のようだ。
天狗を思わせる動きで縦横無尽に飛び跳ねる今剣に、黒い髪の少年が斬り込んだ。鎧通しという言葉が相応しい、重みのある一撃を、今剣は軽やかな動きでひらりとかわす。
しかし容赦ない追撃で着物の一部が破け、怯んだ瞬間に刃を受けてしまった。今剣はむっと頬を膨らませると、刀を握り直して力強く地面を蹴った。
流れる鉄錆の匂いも、赤く染まる地面も、何もかもが現実味を帯びている。だが、相手方の刀剣男士は一言も発さず表情もほとんど変えない。
不思議を通り越して少し不気味だなと眉をしかめたところで、薬研の髪が宙に舞った。一拍遅れて頬を鮮血が伝う。
慌てて目をやった眼前の短刀は、青い前髪の向こうから狂犬のような目で薬研を睨み付けていた。
分からないことだらけとはいえ、ここは戦場で、自分たちは刀だ。それ以外のことを考える余裕はないし、必要もない。
薬研はにっと口角を吊り上げ、乱暴に頬の血を拭い刀を構える。全て作り物の世界といったところで、煙り立つ戦場の匂いは薬研の闘争本能を刺激するのに充分だった。
「まだまだぁ!」
紫電一閃。薬研が三白眼の短刀を斬りつけたところで、演練終了の合図が鳴った。
加州たちは刀を納め、六振りの幻影に向かって一礼する。仮想と説明された演練相手は、納刀と同時に霧のように消えていった。
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